一章

「――はい、ありがとうございました。それではお次の方、ええっと。――桜井美穂さん。弊社を志望した理由を教えてください」
「お、御社の企業理念に深く賛同し、そのお力になりたいと考えたからです!」
「立たないで、座ったままでけっこうですからね」
「あ。す、すいません! 座ります!」
 企業の集団面接で名前を呼ばれ、思わず立ちあがってしまった。自分の前の人がすごく立派な受け答えをしていて、焦ってしまったようだ。
「それで具体的には? どのようにお力になってくれますか?」
「え、えっと……。私は真面目で人がよいと言われるのが長所なので、そこを上手く……」
「……うちの企業理念を言えますか?」
「す、すいません。さっきまで覚えていたんです!……でも、緊張で忘れてしまいました」
「…………」
「……すいません」
「……え~。では、次の方どうぞ」
 上手く受け答えができず、しょんぼりとしてしまう。
 就職活動に臨む大学四年生の桜井美穂は、悩んでいるようだ。
 それでも、まだ終わってないと気を持ちなおして桜井は次の質問を待つ――。
「――最後に、なにか質問のある方はいますか?」
 一番答えにくい質問に、面接室がシンとする。静寂に耐えきれなくなった桜井がキョロキョロと他の就活生を見る。その目立つしぐさが災いしたのだろう。
「桜井さんはなにかありますか?」
「え」
 面接官から名指しされてしまった。
(な、なにも答えないのが一番よくないんだよね!?)
 パニック状態だ。それでもなんとか気になることをしぼり出し――。
「――あ! 昇給ありとありますけど、具体的にはおいくらぐらいですか?」
 パッと閃いたことを――バカ正直にたずねてしまう。
「ぁ……」
「…………」
 ポカンとしている面接官と、『こいつ、やりやがった』という表情をする就活生の表情。桜井は自分がやらかしたと悟り、冷や汗がドバドバとあふれてくる。
(まずいまずい! こういうお金とか休みの質問ってダメなんだった! 聞くにしても、『たいへん、伺いづらいのですが……』とか枕詞でつけなきゃいけないんだよね!?)
 労働契約をむすぶのだから、本来は教えてもらって当然の内容だ。
 それでも聞くのならば、まるで心苦しそうにするという謎のマナーがある。
 大学での面接練習や教本に書いてある『やってはいけない』例のお手本のようなことをしてしまった。桜井の脳内はもう、真っ白である。
「なかなか、聞きにくいことを聞かれる学生ですね。え~、昇給率の実績ですが――」
 そのあと、面接官はキチンと答えてくれていたと思う。でも、桜井は「はい。ありがとうございます」と抜け殻のようになっていた。
 そうして、気が付くと桜井は会社から外へと出ていた――。
「……ヒール、足が痛いし疲れるなぁ。特別な志望理由とかないよぉ。同じような会社があるなかで、なんか条件よさそう。それだけだよ。ああ、もう。やっと面接までいけたのに……」
 桜井美穂は、スーツ姿でよろよろと街を歩きながらグチをはいていた。ビルが建ち並ぶ大通りからは少し外れていて、民家もちらほらと見える。
 そうとはいえ、人通りは多い。ぶつぶつとグチを吐きながら歩く桜井を見て、関わらないようにと人がさけていく。
 数十という数の企業へ書類を送ったけれど、桜井が面接までたどりつけたのは十社にもみたない。そうしてやっと面接までいけても不採用通知――俗にいうお祈りメールばかりもらう。
 つまり、『あなたの今後にいいことがあるのを祈ってるよ、うちの会社では採用できないけどね』。そういうメールだ。
 今もやっと面接までこぎつけた会社であった採用試験からの帰りだが――。
「――あ、メール……。お祈りメール早すぎでしょ!? なんでよぉ……」
 マナーモードに設定していたスマホにメールがとどいた。あまりに早くて残酷な結果に、桜井は思わず道路へどしゃっと崩れ落ちる。まるで糸を切られたマリオネットのようだった。
「はぁあああ、もう……。サークルは恋愛がらみでギスギス。卒論にも手をつけなきゃなのに、十月になっても就活は全滅。バランスよく、要領よくなんて無理ぃ。タスク多すぎぃ」
 人の目も気にならないぐらい、追いこまれていた。アスファルトに座りながら、桜井の頬を涙が伝う。
「膝うった……痛い。履歴書を書くのにどれだけ時間かけたと思ってるの? 写真だってただじゃないし。……後輩からはまた、相談が送られてきてるし。もう、癒やされたいよぉ」
 履歴書は手書きじゃなければいけない――わけではない。でも、手書きの方が受かりやすい。そういった話を先輩から聞いていた。そのため、真面目な桜井はすべて直筆だ。とんでもない時間と労力がかかるが、今のところ、その努力は実っていないようだ。
 夏には内定をもらい、就職活動を終える。そして秋から冬にかけて卒業論文を提出する。それが大学四年生の王道パターンだ。
 桜井はそんな王道パターンにのれなかった。同級生のように、上手くはいってない。秋になってもまだ、内定が一つもない状態だ。
「ええい、悩んでてもダメ! 立ちあがって、前に……ぁ」
 ペタンと女の子座りしていた姿勢から、グンッと一気に立ちあがった時だ。
 ポキッという音が足もとから聞こえ――。
「ああ、ヒールが折れた!? 疲れるけど折れろとは言ってないよ!? また出費が……」
 泣きっ面に蜂という言葉がある。桜井はずっと、不運で巻きこまれ体質と言われてきた。それでもがんばってきたというのに。それなのに、まるで不幸が波のように押し寄せてくる。
 不憫すぎて見ている方がつらい。思わず、そういった気持ちにさせられるような惨状だ。
「私、なんか悪いことしたのかなぁ……。まわりはもう就活終わって卒論やってるのに。これじゃあ、本当に就職も卒業もできないかも。はぁ、癒やされたい……」
 とぼとぼと歩きながら、深い溜め息に乗って本音が出て行く。
「後輩ちゃんからの呼び出し、行かなきゃ……」
 自分のことで手いっぱいのはずだ。それでも、桜井は後輩のために動く。真面目で、お人好しと言われるのはこういうところが所以だろう。
 桜井は後輩たちの意見を聞きにいった――。

「――私の気持ちも考えずにですよ!? あり得なくないですか!?」
「な、なるほどね。このあと、あっちの意見も聞くけど。たしかに無神経だったのかもね?」
「ですよね!? だいたい先に話しかけたのは私で――」
 無神経と言えば、就活と卒論で忙しい桜井をカフェに呼びつけている後輩もそうなのだが。でも、怒り狂っている相手にそんなことは指摘できない。
 桜井は「うんうん、なるほど」。「そっかぁ、つらかったね」。そもそも答えなんかないグチをちゃんと聞いて相づちをうっている。ときどき「コーヒー美味しいなぁ」と思うことで、キリキリする胃の痛みに耐えながら。結局、呼び出してきた後輩から解放されたのは――日没のあとだった。
 カフェに呼び出してきた後輩のケンカ相手――もう一人とは、居酒屋で話すことになった。
「……就活失敗して、ヒールまで折れて。グチりたいのはこっちだよ……」
 高さの違う靴でヒョコヒョコと歩きながら、桜井は居酒屋へと向かう――。
「――あいつはいっつも、自分のことばっかなんですよ! だから――」
「……なるほどねぇ」
 ジョッキをグイッとあおりながら、溜まったグチを吐き出す後輩の言い分を聞く。桜井からしてみると、本当に些細なことだ。
(たぶんだけど、こうして私にグチったら……。いつの間にか仲直りだろうな)
 お酒をチビチビとと飲みながら、桜井は内心で思う。
 その表情は疲れていた。それでも、崩壊するレベルの問題にはならなそうだと安心した。
 結局のところ、サークル内で二人が同じ人を好きになった。
 それだけの話だった。これで男の方がどちらかと交際すれば問題が大きくなる。でも、相談されがちな桜井は知っていた。
(その男の子、別の大学に彼女いるしなぁ……)
 二人はそのことを知らない。だから、取り合いのケンカになったらしい。二人の話を聞いて、桜井は今回のケンカの理由がわかった。
(うん、これは……むしろラッキー)
 自分があれこれと動く必要もない。いつか真実を誰かから聞けば、二人のグチの矛先は――男に向くだろう。
 桜井は「うんうん」。「そっかぁ」。と話を合わせつつ、後輩が泣き出した時には頭をなでてあげた。泣きたいのは自分の方だろうに。
「――先輩、ありがとうございました! ごちそうさまです!」
「うん。だいじょぶ……。がんばってね」
 それは相手に向けた言葉か。それとも、二十時までグチに付きあった挙げ句、後輩の飲みぶんをおごる流れになった自分への言葉だろうか。
「そう言えば先輩。そのヒール、どうしたんですか?」
「いまさらなの!?」
 居酒屋は座敷じゃなく、靴を履いたまま飲むタイプのテーブル席だった。気が付くタイミングなんていつでもあっただろうに。
 桜井は切なげに笑いながら後輩に手をふり、家を目指して歩き出した――。

「――ぁっ!? いったぁ……」
 桜井は住宅街へと続く道路の、ちょっとした段差につまづき、転んだ。ヒールの高さが違うこと。さらに、お酒が入っていることも影響したのかもしれない。
「もう最悪だぁ……。面接はダメだったし。ヒールは折れるし。……あれ!? ストッキングやぶれてる!?」
 転んだ拍子にだろうか。ストッキングがやぶれ、右膝の地肌が見えていた。
「……もう、イヤだぁ」
 桜井美穂は悩んでいる。就職活動。卒業論文。人間関係。多くのタスクを抱え苦しでいる。さらには、今後どうなるんだろう。そう不安で気持ちにゆとりがなくなっているようだ。
「もうどうにでもなれ、ちくしょー!」
 なにもかも上手くいかないし、面倒だ。そう、やけっぱちになっていた。
 人の目が少ないこと。そしてアルコールが少し入っていることもあり、叫んだ。
 その時、ピュウッと秋の夜の、寒い風が吹き――。
「――わぷっ!?」
 ペシャッと音をたてて、風にとばされた一枚のチラシが桜井の顔にへばりつく。
 チラシをふんっと顔からはがす。――そして、書かれていた内容に目を奪われた。
「……リラクゼーションサロン、夢現?――リラクゼーション! いいね、ここから近い!」
 疲れ果てている桜井からすると、まさに求めていたものだ。とにかく癒やされたい。その思いでスッカリ行く気になっていた。
「でも、口コミはどうなのかなぁっと……」
 ハッと自分にストップをかけ、まずはちゃんとした店なのかを調べることにした。口コミサイトを見てから店に行く。それはもう、当たり前のようにみんながしていることだった。
「おお!? すっごい、口コミ評価が高い!」
 調べると星四か五――満足か、とても満足の評価つき口コミレビューしかない。
 チラシでも、満足者百%を売り文句にしていた。
 そう書くように強制しているんじゃと思って中身を見る。『やさしい店長。いい香りにいい施術で、思わず眠ってしまった』など、実体験をつづっていた。桜井には、強制されて書いてるようには思えない喜びように見えた。
 サクラ――業者が口コミを書いた形跡もなさそう。どれもゆっくり自由に書いたようなレビュー内容だ。しかし、チラシに大きく書かれた〈満足者〉という文字に、「ん?」と思う。
「……満足者? 満足度じゃなくて?」
 こういった宣伝でよく使われるのは、〈満足度〉という指標だ。どれぐらい満足したかという意味である。満足度と書いていれば、星四があれば百%ではない。嘘の広告になる。
(でも、似ているけど違う言葉――〈満足者〉ならば、嘘にはならないのか)
 そもそも、満足者という単語そのものがない。
 この場合ならおそらく、来院して、満足した者。その割合を伝えたい造語だろう。
 この店は、口コミを書いた全員がやや満足以上の評価をしている。
(パーフェクトではない。――でも、どちらかと言えば満足している以上の者が全員だと。まるで言葉あそびみたい。ちょっとズルい気もするけど、うまい宣伝方法だなぁ)
 就職活動でたくさんの企業を見てきた。そして先輩から社会の実情を聞いている桜井だ。生きのこるために、これぐらいの戦略はするだろうなと考えた。
(顧客満足実績百%とか、うさんくさかったけど……)
 全員が大変満足してますと書けば誇張だ。でも、そうならないように工夫しているのがうまいと桜井は思う。少なくとも口コミを書いた全員が、満足している側にいるから。
(お値段も整体とかに行くより安い!……これなら、お試しで行ってみようかな?)
 チラシに刻まれたQRコードを読みとる。HPから予約画面を開くと、二十一時からの最終枠があいていた。他の日を見ると、ちらほら空きはある。それでも九割近くがうまっていた。
(営業時間が九時から十二時、十四時から二十二時ってことを考えると、すごいはやってるんだなぁ)
 ほとんど予約がうまってるということも、桜井が予約を確定する決め手となった。
(……来院前の問診? フェイシャルリンパケアコースを選択したんだけど……。質問事項にある、『精神的なこともご記載ください』って注意書きはなんだろ?)
 ディスプレイに表示された問診票には、かなりフリーに書ける質問が並んでいた。
・来院日か直近で起きた印象的なできごと
・一番悩んでいること
・一番ではないにしろ、悩んでいること
・仕事などの生活環境
・コンプレックス
・家族関係
・幼少期の印象的なできごと
・こうなったらいいなと願うこと
 パッと見ると、リラクゼーションサロンに必要なことには見えない。
 おおよそ、悩み相談に近いようにも見える。口コミには心身がすごく楽になった。そう書いてあった。
(んー、リラクゼーションで、なんでこんなことを聞くんだろう。でも、意味があるから聞いてるんだろうなぁ。まぁいっか。ちゃんと書いた方が、きっと効果あるんだよね)
 素直な桜井は、つらつらと書いていく。長い文章になっても止まらない。まるで不満やつらいことをぶつけるように書いていく。
(――よし、予約完了!)
 そうして、予約ができましたとの文章を確認してスマホをしまう。
 今から歩けばちょうど予約時間ぐらいにつくだろう。
 片側だけ折れたパンプスのせいで歩きにくい。それでも桜井は、癒しを求めてヒョコヒョコと歩きはじめる。地図アプリの音声案内にしたがって――。
「寝ちゃうほど気持ちいい。心身が癒やされる。院長がすごい美形。いい夢が見られたかぁ」
 リラクゼーションサロン夢現の口コミを読みながら。
 高さが違う靴のまま、不格好な歩き方で――。

 地図アプリの音声案内にしたがって着いた先は、一軒家だった。
 モダン風でおしゃれな家に〈リラクゼーションサロン夢現〉。そう看板がはってある。
「……自宅で開業してるお店なのかな?……夜だし、インターホンを押したら迷惑かな」
 窓から明かりがもれているし、普通に営業しているだろう。
 少し迷ったが、桜井はノックをしたあと玄関ドアを開き――。
「――いらっしゃいませ」
 爽やかに微笑む男性に迎えられた。
 おでこが出るように持ち上げられ、真ん中でわけられたショートヘア。百八十センチメートル近い、細身の高身長。病院職員が着ているような、紺色の上着。そして白いズボン。
(すごいイケメン……)
 桜井がうっとりしていると――。
「あの……。ご予約いただいた桜井さんですよね?」
「あ、そ、そうです! はい、桜井です!」
「よかったです。お待ちしておりました。靴を脱いで、こちらの部屋へどうぞ」
「は、はい!」
 丁寧な口調。こまると顎に手をあてるしぐさ。両膝を付いてスリッパを差し出してくれる姿。どれをとっても、桜井のツボだった。
(もうこの時点で癒やされてる……)
 われながらチョロいとは思いつつも、不意にイケメンを見れば癒やされてしまう。
(口コミにあったすごい美形って。女性院長じゃなかったんだ!?)
 予想だにしていなかった事態に、ドキドキしつつヒールの折れた靴を整える。
 そして案内された室内へ入る。
「うわぁ……。いい香りですね」
 パーテーションでしきられて、目の前には一台の診療用のベッドがある。茶色いシーツに、何枚もたたまれた同じ色のタオル。ぬるま湯の入った洗面器に、下には施術用品が積まれたカート。そしてベッドの近くにはアロマディフューザーが置かれていて、フルーティーな香りと霧を出している。室内の照明は落ちつく暖色系。口コミであったように、思わず眠ってしまいそうな雰囲気だった。
「そうでしょう? 事前の問診票から、お心が荒れているように思えましたので。カモミール・ローマンの精油を使わせていただきました」
「カモミールですか?」
「ええ。植物の香りとフルーティーさが特徴です。不安や緊張などによく効くのですよ?」
「あ、ありがとうございます……」
 柔らかに笑うイケメン。ムーディーな明かり。よい香り。
(これはズルい。こんなの、技術とか関係なく女の子がくるよ!?)
「お荷物はカゴに入れて、そちらのベッドにお座りください」
「は、はい」
 言われるがままに、荷物をしまう。そして、ベッドに座って初めて気が付いた。
 壁には資格証や表彰状などが飾られている。
 それは理解できるし、むしろちゃんとしている場所なんだなと安心もする。
 でも、このおしゃれで柔らかい空間で――浮いているものが一つ。
 それは――。
「あの……。この壁にある、額に入れられた字は……」
「ああ。これは私が書いた暗示ですよ。飾るほど筆が上手くはないのですが……」
「ええ、そうなんですか!? いやいや、すごい達筆ですよ!……でも内容が、ちょっと。まるで居酒屋みたいだなって」
「ふふっ。面白い例えですね。なるほど、たしかに。――〈道の雪、川の水、空気の動き、竈の火、人の夢。いずれもすぎたるはなお、及ばざるが如し〉。仰る通り、居酒屋にありそうな言葉です」
「あの、どういう意味の言葉なんですか?」
「――それは、施術が終わってからご説明しましょうか。お時間のこともありますので」
「あ、そうですよね! ごめんなさい!」
「いえ、改めまして。――私は院長の京極怜ともうします。どうぞよろしくお願いします」
「は、はい。こちらこそ! 私は桜井美穂です!」
「本日は、フェイシャルリンパケアコースでお間違いなかったでしょうか?」
「は、はい。あんまりこういう経験はなくて。なにもわからないんですけど……」
「そうでしたか。――こちらに着がえの仕方から、一連の流れをご説明している冊子を用意してあります。どうぞ、ご覧になりながら準備なさってください」
「あ、ありがとうございます!」
 パラパラとめくると、体と髪をタオルで巻くやり方まで、全て写真つきで載っていた。
(よかった。これなら私でも――って)
「あ、あの……。京極さんお一人ですか?」
「ええ。そうなります」
「……一軒家で開業なされているようですが。その、女性のご家族とかは?」
 桜井としては、男性だからと警戒して聞いただけだ。
 桜井は――ほんの一瞬、怜の瞳から悲しみをおびた光を感じた。
「両親は他界し、私はこの家に一人で住んでおります。……男性しかおらず不安なようでしたら、今からでも無料でキャンセルできますが?」
 なんにもなかったかのように怜は聞いてくる。桜井はあわあわと手をふり――。
「い、いえ。すいませんでした。京極先生はずいぶんお若そうなので気になって……」
 夜遅く準備してもらったのにキャンセルなんてできない。なにより、癒やされたいのだ。桜井はペコペコと頭を下げた。でも――怜の表情が悲しげに見えたことが、心にひっかかる。
(ほんの一瞬だけど、ものすごく寂しそうに見えたのはなんでだろう?……まるでギュッと悲しみを心にしまいこんでいるみたいだった)
 口に出しては聞けないけど、そんなことを考えていた。
「私はもう、二十七歳ですよ。本当に……あっという間ですよ」
「そ、そうなんですか。もっとお若く……。いえ、失礼しました! よろしくお願いします」
「こちらこそ。それでは、私はしきりの奥に失礼させていただきます。衣服と髪を整えられましたら、体にタオルを巻いてからお呼びください」
 スタンドミラーの位置を整えると、スッと頭を下げパーテーションの奥へと姿を消す。その礼儀正しい物腰は、まるで執事のようだと桜井は感じた――。
「――すいません。準備できました」
 入浴後のように体と髪をタオルで巻いてから、桜井は声をかけた。
 怜は「失礼します」と言いながら入室してくる。
「では、こちらのベッドで仰向けになってください」
「はい、お願いします」
「事前の問診票を拝見させていただいたのですが……。桜井さんはずいぶん、就職活動や人間関係。そして不運な体質でお悩みのようですね」
「……はい。恥ずかしながら」
「失礼ながら。不運なのは、履きものやストッキングからも感じられました。本日は、どうぞリラックスして行ってください」
「うう……。ありがとう、ございます」
 頭上から響く怜の声に、桜井は苦笑する。そう言えば、すごい格好できたものだと。
「では、お顔に触れますね」
 目をつぶる桜井の頬を、オイルが付いた怜の手が触れていく。
(あ、すごい。気持ちいいし、いい香り……)
 顎からこめかみあたりまでを滑る手から、アロマとは違うオレンジの香りがした。
「スッと早く溶けこむ香りの方がよいかと思いましたので。本日はオレンジ・スイートをメインにブレンドさせていただきました」
「すっごく甘くて爽やかですね。心までふわっとして……眠いです」
「ええ。癒やされて、思わず眠くなる作用もありますね。――眠った時に見る夢というのは、香りや触感などによって変わると言われています。どうぞ、ご期待ください」
「……眠ってしまう人も、多いんですか?」
「ええ、非常に。ああ、もし異性だからとご心配なようでしたら、あとで防犯カメラをチェックしてみてください。入口からベッドの頭上――私が座る位置までだけ、映っています」
「……なるほど。着がえとかは映らないように設置してあるんですか?」
 天井に設置してある防犯カメラを桜井が見ると、角度的に着がえなどは映らないようになっているように思えた。
「もちろんです。お互いの身を守るためのカメラ、ですね」
「……では、終わったら確認だけ」
「はい。かしこまりました」
 その言葉に少しだけ安心しつつも、やはりどこか気がかりだ。
(性格もいいイケメンなんているはずがない)
 桜井が生きてきて、学んだことである。
 でも、安心する香りと、やさしく肌を滑る手にはあらがいきれない。
 桜井はウトウトと、夢のなかへ落ちていく――。

『……やっと眠ってくれて、夢に入りこめたか。ずいぶんと疑われておったのう』
『――獏。現実の脳内で笑い声を響かせるのはやめてください。殴りたくなってしまいます』
 クマの体にゾウのような鼻と牙を持ち宙を浮く存在。――獏に、怜は鋭い視線を向ける。
『我にそのように不遜なことをしても許されるのは、お主だけじゃ』
『あなたと一緒にメアを追って七年……。もう七年ですからね』
『――そこの方、集中していますか? あなたの志望動機は?』
 聞こえた桜井の声に怜はハッとゆるめていた神経をとがらせる。
 目線だけで周りを確認すると、スーツを着てパイプ椅子に座る数人。
 向かいには高そうなスーツを着て、履歴書らしきものを見ながら偉そうにこちらを見る桜井がいた。数人の面接官と一緒に、トントンとボールペンの頭で机を叩いて威圧している。
(なるほど。威圧的な面接官と自分を入れ替えたのですね。つまり、これは自分が面接される側ではなく、面接する側になりたい。そういう桜井さんの願望を充足する夢ですか)
 そういうことならばと怜は、いつも通りに演技をはじめる。
『失礼しました。私が御社への入社を志望しました動機は――』
『――嘘つきだ! 逮捕する!』
『は?』
 当たり障りなく、『企業理念に賛同したからです』と答えようとした。そんな怜に、急に桜井はつかみかかり、腕をひねると床へと押しつけた。
『桜井さん、さすがです!』
『怪しいイケメンの逮捕。尊敬します!』
『いやぁ。それほどでもないよ?』
『ぜひ、我が社で働いてください!』
『いいんですか!? やった、内定だ!』
 そこで景色がいれかわった。
 拘束されていた怜も、夢のシーンが切り替わるのに合わせて解放される。
『大丈夫か?』
『ええ、大丈夫です。内定が欲しい、賞賛されたい、就活生は罪人のように可哀想な存在だと思っているのでしょうね。――そして関連性は低くとも、私のことを怪しいと無意識で思っていた。それが結びついた結果の夢でしょうね』
『……おい。笑顔が怖いぞ?』
『気のせいですよ。ただ、ちょっと嫌がらせがしたくなりました。――いくら夢が無意識の集合体で、つじつまが合わないことが多いとはいえども、ね』
『……お主のその笑顔は攻撃的だと忠告しておこう』
『――次のシーンが来ます。夢は待ってくれません』
 それは大学のキャンパス内のように見えた。でも、不自然に時計や本棚が散乱している。
 移動している集団のなかに、怜はいる。
『桜井先輩、おかげさまで救われました!』
『いつも先輩がいるから、うちのサークルはなんとかなってますよ』
『そ、そうかな?』
『先輩のおかげなんですから、自信持ってください!』
『桜井の課題、手伝うからな』
『本当に!? ありがとう!』
 集団の中央でチヤホヤされている桜井がいた。取り囲む集団のなかには、明らかに学生ではない人もいる。おそらくは教授クラスであろう男性だ。それでも桜井は違和感に気が付いていないようだ。
『……なるほど。事前質問にあった通りですね。学業や人間関係、就活で上手くいっていないことが相当にストレスになっているのでしょう』
 ささやくような声で、怜は現状を確認した。
『今回はどうするんだ?』
『この都合がいい夢をひっくり返すこともできますが……。今回は気持ちよく完成させて、ストレスを解消させましょう』
『ほう。よいのか? 夢から抜け出せなくなるかもしれんぞ?』
『ヤツのような悪事はしません。ほどほどにストレスを浄化させたら、目を覚まさせますよ』
『お主のその力――現実で動きながら、触った相手の夢へ入りこめるのは、異常だからな?』
 確認するようにいう獏に、怜は『わかっています』とうなずく。
『夢は、無意識と意識の相互作用がむすばれて形成されます。……特にこの夢は、意識が弱くなった人――疲労している人が無意識の心的過程を描写することによく似ている。意識的に、普段から気にかけている問題へ〈こうだったら〉という心の補償を強く感じます。本当に、つらかったのでしょう。私は――一人のセラピストとして、それが見すごせない』
 そして、集団の中央にいる桜井に近づいていく。
『――桜井さん。あなたが誰かのためにする行動は、きっと返ってきます』
『……そうなのかなぁ? 私、大丈夫かな?』
『大丈夫ですよ。ほら、手には完成した卒論があるじゃないですか』
 怜がそういうと、桜井の手には百枚近い紙の束が出現した。
『おお、これなら問題ない。卒業じゃ!』
『本当ですか、教授!? やった、ちゃんと卒業できる!』
『それもこれも、桜井さんが助けてきた人たちに力を借りたからですね』
『うん! 私、報われた!』
『ええ、人は助け合うものですから。どちらか一方に頼るべきではありませんからね――』
 ――そこまで怜がいうと、世界が消えた。
 最後に怜の目に映ったのは――嬉しそうに泣き笑いする桜井の顔だった。
『……今回はあなたに悪夢を食べさせてあげられませんでしたね。すいません、獏』
『気にするな。こやつにとっては、現実が悪夢のようなものじゃからな。心が潰れないよう、夢で浄化させたお主の判断は正しい』
『……現実では、悲しいほど報われていないのでしょうね』
『あのヒールにボロボロの服。そして事前問診に書かれた、不満だらけの文章じゃからな』
『桜井さんは、夢の世界に囚われてしまいそうです。人一倍努力しても報われない現実に悲観し――甘美な夢を見れば現実に戻りたくなくなる。……そうなりそうに私は思いますが?』
 ゴクッと唾を飲みながら、怜は獏へとたずねる。
 獏は――深くうなずいた。
『うむ。不幸な現実になんぞ戻りたくないとな。こやつは人一倍、真摯な努力をするゆえに、その反動も大きいじゃろうな。我もそう思う。――まさしく、メアが好みそうな人間じゃな』
 その言葉に、怜は拳をグッとにぎる。
 ぷるぷると震える拳が、怜の代わりに心情をあらわしているようだ。
『……やっと、やっと見つけました。――姉に、メアにつながりそうな人を……遂にです』
『お主がそこまで感情を爆発させるのは、初めてあった時ぶりか。七年ぶりじゃな』
『そう、ですね。――それで、マークはどのようにするのですか?』
『うむ。お主と我の力を染みこませた枕があれば、いつでもこやつの夢へ入りこめる』
『……なるほど。それはおまかせください。彼女の夢にいつでも〈訪問〉できるのならば、それ以上の幸福はありません。――では、そろそろ目覚めましょう』
 そうして京極怜は、桜井美穂の夢から現実へと戻る――。

「――桜井さん?」
 やさしく問いかけるような声に、桜井はまどろみから覚めていく。
 目を開けて、自分がなにをしていたのかを徐々に思い起こし――。
「わ、私……。え、眠ってたんですか!?」
「ええ。よほどお疲れだったんでしょうね。十五分ぐらいは眠っていましたよ?」
 桜井はタオルを手に、バッと起き上がる。
 なにかいかがわしいことはされていないかと考えていると――。
「桜井さん、これが監視カメラのディスプレイです」
「あ……」
 怜はわかっていたようにスッと手のひらサイズのディスプレイを取り出した。
「はじめる前にお話した通り、監視カメラを確認しましょうか。……ええっと、こちらが桜井さんがいらしてからの録画ですね」
 そうして、録画を倍速で再生してくれた。
(映ってるのは、たしかに私だ。なんか疑うのが悪いぐらい、ちゃんと施術してくれてる)
 着がえから、桜井が眠ってしまってからも怜は怪しげな動きは見せていない。それどころか、セラピストとして真面目に動いている。
(こうやって証拠を見せてくれるのは安心だなぁ。そりゃ口コミ評価も高いわけだ)
 安心してホッと息をつく。
「――どうでしたか。当店の施術は?」
 怜に聞かれて、ここにきた目的――癒やされたいということを思い出した。
 改めて自分の腕を軽く動かし、頬を触る。産まれ変わったようにぷにぷにと柔らかい。爽快で、心身ともにポジティブになれている気がした。
「お肌すべすべで、すっごく癒やされました! もやもやしていた頭までスッキリです。まぁ、現実的にはなにも解決してないんで、またもやつくとは思いますけど……」
「そうですね。現実でがんばろう、そう思える気分転換になれたようで幸いです。……現実でがんばると、またつらくなる時もあるでしょう。そういう時は、またいらしてください」
「はい、ありがとうございます!……でも、なんでこんな頭が冴える感じになったんですかね? 別に、脳内をいじられたわけでもないのに」
「脳内をいじる、ですか。桜井さんは、本当に面白い表現をされますね。――もしかすると、パワーナップの効果もあるのかもしれません」
「パワーナップ、ですか?」
「ええ。コーネル大学の社会心理学者ジェームス・マース先生の研究から広まった言葉です。人間は眠ってから急速に深い睡眠に落ちます。これには四段階の深さがあるのですが、十五分程度の一~二段階目で起きると、脳内が整理される。それでスッキリ冴えた目覚めになると言われているんです。――あとは、夢も覚えていやすい」
「――あ、そう言えば! いい夢を見られた気がします」
「……それはよかったです」
「あ、ところで――この筆で書かれた文字は、どういう意味なんですか?」
 怜は施術が終わったら教えてくれると言っていた。〈道の雪、川の水、空気の動き、竈の火、人の夢。いずれもすぎたるはなお、及ばざるが如し〉という文字だ。
 桜井が額縁を指さして問うと、怜は――。
「――よすぎる夢から覚めることは、とても不幸な幸福です。……桜井さんにとっては、そういう意味の暗示ですよ?」
「……は、はあ?」
 その口調に少しだけ、無邪気な子供がイタズラをするようなニュアンスを桜井は感じた。
「さて、それではそろそろ着がえて終わりにしましょう。私はまた、奥でお待ちしています」
 意味深な言葉を残して、怜はまた姿を消してしまう。
 首を傾げながら着がえると、手早くお会計を済ませた。
「桜井さん、こちらは特別ですが……。当院の特製枕です。どうぞ、お使いください」
「え、いいんですか?……というか、枕まで作っていたんですか?」
「ええ。HPからもとべますが、通販で販売しています。そちらの売り上げの方が大きいのですよ?」
「……なるほど。だからこんなに施術料金がお安くても、やっていけるのですね」
「そういうことです」
「納得しました。試していい感じだったら友達にもすすめます! 私、友達は多い方ですので!」
「それはよかった。これはみなさんへしているサービスです。あとで読んで見てください」
「へ? あ、ありがとうございます」
 手渡されたのは折りたたまれた手紙だった。
 うろたえる桜井の様子とは裏腹に、怜は微笑みながら――。
「――では、お気をつけて」
 玄関ドアを開きながら、怜はそう言う。
(なんか扉のむこうに行くのが……なごり惜しい。夢の世界から、現実に戻るみたい)
 桜井にとっては、この店――夢現は、まさに夢のように癒やされる場所だった。
「――京極先生、ありがとうございました!」
 玄関ドアを出て行くのを見送ってくれた怜に、桜井は満面の笑みで言う。
 怜は、柔らかい笑みのまま――。
「本日は、夢現へのご来店ありがとうございました。よろしければ、口コミもお待ちしております。それでは――よい夢を」
 もう夜も遅いから、お別れのあいさつに『よい夢を』と言ってくれたのかもしれない。
(でも、どこか――思い出せないけど、なんかひっかかるなぁ。ま、いっか!)
 手渡された手紙を開くと、『あなたがされている苦労が、実を結びますように。助け合いは一方通行では成りたちません。助けてくれる人に助けてといますように』と。
 綺麗な字でそう書かれていた。
(いつの間に書いたんだろ?……でも、嬉しいな。なんか、救われた気持ちっ!)
 ずっと、誰かに言って欲しかった言葉の気がする。心の奥まで見透かされたかのようだ。
 折れたヒールも、面倒なことも――なんてことない。全部なんとかなる。
 どうにもならない時は、助けてきたお返しをほんのちょっともらえばいいんだ。
 そう前向きに考えられた。本当に不思議なぐらい、桜井は昂揚していた。
 ちょっと施術を受けただけとは思えないぐらいのエネルギーが、気力が湧いてくる。
 来院した時の重い足どりや、もやもやする心が嘘のように思える。
(まぁこれからやらなきゃいけないことが残ってるから完璧じゃないけど。――でも、前よりかはずっと楽な気分!)
 桜井美穂は――心が浄化され、悩みからちょっと解放されたようだ。
 軽い足どりで、桜井は自宅へと歩き出す。
 リラクゼーションサロン夢現へ、満足と口コミを書きながら――。