「なるほど。つまり、義兄さんや花宮貴子先輩は、世界が変質したと言いたいのかな?」
 半狂乱状態になった花宮と、教室で話しを続けるわけにはいかなかった。
 人……と言うかカメレオンどもが集まってきそうだし。知名度がない俺と違い、花宮は有名人だ。学園のアイドルを泣かしている体がでかいぼっち男。
 そんな光景が目撃され拡散に至れば、自ずと無名だった俺の名は広まるだろう。『最低最悪の男』という悪名がね。
 そんな心臓に悪い展開にはなりたくない。だから俺は花宮を連れてオカルト研究部へきた。動揺しながらも壊れたように笑顔を作ろうとする花宮を連れて。
 俺が避難先としてオカルト研究部の部室を目指したのには、3つ理由がある。
 オカルト研究部には、義妹の珠姫がいる。逆に他の部員はふだんから見たことがない。つまりは、人目につかない絶好の隠れ場所だ。
 そしてここで大きな声を出しても、問題ない。ふだんから珠姫が実験や検証結果で『うっひょおおお』だの『なぜだぁあああ』だのと頻繁に奇声をあげているからだ。少し泣き叫ぶ声が聞こえる程度、誰も気に止めない。なんだいつものことかってな。
 最後の理由は――。
「ああ、俺たちがこうなっている流れはさっきも早口で説明したけど、改めてゆっくり話そう。俺たち2人には、珠姫たちとは世界が違って見えるんだ」
 珠姫は腕を組みながら、俺の前で仁王立ちしている。オーバーサイズの白衣が萌え袖になっているのは可愛いポイントなんだろうけど……カメレオンに見えるからなぁ。俺は特に爬虫類が好きって性癖はないし。まぁ小柄な珠姫がドンと構えていると思えば、微笑ましい。
 軽く頭をなでてやると、『子供あつかいしないでくれ』と払いのけられてしまった。いつもは喜ぶのに、気まぐれだな。
「えっと、初めましてでこんなお話は信じてもらえないのはわかるんだけど……。他にいく場所がなくって。それにこれって、オカルト研究部の得意分野だと思うんだよね」
 ビーカーに入ったコーヒーを前に、銀狐姿の花宮が珠姫へ訴えかけている。狐に変化したばかりの時は言葉にならない単語で喚いていたけど、やっと落ち着いてきたみたいだ。
「……ふむ、確かに。オカルト研究部の分野であることは認めよう」
 ちなみに、ここにあるビーカーなどの実験器具は珠姫の私物らしいんだけど……持ち込んで良いもんなのかなぁ。学園が用意した薬品はここじゃなく、隣の化学室にあるらしいけどさ。
 まぁ入学直後に、高校生による科学技術のコンテストで良い成績を取ったから、学園側も特別あつかいしてるんだろうな。いや、どちらかというと……見て見ぬ振りってやつか。
 下手に首を突っ込んで『もう学園で研究はしない』とか珠姫が言い出したら、学園の名声を気にする理事会とかに睨まれるんだろう。
 そんな面倒ごとに巻き込まれたら、雇われ人の教師たちは困るだろうからな。近づかないのが1番だと思ったんだろう。それが同調圧力として全体に適応されている、そんな感じか。
 いや。今はそんな暗い大人の事情より、お先真っ暗な俺たちの問題だ。話を戻そう。
「俺は『狼』、花宮は『狐』に見える」
「そして、ぼくたち全員――2人を除いた全人類はカメレオンに見えると」
「う……。改めて考えたら、私すっごい失礼なこと言ってるよね。でも、本当にそう見えちゃって、困ってるの!」
「……演技とは思えない、真に迫った姿だね。目の周りが真っ赤じゃないか。泣き腫らして擦ったのだろうことがうかがえる」
「大神くんありがとう! 本っ当にありがとう!」
「カメレオン姿の時は嬉しくなかったけど、叶魅りあと同じ銀狐のもふもふに言われるとかなり嬉しいな。これで頑張ってやらかしたら恥ずかしがったりしたら、グッと心にきそう」
「……花宮貴子先輩、前言を撤回しよう。あなたが女狐だということを、ぼくは確信したよ」
「信じてくれるの!? ありがとう!」
「ええい、早く義兄さんから離れたまえ! くっつく姿をぼくに見せるな、暑苦しい! まだ残暑が残ってるんだぞ!?」
 そんなオーバーサイズの白衣を着てるやつに清涼感を訴えられてもなぁ。手すら出ないぐらい肌を覆ってるのに。グイグイと俺たちを引き離し、珠姫はコホンと咳払いしてからホワイトボードの前へ立った。
「改めて、聞いた状況をまとめてみよう。最初に変化が生じた義兄さん、次に変化が生じた花宮貴子先輩、そして変わっていないと主張するぼくの3段落で視点をわけてみる」
 ホワイトボードの上から順に丸で囲んだ『義兄さん』、『花宮』、『珠姫』と名前を3つ書いた。さらにそれぞれの丸の左隣へキュッキュッと左向きの矢印を書き足している。
「この左矢印は未来へ向かう時系列を示す。スタートは4日前の木曜日、義兄さんから。人類がカメレオンに見えた初日だ。この日に起きたのは、旧校舎での告白イベントと、七不思議にある旧校舎……特に大鏡を見るイベントだね」
「ああ、その時俺は告白を保留にして、旧校舎で大鏡を見た」
「実に忌々しいイベントだが、保留にした理由と大鏡を見て世界が変質した時の状況をキチンと教えてくれないかな。簡潔かつ、ぼくを苛立たせないようにね」
 簡潔に報告を求めるのはわかるけど、なんで珠姫を苛立たないようになんだよ。
 でも、改めて聞かれると……どう言ったものか。
「え? 私がどうかした?」
「いや、なんでもない」
 可愛い銀狐になった花宮をチラッと見ると、彼女は不安気に首を傾げた。等身大でも可愛い獣人姿だ。愛らしくて、ちょっと微笑みそうになる。ウチで飼いたい……という危険な思想はひとまず置いといて、だ。
 さて、告白を保留にした理由である張本人を前にどう説明したものかな。
 まぁ多少、気になる人の説明は濁してもいいだろう。
「手紙で呼び出され、知らない子から告白された。良い子そうだし、付き合うのもありかなと一瞬は思ったけど……集団に馴染む為に利用しているようで気が咎めた。それに、ちょっとだけ気になる子もいるからと考える時間をもらったんだ」
「ちょっとだけ気になる子とは誰かな、義兄さん?」
「それは……恥ずかしいから秘密で」
「……ふん、まぁいいだろう」
 珠姫は乱暴にマーカーペンで書き足す。俺の名前の左に『恥ずべき理由とちょっと気になる人がいるから告白を保留』と。
 もう少し優しい表現はなかったのだろうか。
「それで、旧校舎に入ってからはどうだったんだい?」
「ボロボロな校舎の中で、手入れされているように綺麗な大鏡を見つけた。その鏡を見た瞬間、謎のまぶしい光が起きて目を閉じた。そうしたら、俺も含め人類が全員カメレオンに見えるようになったんだ」
「放置されている旧校舎の中で、綺麗な鏡か。実に奇怪だねぇ、知的探究心をくすぐる」
 さっきの文に『不思議と美しい大鏡』。『謎の光で世界変異』と追加ワードを書く。
「花宮貴子先輩とぼくはその日、特に変化なしと。そして翌日、意志薄弱で情けない義兄さんはどうしたんだっけ?」
「ふ、2人は仲良し兄妹なんだよね……?」
 そこで花宮が俺と珠姫の顔を見比べながら聞いてきた。まぁそういう反応にもなるだろうさ。言葉だけ聞くと会話に棘が多いしな。今の珠姫の表情は、花宮にもカメレオンに見えている。表情変化に乏しいカメレオンの顔色からだと、余計に冷たさを感じるんだろう。
「顔色をうかがうのが得意の花宮でも、カメレオンフェイスの前じゃ形無しだな。心配しなくても、俺たちは仲がいいよ」
「ああ、最高に仲がいい。心配も気遣いも無用さ。それより義兄さん、早くぼくの質問に答えたまえ。知的好奇心が待ったに耐えきれず、暴れ出す前にだ」
「ああ。……その人をどういう風に気になるのかはわからないけど、校訓を聞いて決意したんだ。嫌われるかもしれないけど、青春を生きる人間らしく踏み込んでみようって。だから、告白は断った」
「ふむ、まとめるとこういうことか」
 キュッキュッと『初代学長の校訓で勇気を出し、人間らしく青春したいと心境変化』。『告白を断るという正しい選択』と書き足す。
「そしてこの後だ。もう一度旧校舎に入ったんだね?」
「ああ、旧校舎の大鏡に映る、カメレオン姿をした俺に決意を告げた。そうしたらまた光に包まれて、今度は鏡に狼が映っていたんだ。周りは変わらずカメレオンに見えるけどな」
「なるほど、ね」
 少し悩んでから、『決意の独り言を大鏡に告白後、自身の姿だけ狼に変化』と書き足す。
「土日は何かあったかい?」
「いや……特に大きなイベントはなかった」
「そうかい。ぼくと花宮貴子先輩も同様だ。ぼくたちの矢印は、そのまま今日まで伸ばしていいね」
 2人の名前の隣に書かれていた左矢印をキューッと伸ばしていく。今日まで特に変化なしのまま。矢印が小刻みに途切れているのは、俺の隣だけだ。改めてそれを見ると、このオカルト現象の中心にいる気がするな。
「そして今日だが……まずは義兄さんから聞いてみようか。その後、花宮貴子先輩だ」
「ああ。俺は決意の通りに行動を初めて……。自分が狼になった理由がわからず、花宮に自分が動物だとしたらどんな動物だと思うか聞いた。そしたら、また大鏡の時と同じように光って……次の瞬間には花宮だけが銀色もふもふ狐に見えるようになっていた」
「私は……それにちょっと付け足すぐらいかな。朝から大神くんが私のことを詮索してるって噂を聞いてね。それで不審に思って放課後、確認してみたんだ。それで、動物じゃなく青春している立派な人間でありたいって答えて。次の瞬間には……」
「自分は狐に変化し、義兄さん以外の人類はカメレオンに見えるようになった。つまり、義兄さんと同じ世界を視認するようになったと」
「そう……だね。うん」
 ホワイトボードに向け手を動かしながら、「ふむ」と思索に耽る珠姫の声が聞こえる。俺の名前から左へ小刻みに伸びる矢印の後に『決意のストーカー開始』、『花宮=狐化』と書く。そして何事もなく伸びてきた花宮の矢印の後に『人間でありたいと義兄さんに語り、認識世界が変異』と書いた。
「そして今に至るわけか」
 最後に俺と花宮の段落から伸びてきた矢印が『狼と狐、それ以外はカメレオンに見える世界』と同じ方向へ向く。珠姫自身の段落は、最後の最後に『2人のオカルト話を聞く』と書き、マーカーペンを置いた。
「――なるほど、見えてきたね」
「本当か? さすがは、俺の天才的義妹様だな」
「むっふっふ。もっと褒めてくれたまえ。具体的には頭をなでるとか」
「はいはい」
 ぴょこんと跳ね、頭をこちらに向けてくるカメレオンの髪をなでてあげる。頭皮までいかないように軽くしよう。ザラザラの皮膚はなでたくない。目を閉じていれば、いつかの人間姿の珠姫を甘やかしている時と変わらないのに……。本当、この異常な世界を早く戻せないかな。
「……あの、見えてきたなら私にも教えてくれないかな?……不安で、動悸がするの」
 左胸を押さえる花宮が、筆のようにもふもふな尻尾を垂れさせている。辛そうな声色に、珠姫も話を継続する。
「結論を求める気持ちは理解するが……結論は仮説検証の先にある。そして仮説を立てるにもさらに情報が必要だ。適当な仮説を立てるのはかえって正解にたどりつくのを遅くする。急がば回れ、というやつだね」
「う、うん。わかったよ。……焦ってごめんね。どんな情報があると、珠姫ちゃんは助かるかな?」
「過去などの背景因子だ」
「――え」
 花宮が目を見開いた。過剰なその反応が、俺にはどうにも気になる。とはいえ、今は珠姫の邪魔をするわけにはいかない。
「今まで、矢印は過去から未来をさしてきたが、同時に過去の差違も探る必要がある。今度は右方向の矢印で、それぞれの過去や背景因子をあげてみるとしよう」
 珠姫は俺たちの名前が書いてある横に右矢印を書き足す。
「本件と関わりがありそうな部分でいい。そうだね、例えば義兄さんなら……ぼっちの一匹狼をこじらせ、自分を見失っていたとかだ」
「なぁ、俺への対応がひどくない?」
「ひどくないね。義妹をないがしろにする義兄のほうがひどい。さて、花宮貴子先輩の過去はどうだい?」
「……言いたくない」
「「え?」」
 消え入りそうなほどに小さな声で発せられた言葉に、俺と珠姫は思わず聞き返してしまった。予想外だ、現状をなんとかしたいと強く願っていたはずなのに……。
「あ、ごめんね! ちょっと私、気が動転してた! 答えられる範囲で、ちゃんと答えるからね!」
 重くなった空気を打ち消すように、すぐ作りものだとわかる笑顔と声音で花宮が訂正した。それはいつもの配信から聞こえる声やテンションと同じだ。
 今の状況だと、やっぱり平静じゃないのか――演技で本心を覆う言葉がわかりやすい。
 これだ。
 例え辛くても、常に演技で本音を隠す。弱さや辛そうな表情を見せたとしても、さっきのように一瞬で笑顔を貼り付ける。長時間外せない呪いがかかった、仮面のように。
 このやり取りで、俺の中に疑惑が湧いた。
 花宮がこう生きている原因は、過去になんらかの辛い体験をしたからではないかって。でも、それは人にとってすごく繊細な部分だ。本当は「過去に何があって人に本音とか弱みを見せなくなったんだ?」とストレートに聞きたい。
 でもそんな聞き方では答えてくれないと理性が止めてくる。0%とは言わないが、ほぼ100%答えてくれないだろうな。さっき珠姫も言っていたように、急がば回れだ。……あと、嫌われるリスクが高いのに答えは返ってこない。そんな分の悪い賭けに出ても仕方がない。うん、仕方がないからここは流そう。
「それで、花宮の過去は?」
「えっと、例に出た大神くんみたいに、だよね。……そうだなぁ、臆病で不安を感じやすいってところかな。うん、それぐらい」
「……そうかい」
 珠姫は何か言いたそうだったが、素直にそう書き足す。不満そうだったのは気になるけどな。この義妹、空気が読めないわけじゃないんだ。きっと本音としては「もっと深い情報をよこせ」と研究者の気質から思ってるんだろう。でも、花宮が話したくなさそうだから突っ込まなかったのかな。よく我慢できました、偉い。
「ぼくの段落は、特になしでいいだろうね」
「――珠姫、それはズルくないか? なんなら俺が書いてやろうか?」
「いいんだよ、余計なお世話だアホ義兄さん! そもそもぼくの段落は、何事もない世界を見ている比較の為に追加しただけだからなっ。そうこだわる必要もないんだ!」
「仲間外れにはさせない。俺が観察した情報を書いてやる。ほら、よこせ」
「余計なお世話だ、仲間外れでぼくは――あ、コラっ。離せぇえええ!」
 俺がマーカーペンを奪おうとすると、珠姫はそうまくし立て、体でペンを守りはじめた。奪い合いで手同士が触れる。ザラッとしたカメレオンの感触に驚き、思わず力を緩めてしまった。……不覚だ。
「ふっふ~ん!――さて、邪魔をする義兄さんも排除したし、精査するか」
 一瞬勝ち誇った顔をした後、ホワイトボードへと目線を向ける。カメレオンの目を細めながら、顎にペン先を当て何かを考えている。こういう真面目な時と、甘えてくる子供っぽい時のギャップだよなぁ。……同一人物、いや同じカメレオンと思えない。
「……ふむ。なるほど」
 珠姫は冷めたコーヒーを啜りながらホワイトボードを眺め、ゆっくり頷いた。
「今のぼくは2つほど仮説を考えているよ」
「すごいな。この短期間で、人類カメレオン化現象の仮説が2つも考えつくのか」
「ふっふっふ。人類変異現象と言ったほうが近しいだろうけどね。1つが、『思考実験』に似たもの。そしてもう1つは……まだ秘めておこうか」
「……秘めておかれるのは気になるけど、まずはその思考実験について教えて欲しい」
「この変な状態から解放されるなら、私はどんなことでも信じるよ!」
 必死に訴えかける狐を少し眺めた後、白衣を揺らしゆっくりと腕を組んだ。
「2人は共通して『人類がカメレオンに見える』と主張している。だが、ぼくには『人類は人間』に見える。これは『逆転クオリア』という思考実験に似ているね」
「逆転クオリア? すまんが、俺たちにもわかるように説明してくれ」
「うむ。そもそも視覚というのは主観的であり、脳がそうだと認識するものだ。ここまではいいかい?」
「う、うん。そこまでは私にも、なんとかわかるよ」
「クオリアという言葉は、なんらかの体験を通し個人に起こる感覚のことを言う。つまり自分だけの体験であり、他者に伝えようとしても正しくは伝わらない。同じものを見るというクオリアをしても、他の人が自分と同じクオリアを得ているかはわからないんだ」
「なるほど。俺でもなんとなく理解できたよ。それで、クオリアさんでもクリオネさんでもいいが……。それがどう、このオカルト現象に繋がるんだ?」
「例えば『1つのリンゴを見る』という体験を2人で共有したとする。だが同じ色に相当する周波数の光を受け取った異なる人間が、1人は『赤い』と主張し、もう1人は『青い』と真逆に言う。するとリンゴの色は共有できず不明だ。2人の認識が異なるから、答えは出ない」
「つまり?」
「――つまり、考えるだけ無意味ということだ。2人が入念に示し合わせて、ぼくをからかっているという仮説だね」
「長々と語ってきて、結論はそれかよ。ふざけんな、俺たちはマジだ。こんな手の込んだ冷やかしなんかしないっつの!」
「そうだよ! これは実際に起きてるし、少なくとも私と大神くんは同じ景色を見てるの!」
「ほう、花宮貴子先輩は、『私だけが彼と同じものを見てるの』とぼくに主張してくるわけかい? 家族であるこのぼくを差し置いて!?」
「いや、だって……それは仕方ないじゃん。不本意でも、同じように見えちゃうんだもん」
「不本意はちょっとひどいな……」
「……2人で示し合わせてぼくをからかっている。これが最有力だと思ったんだがね。だとすれば、もう1つの仮説だ。正直、こちらのほうが楽し――いや、本命だ」
「今、少し本音が漏れただろ?」
「絶対に漏れてないが何か?」
 嘘つけ。謎が深いほど楽しげに笑い心が踊る。それが我が変態義妹、大神珠姫だ。
「こほんっ。本来の哲学的クオリアとは、人間の心さえも全て脳の一部という機能主義の考えだ。残った仮説は――それに反対するものになる」
「反対?」
「ああ、もう一度ホワイトボードに書いてあるものをよく見ようか」
 珠姫はマーカーペンを手に取った。指し棒のように使おうとしているらしい。ちゃんとした指し棒、買ってやろうか。……いや、不要か。そもそも、せっかくの大きなホワイトボードも上は空白だ。
 だって小柄な珠姫じゃ背伸びしても上まで文字は書けないから。
「異変が生じた際に両者の脳内が共通して得た認識がある。それは『世界が変わった』と主張する2人にはあって、『変わってない』と主張するぼくにはないものだ」
「2人が共通して得た認識? なんだ、それは?」
「私たちだけが……?」
 花宮、ちょっと嫌そうな顔してないか?いや、狐の顔だからそう見えるだけで、深く考え込んだ表情なんだろう。そう願いたい。
「そうだね。義兄さんに異変が生じた時、そして花宮貴子先輩にも異変が起きた時に共通した認識――それは、『人間として青春をすごしたい』と願った心だよ」
「……は?」
「そんな心の持ちよう1つで、世界が変化するの?……例えそうだとしても、私は人間じゃなくて『狐』になってるんだけど」
「知らないよ、そんなこと。仮に『なりたい』と思った生物になれるという現象が起きるなら、人間は様々な生物になりたい放題だ。今までに世界で報告がないわけがないだろうさ。だが生憎、博識と言われるぼくでも、こんな報告は初めて聞いたねぇ」
「結局わからないってこと!? ねぇ、珠姫ちゃん!?」
「そんな必死な顔ですがりつかれてもねぇ。この仮説にしても1回目の変異、義兄さんに起きた『人類カメレオン化現象』の原因とは繋がりが薄い。大鏡単体にその者が認識する世界を無作為に改変する力があると断言するのは、原因究明ではなく逃避だしね」
「そりゃあ、そうだ。七不思議にもある、『初代学長の呪い』だから諦めようって結論で終わるな」
「その通りさ。それに、まさか義兄さんとて『俺は人間として生きるのが恥ずかしい。人間なんてみんな、ジャガイモならぬカメレオンになってしまえばいい』。そう大鏡に願い、自ら暗示に陥った結果、視認する世界が変化したなんてことはないだろうしね」
「……いや、確かに俺はそこまでは思ってないけどさ」
 ほんの少しだけ似たことは思ったけどさ。
 不器用でもやりたいことに一生懸命、情熱を燃やして輝く叶魅りあ。その叶魅りあと比べたら、俺はなんて灰色の青春を送ってるんだろうと思い、恥じたぐらいだ。人間として生きるのが恥ずかしいとか、みんなカメレオンになってしまえとまで思ったわけじゃない。俺はそこまでサイコパス思想の持ち主じゃないっての。
「情報が足りなすぎるんだよ。数学の問題でも、未知の情報が多すぎれば解は導けないだろう?」
「……おい、珠姫。なんか投げやりになってないか?」
「そんなことはないよ、義兄さん。要は情報が足りないからこそ、まだ体言化できず未知の状態だという結論さ。オカルトと同じだよ」
 抑揚のない声で珠姫は俺にそう返すと、再びマーカーを握り少し考える。そしてホワイトボードの左端に『人間として青春をすごしたい』と書いて丸で囲った。
「この『人間として青春をすごしたい』というのが、2人が認識を共有する目的地だとする。だが2人は同じ目的地を見たはずなのに、違う動物になるという結果になったね」
「そうだな、俺は『狼』に、花宮は『狐』に。……あ、ちなみに情報を付け足すと花宮は自己分析で『自分を動物に例えるなら、狐みたいだって言ってたかな?」
「あ、そう……だね。狐の性格とか、私に似てるから……だからVイラストにもしたんだし」
 知らなかった。叶魅りあの本音がポロッと出た。ふだんの配信では『狐ってもふもふで可愛いでしょ。みんなに癒やしを届ける銀狐になりたかったの』とか言ってたのに。
 1つ、花宮の本音が聞けた気がする。
「……ねぇ大神くん、なんか嬉しそうな顔してない? 今の状況わかってるのかな?」
「気のせいだ。狼フェイスだからな、認識しづらかったんじゃないか?」
「肝要なのは、花宮貴子先輩が自身を『狐』と評したことだよ」
「……は? 心で思った程度では他の生物にはなれないって、珠姫自身が言ったじゃないか」
「そうだよ。だからこれは未だ仮説止まりさ。だが、変化先はその者の自己評価や気質に近しい動物であると予測できる。そして複数ある未知の要素をXとする。このXの筆頭は現状オカルト要素の塊として怪しさ満点な『旧校舎にある大鏡』ではないかと、ぼくは思うね」
「……あの大鏡か。初代学長が収集したとか言うあれ、やっぱり無視できないよなぁ」
 俺はホワイトボードに複数回出てくる『大鏡』という文字を眺めて、やっぱりなぁと納得する。
 元々、あの大鏡が全く関係ないと言われたほうが信じられなかったんだ。だって、大鏡が光る体験とかふつうはないし共有もできないじゃん。クオリアさんだかなんだか知らないけど、証明不可能なんだよ。ふつうじゃないこの状態に関与してなければ、逆におかしい。
「……最初に大神くんの世界が変わった時に見たもので、学園の七不思議にも出てくるやつだよね。で、でも私は……その鏡を見てないよ?」
「そう、大鏡は義兄さんのみが見ている。だが鏡面と同じように……人の視覚的認識とて、物体に反射した光の周波数がレンズや硝子体を通り、脳内に映し出されたものだ」
「俺の脳レベルに合わせて、わかりやすく日本語でお願いします」
「つまり義兄さんの瞳は、なんらかの影響因子Xにより――大鏡と似た性質を得た可能性がある。そもそも視覚認知なんてのは答えのない『逆転クオリア』と同様に、個人が得た虚像である可能性もあるんだ。もっと簡単に言えば、『人の見てる世界が自分と同じとは限らない』といったところかな」
「そんな、いくらなんでも……」
 花宮が信じられないとばかりに、俯く。
「なぁ、珠姫には信じられないかもしれないが……俺たちに起きていることは事実なんだ。結局、解決に繋がりそうなものはないのか?」
「可能性があるとすれば、数多ある影響因子Xを地道に究明していくことだろうね。言っただろう、情報が足りなすぎるって。そもそも大きな謎を解くには、関与するものを地道に解き明かす必要がある。わかりやすく言うと、『地球誕生』に対する研究が、原因はこれだ!――となかなか明確に立証されないのと似ているかもね」
「私には、全然似てるように感じないんだけど……。でも、そういうものなのかな?」
「大きな謎を解く為には、繋がる小さな謎を1つずつ解き明かしていく必要がある。それに仮説の正しさを評価するには、多大な回数と様々な方向からの検証が必要なんだ。数々の研究で立証された論拠なく、一足飛びに大きな謎を解明するなんて夢物語さ」
「……必要なのは、情報と実験か」
「その通りだね。今ある中で結果に影響を及ぼしそうな、独立した変数Xの候補は『人間として青春をすごすという目標』。『どんな動物だと自己分析しているか』。そして『謎の大鏡か義兄さんの視認』といったところか。……心などという、不確実な要素が関与することばかりだ。故に、未だオカルトにすぎないんだよ。あるいは『初代学長の思惑や呪い』なんかも加えていいかな。これはかなり大きな問題で、先行研究がない故に――原因解明には時間がかかるだろう」
「……そんな、じゃあ私はずっとこんな異常な世界で生きなきゃいけないの?」
「それはわからないさ。異常な世界が通常として定着するか、あるいは――」
「――その結果に影響を及ぼす変数とか言うのを的確に予測して突き止め、試行錯誤し検証するかってことか?」
「さすがは義兄さんだ! その通り、実証実験を繰り返していく中で、新たな変数Xが出てくるかもしれない。逆に数多ある変数が否定されて絞られ、多大に関与する原因が思ったより早く確定するかもしれないんだ! その時こそ、未知のオカルトは既知へと変わるだろうさ!」
 クルクルと周りながら、興奮した声が聞こえる。うーん、いつもなら可愛い変人義妹で済むんだけど……カメレオンだからなぁ。ちょっと苦笑せずにはいられない。
 チラッと横目で見れば、微笑む花宮の口元がヒクヒクとしている。作り笑顔を続けるのも、大変だよなぁ……。筋肉が鍛えられそう。
「俺はとりあえず、もう諦めるって結論じゃなくて安心したよ」
「ふっふっふ。このぼくが諦める? オカルトや難題といった未知を既知に変えるのは、長く楽しめるゲームだ! そして解明すれば喜ぶ人がいるなら、至上の喜びも得られるだろう!? 胸が躍るよ!」
「全く、俺は頼れる義妹を持ったなぁ」
「そうだろう、そうだろう! もっとなでてくれてもいいのだよ!」
 バンッと机に手を置き、珠姫が身を乗りだしてくる。褒めてくれとの意思表示だ。仕方なくなでるけど……カメレオンの顔が急に至近距離へ寄ってくるとかマジで怖い。思わず手に力が込もるわ。
「地肌がザラザラして気持ちよくないなぁ。早く前みたいなモチモチお肌になってくれないかな」
「むう……。ならば、今は女の命である髪だけなでればいいじゃないか! ほら、優しく!」
 頭をなでやすくする為か、ついには机を乗り越えて抱きついてきやがった。木にしがみつく爬虫類の如く、ピタッとくっついてくる珠姫の頭をなでる。
 ふと、こちらを見て目を丸くしている花宮と目があった。何度か目を逸らされたけど、結局は視線を合わせて――。
「……大神くんと珠姫ちゃんて不思議な関係だね。私の周りにいる兄妹より、距離感がすごく独特って言うか。見た目も……全然違うし。今は身長の差しかわからないけど、多分顔もだった気がする」
 そう聞いてきた。
 なるほど、俺たちの距離感や外見の違いに疑問を抱いてたのか。確かに、俺たち兄妹はちょっと特殊だからな。
 俺が説明しようとすると、胸元に顔を埋めていたカメレオンが先に口をカパッと開き――。
「ふむ、花宮貴子先輩は知らないのか。ぼくたちは、血の繋がった兄妹ではないんだ。外見が似ていないのは当然と言えるね」
 そう答えた。
「――え?」
「ぼくを産んだ母は、いわゆるシングルマザーだった。結婚せずにぼくを産み、働きながら育ててくれたんだよ。そうしてぼくが小学校低学年の時に難病となり、自分の亡き後は従姉妹夫婦へぼくを養子縁組に出してね」
「ちょ、ちょっと待って! そんな深い事情を私に話していいの?」
 視線をキョロキョロとさせ、筆のような形の尻尾を股の間へと隠して言う。狐の尻尾のおかげで、花宮の感情がわかりやすいな。今は怯えているみたいだ。……なんでそんな怯えるのかは理解できないけど。
「別に隠すようなことでもないだろ。俺の母方の曾祖母が同じでな。まぁ俺は珠姫と顔も会わせたことがなかったし、当時は色々あったけど……。今ではこの通りの関係だよ」
「ふっふっふ。存分にぼくを甘やかしたまえ。これは義兄さんに許された特権だ。他の者が同じようにぼくに触れようとしたら、噛みついてくれよう。この心地良いテリトリーを侵すものは許さん。過去など、今や未来に比べればどうでも良い」
「そ、そうなんだね。……珠姫ちゃんは、強いね」
「そうだろう、そうだろう。この白衣に誓って、ぼくは強く賢く生きるんだ」
「いつも白衣着てるもんね。頭がいい珠姫ちゃんに、すっごく似合ってるよ」
 白衣を褒められた瞬間、俺の胸元に収まっていた珠姫カメレオンが花宮狐へバッと視線を向ける。花宮は一瞬たじろいだが、相変わらず笑顔のままだ。スゲぇな、その笑顔……本当に仮面とかマスクじゃないのか?
「この白衣が似合うだと!? もっと言ってくれたまえ! これは亡き母の白衣と同じサイズ、同じメーカーによるものだからね! いやぁ、お世辞でも嬉しいものだ!」
「そ、そうなんだね。お母さんも白衣を着るお仕事してたんだ」
 興奮した珠姫の勢いは、慣れない人にはちょっと怖いんだろうな。のけぞる花宮に苦笑し、俺は――。
「珠姫のお母さんは企業で新薬開発研究をするメディカルドクターだったんだけど、難病で亡くなったんだ」
 毛深い頬を掻きながら、説明した。すると、花宮は――。
「そ、そこまで詳しい過去の事情を私に話していいの!? 無理しなくていいんだよ?」
 ガタッと椅子を鳴らし、聞き返してきた。何をそんなにと思うほどに過敏な反応だな……。
 もふもふで眺めの狐耳がピンっと伸びている。……耳も感情に連動するのか?
 いや、人間だって耳を動かせる人がいるんだ。そういう獣人だっているよな。珠姫を気遣う――というよりは、自分が不安気なのかな。居心地悪そうにしている。でも「ここまで言ったからね、全て話して構わない」と珠姫が俺に伝えてくる。
 俺が説明するのかよ。でも、自分では伝え方に困る内容なのも確かだしなぁ。
「珠姫はさ、『有効な治療方法がないから悪いんだ。私が難病を治す薬を作り、この世から難病という言葉を無くしてやる!』って決意表明してから、ずっと産みの母と同じ白衣を着てるんだよ。だから、似合っていると言われてすごい嬉しかったんだろうな」
「それは……どう言って良いかわからないけど、すごい決意だね。応援してるよ。あと、珠姫ちゃんに喜んでもらえてよかった」
「うむ、ぼくはやるよ! この世の未知は、既知に変えられるのを今か今かと待っているんだ! ぼくは全ての病態を解き明かし、有効な薬を研究開発するメディカルドクターになるのだよ!」
「すごいね。そうなったら、悲しむ人が減る素敵な世界になるね。私にできることがあれば、可能な限り応援するよ」
「――では義兄さん同様、秘密裏にモルモットになってもらおうかな!? 今の状況とやらは実に研究のしがいがある! サンプルは多いほうがいいのだよ!」
「い、いや。それはちょっと……」
「まぁまぁ珠姫、落ち着け。今は俺たちの見る世界が異なってることで一杯一杯なんだ。花宮をこれ以上追い詰めるなって」
「ふむ、そうだったね。脱線してしまったが……まずはこのオカルト現象をなんとかする為、研究計画を立てねばいけないな」
「花宮、色々と驚いたと思うけど……この通り珠姫は研究熱心で、オカルトも含めて未知が許せないやつなんだ。俺がここへ相談に来た理由もわかっただろう?」
「う、うん。そう、だね。……他にどうにかしてくれそうな人も、信じてくれそうな人もいないし」
「光栄な評価だね。……だがしかし、かつてない難題だ。旧校舎の七不思議か……。先人たちが不思議の一言で片付けてしまったのも、つい納得してしまいそうだよ」
「ああ、もしかしたら初代学長の呪いとやらが本当にあるのかもな。毎週言い聞かせる校訓を無視して、学園の生徒が人間らしく青春しないのは許さないとかさ。お前らなんか人間じゃねぇ。周囲に溶け込むカメレオンで十分だ、みたいに」
「カメレオンで十分……か。それでは、ぼくまで人間らしくないようだね」
「珠姫は、自分のことを青春している人間だと思っているか?」
「見ればわかるだろう? ぼくは研究に邁進し、青春している人間だよ。このまま人間でありたいし、あらねば――」
 そこまで言ったところで――珠姫が光り出す。
「またこの光かよ……ッ!」
「これ、私たちと同じ……!? 珠姫ちゃん、逃げ――」
 ――まさか、珠姫にも俺たちと同じ現象が!?
「おい、珠姫! 大丈夫か!?」
 椅子に座ったまま、絶対に離さないとばかりに珠姫を引き寄せる。カメレオンから動物になるならいいが、まだ2例だけだ。これは安全が保障されていない現象だッ。
 不安になり、まばゆい光をはなつ珠姫をギュッと強く抱きしめると――。
「――もふもふ?」
 さらっとした柔らかい毛の感触がした。胸に抱いた珠姫に視線を落とすと――。
「――これは、『人間でありたい』って目的地が引き金になるみたいだな……」
 思わず、ため息交じりに呟いてしまう。
 胸元に――白い耳が見えてしまった……。
 恐怖からか小さく固まっていた珠姫がゆっくり目を開き、そっと俺から離れていく。不安そうに上目使いで――俺を視認した瞬間、目を見開きキョロキョロと周囲を見まわしはじめた。
「おお!? これは、これは!? なんということだ! 本当に狼と狐に見えるだって!? で、では、ぼくは一体2人からはどう見えているんだい!?」
「猫の仮装だな。長毛種かな、白くてふさふさな毛並みの耳と尻尾が可愛いぞ。あと、机の上に四つ這いになって花宮の顔を覗き込むのはやめなさい。お行儀が悪いし、尻尾が俺の顔に当たってる」
 椅子に座る俺の目と、机の上に乗る猫珠姫の尻尾が同じ高さなのはよかった。身長差万歳。だってピンと立った尻尾が顔に当たってるから、めくれたスカートの中が見えずに済むし。兄妹でも下着姿を見ないような配慮は必要だろう。
 俺が色々と心配してるのを余所に――。
「おお、猫! それはぼくが脳裏に思い描いていた『自分をもし動物に例えたら?』と同じじゃあないか!? で、では外にいる有象無象どもは――」
 猫珠姫は好奇心に負け、少し怯えながらもそろそろと窓越しに顔を覗かせ――「ふぉおおお!? 馬鹿でかいカメレオンどもが大量にいるだと!? 面白い、なんという面白いオカルト現象だ!」。そう言いながら、大興奮で飛び跳ねだした。
「危ないぞ、怪我しないようにな」
「ちょちょちょ、大神くん!? なんでそんな冷静なの!?」
「目の前でカメレオンが違う動物に変化するのは2度目だからな。いい実験にもなったんじゃない?」
「義妹を実験対象に見ちゃうの!? え、それも兄弟愛なのかな!?」
「ん~。ふだんから妙な薬品とか飲まされてるからお互い様かなって。それに、俺も義妹がカメレオンよりは違う動物のほうが嬉しいし」
「そ、それは一理あるかもだけど、珠姫ちゃんの見る世界を異常にしちゃうのはどうなのかな!?――あ。ん~……。で、でも兄妹で見てる世界が違うのは悲しいかもしれないからね! そういうことも考えたのかな!」
「おお、さすが。前向き発言に転換しようとする癖が出てるね。――って待った! 珠姫、こっちを向いてくれ!」
「ど、どうしたの大神くん。そんな大声出されると、びっくりしちゃうよ……!」
「うむ、その通りだよ。しかし、本当に2人は狼や狐だねぇ。……実物よりも愛嬌があるな」
 俺たち2人の顔を覗き込む珠姫だが、それは逆に言うと俺たちからも珠姫の顔がよく見えるということで――。
「――珠姫ちゃん、顔とかは完全に人間だよ! 耳と尻尾しか猫じゃない!」
「な、なんだって!? 顔や体の大部分が動物の2人とは違うということかい!?」
「ほら、鏡見て! か、可愛い――けど、ニヤけちゃダメだよね、どうしよう!?」
 花宮がうろたえながら鞄から手鏡を差し出し、珠姫はジッと覗き込む。
「ぉお……。顔などはふだんと変わらないが、確かに猫耳が生えている。ふむ、感触もあるし取れない。尻尾も、抜こうとすると痛いな」
 顔をしかめながら自分で実験をしている。義兄さんね、自分を痛めつけるのは止めたほうがいいと思うんだ。
「これは……どういうことか、さらに知的好奇心が刺激されて脳内が大興奮だ! 何もかも異常、未知。おお、最高だよ!」
 白衣を羽織った猫珠姫が狂喜乱舞する。これは最高に機嫌がいい証拠だ。こうなった珠姫は止められないから、しばらく放置しておくしかない。
 それにしても、と俺は思わず口元の緩みを自覚した。
「久しぶりに、人間の顔が見られた。……それも、義妹の顔だし。これはいい、最高だよ」
 義妹もオカルト現象に巻き込まれてしまったが、久しぶりに人間の顔を見られたんだ。大量のカメレオンでもない、獣人でもない――可愛い義妹の顔が。
 終わりが見えない化け物に囲まれる空間から、安心する家に帰ってこれたような気分だ。思わずホッと微笑んだ俺を誰が咎められるというのか。
「義妹さんを巻き込んで笑うのはどうなのかな!? 可愛いし安心するのは認めるけどさ!」
「はい、すいません。……でも、花宮だって顔がニマニマしてるぞ?」
「だって猫娘だよ!? 可愛くて頬擦りしたくなるけど、大変な事態だから我慢してるの!」
「珠姫、おいで。なでてやろう」
「ふん、そんな簡単にぼくが――あふぅ、なでられるのも、悪くないね。いや、むしろいい」
 うん、可愛い猫だ。猫耳の裏をなでると、気持ちいいのか。尻尾が揺れはじめた。
「……た、珠姫ちゃん。私も少しだけなでていいかな? ね、私のこともなでていいから!」
「お断りだね。そう簡単になでるのを許す尻軽女と思わないでくれたまえ」
「そんなぁ……。私、もふもふの動物、大好きなのにぃ……。大神くんが羨ましい」
 花宮……カメレオンの群れじゃなくて可愛い小動物を見たからか、新たな一面が出てるな。
 とにかく、だ。さしあたり、様式美としてこう言っておこう。
「――ようこそ、こちら側のオカルト世界へ」
 花宮に言った言葉をそのまま流用させてもらった。もはや様式美と言うか、定型文化されつつある気がする。
 なにはともあれ、だ。ひとまず――ほんの少し希望が見えた気がする。
 原因が全くわからなければ、解決への手がかりも見えない。
 予想外だったけど、『人間として青春をすごす』っていうのが共通する影響因子Xだと絞り込めた。これは、かなり大きなプラス要因だと思うんだ――。

 その後、約30分間ぐらいは俺たちと視認する世界を共有していた珠姫だったが――またカメレオン姿に戻ってしまった。見える世界も、猫化する前――通常の人間であった時と同じだそうだ。
 いってらっしゃい、あちら側の通常世界へ……。ああ、仲間が1人減ってしまった。
 いや、コレでいいんだ。あのままだと、義妹が本格的にこのオカルト世界から抜け出せなくなるところだった。クオリアだかなんだか忘れたけど、嘘じゃないと体感してもらえたし。少しでも認識共有できる体験は貴重だったはずだ。あと、猫化した姿がめっちゃ可愛いかったしな。よく考えれば、良いことづくめだ。
「ふむ、実に興味深い体験だったよ。興奮しすぎてどうにかなってしまいそうだった。だが、これで義兄さんたちがぼくをからかっているという可能性は消えたね」
「俺たちが見ている異常な世界の認識が共有できたみたいで助かるよ」
「でも、なんで珠姫ちゃんはすぐ元に戻ったんだろうね? あ、勿論ずっと異常な世界にいてねってことじゃないよ? ちょっと体験して戻れたのは、すっごくよかったけど」
「確かにあのカメレオンどもばかりの世界から永遠に抜け出せなかったら、ぼくでも発狂するね。1人で耐えていた義兄さんの精神力は異常だ。とにかく、2人の危機感は理解したよ」
「珠姫は短時間で元の姿に戻ったし、耳と尻尾がある以外は人間のままという違いもあったな。その辺の違いは、どういう理由なんだろうな」
「仮説はあるけどねぇ。しかし、サンプル数が足りない。客観的に分析もしたいしね。仮説を検証するにしても、いいモルモット――協力者が欲しい」
「俺は義妹に、人権というものを教える義務がある気がしてきた」
「ならばぼくは、義兄さんに社会的交遊というものを教える義務があるね」
 この義妹は、痛いところをついてきやがった。確かに、俺には友人が少ない。メッセージアプリの登録は家族と企業だけだし、こういう時に協力を頼める友人もいない。
「転勤族だったからな、仕方がないんだ」
「それでもぼくは、会話程度は弾む知人が多いけどね」
「じゃあ珠姫の知り合いにでも頼むか?」
「義兄さん、常識的に考えてみてくれ。ぼくの性格を知っているまともな人間が、『実験したいことがある』と誘われ、2つ返事で応じると思うかい?」
「何を言ってるんだと言わんばかりの呆れ顔を浮かべてるところ悪いが、常識的に生きて欲しいと願う俺こそ珠姫に呆れている」
「その辺の説教は置いておこう。試したい実験はぼくのように短時間の体験だから安全だから良識の範囲内だしね。――花宮貴子先輩はどうだい? 交遊関係は広いように見受けるが」
「え、私?」
 キョトンとした顔で、自分の顔を指さしている。自分に話が振られるとは思っていなかったんだろうか。ちょっと当事者意識が足りないと思うぞ。自分の身に降りかかってて、あれだけ混乱してたのに。
「ああ、花宮だって協力しないと。この状況、なんとかしたいだろ?」
「それはそうだけど、こんなことに巻き込める友達なんて……いないかな」
 目を伏せ、一瞬辛そうな顔をした。
 それは深い友達がいないってことでもあるな。何でも話せて許し合えるような人を、深い友人とうらしい。俺は所詮、聞きかじった程度の知識だけど。
「SNSのフォロワーは何千人といるのにな」
「全くだね。義兄さんなんて相互フォロワーが1人だと言うのに」
「俺のスマホはほぼ叶魅りあ専用、他は目覚ましとか電子決済やら通話ができれば充分だ」
「義兄さん。持ち主がそんな心では、高性能のスマホが泣くというものだよ」
「SNS……叶魅りあ。……もしかしたら、1人だけ大丈夫、かも?」
 花宮がゆっくり慎重に言う。
 そんな花宮が、俺には実験へ巻き込む躊躇じゃなく、ひどく臆病になってるように見えた。
「それは叶魅りあのフォロワーで、花宮貴子先輩が信用できる存在ということかい?」
 ナイスだ、珠姫。もし花宮にそういう信頼できる存在がいるなら、喜ばしいことだ。でもそれが男だとしたら……少しもやっとするのはなぜだろうか。
「信用……っていうより、私が叶魅りあだと知ってて、それをバラさないでいてくれるから。それにいつも『何かあったら頼れ』って言ってくれてる、長い付き合いの人だし」
「ほうほう。それはまた、随分と献身的で深い交遊のありそうな人物だねぇ。――ちなみに、男性かい? いや、深い意味はないのだよ、サンプルに性別も関与する可能性も考慮しての質問さ」
 珠姫め……。カメレオンフェイスでもわかるぐらい、ニヤついてやがる。俺の気になる人が花宮だって完全に理解してるな。
 でかい目をキョロっと向け、俺の反応を見てやがる。……今日の食事は、質素にしてやろう。
「男だよ」
「マジかよ」
 反射的に言葉がとび出た。
 これはなぜだろう。叶魅りあのファンとしてなのか、それとも……異性として、花宮にそんな深い関係の男がいたことにショックを受けたのか。
 まだわからないけど、胸の中がモヤモヤとして気持ちが悪い。
 もしかして俺は――異性として花宮のことが好きなのか?
「うん、私の幼馴染み。クラスは別だけど、同じ学園だし。でも今は部活中だからこれないと思うよ?」
「ちなみに、その男は何部だ?」
「え、サッカー部だけど」
「チャラそうだな」
「義兄さん、ひどい偏見だね。その男を否定したい気持ちは察するが、器が小さいと言わざるを得ない」
「…………」
 ぐうの音も出ないとはこのことか。自分が恥ずかしいし、俺はなんでこんな難癖つけるようなことを言ったんだろう。頭が痛い。思わず片手で頭を抑えると、へにゃっとした獣耳に触れた。
 俺の耳、柔らかくて気持ちいいな……。
「……耳だけ触るなら癒やされるんだけどな。寝たら耳以外は人間に戻らないかなぁ」
「現実逃避はやめたまえ。とにかく、その人物に協力を申し込みたいのだが」
 花宮はすぐには返答しない。自分の指同士を絡め、悩ましい顔を浮かべた。
 そして申しわけなさそうな笑みを作り――。
「そうだね。うん、お願いのメッセージを入れておくよ。もう少しで部活が終わるし、反応が来たら教えるね」
 努めて明るい声音でそう言った。自分のスマホを取り出し操作する指は、動きが遅い。ディスプレイを見つめては指が止まり、また動かしてを繰り返している。瞬きを繰り返し、時鼻を触り。そうしてゆっくりと文面を作成していた。どう伝えるべきか悩んでいるんだろうな。相当に言葉を選んでいるのが感じ取れる。
 この接し方では――そいつは俺たちと同じレベルだな。
 同じ銀狐姿でも……現実の花宮貴子は、叶魅りあと違う。
 配信の時はスマホのインカメラで表情を読み取り、イラストが連動して動くから微細な表情変化までは動きに反映されない。リアルでは、バーチャルほど完璧に演じられていないし、誤魔化せていない。一瞬の所作や声音の違いっていう、リアルの人間だからこそわかる違和感を認識できる。
 明るい表情は崩さないのに、気が進まないから重い指の動きをしているという矛盾。少なくともその男は……本心でぶつかれるような、気の置けない関係ではないみたいだ。
 そういう相手がまだいないことが嬉しいのか、それとも独りで頑張る花宮を再確認して寂しいのか。よくわからないぐらい、頭がゴチャゴチャとする。花宮と本音で語り合える仲になり、支え合える関係性になる。そんな大それた目標を持つ俺としては、長年献身的な付き合いをしている人間でも無理だった事実に、不安にもなるし。
 でも1番は――鉄壁の仮面を被りたがる花宮の謎に直面して、ワクワクしているんだと思う。
 珠姫に影響を受けているのかな。未知を既知に変えることは怖くもあり……同時に胸が躍る。
 未知を既知に変え、問題を解決して花宮が喜んでくれると考えたら、それは何事にも勝る至上の喜びだと思うから――。

「――黒一、部活の後で疲れてるのに、来てくれてありがとうね」
「良いって。いつでも頼れって言ってただろうが。むしろなんだ、あの硬い文面は。もっと気さくにこいよ」
「……うん、ごめんね気をつけるよ。これからお願いすることを考えると、気が引けちゃってね?」
「なんだよ、水くせぇな。幼馴染みだろうが」
 短髪爽やかカメレオンが、花宮に向けグッと親指を立てた。キラキラとまぶしい笑みを浮かべていやがる。絵に描いたようなリア充のスポーツ少年ってところか。
 だが残念だったな、今の花宮にも貴様が二足歩行するカメレオンに見える。例え人間形態はイケメンだとしても、今はカメレオンがキメ顔する奇妙な光景にしか映ってないんだよ!
「……初めまして、俺は大神優牙。花宮のクラスメイトで、同じ問題を共有認識している間柄だ」
「うおっ。身長でけぇ……。俺は白井黒一、貴子とは幼稚園からの幼馴染みだ」
 は、貴子?
 幼稚園からの幼馴染みだと。それでマウントを取ってるつもりか。いいだろう、その挑発、受けて立とうじゃないか。
「そうか、なるほどな。でも俺の身長が高いというより、白井がちょっと平均より低いんじゃないか?」
「あ? 喧嘩売ってんのか?」
 実際、白井の身長は花宮と同じぐらいだ。160センチメートルちょっとのカメレオンが、俺を見上げながら睨みつけてくる。体が触れそうな距離にまで近づき威圧してくる。
 ヤバい、人間の姿だったら身長差で怖くないはずなのに……カメレオン姿だからめっちゃ怖い。
 160センチの二足歩行カメレオンが、もの凄い近くで威嚇してくるんだ。怖くないってやつがいるなら、そいつの度胸はその辺の格闘家以上だと思う。
「黒一も大神くんも、もう仲良くなったんだね! 男の子は喧嘩するほど仲が良いっていうし。でも完全下校時刻も近いからさ。本題に入ってもいいかな?」
「ぼくも同意だ。我が義兄の情けない姿は、もう見たくない。ああ、自己紹介がまだだったね。ぼくの名は大神珠姫。オカルト研究部に所属しつつ、様々な分野の研究をしている」
「……知ってるよ、大神珠姫さんは有名人だからな」
「ほう、それは僥倖だね。よろしく頼むよ、モルモットく――白井黒一くん」
「……先輩に向かってタメ口かよ。まぁいいか、よろし――今、俺の名前を間違えそうになってなかったか? スゲぇ嫌な方向に」
「そんな事実はないさ」
 両手を広げ、やれやれとしらを切った。白衣の袖がふりふりと揺れている。動揺しているな、白井カメレオンは。珠姫の礼儀はもう、どうにもならない。舐められたら搾取されると思っているからな。
 しかし俺は、本来ならば礼儀正しい男のはずなんだけどな……。
 どうしてか、花宮の幼馴染みである白井黒一というカメレオンに対してだけは妙な対抗心を抱いてしまう。だからといって嫌いとか、苦手意識とかはない……不思議なもんだ。
「あの、実は珠姫ちゃんの実験に協力してあげて欲しいんだけどね。いいかな?」
 花宮は微笑みつつも、少しだけ申わけなさそうに手を合わせている。膨れた尻尾が不安そうに震えているのが本心で、微笑みながら言っているのは演技か。
「ああ、いいぜ!」
「――言ったね? ふふ、これはいい被検体だ」
「被検体!? お、おい! ヤベェ実験じゃねぇだろうな?」
 途端に落ち着きがなくなったな。案外、強気な態度の裏で心は繊細なのかもしれない。そう考えると、少し可愛い。
「安心したまえよ。ぼくが少し質問をするから、素直に答えて欲しいだけさ」
「な、なんだ。それぐらいなら安心だ。いいぜ、俺は嘘をつかねぇ。なんでも聞けよ!」
 顎を上げながら、胸をドンっと叩いている。掌返しがすごいな。いくら爬虫類の手でも、ねじ切れるんじゃないか?
「嬉しいよ。ああ、まずは決まりだからね。この研究同意書にサインを頼む。研究内容も書いてある」
「お、おう。……わざと専門用語を多くしてないか? ま、まぁいい。ほら、書けたぜ」
 ビッシリと文字が書かれた用紙に軽く目を通した後、乱雑にサインを書いて珠姫へと渡した。横から文字が見えたけど、白井って字が汚いんだな。親しみやすい弱点を見つけてしまった。
 珠姫はサインを確認した後、満足気に頷き「では検証をはじめよう」とホワイトボードの前に立つ。
 そして白井へと視線を向け――。
「では――これは口に出さず、心の中で答えてくれ。君は自分を動物に例えるなら、なんだと思う? また、自分はどんな青春を送りたいと願う? 自分は人間でありたいと思うかい?」
 矢継ぎ早に指示を出した。
「…………」
 白井は右上に一瞬視線を泳がせた後、だまって珠姫の次の指示を待っている。
 言いたいことはあるんだろうけど、白井は嘘をつかないといった手前ちゃんと指示に従っているらしい。約束を守る男って、格好いいよな。俺も見習おう。
 こいつがカメレオンじゃなければ、俺は自分と比較してもっと惨めな思いになっていたかもしれない。
「ふむ、変化なしか。――では義兄さん、白井黒一くんの前に立ち、顔を見ていてくれ」
「え? ああ、わかった」
 不意打ちのような言葉だったが、珠姫のことだ。きっと検証に必要なんだろう。言われたように白井を見ると――ものすごい睨みつけられてるんだけど。いや、初対面の時は俺が悪かったと思ってるけどさ……今は実験中なんだから、そう睨むなって。
「よし、それでいい。睨みあっていてくれたまえ。では白井黒一くんは、さっきぼくがした質問に心の中でまた答えてくれ」
「…………」
 何も変化はない。白井はカメレオンのままで、花宮は心配そうにこちらを見ている。
 室内に沈黙が流れた後――。
「では、次だ。義兄さんは目を閉じてくれ。そして白井黒一くんは、ぼくがさっきした質問に声を出して答えてくれ」
 珠姫の指示が出た後、数秒溜めてから白井の声が聞こえた。
「自分を動物に例えるなら、ライオンだ。俺が送りたい青春は……サッカーでプロになるって目標を諦めずに努力する日々だよ。当然、俺は人間でありたいと思うさ」
 目の前で目を閉じているからか、白井の答えがよく聞こえた。送りたい青春について答えた時、ちょっと声量が小さくなったようにも感じたけど……。
「ふむ、変化なしか」
「なぁ、これはなん実験なんだよ!?」
「おや、確認してもらった研究計画書にも書いてあっただろう? 苛立っているようだが、次が最後だ」
「……そうかよ」
 内容をよく読まないで書類にサインをするのは危険だぞ、白井。これを良い経験にして、危ない契約書とかにパッとサインしないようになるといいな。
「では、義兄さんも目をあけてくれ。そして白井黒一くんはさっきと同じ答えを、もう一度声に出してみてくれ」
 渋々ながら、白井がさっきとまったく同じ答えを口に出すと――。
「――なっ!?」
「この光り出す感じ、花宮や珠姫と同じ……って近っ!?――目が、俺の目がぁあああッ!」
「だ、大丈夫!?――黒一が光ってる……、これって!」
「ふむ、なるほど」
 珠姫の冷静な声が耳に届く。そして――。
「ぅ、うわぁあああ、狼!? いや、狼男!?」
 俺より先に視力が回復したのか、パニック状態の白井の叫び声が鼓膜にキンと響く。後ずさっているのか、椅子をなぎ倒す、けたたましい騒音と共に。
「黒一、落ち着いて!」
「貴子、これは……ぇ。なんで、なんで狐が!? いや、狐から貴子の声が……。ひっ! なんだこの気持ち悪い白衣着たデッケぇカメレオンは!? た、助けて。誰か助けてくれぇ!」
「……予想の範疇とはいえ、少し不快だね。少しは落ち着きたまえよ、白井黒一くん。いや――シマウマくん。馬面では、せっかくの小麦肌イケメンも台無しだねぇ。薬品でもぶっかけて変えるかい?」
 不機嫌そうな珠姫の声が聞こえてきた時には、だいぶ視力も回復してきた。珠姫は床に腰を抜かしてるやつに向け、鏡をかざしているようだ。
「なんで、なんで俺の顔がシマウマに!? もう、嫌だ。なんなんだよこれぇえええ!?」
 さっきまでの強気な態度が嘘のように頭を抱え床で震えているのは――等身大のシマウマだ。
 花宮が隣へしゃがみ、「巻き込んでごめんね、ごめんね! 私も同じように見えてるから、一回落ち着いて!」と声をかけている。
 そんな新たにこちら側のオカルト世界へやってきた白井の元へそっと歩み寄り、俺は優しく肩に手を置く。
 耳を押さえて涙目状態のシマウマに、俺は場を和ませるべく様式美として――。
「――喰ってやろうか?」
 口角を大きく広げて笑いながら、そう言う。
 白井は眼球を上転させ――白目を剥いてフッと気絶した。
 狼男と言われた軽い仕返しのつもりだったんだが……。
 花宮が「軽いジョークのつもりだったんだよね!? でもジョークって、タイミングも大事なんだよ!? 今はちょっと違うと思うから、ちゃんと謝ろうね!」と怒りつつも、前向きなアドバイスをしてきた。
 俺は額を床に擦りつける。軽い冗談のつもりだったとはいえ、白井には申しわけないことをした……。この異常な世界に慣れつつあったけど、ふつうに発狂もんの衝撃だもんな……。
 起きた瞬間に現実が受けいれられず、また意識が朦朧としては再び覚醒してを繰り返す。そんな可哀想な白井を尻目に――珠姫はコーヒーを啜りながら、冷静にメモを取っている。
 そんな義妹の姿を見て、俺は猛省した。兄妹揃って、空気を読まずに自由すぎるよな――と。

 結局、白井はその後30分間ほどで目を覚ました。しばらくは混乱していたが、視認する世界が戻ったことで「なんだ夢か……」と落ち着いたようだ。ひとまず場所を移してキチンと説明すべきということで、学園からも近くて十分な広さがある我が家へと来てもらった。
 人を家に招くのは初めてだから戸惑いもあったけど……。それに、部屋には叶魅りあから配布された応援感謝グッズとかも飾ってあるし。――リビングまでだ、それなら大丈夫!
 白井には申しわけなさもあり、我が家で最もいい紅茶とお菓子でおもてなしさせてもらうことにした。「美味しい、幸せだ!」と無邪気な笑顔で喜ぶ義妹とは、後でよく話し合おうと思う。
 人道についてな。俺たち兄妹は、お互いに見つめ直しが必要だと強く学んだよ。精神鎮静作用があるらしい紅茶を飲んで、白井も少し現実に帰ってきたようだ。
「さて……。珠姫、さっきの検証から何かわかったのか?」
「ああ、勿論だ。非常に多くの仮説が立ったよ」
「それはよかった」
「よくねぇよ! 俺は恐怖体験だったんだぞ!?」
「黒一、巻き込んで本当にごめん、ごめんね!」
「ひどいな、白井。花宮と俺は、常にあんな世界にさらされてるから助けを求めたのに。見捨てるのか? いつでも頼れって言葉は嘘だったのか?」
「ぐ……。た、貴子が常にあの状態なのは心苦しい。貴子の為に協力する。お前は見捨てたいけどな!」
 それで充分だ。
 今日会ったばかりの男に「お前も助けるから」なんて言われても、説得力がない。それにここまでひどい体験をしたのにも関わらず、花宮の為に動こうという存在がいるのは純粋に嬉しい。
 でも、俺だって負けないからな。俺は花宮と支え合える関係性になるんだ。恩返しの為に!
「話を進めるよ。個体名、白井黒一の協力で多くの影響因子Xの絞り込みと、現象を発現する条件の仮説ができた」
「俺を個体名って言うな、実験動物か! お前ら兄妹は俺のことが嫌いなのか!?」
「まさか、むしろ好ましく思っている。すまないね、反応が面白くてついからかってしまう」
 ふふっと微笑みながら、珠姫はそう返答した。さすがは俺の義妹だ。俺と同じ理由で白井をからかっている。理由はわからないけど、俺も嫌いどころか、むしろ好きなぐらいだよ。
「まぁ、まとめよう。自分と世界が変異する影響因子Xは『旧校舎の大鏡』から、『大鏡、あるいは義兄さんの視認』。『校訓の遵守度』。『対象人物の気質』が追加で予測された」
「つまり、こいつのせいで貴子が巻き込まれたってことか!?」
「そう結論を急くもんじゃないよ。詳細と条件の話をしよう」
 あくまでうちの義妹はマイペースだ。白井のやかましい勢いにも流されない。
「義兄さんの視認というのは、ある意味で条件にも繋がる。だが、これは元々義兄さんが持っていたものじゃない。義兄さんは呪いの媒介者、という言葉が最も適切かもしれないね」
「媒介者? 俺が?」
「ああ。感染症でもそうだが、まず誰かがウイルスに侵襲されて症状を発現する。そして関わりがある人へと広がっていくものだよ。つまり義兄さんは、第一の被害者だ。今回の被疑者はウイルスというより、大鏡に元よりあった呪いや遺志が義兄さんを介して伝わっている可能性がある」
「……珠姫ちゃん、そんなものが本当にあるの?」
「それほどのものが存在しなければ、あんなオカルト世界は存在しない。それはここにいる全員が体験したクオリア――共有感覚だと思うのだけれどね」
「……確かに、な。あんなヤベェ恐ろしい世界、呪いとかって言われたほうがむしろ納得がいくぜ」
「そう。そして影響因子Xの発現と効果に必要な条件は、『鏡、あるいは義兄さんの視認』。そして『人として在りたい』という発言が条件だとわかった」
「俺は旧校舎の大鏡に自分を映しながら語った。白井も思うだけじゃ何も変わらず、俺に見られながら発言したことで変わったしな」
「そうだね、花宮貴子先輩もそうだ」
「うう……。私があんな余計なことを言わなければ。――あ、いや大神くんを責めてるんじゃないよ!? お互い被害者なんだし、私も迂闊な発言には気をつけようって!」
「はいはい。そういうのはいいから、続けるよ」
 煩わしい……というより、訝しむような視線を花宮に向けた。
 珠姫カメレオンのキョロッとした目と冷たい言葉で「ご、ごめんね」と花宮が苦笑している。なんか珠姫……花宮に対しては随分と冷たいな。
「因子Xにあげた『校訓の遵守度』だがね。――これはその者が、どこまで初代学長が固執したサミュエル・ウルマンの詩から引用した教えを守っているかによるのだと推測される」
「あ? ああ、あの週一で聞かされるやつのことか」
「あれを初代学長の意図を察して簡潔にまとめると、『本校の生徒として青春を生きなさい、それが人間性として必要だ。信念、自信、希望に理想を持て。疑念や恐怖、不安に負けるな。その為には創造力、強い意思、情熱や勇気が必要で、常に冒険して追い求めろ。簡単に今の現状で妥協するな。さもないと老いるぞ』と言いたいんだろうね」
 珠姫のまとめを聞いて、強く思い当たる節がある。
 最初、俺に呪いが発現した時――人間性は最悪だった。
 持てと訓示を受けたものを全て持たず、不安に負けて妥協していたと思う。その結果、初代学長の遺志か何かが宿る旧校舎の大鏡の逆鱗に触れたんだろう。花宮も白井も、何か思い当たる節があるのか、視線を泳がせ動揺している。
「でも、それなら老いるんじゃないのか。なんでカメレオンなんだ?」
「それはまだわからない。だが義兄さんやここにいる面々は、カメレオンをどんな生物だとみている?」
 今は恐怖の象徴だけど、そういう答えじゃないんだろうな。多分、ふつうの世界に存在する爬虫類としてのカメレオンか。
 2人の顔をチラッと見ると、俺へと視線が集中している。……俺から答えろってことか。
「そうだな……。やっぱり、イメージとして強いのは『擬態』かな。周囲の景色に溶け込んで目立たないようにする生き物だ」
「ああ、俺も同じだな。そんな感じだ」
「これ、信じてもらえないかもだけど――私も全く同じことを思ってた」
 何それ、2人ともズルくないかな。結局、考えて答えたの俺だけじゃん。
「大間違いの認識だね」
「「「え?」」」
 3人の声が重なった。そんなにバッサリと切りますか、我が義妹よ。
「カメレオンは、植生しているものに自ら『擬態』する力はない。木々や石、その他の色に合わせた保護色に見えるのは、周囲環境から出る光の反射や吸収による自然な変化だよ」
「マジでか! 俺はてっきり、野生で生き残る為に自分で変わってるんだと思ってた!」
「わ、私も……不思議な生き物なんだね。あの変化って、意識してなかったんだ」
「そう、意識していない。――それこそ、義兄さんには人類がカメレオンに見える原因だと考えられる」
「え? 珠姫、どういうことだ?」
 本当に理解できない。それとこの現象がどう繋がったんだ。珠姫というカメレオンに、お前がカメレオンに見える理由を教えてくれって聞くのも……なんか妙な気分だけど。
「つまりだね、カメレオンは自らの意思で色を変えようとしていない。周囲の環境に流され、自然と変化しているんだ。――初代学長がしつこいほど伝えたい校訓には、安易に周囲に溶け込むな。個性を持ち変化を求めろというメッセージがある。『周囲に溶け込み、自ら変化をしない生物』という極端な意味でカメレオンに合致したんだろうさ。言ってしまえば、戒めじゃないかな?」
「そんなのありなのか……。まだ見える人類全てがご老人のほうがよかったなぁ」
「もしかしたら校訓にひどく逆らう行動をすれば、老いる現象も起きるかもしれないけどね。視認する者がカメレオンに見えるのは、注意勧告と言ったところかな? これは呪いを受けた者が人間に変化すれば受動的に戻るのか。あるいはカメレオンに見えた者は潜在的に危険性があり、能動的に動かねば人間には見えないよという注意勧告なのかもしれない。うん、未知ばかりだ!」
 珠姫が早口になっている。目がキラキラ輝いているし。うん、これは未知が既知に変わりつつも――また新たな未知が出てきて興奮しているな。
 本当に変人だ。いや、変態カメレオンだ。
「学園の歴史は長いってのに。なんでよりによって感染媒体の第1号が俺なんだよ……」
「初代校長の思想や遺志と、波長が合ったんじゃないかな? 義兄さんは周囲の顔色をうかがう自分や生徒に嫌気がさしていただろう? 出る杭は打ち、自分の考えを発言すると仲間外れになるのではないかと怯え、その場に溶け込もうとする者たちを」
「…………」
 珠姫の指摘に、思わず顔をしかめる。心当たりがありすぎる……。
「確かに、大神くんはそういう感じの話をしてくれてたよね。確か……みんなは歩くワイドショーみたいだって。周りに合わせる生き方が、すごく疲れるって」
「言ってたなぁ……。あれでもオブラートに包んだけど、内心はもっと過激なことを思ってたよ。もっと全員、自由に言い合えよとか」
「そんな初代学長に近しい考えを持ちながらも我が義兄は、愚かな考えを抱いた。『学園生徒と話題作りのきっかけになるから、告白してくれた子と交際するのもありかも』などとね。その結果、呪いを受けたというわけだ」
「マジかよ。お前、男として最低だな」
 白井カメレオンが蔑んだ視線を向けてくるが、もうこれは受けとめるしかない。俺がクズだったよ。
 項垂れていると――。
「みんなの姿は『お前らは周囲に溶け込んで自分から変化しないカメレオンだ』と風刺しているんじゃないかな! 変化した姿は、その人の色なのやも。性質や気質、特徴とも言えるか。人間になりたければ、鏡か義兄さんの瞳を通じ示して見せろ! ふふっ、面白い挑戦状だ!」
 ご機嫌な珠姫の声に顔を上げた。ものすごくキラキラ輝く瞳をしている。
「お、おい待てよ! それなら俺がライオンじゃなくてシマウマになったのは……」
「自己認識と本来の姿は、必ずしも一致しないのだろうさ。シマウマは……一般的にやや気性が荒く、仲間や集団をとても大切にする。仲間や集団の為には勇敢、そして臆病で神経質な一面があると言われているね。自分の気質と一致している心当たりはないかい?」
「う……」
「た、確かに、黒一はそういうとこあるよね。で、でもあれだよ! 気性荒いって言ってもライオンより大人しそうだし。ビクビクしてても仲間の為には勇敢ってギャップ、可愛くて良いと思うよ!」
「貴子、男に可愛いは褒め言葉じゃねぇんだって……」
「え、ダメだった!? 私、傷つけちゃったかな!? 黒一ごめん、ごめんね!」
「いや、いいんだ……。うん、貴子に悪気がないのはわかってるからよ」
「つまり、花宮は悪気なく人を追い込むのか。花宮が言ったことを要約すると、中途半端にイキッって、仲間がピンチになるまではビビってるってことだもんな」
「ち、違うの! 私、そんな意味で言ってないからね!? あぁ、もう。やらかしたぁ……」
「オイ、大神! テメェ貴子を虐めんじゃねぇよ!?」
「虐めてない。白井、尊いとは思わないか?――頑張って励まそうとして、逆にやらかしたと気がついたら恥ずかしがる。この姿を」
 俺は尊いと思います。後悔と恥ずかしさで身をよじる姿が、本当に可愛い。白井も同意したのか「確かに……」とかいいながらカメレオンの舌を出している。……変態にしか見えない。
「――そろそろ、話を戻してもいいかい? それとも、ぼくは退室しようか?」
 指でトントンと机を鳴らて苛立ちを顕わにする珠姫の言葉に「はい、すいません。どうぞ」と俺はペコペコ頭を下げた。珠姫様に見捨てられたら、本当に余裕がなくなる状況なんだ。たまにふざけないと精神の安定が保てないとはいえ、珠姫のご機嫌を損ねるわけにはいかない。
「……骨格は動物ながら、顔や体は白井黒一で一部、ぼくは完全に人間。そして短時間で変化前に視認していた世界へと戻った。これは『校訓の遵守度』が関係しているんじゃないかい? 少なくともぼくは、この中で最も初代学長の言う素晴らしき人間性に近い自信がある」
「ぐ……」
 白井は言い返したいのだろうが、口をつぐんだ。心当たりがあるんだろうな。
「花宮は、1番お怒りを受けた俺の次に校訓に沿ってない人間ってことか。心当たりはあるか?」
 俺の問いに、花宮は狐の眼球をキョロっと動かしながら、また鼻を触り――。
「私は、全く心当たりがないかな?」
 言い切ってから唇を舐めた。銀狐が唇を舐める仕草って可愛いな。
「だとしたら、どうしたもんかね……」
 頬杖を突きながら、ため息混じりに呟いてしまった。
 2体のカメレオンと1体の狐に囲まれる異常な世界を見渡し、今後どうしたものかと。
「……仮説がこれだけ立ったんだ。花宮貴子先輩も、とりあえず校訓に沿った行動をしてみるといい。明日から義兄さんと一緒にね。このままでは発狂しそうで困るのも事実だろう?」
「……それは、確かにそうだね。……ねぇ、この呪いって自然に解けたりしないかな? 例えば、卒業しちゃえばもう初代学長の生徒じゃないよね!?」
「どうだろうねぇ、前例がないからな。まぁ卒業生や中退生でも、履歴上は我が青望学園に入学した事実は変わらない。これほどの呪いを残すような執念深い初代学長が、見逃すと思うかい?」
 珠姫の歯に衣着せない言葉に、花宮はほんの少しだけ暗い顔を見せるが――。
「そ、そうだよね。じゃあ、頑張ってみようかな。最初から諦めてても仕方ないし」
 すぐに笑顔を作り、グッと力こぶを作った。……完全に無理して平気なふりしてるな。
「では義兄さん、頑張って人間になってくれたまえ。現状、お互いに視認する世界を共有しているのは義兄さんと花宮貴子先輩だけだ。一緒に創造、冒険の方策を探り協力するのがいいと思うよ」
「ああ、そうだな。花宮、明日からよろしく頼む」
「うん、よろしくね。――あ、夕飯と配信の準備もあるから今日は帰るね! また明日、学校で詳しく話そう!」
「俺にできることがあったら、言えよ。あの世界が続くのは嫌だろ。貴子のついでに協力してやるからよ。……お邪魔しました」
 荷物を手に取りながら、礼儀正しく帰っていく2人。俺は「大したお構いもできず」と教科書通りの返答をして見送った。
 色々あって、とにかく疲れた。手早く片付けやら家事を終わらせて、叶魅りあの配信を聞きたい。
 そう思いリビングに戻ると、珠姫が紅茶のカップを見つめながら思索に耽っていた。
「珠姫、どうかしたのか?」
 ふだん見ないような珠姫の姿だから、心配になる。珠姫は俺に視線を向けることもなく、重苦しい声を絞り出すように――。
「花宮貴子先輩か……。あれは大した女狐だね」
 そう呟いた。考えていたのは、花宮のことか。
「そういえば、珠姫は花宮と直接話すのは初めてだったよな。どうだった?」
「どうとはなんだい?」
「叶魅りあの配信は視聴したことがあるけど、中の人と話すのは初めてだろ。なんか感想とかないのかなってさ」
「感想か、さっきも言ったように女狐だよ」
「それって男を騙す、ずる賢い女って意味だよな」
「ぼくは大げさとも言いすぎとも思わないよ。きっとあれで大勢の人を騙し人気を得て、配信で金を得ているんだろう。どういう理由があるかは知らないが、ずる賢いも大きくずれてはいないと思うね」
「おいおい、いくらなんでも言いすぎじゃないか? 俺の前で叶魅りあを批判するとは良い度胸だな」
「か、叶魅りあまで批判はしないよ。配信者として多くの人に好かれ、元気を与える言動を心がけるのは良いことだからね」
「だよな。全肯定励まし系Vチューバーとして、叶魅りあは頑張ってる。それは素敵なことだろ?」
「義兄さん、顔が近い近い。怖いよ」
「おっと失礼。推しのことだからつい、な」
 俺も思わず感情的になってしまったよ。気がつけば眼前にカメレオンの顔があった。
 推しをバカにされたら、義妹だろうと攻撃的になってしまう。仕方のないことだが、気をつけよう。額から滲み出た汗を拭くカメレオン姿の珠姫をみながら、ちょっとだけ反省した。
「配信の時はそれでいいさ。――だが、リアルでも女狐なのは問題があると思う」
「……ちなみに、珠姫はどこから花宮を女狐だと判断したんだ?」
「義兄さんはさ、今日の彼女の言動から違和感を覚えなかったのかい?」
「……そりゃあ、違和感はあったよ。作った表情と声で、本音を隠してそうだなって」
「まさにその通りさ。肝心なところで、常に本心を隠している。だからこそ、女狐なんだ」
「…………」
 やはりかと思うと同時に、どこで断言できるほどの判断をしたのかが気になる。
 そんな俺の心情を察してか、珠姫は紅茶を飲んだ後、軽くため息を吐き――「花宮貴子先輩は、嘘で本心を隠して人と接している。表面の優しい美しさに捉われず、仕草をよく見ればすぐにわかるよ」と、真っ直ぐ俺の目を見据え伝えてきた――。
 その夜。配信で見る叶魅りあは、自身がリアルで銀狐になるという異常事態に遭遇したとは思えないほど――いつも通りだった。
 今日も笑顔で全肯定励まし配信をおこない、マイナス気分の相談事も『ん~』と言いながら、無理矢理プラス方向へと変換している。本当に、プロ意識が高いな。
 本心から敬服すると同時に……全く底が見えない花宮が、俺は少しだけ怖くなった――。

 迎えた翌日、火曜日の放課後。教室で1人窓の外を眺めていると――。
「――お待たせ! ごめんね、遅くちゃって!」
 朗らかな笑みを浮かべる銀狐――花宮がカララ、と扉を開け声をかけてきた。少し息切れしているのが色っぽくて、ミステリアスな彼女の魅力をさらに引き立てている。
 これで狐姿じゃなく、人間姿ならパーフェクトだったのに。ナイスボディな美少女と放課後の待ち合わせ、さらに言えば、最推しである叶魅りあの中の人だ。もう夢のような状況だっただろう。人外とリアルで話しているのも、ある意味では夢みたいだけどな。
「待ってないよ。今来たところ」
「そんなわけないじゃん。大神くんは帰りのSHRの後、教室でずっと座ってたんだからさ」
「気分だよ、なんかデートの待ち合わせみたいに入ってくるから」
「あ~なるほど。確かに、そうだったかも?――大神くん、女の子とデート……したいの?」
 純情な俺の心を弄ばないでもらいたい。「初心な反応可愛いなぁ。もうちょっとからかっちゃおうかなぁ」と言いいながら細められる瞳にドキドキさせられて……心臓に悪いです。
「ひとまず、ゆっくり話せる場所にいくか。こういう時、学生はファミレスを使うんだろ?」
「大神くんもその学生だけどね。じゃあ、私がよくいくお店にいこうよ! ここから近いし」
 同級生と初めていくファミレスか、緊張するな。カメレオンの群れがサッカーや野球に打ち込んでいる校庭を横目に、俺たちは校門を出た。
 あのカメレオンどものどれかが白井なんだろうなと思いつつ、道路に出て目的地へと歩く。
 ヤバい。そういえば珠姫以外の女の子と2人で道を歩くとか初めてだ。何か話すべきだよな。楽しそうで気になる話題……。
「――今、何か話さなきゃって思ってるでしょ?」
「な、なぜバレたんだ?」
「顔を見ればわかるよ。私に気まずい思いをさせないようにって、頑張ってくれてるのはさ」
「……さすが、八方美人。人の顔色を見るのが上手い」
「ふふっ。ありがとう。場を乱さず調和的な人って意味で受け取っておくね?」
「それは前向きすぎ」
「これぐらいのが話しやすいでしょ? 優しいから、私が暗いと気を遣わせちゃうかなって」
「さすがです。……昨日も世界が変化した当日なのに、ちゃんと前向き配信してたな」
「昨日も配信来てくれて、ありがとう。私たちがこういう状況だろうと、みんなはいつも通りだからね。笑顔になりたい癒やされたいってリスナーさんに、ちゃんと応えなきゃ!」
「……花宮はさ、配信者してて不安になることってないの?」
「不安かぁ。それ校訓にもあるし、現状にも関係してるよね。……あると言えば、あるかな」
「例えば?」
「推してくれる人が減ったらどうしようとか、リスナーさんを元気にできてるかなとか」
「そういうことか。確かに、コメントに対して会話してるだけで相手の顔も見えないからな」
「うん。……リスナーさんは勿論、コメント量とか投げてくれるアイテムが減ると、飽きられちゃったのかなって不安にもなるよ」
 切なそうな顔を浮かべながら、そう呟いた。……これは本心だな。
「安心してくれ、俺はどんな時でもコメントやアイテムを投げるからな」
「いつも言ってるけど、無理のない課金でね。コメントをたくさんくれるだけでも嬉しいからさ」
「任せろ」
 どこか覚えがあるやり取りをしながら、俺たちはファミリーレストランへ入った――。
 花宮御用達というファミリーレストランに入店した俺たちは、ドリンクバーと軽いデザートを店員へ注文した。花宮はチーズケーキとコーヒーを口に運び、幸せそうにしている。よかった。カメレオンが皿を運んできた時は若干笑顔が引きつってたけど、今の笑顔は自然だ。
「美味いな」
「うん、美味しい! 侮れないよね、ファミレスって」
 原価は異常に安いと噂のジュースを飲み、解凍ものだろうガトーショコラを食べながら改めて思う。
 美味いと思うのが人の感情によるものなら、『楽しい』、『幸せ』などポジティブに思える環境は味覚への最高のトッピングだ。
 逆に『退屈』、『不幸』などネガティブに感じる環境は、逸品料理すらぶち壊すトッピングとも言える。
「ああ、侮れない。本当に美味しい」
 花宮こと叶魅りあは、俺の感情を救ってくれた。今この時も、そして転校続きで友達もできず、マイナスな心理状態にあった時の俺も。
 だからこそ――俺は何としても、彼女が辛く苦しんでいる状況をなんとかしたい。救ってもらった恩返しがしたいんだ。同時に抱いている彼女への『気になる』という感情の正体は恋心なのか。それとも未知に対する知的好奇心なのかはまだわからないけど。
「……昨日、改めて珠姫と考えをまとめたんだ。どうすれば人間に戻れるかって、有力そうな仮説をさ」
「そうなんだ、本当に仲がいいね。――それで、どうするのがいいってなったの?」
「結局は校訓の遵守がキーなんだとすると『信念』、『希望と理想へ向かう行動』、『自信』を得ることなんじゃないかってさ」
「信念に、希望と理想、自信かぁ……。校訓だと、老いる原因はその反対で『疑惑』、『恐怖』、『失望』だっけ?」
「ああ。俺は信念を持ったことで、カメレオンから狼になったからな」
「なるほど。つまりマイナス要素を抱えているのを、プラスに変換していけば良いんだね?」
「そういうこと。……叶魅りあの得意技だな」
「そう、だね。私はいきなり狐だし……元々その3つどれかのプラス要因があったのかな?」
「そうじゃないかな。これは既に持ってるだろうなって心当たりはあるか?」
「信念、かな。誰かを笑顔にしたいって気持ちは真っ直ぐ持ってるし、行動してるから!」
「そうか、確かに。俺が持ってるのとも一致してるし、明日からは残った希望と理想、自信を得よう」
「……そうだねぇ。2人には悪いかもだけど、それ以外の可能性も捨てず頑張ろうか」
「……そうだな。ちなみにだけど、他の2つの要素を持ってると、花宮は自分では思うか?」
 俺の問いに、花宮は視線をわずかに泳がせてコーヒーカップを擦りながら――。
「私は、持ってると思うよ。希望も目標も、自信も」
 笑顔でそう答えた。
「――嘘、だよな」
「え?」
「前にも言ったけど、俺は花宮と本音で会話して、支え合える関係になりたい。旧校舎で告白を断った気になる人ってのも、こういう違和感がある花宮のことが気になってだ」
「ちょ、ちょっと待って! 私、嘘なんて――」
「行動心理学でさ、なだめ行動ってのがあるらしいんだ」
「……な、なだめ行動? 急になん話かな?」
「そう、人が無意識にする仕草で、本音か嘘をついているか、心理状態を読み取るってものらしいんだ」
「…………」
「まだ俺のことが信用できないのかもしれないけど、同じ異常な世界を視認して共有している仲だ。徐々にでも、本音で話してくれると嬉しい。さっき、配信で不安になることを話してくれたみたいにさ」
「……あれかぁ」
「平等かつ対等でありたい。俺は本音でぶつかるから、こうしてまた2人っきりで何か食べる時だけでもいいから」
 少し押しだまった後――花宮が驚いたような表情を向けてきた。
「お、大神くん! 顔が……!?」
「え、顔?」
 思わず触れると――もふもふの毛がない!?
「え、まさか戻ったのか? 光ってないのに?」
「戻ってるよ、ほら! 珠姫ちゃんと同じ、耳と尻尾がある以外は人間だよ!」
 花宮の差し出した手鏡を覗き込むと――。
「おお!? よう俺、5日ぶりだな。狼の耳は邪魔だけど!」
 間違いなく、人間の顔に戻っていた。自分の顔を見て、こんな嬉しいと思う日が来るとは!
「本当によかったね、おめでとう!……でも、なんで急に戻ったんだろね? 光ることもなかったし」
「呪いをもらった諜報人だから、光らないとか……? 戻った理由に心当たりは――……あ」
「なになに!? 少しでも心当たりがあるなら、教えて」
 やっぱり、どうしても人間の姿に戻りたいんだろう。花宮が身を乗りだしてくる。
「多分、希望と理想へ向かう行動を……示したからだと思う」
「……え?」
「俺の希望と理想は、花宮と本音で語り合って支え合える関係になるってことだ。それに向かって具体的な行動をしたからじゃないか? タイミング的にも」
「……そっか、やっぱりそれが必要なんだね」
「うん、多分な。だから花宮も、もう一回理想とか希望、自信について検討していこう。俺も頑張るからさ」
「…………」
 なぜか花宮は何も言わなくなった。居心地悪そうに何事か悩んでいた花宮は――。
「うん、私も頑張るね。あ、方針も決まったし、帰る前にちょっとお手洗いにいってくるよ」
 そう言って笑顔で立ち上がり、トイレへと消えていった。
「――やっぱり、花宮の本音を引き出すのは……難しいかぁ」
 珠姫とも予想はしていたけど、花宮の心の壁は厚そうだ。
 一体、なんで花宮は本音をそこまで覆い隠そうとしているんだろうな……。
「……あ、そういえば」
 テレビで見た『できる男のエスコート術』を思い出した。安心して心を明かせるような、頼れる男っぷりをアピールする為にもやってみるか。
「すいません、先にお会計いいですか?」
 俺は伝票とスマホを手に、レジへと向かった――。
「――お待たせ! じゃあお会計して帰ろうか!」
 座って待っていると、花宮が戻ってきた。
「ああ、そうだな。明日、実際にやることは俺が計画を立てておくよ」
 鞄を持って席を立ち、レジ前を通り店内を出ていこうとすると――。
「あれ、お会計は?」
 花宮が財布を手に立ち止まり、聞いてきた。
「花宮がトイレいってる間に済ましておいた」
「……はい?」
「ほら、こいつで」
 俺はQRコード決済ができるアプリを開き、花宮に見せた。いつもいくスーパーなどでも使えて、ポイント還元があるからと入れたものだ。
「え、自分の分は払うよ!?」
「今回はいいよ。花宮に本音を話して欲しいって一方的なお願いをしたからさ。その分だと思ってくれ」
「……そうはいかないって」
「じゃあ、また次に来た時はちょっと多めにお願いするよ」
「……わかった」
 まだ納得がいってないのか、花宮はかなり不満気だ。レジ前で話していると邪魔になってしまうからと引いたように見える。テレビでやってた反応と違うなとソワソワしながら店外に出る。おかしい、こうすれば喜ぶって言ってたのに……。
「今日はご馳走様。――あ、そうだ。私たち連絡先とか知らないよね。交換しようか」
「ああ、そうだな。これ、みんな使ってるんだろ?」
 それは、俺にとってはほぼ家族と連絡を取る為に使うチャットアプリだ。連絡先なんて家族や親族のみだったんだけど……ついに、俺にも友達が追加されるのか。
「交換の仕方わかる?」
「……すまん、わからない」
「もう、じゃあスマホ貸して?」
 にこやかな笑みの花宮から「早くよこせ」という圧を感じる。素直に手渡すと、2台のスマホを手際よく操作する花宮を見て――悔しさを痛感した。自分が一般的な高校生らしくないことで、改めてぼっちなんだなと体感するよ……。
「そうだ、電話番号も交換しようよ」
「電話? このアプリ、通話もできるんじゃないのか?」
「そうだけど、電話番号もあったほうがもしもの時にいいじゃん?」
「なるほど、そういうものなのか。……えっと、これが俺の電話番号だな」
 現代社会の常識は俺にはわからないからな。言われるがままに電話番号の交換をした。
「うん、これでお互い登録できたね。今日はありがとう! じゃあ、また明日ね」
「あ、うん。また明日。……本当、行動が早いな」
 スマホの操作に未だ悪戦苦闘している俺を尻目に、花宮は狐の尻尾を揺らしながら駅へ向かって走ってゆく。送っていくとか、できなかった……。
「ふぅ。登録できたし、これでいいんだよな」
 俺も帰るか――と思った時、スマホから通知音が鳴った。
「あれ? これ、さっきの決済アプリ?」
 見ると『花宮貴子から受け取り依頼が来ている』と書いてある。
「電話番号から……俺の決済アプリのIDを特定したのか?」
 受け取り依頼の金額は、キッチリと彼女が飲食した代金だった。
「対等であろうとする誇り高い子ってことか、それともトップVチューバーである私の収入を舐めるなよってことかな?」
 自分の分は自分で払う。自立して対等でありたい。そういう信念を貫く子なんだろうなと思ったが、ふいにさっき店内でした会話を思い出し――。
「――これってもしかして、本音を話す義理を消したってことか?」
 本音で話して欲しいと一方的なお願いをしたから俺が奢る。そういう建前だった気がする。慣れないことをしたから、内心あっぷあっぷしててよく覚えてないけど。
 つまり、その建前を消したということは――。
「……さすが狐さんだ、警戒心が高いなぁ」
 私はあなたに本音を見せません。これが、そういう意味の行動じゃないといいなぁ。
 そう願いつつ、俺は苦笑しながらトボトボと帰路につく。
 俺の尻からぶら下がる狼の尻尾は今、力なくしょんぼりとしているだろう――。

 翌日の水曜日。俺たちは放課後児童クラブというところに参加する為、地域の児童館にきていた。これは放課後、まだ保護者が帰宅していない子供たちに適切な遊びを提供したりするボランティア活動らしい。
「大神さんに花宮さん、ようこそ。今日は他の高校からも2名ボランティアの方が来てくれていて助かります。では、早速ですが子供たちと遊んであげてください。あ、後でイベントをやる予定なんですが、それはまた説明しますね」
「わかりました」
「今日はどうぞ、よろしくお願いします!」
 快く俺たちを迎え入れてくれた女性職員さんが、子供たちへ俺たちのことを説明している。すると、花宮がバレないようか細い声で「よく昨日の今日で、NPO法人さんから許可が取れたね?」と聞いてきた。
「電話したら、割とすぐだったぞ。これなら人を笑顔にしたいって花宮の希望や理想にもバッチリかなって」
「うん、そうかも……。ありがと」
 今のは心からのお礼だったみたいだ。笑顔も自然、声音も自然で……やっぱり、こっちの花宮のほうが俺は好きだ。
 ――まぁ、遊んでと元気に群がる子カメレオンに囲まれてからは、作り笑顔になったけど。
 ちなみに俺のほうには、ほとんど子供が来ません。俺が近づくと怖がって逃げるのを見て、花宮は苦笑している。身長が大きいことに加え、無愛想なのが良くないらしい。
「大丈夫ですよ、はい笑顔! こうやって作るんですよ!」
「こうですか?」
 職員さんが教えてくれるが、中々上手くいかない。ヤバい、泣きそう。って言うか、カメレオンフェイスの人に実演されてもさ。人間の顔に戻った俺がカメレオンの顔真似できないのは仕方ないと思うんだよ。
「大神くん、こうだよ。笑顔はこうやって作るの」
「……こう?」
「ん~、うん! 少し硬くて苦笑してるみたいだけど、良くなったよ。むしろ、そのほうが逆に子供から受けるかも!」
 作り笑顔の達人、花宮の指導でだいぶ変わったらしい。
 それでも「ん~」って、プラス方向に変換する癖が出てたから、結構ヤバめの笑顔なんだろうけど。
「ほら、みんな来て! このお兄ちゃんとも遊ぼうよ。身長高いから怖く見えるけど、本当はすっごく優しくて良い人なんだよ?」
 花宮が小学生を集めて、俺を紹介してくれた。集まった子供の目は、まだ怯えている。
「えぇ……本当?」
「本当だよ? お姉ちゃんが辛くないか、いつも気にしてくれるし、義妹さんにはデレデレだし。……例えばだけど、誰かが1人で慣れない場にいたら、頑張って盛り上げて人がたくさん来るようにしてくれたりとかね。それで、慣れてもずっと応援してくれたりするんだよ?」
「本当?……じゃあ、お兄さんも一緒に遊ぶ?」
「あ、ああ。そうだな、俺とも遊ぼうか。……何して遊べばいいんだろう」
 花宮が俺の良いところを子供たちに語ってくれたおかげで、子供から話しかけてくれる。来てくれたのは本当に数人だけど、場から浮かないようにしてくれた。……こういうところが、花宮の魅力だよな。
 人の良いところを探すのが上手いんだ。人の悪いところは目につきやすいけど、良いところをスッと見つけられるのは本当にすごい。しかも、さっきの言葉は嘘じゃなかった。一部配信の俺も混じってるけど、本心から思ってくれているということは……素直に嬉しい。
 花宮は顔色をうかがっているからこそ、誰よりも真剣に相手を分析しているんだな。そうして上手く場に馴染ませてくれる。教室では俺が人に合わせるのを嫌がるのを理解して、人付き合いを無理強いしてこないし。
「お姉ちゃん! 早く、早くあっちで遊ぼうよ!」
「うん、いいよ。――わ、わかったから引っ張らないの! ぶつかっちゃうよ?」
 子供からの1番人気は花宮。次に他校から来ている生徒たちで、圧倒的最下位が俺だろうな。でもいいんだ。相手との会話が少なくても真顔でやれるビリヤードとかやるのも、結構楽しいし。相手が子供だろうと、俺は本気だ――。
「大神さんと花宮さん、この後イベントをやるんですが……この衣装を着て、壇上に上がっていただけませんか?」
 子供と楽しげに触れ合えない俺を不憫と思ったのか、職員さんが提案してくれる。手に持っているのは……仮想衣装か?
「それ、織り姫と彦星の衣装ですか?」
「ええ、2週間後の金曜がハロウィンでしょう? そちらでも何かやろうとは思っているんですが、まだ衣装ができていなくて。それなので、七夕の演劇の時に使った衣装で代用できたらなと」
「なるほど、それを着て壇上に立てばいいんですね。私はいいですよ! 大神くんもいいよね?」
「……はい、頑張ります」
 正直、ガラではない。でもここまで俺はなん役にもたってないし、花宮におんぶにだっこ状態だ。楽しみにしてくれてる子供たちもいるし、恥ずかしいとか言ってられない。
「壇上に立って手を振るだけでいいんですよね?」
「いえいえ。舞台上で歌を披露して頂きたいなと思います」
「――え、歌……?」
 今まで完璧な作り笑顔だった花宮が女性カメレオンさんの顔を見たまま凍りついた。
「どうしたんだ……?」
 思わず小さく声が漏れる。叶魅りあの歌はプロレベルだと思うし、問題ないだろうに。
「はい。とは言っても子供たちが知っているような童謡とか、最近ネットとかで流行している権利フリーの楽曲ですが。私が伴奏をしますので、何か曲のご希望があれば事前におうかがいしたくて……花宮さん? 顔色が優れませんが、どうかしましたか?」
「い、いえ……」
「では、マイクの準備などもあるので、後10分後に開始しますね。子供たちを笑顔にできるよう、一緒に頑張りましょう」
「笑顔……」
 職員さんが準備の為、爬虫類の尻尾を引きずりながら駆けてゆくのを眺める。
「彦星の衣装を着て人前で歌うとか、ぼっちにはハードルが高いなぁ。まぁ花宮はアバターイラストのイベント衣装みたいな――……。花宮?」
 隣をみると、花宮に異常が起きていた。毛に覆われていない狐の鼻は血の気を失い、口元は小刻みに震えている。目は見開き、まるでここにはいない化け物でも見ているようだ。尻尾も震えているし、こんなに動揺している花宮なんて、銀狐化した時以上じゃないか……?
「どうしたんだ、何かあったのか?」
「わ、私……歌うのは無理」
「は? 配信であれだけ歌ってるのに?」
 何を言っているんだろう。冗談……とは思えない。笑顔もなく、これだけ恐慌状態に陥る姿は、演技とも思えないし……。
「あれは誰も見てないところで、スマホに向かってだから……。人前じゃ、私は何も披露できない……どうしよう」
「花宮……」
「に、逃げ……投げ出したら嫌われる、怖い。逃げたら子供たちの笑顔が……。ああ、ぁあああっ」
「おい、どうした!?」
「大神くん、私はどうしたらいいっ!? 無理、あんな思いはもう二度としたくない……!」
「花宮、おい、おい!」
「どうしよう、どうしよう……私、やれないのに。でもやらなきゃダメになる……怖いけど、でもっ!」
 花宮が俺のブレザーにしがみついてきた。……なんだこの手、震えてるのに、必死にしがみついてくる。パニックになっているのか、言ってることがめちゃくちゃだ。声も震えているし……花宮に何が起きてるんだ?
「一回深呼吸して落ち着け!」
「見ないで、そんな目でっ。違う違う違う、私は何もしてないのになんでこんな……」
 その目は明らかに俺を見ていない。いや、それどころか――小刻みに揺れ動く瞳は、虚空を見ているように色を失っていた。顔は悲痛に歪み、もはや作り笑顔どころじゃないらしい。正直、見るに耐えない姿だっ。そう――こんなに辛そうな花宮を、俺ははなつておきたくない!
「おい、どうしたんだ!? 何をそんな怯えてる!?」
「おび……やならきゃ、そんな目で見ないで、違うっ。私はそんなことっ……」
「花宮ッ!――俺を見ろッ!」
 毛に覆われた顎をガシッと掴み、無理矢理視点を俺に向けさせると――。
「……お、大神くん? 私、逃げたくないけど……動悸が、身体中の血が、ザワザワしてっ。どうしても、人に見られながらだと歌えないっ。みんなを笑顔にしたいけど、でもっ! ダメ、泣いちゃダメ弱みを見せたらもっと……。頑張らないと、私は……」 
 ――花宮の瞳は、涙に濡れていた。
 こんな顔、花宮も見られたくないだろう。俺が無理矢理抱きしめると、胸の中で暴れながら自分を必死に鼓舞している。なんて痛々しい姿で、前を向かなければと美しく生きようとしているんだろう……。それなら俺は、彼女の考えを否定せず、支えたい。
 失礼とは思ったが、柔らかい狐耳ごと頭をなでながら――。
「――なら、こうしよう」
 1つの提案をした――。
 最初は心ここにあらずだったが、内容を繰り返し聞かせ理解させる。やがて納得したのか、呼吸が乱れていた花宮が落ち着いてきた。「ちょっと準備してくる」と頭を一なでしてから、俺は準備の為に走る。初めて花宮が俺に本心から弱みを見せ、頼ってくれたんだ。絶対に、なんとかしてみせる――。
 それから10分後、舞台上には彦星衣装を着てマイクを持つ俺と――。
「無愛想ででかい兄ちゃんが歌うのか?」
「マイク持ってるし、そうなんじゃないかな。……なんだ、花宮姉ちゃんじゃないのか」
「ねぇ、あの隣にあるでかい段ボール箱は何かな?」
「飾り付けされてるし、演出じゃね?」
 飾り付けされた段ボール箱が設置されていた。
「これなら、壁しか見えないだろ?」
「うん、大丈夫。隙間がちょっとあるけど、震えるほどの視線は感じないから。これなら歌える……かも。頑張る、私は、頑張るから……」
 俺は少しのけぞり、客席と反対側が開いた段ボール箱の中をのぞき見る。織り姫衣装を纏いマイクを手にチョコンと座る花宮と小声でやり取りして、なんとかいけそうだと確認した。
 これなら客席からは見えないだろう。畳まれていたものをもう一度組み立てさせてもらったからな。折れ目に隙間があるのが心配だったけど……装飾をパパッと飾ってなるべく外が見えないようにした。だから舞台下の目線は気にならない……はずだ。
 未だ平静とは言えないが、声の震えや呼吸は落ち着いてきたみたいだ。一体、何が花宮をここまで追い込むのか……。深呼吸をしながらも、強い決意を感じさせる瞳が見える。
 人前で歌うのが無理なら、配信に近い状態を作り出せばいい。この発想で、花宮の願いを叶えてやれるだろうか。いや、やってみよう。無理なら、俺の持つマイクをオンにして下手な歌でも全力で歌ってやろう。
 織り姫と彦星を隔てているのは、ロマンチックな天の川ではなく段ボール箱。しかものぞき見ればいつでも会えるというのはシュールだけど、これは仕方ない。
 袖まくりをして、硬い毛だらけの腕を出す。よし、気合いが入ってきた。ピアノの前に座るカメレオンさんに向け、いけますと頷く。
 そうして美しい旋律の伴奏がはじまり――。
「え!? これ、あの兄ちゃんの歌声!? めっちゃ綺麗!」
「いや、どう考えても女の人の声じゃん!」
 それは学校で習うような、誰もが聞いたことがある童謡。俺は伴奏に合わせ、口パクをする。自分が歌っているように見せかけつつ、筋肉自慢のボーカリストが舞台上でパフォーマンスをするように派手に動き周り――。
「ぎゃはははッ! 兄ちゃん、めっちゃイカツイ筋肉見せて格好つけてるのに、ヤバい!」
「歌声と見た目が違いすぎー! 笑いすぎてお腹が、お腹が痛い!」
 段ボール箱から離れたところで、子供たちの視線を集めた。子供は笑いのツボが浅くて助かる。派手にアホなことをすれば、だいたい笑ってくれるな。
 視線がさらに自分から離れたのを認識したのか、花宮の歌声が一段と美しくなる。
 ああ、叶魅りあの生歌……。俺も幸せだ。何よりこの後、続けて伴奏されるのは――。
「あ、この曲知ってる! めっちゃネットで流行ってるやつだ!」
 歌ってみたなどを公式に許可してくれているクリエイターユニットが作曲した、ポジティブ系ロックを主体とする名曲だ。ちなみに、俺の私情をものすごく交ぜてリクエストした曲。
 有名歌い手や配信者も歌っている。小学生でも当たり前にネットを視聴する時代なら、子供たちも耳にしたことぐらいはあるはず。ちなみに、俺も叶魅りあが歌うこの歌が大好きだ。生歌、最高です。
「オイオイ、意外にクオリティたけぇな。動画撮っとこ!」
「あ、ウチも撮るわ! ボランティアとか初めてだけど、これなら課題やらされるよりよっぽどいいよ」
「でも、どっかで聞いたことあるような声だな……」
「わかるわ、ウチも聞いたことある……誰だっけな。歌い手に似てる?」
 おい、止めろ。こんな衣装を着てる俺を撮るな。お前ら、一緒にボランティアに参加してる高校生だろ? 良識を持って手伝えよ。そうは思いつつも、止められない。完全に平静を取り戻したのか、いつもの配信と同じように人を魅了する歌声が館内に響いている。
 俺もテンションが上がっていたが――子供たちはさらに大喜びだ。もう静かに座って聞いていられないのか、舞台のすぐ下まで来て騒いでいる。もう、この熱狂はライブだろ。
 叶魅りあ……というより、花宮貴子フィーチャリング大神優牙の初ライブになっている。俺はそれっぽく口パクして観客を煽ってるだけだがな!
「――どうも、ありがとう!」
 歌が終わったのに合わせ、舞台の中央に戻る。バレないように段ボール箱の中をのぞき見ると――。
「ぁ……。私の歌で、みんなが笑顔になってる。楽しそうに、笑ってくれてる」
 花宮が、一切の偽りのない澄んだ笑みで――心から溢れる涙を流していた。折れ目の隙間から舞台下ではしゃぐ子供たちを見て、感極まったようだ。
「ああ、花宮の歌声のおかげだよ。心に響かせられて、良かったな」
「大神くん、ありがとう、ありがとうっ。私、私……今まで諦めずに頑張ってきて、良かった」
 俺に視線を向けてくる銀狐が、目を細めてお礼を言ってくる。
「ああ、最高――まぶしっ!?」
「え、ええ!? もしかして私、光ってるの!? 自分じゃわかんな――」
 花宮がまばゆい輝きを放ち――。
「――……花宮、狐耳と尻尾が似合うな。やっぱり人間の顔に狐耳や尻尾って最強に可愛いよ。そこに涙とか……もう反則だって」
「……えっ、えっ!? わ、私は戻ったの!?」
「狐耳と尾がある以外な。叶魅りあにそっくりだけど、でもちゃんと花宮だ。……可愛いな」
「う、うるさいからっ」
 頬を真っ赤に染め、顔をぷいっと逸らされてしまった。でも、頭隠して尻隠さず。ふわふわご機嫌に揺れる尻尾のせいで、感情が隠しきれてないよ。照れている実写版とか……もう叶魅りあファンとしても最高。慣れないことをして、メンタルを削ったかいがあったよ。
「す、すごい演出だったね! 光まであるなんて!」
「楽しかった! お兄ちゃん、最高!」
 幸いにして、変化する際の光も演出と捉えてもらえた。その後、光った箱から花宮が出てきて、子供たちは豪華な登場演出にも大満足したようだ。
 俺たちは、人間に戻る為に幸先の良いスタートをきれた――。
 明日からもよろしくと別れた帰宅後、俺はご機嫌で珠姫に今日起きたことを報告したが……。
「それはまた……。花宮貴子先輩が抱える心の闇は、ぼくの予想以上だったのかもしれないねぇ」
 暗い顔でそう呟いた。
「……やっぱり、そう思うか?」
「うん、尋常じゃない様子は……女狐になった要因だろうね。そうならなければ、社会で生きられないと思うレベルの体験をしてきた可能性がある」
「そんだけひどい体験なら、白井あたりが何か知ってそうだな」
「……できれば、ゆっくりでも本人の口から聞き出せるのが望ましいんだろうが、それもありだと思うよ。話を聞くに、おそらく今回は『希望と理想へ向かった行動』が達成されたんだろうね。2人とも残すは『自信』か。――これが1番、厄介なものだよ。義兄さん然り花宮貴子先輩然り、ね」
「自信を持てとかよく言われるけど、そういうのは成功体験を繰り返した人間だから言える無責任な無茶振りだと思う」
「ぼくもそう思うよ。失敗体験と成功体験の数は人によって違う。異なるクオリアを視認しているのに、『自分ができたから、お前も大丈夫。自信を持て』と共有させたがるからね。不可能な話さ。ぼくも応援しているし、協力できそうなことを探しておくよ。義兄さんの為でもあるしね」
「ありがとう。お礼に今日は高いプリン買ってきたからな」
「わぁい! お義兄ちゃん、大好き!」
「……現金すぎる。こういう時だけ擦り寄るなって。カメレオンの肌がザラザラしてるんだよ。はぁ……。珠姫が猫になった理由がよくわかるな。まるで、お菓子を持ってきた時だけ異常に懐く猫みたいだ」
「ふっふ~ん。ぼくは一度懐いたらそのままさ!……しかし、義兄さんの目からは未だにぼくが等身大カメレオンという奇怪生物に見えているというのはいただけない」
 またしても思索に耽りだした。有効な対策を考えてくれているんだろう。本当、頼りになる義妹だ。俺が義兄としてできるのは、ちょっとお高いプリンを差し出すことぐらいだ。ふにゃっとした幸せそうな顔になったし、これも間違ってない恩返しだろう。
 そして叶魅りあの定期配信では――。
『今日ね、児童館の放課後ボランティアで歌ってきたの! もう、子供たちがすっごく喜んでくれてね、思わず私、泣けてきちゃった!』
 叶魅りあが本当に嬉しそうな声で、そう語っていた。
 雑談の中で無邪気に喜ぶその姿に、コメント欄は『おめでとう、よかったね!』、『生歌だと!? 俺も聞きたかった』といった祝福や愛のあるメッセージで溢れていた。
 負けじと俺もコメントをうつと同時に、義妹へ与えたプリンと同じぐらいの値段がする課金アイテムを投げる。
『――あ! オオカミ男爵さん、パフェ投げてくれてありがとう、本当にありがとうだよッ!』
 心なしか、いつもアイテムを投げている時よりも嬉しそうな声に聞こえる。花宮が抱える闇は気になるけど、この苦しみや辛さから解放されたような声や表情を見られて良かった。
 今日は、良い夢が見られそうだ――。
 
 翌日の木曜日。花宮と話し合い、『自信』獲得を目指す行動をするのに同意はもらえたんだけど――。
「――私が自信がないのは、やっぱりどれだけ人に貢献できてるかかな。強いて言えばね」
 鼻を触り、髪をイジりながらそう言ってきた。
 完全に嘘だろうな……。なだめ行動が出ている。以前指摘したのに、無意識なんだろうな。俺の視線に気付いたのか、花宮はハッと慌てて髪の毛から手を手放した。
 一瞬、ばつの悪そうな顔を浮かべたが、また作り笑顔に戻り――。
「――今日はさ、生徒会が募集してた募金活動ボランティアに参加しようよ。人に貢献できるし、ちゃんとした団体なのは学園側がチェックしてるから大丈夫だよ!」
 演技がかった声音でそう提案してきた。
 本音を聞き、支えるという目標。
 昨日はちょっと実践できたけど……。やっぱり道のりは険しい。
 俺は表情が硬くて怖いからと、ご当地キャラの着ぐるみまで着たとってのに。結果が出なかったことを、花宮は「目に見えて、自分が貢献できてるって実感できないとダメなのかも。明日からは、もうちょっと違うのを探しておくね」と、微笑を浮かべ告げてきた。
 珠姫は「……無駄足だろうと、行動経験そのものは無意味ではないだろうし。今は強く否定しないほうがいいのかも、人の心理というのは難しいねぇ」と語っていた。
 俺も同意見だけど……嘘で本心を覆いながら人間を目指す行動をしても、前に進めるとは思えない。だってそれは、誤魔化して逃げているのと変わらないんだから。確かに、ボランティア活動自体には意味があると思うけどさ。
 こういう時に、あの憎めない小型カメレオン――白井がいればいいのに。俺はあいつの連絡先も知らないし、学校ではカメレオンの見分けがつかない。人に聞くとか……顔見知りすら少ない俺からするとできれば避けたい。
「――全く。あいつはもうちょっと、しゃしゃり出てくればいいのにな……」
『みんな、今日も雑談定期枠に来てくれてありがとう! こんこん、こんりあ! 皆に元気と癒やしを届けにきた銀毛狐の叶魅りあだよ! あ、今日の1コメはオセロさんだったねっ。いつもありがとう!』
「――なに!? ふざけんなオセロ、しゃしゃんなよ!? 1コメを取られたぁあああッ!」
 考えごとに気を取られてオセロに1コメを譲るとはっ。しゃしゃりやがって、絶対に許さん――。

 金曜日は、駅ビル内でのスマホ講師ボランティアだった。
 これもよく探してきたものだとは思ったが、俺では力になれることは少ない。むしろ、俺にもスマホの使い方を教えて欲しい。俺は列に並ぶお爺さんやお婆さんと一緒に考えながら、操作を学び合った。
 そして今日も人間に近づく成果はなし。「まだはじめたばっかりだから、明日もよろしく」と、昨日より幾分か硬い笑顔で花宮は帰っていった。
 そして土曜日。早朝から珠姫や白井も巻き込んで、地域の環境保全ボランティアに参加することになった。ゴミ拾いから、公園や街路樹の雑草取りなどなど。
 白井に連絡先を聞いたり、相談したいこともあったんだが……。残念ながら大多数のカメレオンと「ここは俺に任せてください! あ、それお願いしてもいいっすか!?」と情熱的に上手くコミュニケーションを取っている輪には近づけなかった。変化現象とは違う意味で、俺には眩しすぎる。
 コレだからコミュニケーション強者ってやつは……。
 挙げ句、活動が終わると「そんじゃ、俺は部活いってくるから。またな!」と急ぎ自転車を飛ばして消えていった。本当に忙しない。あいつはカメレオンじゃなくてエリマキトカゲなのかと疑う。ちょっとはトカゲらしく、日向ぼっこみたくゆっくりしてくれよ……。
 その日も変化はなく、白井の連絡先すら手に入らなかった――。
 日曜は俺がバイトで忙しく、活動はなし。
 そして月曜、火曜、水曜と先週と同じように花宮が提案したボランティア活動に参加したものの――結果は伴わなかった。
 さすがに、ここまで連日成果なしは花宮こたえているようだ。最近は「……いつまでこの異常な世界が続くのかな。でかいカメレオンを見るの、もう嫌になりそうかも。ん~、でも本物は可愛いよね」とか、「……ごめん」と、力なく弱音を吐くことが増えてきた。面持ちも辛そうで……このまま放置すべきじゃないという思いが強くなってきた。
 元々線の細かった体が、もっと細くなっている。栄養不足か、はたまたストレスか……。
 さらに叶魅りあとしての配信も――。
『こんこん、こんりあ~。みんな、今日もありがとう。今日はね、クラスの子と一緒に――』
 毎日配信を続けているのはすごいが、日に日に無理矢理元気を絞り出しているように感じる。少なくとも声の張りは失われてきているし、話す内容に集中していない時がある。今の所、この変化に気がついて『平気?』などと心配するコメントをするのは、俺とオセロだけだ。
 でも最古参ファンの2人が揃って心配するほど――『全肯定励まし配信』が上手くいかない方向に変化しているんだ――。
「――長い目で見ていくつもりだったんだけど……な。申しわけなさそうに日々弱っていく花宮の姿を……これ以上、だまって見ていたくない」
 叶魅りあの配信が終わった後――気が重いけれど、花宮に『明日は活動じゃなくて、話し合いたいことがある』とメッセージを送る。
 すぐに既読がつき、それからしばらくした後、『わかった』と飾り気もない淡泊なメッセージが返ってきた。それは、今までの花宮としてはあり得ないぐらいに冷たい反応だった――。
 
 そうして迎えた木曜日、俺たちは以前と同じファミレスに現地集合していた。
「……話し合いって、何について?」
 抑揚のない冷たく硬い声、警戒するように無表情で俺を凝視してくる。まさか誰にでも良い顔をする花宮がこんな姿を見せるとは思わなかった。体の銀毛が、より冷たさを際立たせている気がする。
「八方美人な花宮らしくない姿、だな」
「……大神くんだし。言いふらされるとかないから」
「俺、信用されてるんだな」
「友達が少ないって意味でね。信頼っていうより、知っているだよ」
「……今のは結構、ダメージを受けた」
 本心や本音を語るという意味では、前より近づけた気がするけど……。いや、言っている内容は今までとあんまり変わらないか。喋り方と表情が違うだけで。
「……ごめん、私が全部悪いよね。振り回して、本当にごめん」
 スッと、無表情のまま頭を深々と下げてくる。
 自分でも、嘘で覆った状態で動いても意味はないとわかっているんだろうな。それなのに俺を振り回しているからと……罪悪感を覚えているのか。
「いや、それは全然気にしてない。ただ、花宮が抱える闇とかが気になる……。『自信』が持てず、『恐怖』を抱えてしまう理由……本当は別で心当たりがあるんだろ?」
 正直、この一言で嫌われるんじゃないかというのは怖い。それでも、あえて指摘しなければならない。
「…………」
「嘘をついた状態で、結果が出ずに苦しむ花宮を――これ以上見ていたくなくてさ」
「……違う」
「……あの児童館で、花宮自身が口にしていたよな。『人前では何も披露できない』、『嫌われるのが怖い』、『あんな思いはもうしたくない』、『私は何もしてないのに』ってさ。……ほじくり返すようで悪いけど、あそこに原因があるんだろ?」
「あれはっ!……忘れてよ」
「忘れられないよ。あれだけ辛そうなのに、頑張らなきゃって必死な姿を見せられたらさ。誰だって、手を差し伸べたくなる」
「……うるさいよ」
「何度でも言う。俺は花宮と本音で語り合って、支え合える関係性になりたいんだ。だから、あの時みたいに俺を信じて、頼って欲しい」
「……なんなのよ」
「――え?」
 花宮の声色が、明らかに変わった。突き放すような、怒気が混じったものに。
「そう、私は確かに過去のことでトラウマを抱えてる。でも、それは私の問題なの」
「それを俺にも――」
「――大神くんは、私のなんなわけ? あの児童館でのことは感謝している。でも私は、二度とあんな醜態を人に見せたくないの!」
「俺は、そこも含めて見せて欲しいって言ってるんだよ!」
「それが嫌なの! これ以上、私の心に踏み込んでこないでよ!」
「俺は花宮を裏切らない! 信じてくれ!」
「嘘!」
「嘘じゃない!」
「元は大神くんが原因のくせに、偉そうに説教して救いたいとか言わないでよ!」
「それは、そうだけど……」
 俺は巻き込んだ側だ。それでも……巻き込んでしまったから感じる、責任がある。
「……でも、花宮には信用できるやつがいないんだろう? 花宮に誰か支え合えるぐらいの誰かがいるなら、俺は何も言わないさ」
「勝手に決めつけないでよ……! 私の何を知ってるの!?」
「世界が変わるのがストレスなのはよく知ってる! でも信じて支えてくれる相手がいれば、そんな急速にやつれないから言ってるんだろ!?」
「うるさい! 大神くんは信じてた友達に裏切られたことがないでしょ!?」
「ああ、ないよ! 俺には友達すらいなかったからな!」
「それなら私の気持ちはわからないよ! 信用したのに裏切られて、全てを壊される気持ちなんて!」
「花宮……」
 銀毛は逆立ち、全身で怒りを表現している。……いや、もはや威嚇か。机をバンッと叩きながら席を立ち、息を荒くして睨んでくる。
 賑やかだったファミレスは、大声で言い合いをはじめた俺たちのせいで静かになっていた。こちらを見てヒソヒソ話をしている。店員は誰が注意にいくべきかと話し合っているようだ。
 そんな店内の様子に気がついた花宮はハッと我に返り――。
「今までありがとう。これからは別々に行動しよう」
 荷物と伝票を手にして、足早に去っていく。
「花宮? おい、ちょっと待てって!」
「さようなら」
 底冷えするような口調で、冷たく突き放すような言葉。そして――野生動物のような鋭い瞳。
 俺は変貌した花宮に唖然とし、固まってしまう。銀色の筆のような尻尾が店外に消えていくのを、俺はただ見送るしかできなかった。
「花宮が感情のまま怒鳴る姿なんて、初めて見た……」
 信用できる新たな群れを作る為に冒険した、俺という一匹狼は――本当の意味で群れをはぐれた孤独な狼になってしまった。これからどうすればいいのか……全くわからない迷い狼に。
「花宮に嫌われて……。これで、学校にも家にも癒やしの場がなくなったな」
 学校では唯一まともに話せる人がいなくなり、誰からも相手にされない置物になる。そして家では、唯一の趣味であり心の支えだった叶魅りあにも嫌われる。珠姫が相手してくれるかもしれないけど、ほとんどの時間は社会の中で1人ぼっちだ。
「狼だろうと人間だろうと、1人では生きられない。……いずれ淘汰されるな」
 俺は決済アプリで花宮に自分の金額を払おうとするが――当然のように受け取ってもらえないらしい。……完全に関係を断たれてしまったのか。
 もう何も考えられない。なんなんだ、この喪失感は……。
 集団での狩りもできず、飢えた狼のようにふらふらと店外へと出た――。
 家で俺の顔を見て、珠姫も何かを察してくれたようだ。「そうなったかい……。義兄さん、辛い時はぼくを頼ってくれよ」と言いながら、俺が担当している家事も手伝ってくれた。「ありがとう」と、一言だけしか答えられない。
 今は……言葉を喋りたくないぐらいに無気力なんだ。
 珠姫と食べた夕食は、今まで俺が作った料理の中で最も不味かった。同じ食材で、同じ調理をしたはずなのに。
 感情というトッピング次第で、同じ料理でもこんなに味が変わるのか……。
 叶魅りあの定期配信にいって、コメントやアイテムを投げても――俺の名前やコメントだけは一切読み上げられることはなかった。
「ああ……俺は、大恩ある人物を――傷つけてしまった」
 許されない罪だ。もう、行動する前には戻れないのに……後悔は絶えない。
 俺が触れた深い闇は……それまでの何もかもを破壊する、ブラックホールだったらしい――。