二章

「――はぁっ……はぁはぁ」
 中島美咲は悪夢から覚めるなり――キョロキョロと室内を確認する。
「よかった……。なにも変わってない」
 隣の布団には三歳になったばかりの長男。そしてさらに奥にある布団では、夫である中島隆行が寝ている。同じ部屋に置かれたベビーベッドには、もうすぐ一歳になる長女も寝ていた。
(よかった)
 ホッと息をつく。そしてまたベッドへもぐって眠りなおそうとするが――。
「ぁぁう。ぁあ、ぁう」
 ベビーベッドの方から、うめくような声がした。そしてすぐに――。
「ぅエエエ、ゥウウウッ。ァアアアッ。ァアッ!」
 本格的な夜泣きになる。
「はいはい。……オムツかな?」
 寝ぼけまなこをこすりながら、美咲がそっと布団から出ていく。
 すると今度は、寝ていたはずの三歳の長男が起き出して――。
「ぁぁッ。ママ、ママァッ! ヤァアアアッ! ヤァアアアダァアアッ!」
「ああ、ごめんね。いるよ、ママはいるいる」
「ァアアアアアッ! ァアアッ!」
「ごめんね。すぐ取りかえるからね~」
 イヤイヤ期まっ盛りの長男が足にヒシッとしがみついて、バンバンと足を踏みならす。
 それでも、美咲は「いるいるだからね~」と言葉で安心させてやる。同時に、長女のオムツを新しいものに変えた。
 気が付けば、寝る前になっていたはずの除夜の鐘はもうなっていない。
「……明けましておめでとうだねぇ」
 美咲は、袋から取り出した新しいオムツを長女に履かせながら言う。
(あっという間だった。……子育てに追われてばっかり。明日……っていうか、今日か。隆行の実家に年始のあいさつに行かなきゃなのにな)
「……また夜泣き?」
「あなた。起きたなら手伝って。私は汚れたオムツ捨ててくるから、りっくんを見といて」
「……ああ。眠い、疲れた……。りっくん、おいで。パパのところにおいで」
「ヤーヤー! ママァアアア! ァアアア!」
「イヤイヤ期だなぁ……。ママの方がいいってさ」
「もう……。じゃありっくんは私が連れていくから」
「……うん。ありがと」
 そう言うと、夫――隆行は子供たちが泣き叫び、暴れているなかでも布団に潜りこんだ。
(こうやってすぐ眠とうとするのにも……。うるさそうにする態度にもイラつく……)
 美咲は隆行にイライラしつつも、やらなければならないことに追われる。
「ごめんね。捨てたらすぐ戻るからね」
「ァアアッ! ァアアアアアアッ!」
「わかったわかった。じゃあ、みーちゃんも一緒にいこっか」
 この世の終わりかのように泣き叫ぶ長女を抱きかかえ、寝室から出ようとする。
 しかし――。
「ママァアアア! いっちゃヤァッ! ヤァダァアアアッ!」
 長男が寝室から出るのを嫌がって、さらにバンバンと激しく暴れ出す。
(ヤバいッ。また騒音のクレームがくる!)
 美咲たちは、賃貸マンションに親子四人で暮らしている。
 なかには子育て世代の世帯もある。しかし、大半は子供がいない人が暮らしているマンションだった。集合住宅であると、様々な生活をしている人がいる。
「イヤなのね。ママいっちゃイヤなのね。はい、行くのやめた。ほらやめたよ、りっくん!」
「イヤァアアア! ヤァアアア!」
 それでも、一度泣き出した長男は泣きやまない。なにがイヤなのか、もうわからない。火が付いたように泣いて、暴れまわる。
「じゃあ一緒に行く? あっちの部屋、いっちゃう?」
 かがみ込んで問いかける。それでも、イヤイヤ期の長男は止まらない。
 それどころか、長女の夜泣きにまで飛び火したように鳴き声は共鳴し、大きくなっていく。
「わかった。わかったよ。りっくんはどうしたい? ね、どうしたいのかな?」
「イヤァアッ! ヤァなのッ! ヤァなのッ!」
「……りっくん。パパと一緒に寝ようか?」
 さすがに寝ていられなくなったのか。横になったまま、気だるそうに隆行が声をかける。
 それでも泣きやむことはなく――。
 バァン!――とマンションの玄関ドアが強く叩かれる音がした。もしかしたら、蹴られたのかもしれないが。「――ヒッ!」
 威嚇的な音に美咲がビクッと身を震わせておびえる。
 ガタンっと郵便受けになにかを入れられる音がした。
「パパヤァアアアッ! ママァアアァガィイイイッ! ァアアアッ!」
「ぅあッ。ぁあッ! ゥァアアッ。ァアアアッ!」
 美咲はガクリと首をうなだらせた。
 どうしたらよいのか。途方に暮れながらも、美咲は気を取りなおし――。
「りっくん。パパのところで待っててね。ママ、すぐ戻ってくるからね」
「ほら、りっくん。パパだよぉ。こっちであそぼ。おもちゃあるよ」
 隆行がやっと布団から身を起こした。カチャカチャとおもちゃを鳴らし、長男の気をひこうとしている。美咲はそれでも泣きわめいている長男を残し、急いでオムツを捨てに行く。すぐ戻ればよいだろうと。
「クレームの手紙……。またかぁ」
 郵便受けに入れられていたものを急いで手にとる。中身は『毎日うるさい。だまらせろ』と殴り書きされた紙だった。
「……どうにかできるなら、してるよ」
 美咲も、子供の騒音で迷惑をかけていることはわかっている。
(それでも、どうにもならないものはならないんだよ)
 内心では嘆かずにはいられない。
 思わず首をうなだらせて座りこんでしまう。片手で力なく手紙をにぎり。そしてもう片手で痛そうに頭を抑えながら。
(もう。目の前の育児で手いっぱいなのに。保育園に、育休明けの仕事も……。どうしよう。もう、疲れちゃった……)
 しかし、いつまでもこうしてはいられない。
「はいはい。おまたせ、ごめんね。はいはい。ママ、戻ってきたよ~」
 美咲はバッと立ち上がると、寝室に戻る。
 泣きわめく子供二人と、疲れた顔でなんとかしようとはしている隆行のいる場所に。
 そうして泣き疲れた子供が寝てから布団にもぐり――。
「――はい、お休み。……次の夜泣きまで」
「…………」
 隆行はもう眠ったようだ。美咲の声に返事もしない。
 美咲も、しばしの眠りにつく。次の夜泣きまで、ほんの束の間の休息でもよいからと。
 中島美咲は、育児や復職などに悩み、疲れていた――。
 
 そして元日の朝。
 隆行の実家へあいさつに行くことになっているのだが――。
「ほらりっくん。ズボンはこっか」
「ズボンヤァアアアッ! あっちじゃなきゃヤァアア!」
「あれじゃあ寒いよ。こっちにしない?」
「イヤァダァアア!」
 長男は着がえさせようとする美咲からズボンを奪いとる。そしてポイッと投げてしまった。
「あっ。ズボンが痛くて泣いちゃうよ? じゃ一回だけりっくんがコレっていったやつ履く?」
 そうして、季節外れの短いズボンを履かせてやると――。
「ちがうぅううッ! コレ、ちがうのぉおおおッ!」
「そっか。わかった」
 そうして泣きやむのを待ってから、美咲は放り投げられたズボンを手にとる。
「ズボン、履いちゃおっか?」
「……ぅん」
「履けた。りっくん、上手く履けたね。すごいねぇ~」
 家を出る準備だけでも一苦労だった。そうして、なんとかマンションを出る。
 隆行が車を運んでくるまでの間、美咲は長男がどこかに行かないように手をにぎっている。そのほんのわずかな間にも、長女が泣き出してしまう。あやすのも大変だ。
(無理な体勢で動いて……。ずっと子供を抱えてるからかなぁ。もう、全身が痛いよ)
 美咲は子供に痛そうなそぶりを見せないよう、常に笑顔でいる。
(毎日、休みなんてまったくない。ズッと動きっぱなし。本当は温泉とか入って、マッサージでもされたい。でも子供がいたら、そんなとこいけない。私が見てないと心配だし……)
 つらくても、笑っていないといけない。表情が険しくなると、子供がさらに泣くから――。
「――よし。みんな乗ったな。みーちゃんのチャイルドシートもオッケーだ」
「りっくんのも大丈夫」
「じゃあ、行くか」
「ヤァダァアアアッ! おうちィイイイッ!」
「りっくん。じぃじとばぁばのお家に行くんだよ。おこづかいもらえるよ。よかったね~」
「りっくん。パパの実家だよ。二人とも、会えるの楽しみにしてたぞ~」
「おこづかい、いいっ! お家がいいのッ!」
「ほら。りっくん、外を見てみな。ワンワンだよ?」
 車中でも、あぶなっかしく暴れまわろうとする。
 チャイルドシートがあるとはいえ、美咲の気が休まる時はない――。
 そうして美咲たち家族四人は、なんとか隆行の実家――子供たちからすると、祖父母の家に着いた。
「まぁまぁ。おっきくなったねぇ」
「あっという間だなぁ」
「ほらりっくん。あいさつは? お名前は言えるかな?」
 長男は祖父母を見て美咲の足に隠れてしまった。セミのようにヒシッとしがみ付いている。
「すいません。人見知りしちゃってるみたいで」
「いいのよぉ。みーちゃんもおっきくなったねぁ」
「隆行も、元気にしてたか?」
「ああ。親父たちは元気そうだな。いいよな、こっちは毎日夜泣きとクレームで……」
 隆行が抱きかかえている長女の頭をなでながらグチをもらす。
(なに言ってんの!? あんたはほとんど寝てたじゃん!)
 憤りを感じつつも、義理の両親の前で怒るわけにもいかない。
 美咲はグッとこらえた。
「あ、お義母さん。私も手伝いますよ」
「あら、美咲さん。それじゃあ、これお願いしてもいい?」
 そしてキッチンで料理の準備をしていると――。
「やるぅッ! りっくんもやるのぉおおおッ!」
「りっくん。包丁があるからここはあぶないよ?」
「お手伝い、するのォオオオッ!」
「りっくん、そんなに叫ばないんだよ。ママ、ちゃんと聞こえてるからね」
「耳が遠いばぁばのために言ってくれたのよね。ありがとうね。でも、あぶないからね。あっちでじぃじとかパパにあそんでもらったら?」
「やだぁっ! お料理、できるもんっ!」
 なおも食いさがり、だだをこねる。美咲は義母に苦笑しながら頭を下げ――。
「わかった。じゃ~、これを運ぼう。ママのお手伝いしてくれる?」
「するっ!」
 小さいお皿を美咲と運ぶことで、なんとか長男は落ち着いた。
 そのあとも、長女が泣き出して止まらなかったり。イヤイヤ期の長男が料理をひっくり返したり。
 結局、年始のあいさつもほどほどにトンボ返りするはめになった。
 すると、帰りの車中で隆行が――。
「……久しぶりに帰れた実家だったのになぁ」
 ボソリとつぶやいた。
 本当に何げない言葉だ。子供がいない時だったら、なんとも思わなかった。
 それでも、育児に追われている美咲からすると――。
「…………」
 一言も返したくないぐらい、不機嫌になる一言だった。
 無言になった美咲を見て、怒っていると気が付いたらしい。隆行は火に油を注ぐような真似はせず――帰りの車中は、泣き疲れて眠る子供たちと無言の大人が二人という気まずい空間となった――。
 自宅マンションに入ってから、また子供たちは暴れ出した。防音マットの上で、小さい体のどこからそんな元気が出てくるんだと言うぐらいに。
 隆行がスマホをいじりつつ子供とあそんでいる。その隙に、美咲は火を使うような家事を終わらせていく。家事は分担しているが、隆行がやるのは洗い物や洗濯、掃除などだ。
 美咲が作り置きを終えた料理を、子供の手がとどかないところにしまう。
 すると――。
「美咲、ごめん」
 隆行が気まずそうに謝ってきた。
「……なにが?」
「俺が怒らせちゃってさ」
「……なんでそう思うの?」
「いや、美咲が静かだから……」
「私が静かだと怒ってることになるんだ。じゃあ私はズッとしゃべってろってことだよね」
「いや、そういうんじゃなくて……」
 美咲は、ここまで言わなくてもよいと自分のなかでは思っている。
 隆行は、普段は残業ばかりだ。同じ職場の先輩と後輩という関係性だったから、どれだけつらい仕事をこなしているかもわかっている。
 だから、育児のやり方を学ぶのも疲れて帰ってきてから。しかも、実践ながらだ。
 上手くできなくても仕方ない。――それでも、美咲としてはイライラしてしまう。
(もっとできることをやるとか言えば?……っていうか、教えてぐらいあってもいいんじゃない?)
 謝られてもイライラは消えない。そんな美咲に、隆行は気まずそうにスマホを手渡す。
 ディスプレイには、〈リラクゼーションサロン夢現〉と表示されている。
「……なに、これ?」
「ここ、年始からやってるんだってさ。子供たちは俺が見てるから……行ってみないか?」
「は? 私に出てけってこと?」
「違くて。……その、ずっと美咲にがんばってもらってるから。年始の休みぐらい、少しでも休んで欲しくてさ」
「……あなたに子供たちを見ていられるの?」
「まるまる一日は、知識がまだたりなくて無理だけど……。数時間ぐらいなら。公園いったり、危険がないようなことであそばせてあげるからさ」
 その言葉に、美咲もほんの少しだけ怒りを静めディスプレイをスクロールしていく。
「……ちょっと。夢現って名前、怪しくない? それに、男性院長が一人でやってるって。ここ、本当に平気なの?」
 テレビのニュースでも、男性が施術中に女性客へわいせつをしたという事件を見たことがある。それはごく一部なのかもしれない。それでも美咲としては、男一人の店は不安だった。
「監視カメラも見せてもらえて安心って口コミがあったし、平気だろ」
「……そうじゃなくて。あなたは心配じゃないの?」
「ん……。でも、他に元旦からやってそうな場所もないしなぁ」
 うんうん、と悩んで煮えきらない態度の隆行。そんな隆行を見て美咲は――。
「もういい。……わかった。行ってくる」
 淡々とした声音でそう告げた。
「ああ。……美咲の涙が止まるのを、祈ってる」
 隆行はそれだけ返すと、子供たちの方へと向きなおる。
 そして床に座り、さっと子供二人におもちゃを差し出して一緒にあそんでいる。
「……涙?」
 美咲は頬を触る。すると、手が生ぬるい水で濡れたのがわかった。
(え……。私、泣いてたの?)
 自分ではまったく気が付かなかった。なぜ泣いているのか。
 子育てをつらいと思ったのか。あるいは、旦那に悲観したのか。
 自分でもわからないから、どこかで落ちつけたい。美咲もそう思うが――。
(……大丈夫なのかな?)
 家を開けて平気なのか。子供たちの世話を、隆行が本当にできるのか。美咲はすごく不安で――子供たちを心配に思う。それでも、いまさら「やっぱりいい」などとは言えない。
(往復時間入れても二時間かからないぐらいだし。それぐらいなら……)
 そうして美咲は、夢現へ行くため玄関のドアを閉める。
(子供を連れないで……一人で外出なんて。変な感じ)
 いつの間にか逆転していた常識と、子供がそばにいないことに戸惑いつつ――。

「――ここね」
 HPに掲載されていたお店の外観とも一致する。美咲は写真フォルダを再度開く。『予約が完了しました』という画面のスクリーンショットを、もう一度確認した。
「……よし。時間の入力ミスもなし」
 しっかり今の時間に予約がとれているのを確認した。そうして美咲は、モダン風の一軒家のインターホンをならす。すると、玄関ドアがゆっくり開き――。
「――中島さんでしょうか?」
「は、はい」
「リラクゼーションサロン夢現へようこそ。外は寒いでしょう。なかへどうぞ」
「あ、ありがとうございます。お邪魔します」
 男性が開けてくれているドアのなかへ、小走りで入る。
(え、嘘。顔写真がなかったからわからなかったけど……。こんなにイケメンの、若い人が院長なの!?)
 胸中ではそのように考えながら、促されるまま室内へと入っていき――。
「――いい香り。ちょっと大人な匂い……。ラベンダーの香りがする」
「ええ。本日は、ラベンダーのアロマをたかせていただいております」
「そうなんですか。お店の落ち着いた雰囲気とも合ってて、素敵……」
「ラベンダーはおだやかな香りが特徴です。万能に効くので、入浴剤など色々な場所で使われていますね。追われるような忙しさで緊張した気持ちも、ゆったりさせてくれるんですよ」
「追われるような忙しさ……ですか」
 リラクゼーションサロン夢現の院長――怜は、美咲から上着を預かりつつ会話をする。
「事前問診から、そのように感じられましたので。――それでは、改めまして。院長の京極怜ともうします」
「あ、中島美咲ともうします。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。本日は全身リラクゼーションでお間違いないですか?」
「はい。二児の母ですから……。全身バキバキなので」
「私には子供がいませんので……。すごいなと心から尊敬します。それでは、そちらのベッドへどうぞ。最初はうつ伏せでお願いします」
「はい」
 そうして施術がはじまった。
 最初は監視カメラがあるのを確認しても、それでも警戒していた美咲だったが――。
(すごい。体が鉛のように重かったのに。筋肉や関節をしばってたものが溶けていくみたい)
 怜の施術によって、美咲は天にものぼる心地よさを感じていた。
「それでは、次は仰向けでお願いします」
「あ、はい」
(先生がマッサージしたところが、ふわふわして動きやすくなっていく。……すごく的確に。それでいて、丁寧にやってくれる先生なんだなぁ)
 まるで日頃の忙しさというロープでがんじがらめになっていた肉体が、一本一本やさしくほどかれていくようだ。美咲はそう感じながら、ふと気になっていたことを聞いてみた。
「このお店――夢現という名前ってなにか意味があるんですか?}
「ええ。夢現という言葉は、辞書的には夢とも現実とも区別がつかない状態という意味です。店名はそれにかけました」
「……と、言いますと?」
「この場所にいる時は、現実と夢の狭間。――つらい現実も、夢のように整理する場所。人によっては、夢のような心地よさが現実になりますように。そういう願いをこめたんです」
「夢見心地という言葉は聞いたことがあります。……でも、現実を夢のように整理ですか?」
「ええ。夢というのは、眠っている間に記憶を整理しているという学説が有力なんです」
「そうなんですね。……先生は、夢についてお詳しいんですか?」
「詳しいとい呼べるほどでは。興味から独学したぐらいですよ」
「そう、ですか……」
「……そのお顔の曇りよう。なにか、夢についてお悩みですか? 私のいたらない知識でもよろしければ、お話ください。もしかしたら、なにかできるかもしれません」
「……じつは最近、同じ夢をよく見るんです」
「なるほど……。内容は覚えていらっしゃいますか?」
「あんまり……」
「少しも、ですか?」
 怜はさらにたずねる。同じ夢をと言うからには、少しは覚えているはず。そうでなければ、同じ夢を見ているかなんてわからないのだから。怜には、美咲が言い出すのをためらっているように見えた。
 英語などでもそうだが、完璧に扱えなければ『しゃべれない』。『あんまり』と答えがちだ。本当は『YES』や『NO』などは話せるのに。
 夢に関しても同じだ。
 一から十まで覚えていないと、『あんまり』や『覚えていない』と答えてしまう。
「ほんの少しでもいいんですよ。そもそも、一から十までつじつまが合う夢なんてめったにないんですから。自信を持ってください」
「それでしたら……」
 怜に促され、美咲は自信なさげに、ゆっくりと――。
「……家事をしていたら、子供がいなくなって。それで怒った夫に追いかけられる夢です」
「なるほど。……ちなみに、怒って追いかけてくるパートナーの服装は?」
「たしか、スーツだった気がしますね。ぼんやりですけど。でも、夫は会社にいるだろう昼ですし。間違いかもしれませんね」
「いえいえ。夢ですから、一つ二つの奇妙な点はあるものですよ。実際、研究では七十五%以上の方の夢に奇妙な点があったそうですから」
「え、そうなんですか?」
「はい。ただ、奇妙な点三つ以上や、人が物に変化する。あるいは物を透けて通れるとか。そういったあまりにもあり得ない夢は、ほぼなかったそうですね」
「へぇ。たしかに、私もそこまでの夢は見た覚えがありません」
「奇妙とは言っても、矛盾や場面が急に変わる程度のものぐらい。夢とはいえ、完全な無秩序ではない。夢なりの論理がある。それが研究者たちの意見だそうですよ」
「研究者の意見とかを知っているなんて。……やはり、先生は夢にお詳しいんですね?」
「いえ、それほどは」
「私がぼんやりしか覚えてない夢でも自信をもてと仰ったのに。謙遜なさらないでください」
「それは……。どうやら、中島さんに一本とられてしまったようです。まいりました」
「ふふっ。先生は面白い方ですね」
「恐縮です。それで、夢の内容で他に覚えていることはありますか?」
「う~ん。……すいません。これ以上はちょっと思い出せません」
「そうですか。お話くださり、ありがとうございます」
「あの……。私の夢から、なにかわかりましたか?」
「わかったと言うほどではありません。ですが、同じ夢を見ることを反復夢と呼称するんです」
「反復夢、ですか?」
「ええ。夢にはテーマがあります。夢は前後の話の流れはつながっている。でも、ドンドンテーマが移って行って、最後と最初で同じことを話していることはほとんどないそうです」
「……たしかに。私が見てきた夢も、そうだったかもしれません」
「反復夢は、テーマも内容も同じ夢を見ることです。日常生活における情動的な懸念や、課題処理に結びついているらしいですよ」
「情動的な懸念……ですか」
 美咲はなにかあるだろかと考えて――思わず眉間にシワをよせてしまう。
 育児で心配なこと。収入などで不安なこと。まるで排ガスを吹き出すトラックのようにモクモクと出てきて。あっという間に美咲の心を黒く染めたからだ。
「……そのご様子だと、思い当たる節がありそうですね」
「ええ。まぁ……。二人の子供を育てる母ですからね」
「先ほどももうしあげましたが……。独身の私からすれば、本当に尊敬いたします」
「ありがとうございます。……先生は、いいパパさんになりそうですね」
「残念なことに、私には相手がおりません。相手がいないことには、子供はできませんから」
「ふふっ、そうですね。誰かいい人はいないんですか?」
「恋人ではないですが……。七年想ってる相手がいます。その問題が解決してからですかね」
「失恋、ですか? 私ばかり話していて、秘密っていうのはズルいですよ?」
「……中島さん、ずいぶんと食いついてきますね?」
「結婚して、家で育児ばかりですからね。家にこもるようになってから、ワイドショーみたいに刺激があるものが好きになった気がします」
「昔からお好きだったとかではないんですか?」
「ええ。昔は会社勤めが忙しくて……。私、気が付いたら自分のことペラペラしゃべっちゃってますね。先生のマッサージが上手くて、口まで軽くなってしまったのかも」
「そうであれば、私の施術もたいしたものですね」
「本当にそう思いますよ。体も心も、解きほぐされていくようです。……だからですかね。いやらしい意味でなく、先生の恋が気になってしまいました。お相手はどんな人なんだろうと」
「そんなに気になりますか?」
「人の恋愛話というのは最高の刺激なんです。もう自分にはできない恋愛に憧れるってのもありますけど。女はいくつになっても、ロマンチックな恋愛に憧れるものなんですよ?」
 美咲は怜へ、グイグイと聞いていく。口数もかなり増えた。怜の施術によって体だけでなく、心のしばりまで解きほぐされたようだ。
 急にしばるものがなくなって、少し暴走しているようにも見える。あるいは、もっと単純に美咲が人の恋に興味があるだけかもしれない。
「……なるほど。では、そんなロマンチック好きな中島さん向けに――ちょっと詩的にお答えします。それで勘弁していただけないでしょうか?」
「詩的に? ええ、いいですよ」
「……キスでは目覚めない。そんな眠れる森の……いえ。――枯れた森の、眠れる美女です」
「枯れた森の眠れる美女?……なんですか、それ。よけいに気になるじゃないですか」
「これでも、かなりプライベート的なお話をしたんですよ。珍しく」
「え、これでですか?……先生ってなんだか、謎が多そうですよね」
「ハッキリ言いますね。本当に、夢の内容を語るのにためらっていた方とは思えません」
「その話はまた別です。母は強し、と言いますからね。……親として、強くなりませんと」
「……なるほど。話がだいぶ脱線してしまいました。夢の話に戻しましょうか」
「あ、はい。そうでしたね。夢のお話をしていたんでした」
「ふふっ。中島さんとの会話は、まるで夢のなかのようでした。――次々とテーマが移りかわる。そんな感じでしたね」
「……先生。仕返しですか? わざとイジワルな話し方をしてませんか?」
「気のせいですよ。反復夢についてですが――ストレス要因があることが多いそうですよ」
「ストレスだらけで、どれのことか……。もちろん、子供は可愛いんですけどね」
「ストレス社会と言いますからね。……研究報告ですと、身近な人への失望。自信の喪失。恥をかいたなどの体験をした時に反復夢を見る傾向があるのかもしれないそうです」
「……なるほど。心当たりがあります」
「すいません。あまり面白い話ではなかったようですね」
「いえ……。ただ、私も悪いところがあるはずなので。だから失望や自信の喪失なんて、偉そうで……」
「そうですか。……もし話したくなったら、仰ってください。聞くぐらいしかできませんが」
「ありがとう、ございます」
 美咲は心からありがたいと思った。
 子供のように、自分勝手に不平不満をぶちまけたい。一瞬そうは思うが、それは間違っていると理性が邪魔をした。
(悪いのが相手だけみたいに言うのはおかしいよね。……だから、我慢しなくちゃ)
 年齢だけでなく、心まで大人な美咲は自分にそう言い聞かせる。
 そうして気持ちのよい施術を受けているうちに――夢の世界へと落ちていった。

『…………』
『どうした。今回のお主は、ずいぶんと迷っておるな』
『……ええ。家族関係というのは、とても複雑ですから』
『とはいえども、夢は待ってはくれんぞ。――それ、反復している夢とやらだ』
『……なるほど。聞いていた通り、場所はマンションの一室ですね』
 少し声をひそめながら怜は、クマとゾウをまぜたような存在――獏に返事をする。
 なるべく反復夢の通りに進むよう、足音をしのばせ――。
『料理をされている。……では、このあと子供がいなくなる。そうして怒ったパートナーに追いかけられるのが本来の流れですね』
『今回は、どうするつもりだ?』
『……反復夢を、崩してみようかと思います』
『ずいぶんと自信がなさげだが?』
『いったでしょう。……複雑なので、私がやろうとしていることが正しいのかと迷うんです』
『ふむ。と言うと?』
『それは――。とにかく、まずは子供たちがいなくならないようにすることです』
 美咲が背を向けた隙をついて、怜は子供たちの元へ向かう。
 まずは、床であそんでいた男の子を。そうして、ベビーベッドに寝ていた子供をやさしく抱きあげる。夢のなかの子供たちは、慣れない怜がこわごわ抱きあげても泣かない。
『ふむ。存外、さまになっているな』
『私がコントロールできる夢のなかだからです。……現実なら、絶対に泣かれています』
 寝室に隠れながら、旦那が姿をあらわすのを待っていると――。
『おい! 俺たちの子供がいないぞ!?』
 半狂乱になったスーツ姿の隆行が突如としてリビングにあらわれた。
『――えッ!?』
『どういうことだ。美咲! お前が連れ去ったのか!?』
 リビングで二人が口論をはじめている。その時、怜は――。
『……中島さんは、子供を失うことを怖れているのかもしれません。その原因はあのパートナーらしい男性でしょう。子供を事故で失えば、こう言われるだろう。それは子育てへの自信の喪失。そしてパートナーへの失望。その無意識が夢のなかで、こうして象徴的な形であらわれたのかもですね。スーツを着ているのは、仕事ばかりしている人という無意識からでしょう』
『それで? お主は今のところ、ただの人さらいじゃが?』
『わかっています。だから――』
 そう言うと、怜は自分の姿を隆行と同じに変えて――。
『子供はここにいるぞ。いつも美咲にばかり苦労が多いからな。今日は俺が見ている』
『あなた! よかった、よかった!』
『美咲はいつも、俺がいない間も子供を見てくれてるからな』
『今日は半休だったの?』
『ああ。だからたまには手伝いたくなってな』
『あなた。……そんなことができたの?』
『……子育ては、わからないことばかりだがな』
 怜がそう答えた時には、本来の夫や子供たちは姿を消しており――。
『――わからないのなら、しっかり学びなさいね。隆行さん』
『そうだぞ、隆行くん。子育てってのは、家族でやるものだ』
『お父さん、お母さん!』
 代わりに、美咲の父と母らしき初老の人物があらわれ――リビングでくつろいでいた。
 事前問診では、家族四人でマンションに暮らしていると書いてあった。本来なら、突如として美咲の両親がマンションの部屋にいるのは奇妙で、矛盾している。
 それでも、夢はちょっとの奇妙なんて受けいれる。
 ただ、代わりに――。
『ほら、このアルバムを見てくれ。隆行くん、子供の頃の美咲は、可愛いと思わないか?』
『ええ、本当に。とても可愛らしい写真ですね』
『そうでしょう? 美咲にも、こんな小さいころがあったのにねぇ。……大きくなったわ』
『もう。恥ずかしいでしょう。隆行さんにこんな写真、見せないでよ!』
『ははっ。うちの娘も、そんな年ごろか』
『わがままで泣いてばっかだったのに。もうお嫁さんだものねぇ』
『私はもう、大人なんだから! 隆行さん、すっごい仕事できて格好いいんだよ?』
『隆行くん。仕事はどうなんだ? 美咲はちゃんとやれてるか?』
 夢のなかでの会話は――みるみるとテーマが変わっていく。
 もはや、当初の育児の話ではなくなっている。だから、怜は――。
『ええ。美咲さんは本当にしっかりしていて、責任感も強いですから。もっと頼って欲しいぐらいです。――子供ができても……。自分でがんばろうと、無理してしまいそうです』
『そうだな。美咲にはなんでも自分でしなきゃってところがある』
『そんなことないから! 夫婦になるんだから、協力するもん!』
『ああ。俺も……。俺も、するからな。子育てを。だから、協力させてくれよ』
 少しだけ迷いつつ――怜はそう答えた。
『隆行さん。ありがとう。子育てはまだ、気が早いけど……』
『隆行くん、子育てと言えばだね。じつは私もかなりしていたんだよ』
『お義父さんもですか? 美咲さんの子育てを?』
『ああ。小さいころから、美咲は活発でね。ちょっとでも目を離すとすぐに怪我をしてな』
『本当、この子は大変だったのよ! 私も、ずっと気が休まらなかったわ』
『もう! それって、私が物心付いてない時でしょ?』
『……お二人は、どのように美咲さんを育てられたのでしょうか?』
『特別なことなんてしていないよ。子供というのは家族の愛する――宝だからな』
『私たちが育てられた時もそう。家族って、血をつないできたみんなよ』
『互いの両親に、何度も頼ったな』
『ええ。頼ってばかりの人生だったからな』
『お父さん。お母さん……。私、いいママになれるかな』
『なれるとも。その時が――孫を見るのが、楽しみだ』
『……お義父さん。お義母さん。そして美咲さん。私がいたらない時は、どうぞ教えてやってください。家族の……愛する宝を、守るために』
『おお、いいとも。隆行くんは生真面目だな』
『ええ。美咲とおんなじ。失敗しそうならやらないとか思いそうで怖いわね』
『そんなことないから! 私、二人の子供なんだよ?』
『ああ。そうだ。……本当に、よく成長したな。子育てなのに、私たちも学んで……』
『まるで私たちも一緒に育てられたみたいね。……あの美咲が、こんなに立派になるなんて』
 美咲の両親は、改めて美咲の体を触って泣いていて――。
『二人が……おじいちゃんやおばあちゃん。家族のみんなが助けてくれたからだよ』
 美咲も泣いていた。隆行になりすましていた怜は、そっと温かな触れあいから離れ――。
『…………』
『夢を終わらせないのか?』
『……獏。――本当に、これでいいのでしょうか?』
『なにがだ?』
『世のなかには……いい親だけではありません。美咲さんのご両親のように、いい親もいるでしょう。……あと、私の両親もですが』
『……うむ』
『ですが……育児を放棄したり、虐待をする親もいます』
『……そうじゃな』
『私は、育児もしたことがないくせに。家庭の事情もよく知らないくせに。……この夢で、隆行さんがもっと育児に参加するよう夢を進めました。それは、本当に正しかったのか……』
『……もし隆行とやらが本当にダメなら、祖父母に頼れる。結局はそういう夢になったであろう? それに、夢とは、そやつの考え方に多少の影響は与えよう。――じゃが、お主の夢一つですべてをかえられると思うのは――傲慢である』
『……そうですね。あとは、隆行さんを愛した美咲さんに託しましょう』
『ああ。お主も、すべて一人でやろうとするな。人を信じ、頼ることじゃ』
『そう、ですね……。本当に、その通りです』
 次々と変わっていく会話のテーマ。美咲たちが今、どんな会話をしているかはわからない。
 それでも、机の上にあるアルバムは消えていなくて――。
『仲のよい家族というのは……美しいですね。宝、ですか』
 自分や舞香を育てた両親も――こうして悩んでいたのかと、怜は泣きそうになる。
『……この夢に、ヤツはいない。やはり、ヤツが好きそうなのは、人一倍がんばるものを堕としていく夢だろう。この間、遂に見つけた女子のように』
『桜井さんですね。獏の能力で枕にマークをつけ、私の能力で邪な気配は察知できるはず。……そうですよね?』
『うむ。ちゃんと無意識体の一部が共有されとる。なにかあれば、すぐに桜井という女子の夢に入りこめる。――じゃが、いまだ反応はない』
『……待ちましょう。七年待ったのです。もう、待つのには慣れました』
『すり減るものはあるようじゃがな』
『……それでも、私は笑っていられる。もう一つの夢が達成されているからです。――人を笑顔にする仕事をするという、ありふれた夢が』
『……そうか。なによりじゃよ。今回もそうなるとよいのう、相棒』
 獏の言葉に――怜はチラッとアルバムを見てから。
『ええ。信じましょう。――夢から覚める時です』
 夢の世界から、現実へと戻っていった――。

「――中島さん。おはようございます」
「……あれ。私、寝ちゃってたんですか? すいません!」
「いいんです。それよりも……これをどうぞ」
 怜の声に、弾かれたように美咲は起きあがった。
 そんな美咲に、怜はスッとハンカチを手渡す。
「ハンカチですか?――あれ、私……泣いてる?」
 戸惑いながら、美咲は自分の頬を伝っていく涙に気が付いた。
「……よい夢が、見られましたか?」
 弱々しい怜の言葉。美咲は先ほど見ていた夢を一つ一つ想起していって――。
「……はい。なんで気が付かなかったんだろう。なんでそうしなかったんだろう。自分は、愛されているのに。そう思えるような――素敵な夢を見られました」
 満面の笑みで、そう答えた。
「――それはよかった。……本当に。本当に、よかったです」
 怜は心の底からそう思う。
 ベッドから立ちあがった美咲は、会計の準備と上着をてに取りながら――。
「男性が一人のお店っていきづらいなって思ってたんですけど……。来てよかったです」
「……やはり、女性からすると不安に思われますよね。でも、中島さんがそのようなご感想を抱いてくださって、よかったです」
「なんで先生がそんなに嬉しそうなんですか」
「それは――私は、人を笑顔にするのが大好きだからですよ」
 微笑む怜に支払いを済まし、美咲は玄関へと向かう。
 そして玄関ドアを開ける前に、怜は手紙を手渡す。
「これはみなさんにしているサービスです。もしよろしければ、読んでやってください。戯れ言が書いてあります」
「最後までご謙遜を。――先生、今日はありがとうございました」
 怜は玄関ドアを開ける。そうして、退店する美咲に向け――。
「本日は、夢現へのご来店ありがとうございました。よろしければ、口コミや通販もよろしくお願いします。それでは、本年も――よい夢を」
 ――新年のあいさつをして、ドアがゆっくり閉まる。
 美咲は歩きながら、渡された手紙をさっそく開けてみる。なかには、綺麗な字で――。
『どちらかが重く背負っていると感じれば、支えあいはできず倒れてしまいます。傷付いては修復しての繰りかえしは、いずれ大きな事故につながります。言葉にしないと伝わらないこともあるでしょう。長く幸せで、明るい未来となりますように』
 そう書かれていた。
(そうだよね。夫婦としてお互いを愛し、信じ。――そして支え合うって決めたのになぁ)
 挙式で神父に問われて、誓ったことだ。儀礼的だし、忙しすぎて忘れていた。
 自分がこの人と人生を歩みたいと決めた相手。婚前とはだいぶ違って見える相手。
 美咲は、子供ができてからの隆行を冷静に考えてみた。
(自分から教えてと言ってこないのはムカつく。でも……だったら教えこんでみよう。だって、育児は家族でやるものだからね。――最初から諦めないで、頼ってみようかな)
 どうにもならない。こういうもんだから。私の子供なんだから、がんばらなきゃ――私が。
 そうやって自分で全部やろうとするのは、もうやめよう。大きい子供が増えたと思って、隆行にも教えてみよう。美咲はこの店にきて――そう思うようになった。
 たったそれだけのこと。それなのに――。
(体も心もすっごく楽になった。クレームに耐えきれなければ、しばらくどっちかの実家に住むのもありだし。お父さんもお母さんも、もっと巻きこんで――みんなで一緒に育てればいいんだもんね。子供も、責任も。背負うのは私だけじゃなくていいんだから!)
 久しぶりにできた一人の時間だけど――やっぱり子供がいないのは寂しい。
(いい気分転換になった。――それだけでもだいぶ違う。またちゃんとママができる!)
 そうして中島美咲は、自宅のマンションへと向かう足どりを早める。
(まずは――私たち家族の宝を、みんなで育てる話し合いからはじめよう!)
 その足は気が付けば、子供の時のように軽くスキップをしていた――。