序章

「――僕の世界は、この線香から立ちのぼる煙みたいだよ。まるで夢と現実が溶け合ってるみたいだ」
 仏壇で儚い煙を立ちのぼらせる線香、そして真新しい両親の遺影を見つめ、京極怜はそうつぶやいた。
 両親への報告でもない。ポロッと出たような、力のない言葉だった。
 そっとライターを仏壇に戻すと、仏間で布団を敷いて寝ている姉へと目を向ける。
「いっそすべてが悪い夢だったら、どれだけいいか。父さんや母さんが死んだことも。……姉さんが、どんどん虚ろになっていくことも、すべてさ」
 怜の姉――舞香は仏間の中央で布団に横たわり、起きているのか寝ているのかもわからない。いい夢でも見ているのか、たまに不気味な笑みを浮かべるだけだ。
「最初は、ショックで寝こんでても話ぐらいはしてくれてたのにね……」
 最後に発した言葉は「……いい夢だったのに」。夢現な表情で、漏れ出すような声だった。今ではもう、ほとんど反応すらしてくれない。布団からその身を起こすこともない。
 怜は姉の横へと腰を下ろす。そして片膝を立てて顎を乗せ、寂しげに舞香を見つめる。
「――『いい夢だったのに』……か」
 シンとした仏間、畳。自分ではまったく動かない舞香は、まるで人形のようだ。でも、変化しない人形とは違って、昨日よりさらにやせている。怜は、顔を悲痛に歪めた。
「……必ず姉さんを、夢から覚ますから。また幸せな家庭を作れるようにさ」
 本当にそれができるのか。どうすればできるのだろうか。考えても埒があかないと、怜はガシガシ頭をかきむしった。
「……姉さん。朝ごはんにさ、たまご粥を作ったんだよ。僕が大学へ行く前に食べてね?」
 無理やり笑みを作りながら、茶碗とスプーンを手にとる。立ちのぼる湯気もだいぶ減って、食べやすい温度になっているだろう。
 食べさせようと思い、片腕で舞香の上半身を抱き起こす。日ごとにやせていっているはずなのに、怜の腕に感じる重みは、日ごとに重くなっていく。
(……全部、僕にされるがままじゃないか)
 怜は泣きそうな表情を浮かべた。人形、いや死体のように、だらんとしている。――でも、たしかに生きている。とくんとくんと脈うつ心臓の鼓動――命の証を感じるから。
 スプーンで粥をすくうと、「ほら、姉さん。ちょっとでも食べて」と舞香の口へ触れさせる。香りと感触で食べ物だとわかったのか、舞香は少し口を開き、もぐもぐと粥をくわえた。
「よかった、今日はちゃんと自分で食べてくれるんだね。……トイレも自分で行ってくれたら、僕はもっと喜ぶよ?」
 怜の言葉に舞香は答えず、食べるために口をもぐもぐと動かすだけだ。
「……まさか、この歳で姉のオムツ交換をするとはね」
 悲しそうに微笑みながら、怜は次々と粥をすくっては舞香の口へ運び、食べさせ続けた。
 そうして一食ぶんの粥を食べさせ終えると、舞香をやさしく布団へと寝かせる。
「目が覚めたら……。泡がポコっと弾けるように、この夢も幻みたく消えるんだ。家族とすごす幸せな日々にまた戻れる。……そうなったら、どれだけ幸せだろうね。姉さん?」
 舞香のやせ細った手をにぎりながら、そう問いかける。当然のように、舞香から答えは返ってこない。
「……夢物語のようなつまらない話だったね」
 両親はもう、事故で亡くなった。それから舞香は、ショックのあまり寝こんでしまった。だんだんと起きている時間が減り、今ではご覧の有り様だ。
「おんぶして何度も医者に連れてったのに、原因不明だもんな」
 舞香がほとんど起きなくなってから、怜はいくつも病院へと連れていった。大きい病院で検査を受けている時は、「なにかしら、原因が見つかってくれたら」と願ったものだ。
 そのたびに絶望しながら舞香をおんぶして家へ帰り、今日にいたっている。
「まだ温かい手だね……。姉さん、起きてよ……」
 二十歳という成人した年齢であっても、怜は理学療法士になるため学ぶ大学生だ。アルバイトに勉強に、姉の介護に……。やるべきこと、やらなければならないこと、やりたいこと。忙しさに追われ、弱音の一つぐらい、吐きたくもなる。舞香が生きている証を再確認したくもなる――。

『――あれ、ここは……』
『どうした、怜。早く座りなさい。せっかくの料理が冷めてしまうぞ』
『……え、父さん?』
 死んだはずの父さんの声がした。怜が驚きながら声がした方を振り向くと、リビングテーブルの椅子に座る父がいた。いや、父だけではない――。
『そうよ、今日はみんなが大好きな料理を作ったんだからね』
『怜が食べないなら、お姉ちゃんが食べちゃおうかな』
『コラコラ、舞香。本当に食べるやつがあるか』
『本当にもう、舞香は食いしんぼよねぇ』
『そんなに食べると、太るぞ?』
『年ごろの娘に太るとか言わないでよ! そういうとこだよ、お父さん!』
『そうよ、女の子はちょっとマシュマロボディの方が健康的よね?』
『う……。だ、ダイエットするもん。それに私は太ってない!――怜もそう思うでしょ?』
 ――それは、かつて実際に体験したような食卓の一場面だった。
 テーブルの上には、母が料理したみんなの好物が並んでいる。それだけではない。向かいには死んだはずの両親が、隣にはほとんど眠っているはずの姉が椅子に座っている。怜が求めた、大好きな家族と団らんしている――温かい場面だ。
『……そうだね。姉さんはちょっと、やせすぎなぐらいだよ。ちゃんと食べてね?』
『怜、それは言い過ぎだろ。自分のものは自分で守れ』
『そうよ、怜。自分のものは守らなきゃ』
『怜、私はガンガン食べるよ。もうやせるなんて考えないからね!』
 そう言って、舞香は怜の好物にも手を伸ばし、バクバクと食べていく。それを見て『仕方ない子だな』。『怜の方が大人ね』と笑う両親。怜はおずおずと椅子を引いて座りそうになる。でも、椅子を引きはじめたところで、怜の手が止められる。父と母が椅子から腰を浮かして、怜の手をつかんだからだ。そんな行動とは裏腹に――。
『――どうした、怜。早く座りなさい』
『体調が悪いのね。自分を労って、休むのよ?』
『そうだな。怜は勉強にバイトに介護にと、がんばりすぎているからな』
『そうだよ。怜、休める時は休んで。つらい時は、お姉ちゃんに相談するのよ?』
『……うん。ありがとう』
 幸せに食卓を囲む、暖かい会話だ。夢見心地とは、まさにこのことかと怜は思った。
(こんなにもやさしく、言葉と行動が不合理な世界は――まさに夢のはずだから)
 よく見れば、食卓の中央には線香立てがある。現実ではあり得ないことだ。
(……〈明晰夢〉のおかげか)
 自分が夢を見ていると自覚し、自分の行動をコントロールできる。そんな〈明晰夢〉は、夢か現実か意識したり、夢日記をつけることで身につくことがあるらしい。
 両親を亡くしてから、怜はいつの間にかその明晰夢を身につけていた。
(今、僕は夢を見ている。そうだよな?……現実に戻らなきゃ)
 今、自分は夢を見ているはずだ。だから甘美な夢に現をぬかさず、現実に戻らなければ。そう戒める怜に――。
『怜、つらくて苦しいんだろう? そういう時は眠るんだ』
『そうよ。お父さんの子供とは思えないぐらい。がんばりすぎ。最近は睡眠とかの勉強まで』
『色々とはりきってるね、怜。お姉ちゃんが頭をなでてあげるから、少し休みな?』
『そうだな。ちゃんと食べて、ゆっくり眠るんだ。母さんみたいにな!』
『ちょっと、お父さん? 私はちゃんと働いてますからね!』
 怜にとっては本当に幸福な空間――宝石のようにきらめく世界だ。
 あまりにまぶしくて、思わず惑わされそうになる。
『たまらなくやさしい時間だね。……失ってから、ちゃんと気づけたよ』
 目の端に涙を溜めながら、家族をゆっくり見まわす。家族は心配そうに怜を見つめている。
『……これは、僕の願望をみたす――充足するような。そんなやさしい夢なんだよね』
 怜はそうつぶやくと、食卓の中央に手を伸ばす。両親がつかんでいたはずの怜の手には、いつの間にか煙が立ちのぼる線香がにぎられていた。
『でも……現実はこうだよ』
 場違いに食卓の真ん中にある線香立てに、二本ぶんの線香を立てた。
 線香の煙はドンドンと勢いを増していく。
『怜、どうした。早く食べて寝て座って元気に――……』
『自分に素直になって、がんばって休む勉強にバイトも――……』
 煙で隠されるように、両親の顔や言葉はだんだんと不明瞭になっていく。
(これでいいんだ。僕たちは、現実で生きないとだから。……ごめんね、父さん、母さん)
 煙のなかでぼやける両親に心で謝りつつ、怜は隣で座っている舞香へ目線を向ける。
『どんなに心地のいい夢でも、結局は夢なんだ。……ほんの少しの時間、つらい心を安らげるならいいけど。――そこに浸りきっちゃいけない』
 舞香はなにもしゃべらずニコニコと笑っている。不気味な笑みではない、自然な微笑みだ。
『二人は先に、ゆっくり眠っててね。僕や姉さんはまだ生きてるから……さ』
 煙に包まれぼやける両親をチラッと横目に入れると、涙を流し笑っているように見えた。
 もくもくと立ちのぼる煙のように、怜の心に様々な思いが浮かぶ。
(世界がぼやけて見えるのは煙のせいか、それとも涙のせいか。でも、僕は――)
 怜は姉の手をしっかりとつかみ、グイッと椅子から立ち上がらせた。
 困惑しているような姉の表情。そして泣いているらしい両親に、後ろ髪が引かれるような気持ちになる。それでも、怜は――。
『――姉さん。夢だけじゃなくてさ……。現実でもまた、さっきみたいに笑ってよ』
 そういうと、家族とすごすリビングはパッと消えた――。

「――ここは……。畳、仏壇に、寝ている姉さん。……そうか、目が覚めたのか」
 畳に横たわっていた身を起こしつつ、今度は間違いなく現実であることを確認する。手ににぎられている舞香の温もり――生きてる証を感じて、間違いないと確信した。
「……気を抜いて、寝ちゃったのか」
 どうやら舞香の隣でくずれるように寝てしまったらしい。色々と限界に近い証拠だろう。
 怜はふっと、もの悲しげに微笑えんだ。
「なんて惨めなんだろう……。それでも、僕は諦められない。――絶対に姉さんを目覚めさせるよ。父さんや母さんは死んじゃったけど、姉さんはまだ生きてるんだから」
 ずっと寝不足で過労のせいだろう。最近ではちょっと気をゆるめれば夢の世界へと引きずりこまれてしまう。怜は片手で強く鼻の付け根をもみ、痛みによって眠気をふきとばした。
 そっと姉の手を離してスマホを手にとる。
 電源を入れると、四月一六日という日付がディスプレイのロック画面に表示される。滑らかにスッスッとパスワードを入力すると、怜はメモ帳を開いた。
 夢と現実をハッキリ区別するため、夢で見た内容と現実を日記帳のように書き記している。
「この習慣も、ずいぶん長くなったな。……おかげで、いつの間にか〈明晰夢〉まで見られるようになったんだよ。姉さんもさ、夢から現実に帰ってきてよ……」
 舞香は夢現な様子で、目を閉じたまま力なく微笑んでいるままだ。
 舞香の頭をそっと一なですると、怜はゆっくり立ち上がり仏間を出て行く。
「もっとしっかりして、家族を守らないとダメだよな……。姉さん、行ってくるよ」
 仏間のドアを閉めながらいう。どうせ答えは返ってはこないとは知りつつもだ。
 それでも、怜は声をかけたい。奇跡が起きて、舞香が目を覚ますかもしれないから。
 玄関に置いていたカバンのなかに講義で使う医療系の教科書。それと電車内で読む夢や睡眠に関する本が入っているのを確認した。
 まとまって三時間以上眠る暇もないからか、少しでも気がゆるむと寝てしまう。
 大学からの帰り電車で、つり革につかまっていたはずなのに、気が付いたら床にくずれて寝ていたほどだ。その経験があってから、怜は電車内では本を読むようにした。
(眠ったままな姉さんの状態がわかるかもしれない。だから睡眠とか夢をもっと勉強したい)
 怜はその願いから、フロイトやユングといった睡眠や夢分析で有名な心理学者。そして眠りや夢に関係する本なら、誰かれかまわず読んできた。
 今日は誰の本を読もう。そう考えながら、怜はカバンを背負い、靴を履いた。そうして玄関のドアに手をかけ――。
「……目の下、クマがひどいな」
 玄関鏡に映る自分の顔を見て、力なく微笑んだ。
 人事をつくして天命を待つ。そういうが……人事をつくしても、どうにもならない。このままでは、舞香の死を待つばかりだ。
「神様がいるなら……知恵でも力でも、なんでもいい。助けてください」
 時間を作り、ずっと通っている神社。そして教会を思い浮かべながらつぶやく。
「……どうやら神様は、僕の夢を叶えてくれないらしいけどね。人の夢と書いて、儚いか……。それでも――僕は姉さんを目覚めさせたい。人にできることを全部して、祈るしかない」
 残された家族――舞香の目を覚ます。そして、笑い合う生活をするという儚い夢だ。
 楽しい過去と、寂しい今を感じる自宅の玄関ドアを閉め、カギをする。
 そうして、怜は今日も大学へと行く――。

「――神様。どうか、どうか姉をお救いください。眠りから覚ましてください」
 怜は大学からの帰り道にある神社へ寄り、手を合わせて祈る。そうかと思えば、アルバイト先への通り道にある教会を訪れ――。
「――神様。どうか、どうか姉をお救いください。眠りから覚ましてください」
 神社での願いとまったく同じようにそうつぶやく。
 一つの宗教や神様を信じる人が見たら、腹を立てる光景だろう。
 それでも、怜は姉のために願った。眠ってばかりになってから、雨の日も風の日もだ。
 どこの病院に連れて行っても、舞香は栄養がたりない以外の問題が見つからない。点滴で栄養を補給して、帰るだけ。家で怜ができる世話や、自分で調べられる努力はしている。
 それでも舞香は衰弱していく。眠ったまま、死への階段を着実にのぼっていく。
「……ありがとうございました」
「神の加護があることを祈ります。……自分の体も大切にね」
 教会の神父さんへ頭を下げ、怜はアルバイト先へ向かう。
 怜は焦っていた。両親が単独の交通事故で亡くなり、保険金はかなり入った。でも、自分の学費と舞香の治療費を考えれば、まったく余裕がない。
「卒業して働けるまで、あと二年か……」
 誰もいない道を歩きながら、独り言をつぶやいて眠らないようにする。
 怜は大学三年生へ進級したばかりだ。四年制大学だから、ストレートで国家試験に合格しても、理学療法士として働けるまであと二年間はかかる。
「退学して働きたい。でも……」
 それは両親も願っていない気がする。なにより――。
(いつかの夢でも見た。――財布を見ている僕に、教科書を見ながら泣いてる両親の夢だ。これは夢分析的に見ると、教科書を大学と置き換えているんだろうな。たぶん、僕は心のなかではこう願ってる。お金を気にしながらも、父さんや母さんに大学で勉強させて欲しいと泣きながら願ってる。そういうことなのかな?)
 独学なうえ、夢現な状態で覚えた知識だ。あくまで、こうだろう。こうでありたい。そういう気持ちがまじっている、素人のなんちゃって分析だ。
 ただ怜はこうも考える。この夢は意識的にたりないと思っているところ――大学に通いたいと願いながらも迷っている。そんな優柔不断な決断を夢で補償してくれたのかもしれないと。あるいは、展望的な夢としてとらえるべきか。いわゆる〈夢のお告げ〉というやつだ。
 もしそうだとしたら、気をつけなければならない。仮にこれで上手くいったら、夢で見た通りにやったから上手くいった。そう勘違いして、予知夢のように思うかもしれない。そうして〈夢のお告げ〉のみを信じるようになったら、現実では終わりだ。意識的に自分で考える努力をしなくなって、〈夢のお告げ〉を待つばかりになってしまう。
 そうならないよう気をつけなければ。改めて自分でがんばるぞと気を引きしめると同時に、怜はこの夢を見て、分析できたことに感謝していた。
 お前はそれでいいんだ。お金は気にしつつも、自分のなりたかった――人を笑顔にできる職業についていいんだ。そう両親が言ってくれてるようだから。
(人を笑顔にできる職業……。別にいくらでもあるから、理学療法士じゃなくてもいいんだけど。エステティシャンでも、マッサージ師でも。なんでも……)
 怜としては、職業にこだわっていない。自分のするなにかで、人が笑顔になる。それを目の前で見られるなら、それでよい。それでも、ここまでがんばってきたからには卒業したい。それに、食いっぱぐれないだろう国家資格が欲しい。
(あと……両親が入学金を払ってくれたのに、ムダにしたくない。そのお金だって、二人ががんばって生きてきた証だと思うから)
 それこそが、偽らざる本音だった。
「お疲れさまです。今日もよろしくお願します」
「京極さん、お疲れさまです」
 あれこれと考えているおかげで夢の世界に落ちることもなく、怜はアルバイト先のコンビニへ着いた。
 大学が終わったあと、舞香に夕食を食べさせてオムツ交換や着がえもした。それから教会に寄ってきたから、時間としては夜となる。時給と都合がよいから選んだ夜勤だ。
 人によっては、祈る暇があったら寝ればよいのにと思うだろう。
 怜だって理性ではそうするべきだと思っている。
 それでも、どうにもならない現実に身を置いていると――神様のように超越的な、奇跡を起こしてくれそうな存在に祈らずにはいられなかった。
 そうして太陽がのぼり夜勤を終えれば、また舞香の世話をしてから大学だ。
 ゆっくり死へ沈んで行く姉を止める。京極怜の一日が、またはじまる――。

「――姉さん、一緒にお祈りへいきましょう」
 スッカリ暑くなってきた六月の、よく晴れた日曜日だった。
 少し前とは別人になったかのように、丁寧な言葉づかいで怜はいう。決まった睡眠の時間もないから、日付の感覚もあいまい。自分が変わってしまったことですら無意識らしい。
 今は舞香の昼食の世話を終えた時間だ。夕食までの間に、怜はふと教会へ祈りに行こうと思いたった。勉強をするのもありだ。でもそれは、夕食を食べさせ、夜間着に着がえさせてからの方がまとまった時間がとれる。
 それに――。
(……祈りたい。なにか頼る場所がないと、私まで壊れそうです)
 あれから何度も、怜は舞香を病院に連れていった。そうして、医者に「入院させた方がいい」とハッキリ告げられたのだ。
 実際、舞香はどんどんと衰弱してきていて――両親が亡くなる前の美貌が嘘のように、肌もボロボロになり、やせこけた。入院させた方がよいと理解はしつつも、病名がわからないんじゃどうせ治せないだろうという思いがごちゃ混ぜだ。
 舞香はもう、反応がほとんどない。不気味に微笑むこともなく、寝たきりに近い。食事はなんとかとってくれる。でも目は覚まさない。スッカリ夢の住人になってしまったようだ。
(医学でダメなら、神頼み……。それしかできないのが歯がゆいですね)
 胸中ではそう考えつつ、怜は初めて舞香をおんぶして教会へ連れて行くことにした。
 ハネのように軽いとまでは言わない。でも、子供を背負っているような軽さだった――。
「――京極くん。大丈夫かい? そちらの方は?」
「……神父さん。こちらは姉の舞香です。今はちょっと、お話ができないので代わりに紹介させていただきました」
「それはまた……。病院へ連れていった方がいいんじゃないかな?」
「いきましたよ。何度も」
「……入院とかはしなくていいのかい? 私の目には、とても一人でお世話ができるようにはみえないのだけれども」
「今のところは、かろうじて大丈夫です」
「しかし――」
「――神父さん。一人で暮らす一軒家ってのは……大きすぎます。ただいまと帰って、誰もいない大きな空間は、詰まった思い出に対して、あまりにギャップがあるんです。……私は、希望もなく一人で、そんな空間にいることに耐えられない。だから、できる限りのことをしたいんです」
「……そうかい。どうやら、私は余計なことを言ってしまったようだ」
「……すみません、またお祈りをさせてください」
「――いいよ。二人ともこちらへ。この時間は、日曜礼拝もやっていないけど」
 先導してくれる神父。怜は背中からずれ落ちそうな舞香を「よいしょ」と背負いなおした。不安そうな神父の後ろをついていきながら、返事をする。
「すいません。私が神に祈りを捧げる理由は、みなさんと違い利己的なものです。だから私は、みなさんと賛美歌や朗読をすることもできません。それは、説教をしてくださる方や他の方、そして信仰や神様への無礼にあたると思いますので……」
「……そうかい、残念だ。それにしても、京極くんはずいぶんと敬語ばかり使うようになってしまったね。以前は自分のことを僕と言っていたのに」
「……そうですね、無意識でした。言われて初めて気づいたぐらいです。……おそらくですが、区別をつけるのが面倒になってしまったからだと思います」
「……区別が面倒?」
 むずかしい顔をしている神父に、怜は力なく微笑みながら――。
「――そうです。敬語を使う場面も、プライベートも。夢と現実の区別も、なにもかもです」
 そう言い切った。その笑みは目が虚ろで、疲れ果てているようだ。神父の目には怜が――夢遊病のように映った。
「京極くん、きみは少し休んだ方が……」
 思わず説教をしようとするが、怜が頭を下げて礼拝堂へと進むと口をつぐんだ。
 礼拝堂のなかは、窓ガラスの陽射しをめいっぱい取りこみ、とても明るい。規則正しく並ぶ木製の長椅子が、中央の身廊を際立たせている。身廊を進んだ一番最奥、高い位置には十字架。そして青をベースにする美しい幾何学模様のステンドグラス。太陽の光でステンドグラスの模様が明瞭に映しだされ、ガラスに吸いこまれるような神秘性を感じさせる。
 怜はいつものように身廊を進み、壇上へ続く階段の前で片膝をつく。舞香の温もりを離したくないから、舞香は膝をたたんで怜に覆いかぶさるような姿勢にされている。
 そうして、舞香がずり落ちないようゆっくり手を組み目をつむると、怜は神へと祈りはじめた。信仰的にはこの上なく無礼だ。それは深く謝罪するし、どんな報いでも受ける覚悟だ。
(とある宗教の偉い人の誕生日を祝ってパーティーをして。かと思えば、その一週間後には違う宗教の習わしで鐘をついて。その足でまた違う神様に手を合わせてお参りをしている人が多いんですから。節操なしなのはいまさらです。どうか、許していただきたい)
 一貫してないとなじられてもよい。残された家族――姉が救われるなら、なんでもよい。
 どこの神様でもかまわない。信仰を忘れられた古い神様でも、異国の神様でも。そして――。
(どうか私の姉を、夢の世界から覚ましてください。どうか姉を――)
 ――救う力をください。
 
 そう願った時には――夢の世界に落ちていた。
 暗闇のなか、揺らめく小さな火が二つある。
『……これは夢のなか、ですね』
 明晰夢を見られる怜は、すぐに自分が眠ってしまい、夢を見ているのだと理解した。さっきまでいたはずの場所と、今いる場所が違うからだ。
(もう〈明晰夢〉にもなれたものですが……。まさか、お祈り中に寝てしまうとは)
 自分のしてしまった失態に呆れてしまう。
(あの火はなんでしょうか……?)
 揺れる明かりを見つめていると――フッと息を吹き出す音とともに、火が消えた。
 そしてパッと昼のように明るくなると――。
『――舞香、誕生日おめでとう!』
『これで舞香も成人ね。本当、長かったわ。本当に、おめでとう』
『えへへ、ありがとう。これでお酒も飲めるんだよね。楽しみだけどちょっと怖いな~!』
(ああ、これは姉さんが二十歳になった誕生日ですか……。本当に、懐かしい)
 現実で体験したことと、ほとんど同じだ。怜は誕生日ケーキを囲んで座っている。まわりを見ると、壁にはホームパーティー用の飾りつけがほどこされている。
『ほら、赤ワインだぞ舞香。ほんのちょこっと、なめるぐらいからな?』
『わ、わかってるよ。――にがっ! なにこれ、ジュースの方が美味しいよ』
『ふふっ。お酒飲みはじめはみんなそういうのよ?』
『懐かしいなぁ。父さんも初めてビールを飲んだ時は、一生美味さがわからんと思ったな』
『ええっ!? 今では毎日のように飲んでるのに!?』
『そうよ。怜もいつかお父さんみたいに、飲んだくれになったらどうしようかしら?』
 ここで怜に会話がとんできた。
 夢のなかでは、基本的に自分が主役となる。稀に客観的視点から見るものもある。でも、自分が登場しているからには、主役である自分が夢の物語を進めなければいけない。家族は怜をジッと見つめて答えるのを待っている。
(どう答えたものか――)
『――怜はそうはならないってさ!』
『ぇ……』
 隣に座る姉――舞香が自分の代わりに答えた。それは、現実世界で怜が答えたのと同じ答え。
『怜、父さんの夢はな、息子と酒を飲みながら語り明かすことなんだ』
『もう、お父さんってば結婚する前からそんなことを言ってるわね?』
『いいだろ。できれば、怜が結婚相手を連れてきてな。和室で顔合わせして、その夜がいいな。結婚するということだとか、親になるってことだとか。結婚相手のよいところなんかを酒のつまみにしたいんだよ』
『あ、いいわね。その時はお母さんも飲むわよ?』
『ええ、ズルい! それなら、私もお酒飲めるようになる! 酔ってべろんべろんでのろける怜を、からかってやりたい!』
(これは現実じゃない、夢から覚めろ!)
 目を覚ますように心で願っても、夢が終わらない。
(おかしい、いつもはこれで目が覚めるのに!?――夢を自覚して、覚めろと願えば!)
『姉さん、僕をからかわないでよ。僕は父さん見たくべろんべろんにはならないから』
 怜が意識をしていないのに――声が出ていた。話そうなどとはまったく意識していない。それどころか、違うことを考えていた。それなのに――自分の体が動いた。
(なんだ……なんだ今のは。私は――勝手にしゃべらされたのですか!?)
 夢ならば、自分の思い通りにならないことの方が本来は当然だ。でも、〈明晰夢〉を見られる怜は違う。夢のなかの自分をコントロールすることができる。
 なにより――。
(これがコントロールが効かない夢であるならば、夢だと自覚できるのはおかしい!)
 〈明晰夢〉なら、夢だと理解してコントロールできる。〈明晰夢〉でないなら、これが夢だと理解すらできない特性がある。物語の登場人物として、無意識に動いているはずだった。
(これは、どうなっているのですか!?)
『姉さんはまず、お酒を飲めるようになってから言ってね』
 間違いなく夢だと理解している。でもコントロールが効かない。
 これではまるで――。
(――まさか、これは姉さんが見ている夢のなか!?)
 あり得ないことだとは思った。でも、自分は今この瞬間も勝手に口を動かしている。それに、この夢の物語を進行させているのは、舞香だった。
 舞香の脳内記憶領域には、怜がなんと答えたかが無意識で眠っていることだろう。
(私が……入りこんだ? 姉の夢に? いったい、どうやって?)
 疑問がつきない。戸惑いながらも、舞香を主役にした物語は進んで行く。
『お姉ちゃんをバカにしちゃダメだよ? 今日は私が主役だからね、生意気な弟はこうだ!』
『いてて! 姉さん、ヘッドロックは痛いよ、ギブギブ!』
『ハッハッハ。二人は仲がいいなぁ』
『もう、お料理はこぼさないようにじゃれるのよ?』
『父さんと母さんも、見てないで! 姉さんを止めてよ!』
『もうお姉ちゃんをバカにしないと誓うか!? 誓うのか!?』
『誓う、誓うから!』
『よ~し、いい子だ』
 姉に腕で強くしめられ、乱れた髪を怜が手ぐしで整えていると――。
『ごめんね。お姉ちゃんも手伝ってあげる』
 お互いの息がわかりそうな距離に、舞香の顔がきた。
(――姉さん? その目は……)
 急速に、怜の心が落ちつきを取り戻していく。
 怜の記憶にある姉の瞳は力強く、キラキラと輝いていた。
(……姉さんの瞳は、もっと力強くて美しかったはずなのに)
 それなのに、今の姉の目は――。
(まるではてしない闇です……。星も月も、太陽すらない宇宙のような。――こんなにも、なにもかも飲みこむような暗い瞳を、姉は絶対にしないッ! いったい――)
 はらわたが煮えくりかえるほどの怒りを感じる。怜は夢のなかの自分に『動け!』と強く命じる。そして、遂に怜の震える手が舞香の手をガッとつかまえ――。
『……おまえ、だれ、だ?』
 たどたどしい口調ではある。それでも、自分を動かすことに成功した。
 手をつかまれた舞香は目を丸くして驚愕し、『離せ!』と怜の手をふりほどこうとする。
 それでも、怜の手は離れない。力を入れている感覚すらないというのに。
 そればかりか――。
『ぐぁあああ! 熱い、熱いッ!』
 舞香の腕がドライアイスが溶けるような音と、スモークをあげている。遂には怜がつかむ場所が溶けはじめ――。
『ちぃっ! なんだ、コイツは!?……イヤな古い神の力を感じる。クソがッ!』
 ――悪魔に姿を変えた。二枚の黒い翼に、馬の尾が生えた女性のようだ。
 まわりの景色が止まった。怜も動けない。
(なんで……!? 動きなさい!――動け!)
 どれほど強固な意思をもってしても、今の怜は動けない。
 この停止した世界で動いているのは、悪魔だけだ。
 バサッと翼を広げると、宙を舞い――。
「ハッ! どうせこいつの生気はほとんど喰らったしね。ワタシは逃げさせてもらうよ!」
 待て。そういう間もなく、悪魔は翼をはためかせ――夢と一緒に、パッと消えた。

「――はぁ、はぁ……!」
「おお、京極くん! やっと目を覚ましたか……。よかった、本当によかった」
「……神父さん?」
「こんなに冷や汗をかいて……。よほど、悪い夢でも見たんだね」
 自分を見上げている神父に、怜は気が付いた。
(そうですか。私は、お祈りしながら眠りに――)
 ――そして、先ほどの夢のことも思い出した。
「悪魔は!? 姉の生気を喰らったという……!?」
 バッと身を起こして周囲を観察するが、悪魔なんてどこにもいない。
 舞香が、怜の背中から落ち床で横たわっているだけだ。
「姉さん!?……よかった、息をしていますね」
 慌てて這いより、息を確認する。弱々しくも、すーはーと息をしているのが聞こえた。
 ホッとする怜の肩に、ぽんとやさしく手を置く感触がした。
 ふり返ると、悲しそうな顔をした神父がいた。
「……すいません。みっともないところをお見せしました」
「悪魔……とは?」
「いえ……。それは」
 怜の脳裏に思いだされるのは、姉を演じていた――女性型で、馬の尾を持つ悪魔だ。
「京極くん、やはりきみは疲れているのだろう。無理をしすぎては、悪い夢や幻覚も見るよ。長い人生、休んでいる暇なんてないと思うかもしれない。だけどね、まったく休まずに走り続けては、限界がきて動けなくなるものだ。適度な休憩、そして適度にがんばることだよ?」
「……はい。もう、家で休もうと思います」
「うん、それがいいだろう」
 舞香を背負い、怜は教会を出るために歩き出す。いったい、あれはなんだったのかと考えながら、耳元で聞こえる呼吸音に安堵していると――。
「――京極くん」
 教会の敷地から出ようとした時、神父に声をかけられ、足を止めた。
「どうにもならない時は、足を止めて周りを見渡してみなさい。きっと助けてくれる人がいる。人は協力し合って、社会で生きていくものだから」
「……はい。ご迷惑をおかけしました」
「そういう時は一言、ありがとうでいいんだよ」
 神父は、人を安心させるようなやさしい笑みを浮かべた。怜は「ありがとうございます」と言いなおし、再び歩きはじめた――。

「……あの悪魔、姉さんの生気は喰らったとか言ってましたね」
 姉を仏間の布団に寝かせたあと、怜は隣で膝を抱えて座りこんでいた。
 どうしてもあの夢、そして悪魔のことが忘れることができない。
(あれは本当に姉さんの夢だったのでしょうか? だとしたら、あの悪魔はいったい?)
 静かな仏間で、思考の海に深く、深く沈んで行く。
 そうして考えていても、答えはでない。耐えがたい睡魔と闘い、コクっコクっと首を落としては上げてを繰りかえした。
(下手な考えをするぐらいなら……。バイトまでの間、少し眠るとしますか)
 スマホのアラームをセットし、怜はバイトに行くまで、仮眠をとることにした。
 二階にある自室のベッドで寝てしまうと、気持ちがよくて寝過ごすリスクがある。怜は硬い畳に寝そべり、スッと吸いこまれるように眠りに落ちていった――。
 
『怜、お父さん、痛いよ。苦しい。……熱い。なんで燃やしたんだ?』
『――と、父さん?』
 火葬場――虚ろな姉と一緒に、父の骨を拾っている場面だ。
 姉と一緒に箸を持ち、骨を持ち上げようとすると、骨から父の声がした。
(これは夢、夢だ!)
『怜、そうやってまた夢から逃げるのか?』
 怜は〈明晰夢〉から覚めるため、これは夢だから起きろと言い聞かせようとした。でも、それを察知したかのように、父の咎める声が聞こえた。
『ちが、違うんです父さん。私は逃げようとなんて……』
『――じゃあ、なんで父さんは燃えたんだろうな』
 バッと後ろをふり返ると、火葬まで家にいた――白装束姿の父が立っていた。
『わ、私……。いや、僕は――』
『――そんなつもりじゃなかったのよね?』
『か、母さん!?』
 母の声がした方を振り向けば――。
『お母さんもね、骨になっちゃった。熱かった、苦しかったのに……』
『ち、違う。違う違う! 僕は、二人を成仏させたくて、ズッと一緒にいたかったけど、でも――』
『そうやって、お姉ちゃんも燃やすんだよね?』
『――ぇ。ね、姉さんッ!?』
 残された大切な家族。舞香の声に目を向けると――布団で眠っていた時のようにやせ細った姉が立っている。そして徐々に肉がなくなっていき――。
『ほら、こうして……。私も焼いちゃうんでしょ?』
『そ、そうならないように全力をつくして――』
『――やってきたつもり。それで、罪悪感を消してるんだよね?』
『そんな、そんなことは――』
『でも、怜はもしかしたらお姉ちゃんが死んで、骨になるかもしれないと思ってるよね?』
『あ、ぁあああ……。ぁ、炎が……に、逃げて――』
 舞香が炎に包まれた。肉が溶ける、イヤな臭いを発しながら骨になっていく。
『――熱い、熱いよ! イヤァアアアッ!』
『ね、姉さんッ!?――ぁ、ぁあああ……』
『熱いのはイヤ。イヤだよ、怜……。なんで、なんでお姉ちゃんを燃やすのッ!?』
『――も、もうイヤだ、見てられない! なんて悪夢だ、覚めろ覚めろ覚めろよ! 早く!』
 怜はギュッと瞼を閉じてうずくまり、震えた。
『怜。父さんの夢を覚えてるか……。お前と飲み明かしたかった。なのに、なんでだ?』
『母さんは怜にひどいことした? したんでしょうね。だってこんな仕打ちされるんだもの』
『お姉ちゃんを入院させないのは、自分でがんばってる。なにかしているって思いたいからでしょ?――だから、このまま部屋で死なせるんでしょ?』
『違うよ、みんな……違うんだよ!』
(――これはしょせん、夢だ! 夢分析で考えろ! みんなを火葬したくなかった。本当はズッと一緒にいたかった。姉さんを入院させて、目がとどかないところで死んでしまうのが怖い。父さんや母さんが知らないうちに死んでた時のような思いはもうイヤだ!――そう思うから、だから目の前で焼かれて死ぬ悪夢を見ているんだ!)
 ガチガチと震えながら、うろ覚えの知識をしぼり出して正気を保とうとする。
 それでも、三人の声が徐々に耳元へ近づいてきて――。
『怜、どうしたんだ。ちゃんとこっちを見なさい』
『そうよ。あなたがしたことの責任に、向き合いなさい』
『ああ、お姉ちゃんも――』
 ガチガチと震えながら耳を押さえ、目を閉じていた。
(早く覚めろ! 早く、こんな悪夢――)
 ――そして、ふっと音がしなくなった。
(……ぇ?)
 涙でぐしゃぐしゃな顔のまま、怜はゆっくり顔を上げてあたりを見渡すと――。
『ふう。……これまた、我の腹をみたすほどの悪夢であったな』
 クマのような体に、ゾウのような長い鼻と牙を持つ生物が白い世界に浮かんでいた。大きさとしては、カラーコーンぐらいだろう。
『あ、あなたは……?』
 ガチガチと震える声音で、怜が問いかけると――。
『む、我が喰った悪夢に残滓じゃと?……お主からは、古い神の力を感じる』
 クンクンと長い鼻を怜に近づけ、その生物は――。
『……我が追っている〈メア〉の臭いがするな。……覚えはあるか?』
『め、メア……?』
『そうじゃ。馬の尾を持つ女の悪魔じゃ』
『そ、そいつは……寝たきりの姉に化けていた悪魔、です』
 竦みながらも、怜がそう返す。すると――。
『――姉に、か。……なるほど。メアに夢へ囚われ、生気を喰われたようだな』
 謎の生物は『ふむ』と思索にふける。そして、ニヤリと笑った。
『我とお主の目的は一致しているようだ。――お主の姉、救えるかもしれんぞ?』
『ほ、本当ですか!?』
『本当だ。だが、お主の力を借りる必要がある』
『わ、私は……なんでもします!――それで姉が目覚め、助かるなら!』
『……よい覚悟だ。では、よろしく頼むぞ。勇気ある者よ』
 愉快そうに、その生物は身をひるがえした。
 怜は去ろうとしている生物へと大急ぎで手を伸ばし――。
『なんだ?……むっ。熱い、肌が焼けるッ。なんだ貴様の手はッ!?――離せ!』
『やっと見えた救いなんです。決して離しません! あなたのお名前を教えてください!』
『ええい、教える、教えるから離せッ! わ、我は――』
 ――悪夢を喰らう存在、〈獏〉だ。
 たしかにそう、耳にしわがれた音がとどいた。
 絶対に忘れないと脳に焼きつける。
 そうして京極怜は、夢から現実へと舞い戻る。一筋の希望を手にして――。