「全人類がカメレオンに見える」
 こんな不思議体験をしたことがある人はいるだろうか。
 ちなみに俺はある。
「義兄さん、どうかしたのかい?」
「……珠姫なのか?」
 自宅の洗面所にある鏡に映るのは自分だけじゃない。
 声をかけてきたのはブレザーを身に纏い、2本の足で立つカメレオンだ。
 身長140センチメートル後半と、人間としては小柄だがカメレオンとしては大型だな。尻尾まで入れた体長ならもっとでかそうだ。
「なんだい、寝ぼけてるのかな? ぼくがいい目覚め薬を作ってあげようか。世界一辛いと言われる唐辛子をベースにね――」
「興奮するな。それは薬じゃなくて料理、あるいは毒だな」
「……義兄さん、本当に様子が変だよ? 昨日学校から帰ってきてからかな。鏡からずっと目を離さないし」
 義妹である珠姫と同じ声をした爬虫類が目をキョロっと動かし、俺の顔を覗き込んでくる。
 正直、この奇怪な生物を自分の義妹だとは思いたくない。
 でも今の俺は、この爬虫類が自分の義妹であることを認めざるを得ないらしい。
「……昨夜と同じだなぁ。俺もずいぶん、目がぱっちりと大きくなったもんだ」
 顔は俺そっくりだな。声、性格や豊満なボディの起伏は以前の珠姫を維持しているようだ。
「イケメン自慢かな?」
「いや、違うよ」
「良かったよ。そんなナルシストが義兄だとしたら、ぼくは義妹として気持ちが悪いと思わざるを得ないからね」
 何を言ってるんだろうか、このカメレオンは。今の俺が多少ナルシスト発言をしたところで、気持ち悪くなんかないはずだ。そもそも、イケメン自慢も何もない。だって髪型が違うだけで……俺の目にはみんなが同じ顔に見えるんだから。
「やはり、転校先でぼっちなのがしんどくて気を病んでしまっているらしい。もう1学期も半ばだと言うのにね」
「コミュニティが出来上がってる2年生から転校した俺の気持ちも考えろ。……でも、まぁ確かに。俺の気は病んでるようだ」
「やはりかい! 気分爽快にリフレッシュする新薬があるのだが、グイッとどうだい!?」
「今はちょっと、義妹の怪しい発明品とかは遠慮したい。俺には大好きな『叶魅りあ』さんがいるから、ギリギリ平気だろう」
 急に詰め寄らないでもらいたい。カメレオンの顔面が近すぎて不気味なんだ。
 グイッと珠姫らしきカメレオンを押しのけながら、俺は小さくため息をついた。
 もういい加減に現実逃避は終わりだ。気が狂わされそうだが、逃げ切ることはできない。
 そろそろ登校しないと現実的に遅刻する。朝からオカルト研究部で活動をする珠姫がな。うちの学校のオカルト研究部は気合いが入っているもんだ。
 まぁ珠姫以外の部員が朝から活動しているのは見たことがないけど。今日は朝のうちに昨日の研究で散らかしたものを掃除するらしい。
 そんな珠姫のライフワークを、俺の都合で崩すのも申しわけない。
「仕方ない。大勢の生徒がいる学校は気が重いけど、いくか」
 硬い肌を一なでして、キョロっと鏡から視線を外して玄関へと向かう。
 やっと視界から大型と、超大型のカメレオンが消えてくれた。
 そう、鏡には2体のカメレオンが映っていたんだ。
 1体は俺の妹、名前は大神珠姫。金糸の校章が入った紺色ブレザーの上に白衣を羽織る、黒髪ショートボブカットのカメレオンだ。
 そしてもう1体――超大型の方の名前は、大神優牙。同じく紺色ブレザーを身に纏い黒髪ウルフカットが特徴的……で、顔は珠姫と全く同じだな。
 そう、俺という身長180センチメートルを超える超大型カメレオンだ――。

「叶魅りあさんってのは、義兄さんの推しVチューバーだったね? ディスプレイの向こう側に恋をするから病むんじゃないかな?」
「恋じゃないっての。推しがいるから心は支えられるんだ。というわけで俺は叶魅りあの配信アーカイブを聞きながら登校する。邪魔しないでくれ」
 スマホを操作して、『叶魅りあ』の配信アーカイブを探す。
 今や2Dや3Dのキャラアバターを使ったバーチャル配信者たちは2万人いるとも言われる。
 その中で俺が唯一フォローしているアカウントをタップすると、彼女の美しくて元気な声がイヤホンから流れる。『全肯定励まし系』という、すごく珍しいVチューバーとしての配信スタイルだ。
 励まされて前向きになれる配信を聞きながら、俺は謎の人類カメレオン化現象がはじまった時を思い出していた。
「……はじまりは、昨日の放課後からだよな」
 そうだ、全ては昨日の放課後からはじまった。
 今時珍しい手紙での呼び出しに応じて、旧校舎裏で名前も知らない女性から告白された後だ――。

「大神さんの一匹狼っぽいクールさに惚れました! 私と付き合ってください!」
「一匹狼……か」
 誰かに直接見られたり物理的証拠が残るリスクが高い方法で呼び出してきた彼女は勇気がある。SNSや通話アプリなどで呼び出す方が噂が広がりにくいだろうに。
 まぁ単純に、俺のスマホ連絡先を知っている人物が、珠姫を除けば学内に1人だけしかいないからというのもあるんだろうけど。
 転勤族である親の都合で、高校2年生から青望学園に転校してきて早くも数ヶ月が経った。
 既に構築されたコミュニティに馴染もうとするのは大変で、俺は未だほとんどぼっち生活だ。
 このまま周りに上手く馴染めなければ……せっかくの青春時代が灰色で染まってしまう。
 灰色の青春が、少しでも恋愛で彩られるならばそれもいいかもしれない。恋バナというのがクラスメイトと会話するきっかけになるかもしれないし。
 そう考えて告白を受け入れようとしたが……俺の心に大好きで尊敬しているバーチャルアイドルの姿がよぎった。
 そのバーチャルアイドルこそが、今まさに声を聞いている叶魅りあだ。
 彼女はどんな時も明るく笑顔で、前向きな発言だ。初回配信から聞いている最古参ファンの俺は、彼女が3年間以上も毎日配信を続けてきたのを知っている。
 今では人気配信者となったが、デビューからしばらくの間は過疎配信者だった。
 気分や体調が悪くて配信をしたくない時もあっただろう。
 それでも毎日配信を続け、彼女はずっと笑顔で励ましてくれた。
 人気があろうともなかろうとも、全Vチューバーのおよそ半数以上が半年から1年以内で引退なり活動休止する世界だ。そんな中、彼女は毎日頑張り続けている。
 他の配信者とコラボをする機能がない配信サイトで、たった独りで配信活動を続けている。それでも心が折れることなく、彼女はリスナーへ向ける前向きな姿勢を崩さないんだ。
 ディスプレイ越しに聞こえる元気な声、可愛いアバターを動かして偉業を成し続けていく彼女が脳裏によぎって、俺は思わず――。
「ごめん、1日だけ考えさせてくれない?」
 勇気を出して告白してくれた彼女に、そう返事をしていたんだ。
「わ、わかりました……。じゃあ、明日の同じ時間にここで待ってます!」
 涙ぐんだ彼女はそう言い残して走り去っていく。不思議にも俺は、その背を見送った後、すぐに家へと帰ろうなんて気分にはなれなかった。
 目の前にあるボロボロの旧校舎がなぜか……どうしても気になって仕方がなかったんだ。灰色でボロボロな学校生活をしている自分と重ねたのかもしれない。そんなわけで、ちょっと中を散歩させてもらうことにしたんだ。
「……本当に、周りと馴染めずに苦しむ俺みたいだな」
 踏みしめる度にギシギシと木材が凹む音がする廊下を進み、一番最初に抱いた感想はそれだ。
 新校舎を背に建つ旧校舎は、ハッキリ言って場に馴染まず浮いている。全ての教室が使用されなくなって、もう1年以上が経過したらしい。特に誰から気にされるわけでもないのに空間へ居座っている姿を確認して、さらに自分と強く重ねてしまった。
 思わず苦笑しながら趣のある校舎内を歩き、叶魅りあさんのオリジナルソングを口ずさみ探索をした。そうしないと、この旧校舎と同様に、俺の学校生活には希望がなさすぎて後ろ向きな考えになりそうだったから。
 埃っぽく人の気配がない旧校舎は、1人で黄昏れながら考えごとをするのには向いてそうだ。
 そういう妙な居心地の良さや異質な空気を感じつつ、校舎内を歩き続けていると――。

「……大鏡に映る自分が変身して。……慌てて外に出たら、全人類がカメレオンに見えるようになったんだよなぁ」
 昨日の出来事を思い返しているうちに、いつの間にか青望学園正門をくぐっていたらしい。
 視界の端では、作り替えたばかりで綺麗な校門が朝陽を反射して輝いている。
「義兄さんもいい加減に友達ができるといいねぇ」
「ありがとう義妹よ。義兄ちゃんはちょっと傷ついたぞ」
「ぼくは上手くやっているのに、義兄さんは全然だね」
「高1のスタートから入学できた珠姫と、2年生で編入した俺の環境の違いも考慮してくれ」
「SNSの相互フォロワー数も1人の義兄さんだと、その違いを考慮しても苦しいねぇ」
「……叶魅りあ専用のアカウントって割り切ってるし。別に、その程度の煽りじゃ俺のメンタルは抉れねぇからな? あと叶魅りあ1人にフォローされるのは、1万人にフォローされるよりも嬉しいんだ。俺だって、作ろうと思えば友達ぐらいは簡単に作れるからな」
 痛いところを突かれて、思わず早口になってしまう。この義妹は俺のことが嫌いなのかな。毎日飯も作ってあげてるのに。少しは俺に懐け、そして優しくなれ。
「ふふ。それならば、ぼくに友達を紹介してくれたまえよ。ちゃんとリアルに存在する友達をさ」
「……今のはだいぶ傷ついた。ギブアップだ。もう虐めないでもらいたいな」
 煽ってくる義妹は、俺以上の変人にも関わらず意外と友人が多い。発言はヤバいし興味ないことからは逃げるのだが、持ち前の知能で人の心理を分析しているからだろう。
 後は外見で好かれているんだろう。
 今でこそ爬虫類に見えるけど、小柄でマイペースに動く珠姫が愛されるのはなんとなくわかる。慣れ親しんだ俺に対しては図々しくて、毒を吐くことが多いけど。
「ふふん。じゃあ、ぼくはこのままオカ研にいくよ! またね!」
「ああ、爬虫類には気をつけろよ」
 頭脳明晰で科学的根拠を追い求めるあまり、『オカルトすら解明して、当然に変える』。そんなスケールが大きい思考へとたどり着いてしまった、我が義妹カメレオンに手を振る。
 俺の言った言葉が不思議だったんだろう。軽く首を傾げながらも、珠姫は早足で駆けながら新校舎の玄関へと消えていった。
「走る時は四足歩行になるかと思ったけど、ふつうに二足で走ってるな。実はカメレオンじゃなくて、エリマキトカゲだったのか?」
「おはよう、大神くん。何してるの? 朝から顎に手を当てちゃってさ。笑っていこうよ!」
「りあちゃ……失礼。おはよう、花宮」
 可愛く細められたまぶたの間から、明確な殺意が宿る眼光を感じた。身長160センチメートルちょっとだから、俺からすれば約20センチメートルぐらい下から見上げられる感覚だ。それでも、このサイズのカメレオンから睨まれて怖いと思うのは当然だろう。
 リアル空間にも関わらず人をライバー名やネット名で呼ぶのは良くないな。
 彼女は花宮貴子、花宮貴子だ。決して、人気Vライバーの『叶魅りあ』じゃない。『叶魅りあ』の中の人ではあっても、外の世界では花宮貴子だ。
「ごめん。間違えた。……現実から目を逸らして、声だけに反応したくてさ」
「全く……。契約はちゃんと守ってよ?」
「ファンとしても人間としても、頑張ってみるよ」
 言い訳をさせてもらえば、振り返った先にカメレオンがいて。そのカメレオンの口から推しVチューバーの声がすれば……俺でなくてもライバー名で呼びたくなるはずだ。せめて新しい斬新な立ち絵であってくれ。そうやって現実逃避をしたいと思うはずだ。
 普段では学園のアイドルの花宮も、その他大勢のカメレオンと同じ顔をしているようだ。
「スレンダー系のナイスボディ、おしゃれな黒髪ゆるふわロングヘアーにカメレオンの顔って……変な気分になるな」
 こんなあり得ない現実から目を背けた俺を、一体誰が責められるというのか。でも、「花宮の顔がカメレオンに見えたから」とか言っても、誰からも信じられないだろう。
「ん? 小声で何か言ったかな?」
「言ってない。……ところでさ、俺の顔は花宮にはどう見える?」
「え? ふつうにいいんじゃない?」
「微妙な言い方だけど、褒められてると受け取っておくかな」
 推しに『ふつうにいい』と評されたら、『ふつう程度なんだ』と多少なり複雑な気分になるかもしれない。
 ふだんの俺なら……な。
「いいな、ふつう。ふつうって最高だよな」
「……本当に、なんか様子が変だよ。保健室いく?」
「様子が変ぐらい、なんてことはないな。保健室にいっても無駄だろうし、遠慮しておくよ」
 そう、世界は今日もふつうに平穏だ。
 混乱して様子がおかしいのは俺だけ。――だって、この世界で奇怪な『人類カメレオン化現象』に陥っているのを認識しているのは――俺だけらしいから。
 俺には全人類がカメレオンに見える世界でも、他の人には、ふつうの人間が生活をしているように見える世界だ。俺だけが異常事態に陥っているらしい。――正直、気が狂いそうだ。
 本当に、なんでこんなわけがわからないオカルト世界になってしまったんだろう……。

「今日も今日とて、教室で座った俺に話しかけてくる人はなし。挨拶ぐらいの関係だ。うん、いつも通り灰色をした青春の日常だな。……クラスメイト全員がカメレオンボディなことを除けばだけど」
 自分の席で頬杖をつきながら、改めて教室内を見回すと、非現実を突きつけられる。
 正直言って、気持ちが悪い。
 露出している肌など以外は、みんなふつうの人間と変わらないんだ。
 衣服の上からだけど尻尾だって生えている。机の角や何かに当たったところで、痛がる様子もない。そっと触れるように動くから、机もずれないようだ。
 本当に、不思議だ……。
 じゃあ俺はどうなんだろうと思い、自分の尻尾をつねると――俺は痛みを感じるらしい。
「俺にだけ、感触があるみたいだなぁ……。特別あつかいか?」
 周囲の人は、尻尾が何かに当たっても気がついていないようだ。せめて俺にもそっと触れるような自動コントロール機能が欲しかった。
「悪夢なら早く醒めないと、脳が負けるぞ」
 想像してみて欲しいんだ。人間サイズで、人間の衣服を着たカメレオンの群れに囲まれているのを。二足歩行で髪の毛が生えて、ブレザーを身に纏い談笑する巨大カメレオンたちの集団を。
 人によっては、発狂するような恐怖を感じさせる現象だと思うんだ。
 実物よりは少し可愛げがあるカメレオンだけど、それにしても……だ。こんな世界を誰とも共有出来ず、たった1人だけ視認しているんだ。発狂しない俺を褒めてもらいたい。
「……うん。俺のナルシスト発言より、この光景の方が気持ち悪いな」
 朝、珠姫に『ナルシストな義兄さんは気持ち悪い』と言われたのを、実は少し気にしていたんだけど……。珠姫にこのお目々ぱっちりカメレオンの群れを見せられれば、理解してもらえるだろう。
「まぁ、俺もそんな気持ち悪いカメレオン集団の一員なんだけどな」
 自分の額に手を当て机に突っ伏すと、明らかに人の肌とは違う質感が掌から伝わってきた。
 硬くて、脂が少ない。ザラっと滑らかさがないこの感じ……ものすごい違和感だ。
 目を閉じている時は、触感がおかしい以外の違和感からはかいほうされる。
 少なくとも、周囲を巨大カメレオンが動いているという異常を認識せずには済む。
「……叶魅りあのアーカイブを聞いて、癒やされたいな」
 ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、スマホを操作して彼女の配信アーカイブを流す。
 いつどんな枠の配信を聞いても、前向きな発言をしなきゃとあたふたしている彼女の頑張りは癒やされる。やっぱり、頑張っている人があたふたしている姿って微笑ましいよな。ちょっとサドっぽい考えかもしれないけど。
 みんなに笑顔を届けようと頑張っているのが伝わるからこそ、リスナー側も応援でお返しをしたい。そういう温かい気持ちになれると思うんだ。
「ライバー立ち絵が狐だから、『こんこん、こんリア』って言う挨拶も……安直だけど癒やされるわぁ」
 本当はずっとこのまま叶魅りあの作り出した優しい世界に浸っていたい。
 でも――。
「今日は金曜日だから、全校集会か。……あと十分ぐらいで、体育館に移動しなきゃなぁ」
 この学校では毎週金曜日の朝、全校集会がある。
 毎週末、立派な学生であるようありがたいお言葉を頂いたり、注意が促されるというわけだ。
 休日に羽目を外しすぎてやらかす学生もいるらしい。だから、問題が起きないように注意喚起しているってのもあるんだろうけど。
「俺は起こるかもわからない問題より、起きているカメレオン問題をどうにかしたい……」
 ブレザーに顔を押しつければ、シャリシャリと音がする。人間の顔と擦れた時ではあり得ない音だ。
 無駄なあがきだと思い、身動きを止めた。
 珠姫に合わせているので登校時間が早いし、まだ全校集会までは時間があるはずだ。聴覚に集中して、少しだけ現実逃避したい。精神の休憩だ、休憩。
 そうして『叶魅りあ』が作り出した、何でも前向きに受けとめる優しき癒やしの世界へ吸い込まれていく――。
 
 突如、俺の肩を揺する刺激があった。
 何だろうと思い、怠い体を少ない気力で動かし、片耳のイヤホンを外すと――。
「大神くん? 1人残って……どうしたの? やっぱり体調が悪いの?」
 心配そうな花宮の声が聞こえ、突っ伏していた顔を上げる。
 柔らかそうな黒髪を靡かせたカメレオンが、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「……花宮。友達と全校集会にいかなくていいのか?」
「スマホを机の中に忘れちゃったから、戻ってきたの」
「ドジっ子か。完璧なようでどこか抜けてるよな。……そこも叶魅りあの魅力だけど」
「ド、ドジじゃないし!? わ、私は花宮だから、叶魅りあって人の魅力は関係ないけどね!」
「大声で否定すると、かえって怪しまれるぞ」
 花宮はキョロキョロと周囲を見回す。教室に誰もいないことを改めて確認しているようだ。
「もう、心臓がバクバクだったよ……。からかうのはダメ!」
「俺は思ったことを素直に言っただけだ。頑張り屋のドジっ子キャラ、狙ってないの?」
「そんな残念そうなキャラ狙ってないよ! もう……。大神くんは全校集会、いかないの?」
「叶魅りあの配信アーカイブを聞いてたらな。時を忘れて出遅れたんだ」
「そ、そうなんだ。……ありがと。じゃ、じゃあ、私と一緒にいく?」
「ぼっちに優しい言葉だな、ありがとう」
 推しの中の人に言われると、涙が出そうな言葉だ。中の人の顔が、今はカメレオンになっているんだけどな。今となっては、どっちがバーチャルかわからない。
「いい加減、周囲に馴染めるといいね」
 体育館に向かい廊下を歩いていると、花宮が声をかけてくれた。
 転校してきて数ヶ月が経つのに、未だ親しい人ができない俺を心配してくれているらしい。
 挨拶ぐらいはできるんだけど、やっぱり花宮みたいなコミュ力がないからなぁ。
「花宮は周囲に溶け込むのが上手いよな。人気者で、誰からも愛されてる」
「そ、そうかな」
「ああ、頑張り屋でドジっ子だから、好かれてると思う。――後、八方美人だし」
「それ、褒めてるのかな? 美人ってついてるけど、言葉の意味はすごーく微妙だよね」
「ちゃんと褒めてるよ。俺がやりたくても上手くできないことをやれるんだから」
「……まぁ、ありがとう。大神くんは、陰で一匹狼って言われてるよ?」
「それは昨日知ったよ。集団に馴染めなかっただけの俺からすると、不本意な呼び名だ」
「クラスメイトに合わせて喋るの、やっぱり嫌い?」
「嫌いとかじゃないけど、苦手なんだ。誰々が何してた、誰々ってキモいよな、誰々がムカつくよなとか。自分じゃない誰かを陰で小馬鹿にして同意を求める会話がさ」
「それは……私も気をつけないとだね。ほら、私って1人で雑談配信することが多いから……話題に困って何かを小馬鹿にしちゃってたかもだし。教えてくれてありがとう」
「叶魅りあは大丈夫だろ。自分の情けない失敗や嫌なことでも、強引にプラスへ変換してるよ、今みたいにな。強引すぎるけど、それもまた笑えるし、元気になっていいんだ」
「そ、そう? なら良かった。……情けない失敗は、したことないと思うんだけどね」
「またご冗談を。……多くの人の会話は、まるでワイドショーのようだなと思う。『そうなんだ』とはなるけど、面白くないし笑えないんだ。穿った見方だけど、誰かを小馬鹿にすることで自分のことを守っているような。誰々がスゲェ、みたいに自分の利害関係なく、陰から賞賛してるならいい気分にもなれるけどさ」
「うん、陰口は良くないよね、私なら言葉の棘で傷つかないようにそれとなく伝えるよ。大神くんが一匹狼って裏で呼ばれてるのを伝えたみたいにね」
「その棘、たまに刺さってるからな?……みんなが笑ってる中で1人だけ真顔でいたり『それは違うんじゃないか』なんて指摘したら、他の人まで嫌な気分にする。だから俺も周りの顔色見て一緒に笑うけど……。それがスゲェ疲れるんだ」
「ん~、折り合いなんだろうなとは思うけど。自分に正直なとこは、大神くんのいい部分だよね。その結果の一匹狼って格好いいと思うし」
「そう本心から思ってくれる人は少ないよ。ましてや、俺はグループが固まった後の2年生に転入してきた異物。そんなやつがイジめられず上手く馴染もうとするには、余計に周囲の顔色をうかがって合わせなきゃいけないんだ。望んだ一匹狼と言うか、疲れてちょっと群れから離れようかとも思うさ。……正直、『叶魅りあ』がいなければ何度も心が折れてたな」
「叶魅りあが支えになっているなら、続けてて良かったって気持ちになるよ。ありがとうね」
「俺の推しは、どんなこともプラスに変換、肯定してくれる。常に笑顔で励ましてくれる存在だよ。花宮はリアルでもそうあろうとしてるみたいだけど、俺はあくまで叶魅りあの推しだ」
「私とは違うってこと? その割に初めて私……花宮貴子に会った時すっごい興奮してたね」
「最初の醜態は……忘れてください」
 転校から数日目のことを思い出し、顔をしかめてしまう。我ながら、あれはひどかった。
 ワイヤレスイヤホンの充電切れで『叶魅りあ』のアーカイブが聞けず、教室でも周囲に馴染めない。そういう『叶魅りあ』不足と心労が重なったからこその失態だ。そう思いたい。
「忘れられないよ。下校中、校門の前で突然詰め寄ってきてさ。友達と話してる私に『俺の最推しですか!? こんリアって言ってみてください!』って。……友達にバレるかと思った」
「ずっと最推しだった人の生声が、想定外の場所で聞こえると正気も失うんだ」
「だからって私の挨拶を言わせようとするとはね。すっごく焦ったけど、笑っちゃった」
 口元に軽く手を当てて、花宮は微笑んでいるようだ。
 でも、残念だ。
 普段ならお金を出してでも見たい、学校一美少女で推しの中の子がする可愛い仕草なのに。――今は顔がカメレオンだから、全く心が動かない。
「……やっぱり、バーチャルでもイラストって重要だな」
「私の立ち絵のこと? ふふん、私のは可愛いでしょ」
「あの狐耳と尻尾は偉大だと思う。例えば爬虫類そのものだったら、俺は声とキャラが同じでも推しになってなかっただろうな」
「爬虫類って、その例えは極端かなぁ。でも可愛いイラストを描いてくれた方のお陰だね。本当に感謝だよ」
「銀のもふもふで、疲れも癒やします。元気にプラス変換――」
「私の初見様向け挨拶を言うのは止めて! 恥ずかしいから!」
 花宮が俺の口を手で塞いでくる。俺の顔に、硬い爬虫類お手々の感触が……。
「もう、学校でまでそんなイジるのはやめようよ……」
「ただでさえ、疲れそうなキャラだもんな」
「疲れそうなキャラ?」
「人の顔色をうかがう配信って、疲れない? 全肯定で癒やすとか、俺には無理だ」
「ん~。でも、やりがいがあるよ」
 ほんの少しの間だけ目線を伏せて――すぐに笑顔で目を細める。
 人間ならわかりづらい目元での感情の機微が、カメレオンならよくわかる。
「疲れるんだな」
「私、疲れるって言ってないよね?」
「ん~って悩んで、即答できなかったからさ。これは、プラス方向に変換する時の癖だなって」
「……最古参ファンには、敵わないなぁ。でも、楽しくてやりがいがあるのは本当だよ! じゃなければ続けてないし?」
「やりがいだけ?」
「……やりがいだけじゃないけど、やっぱりその要素が大きいかな。元気もらえますって熱烈に推して応援くれる最古参ファンもいるしね」
「心当たりがあるなぁ。最古参ファンが唯一じゃなくて2人なのがちょっと悔しいけどな」
「くろか……オセロさんとは仲いいじゃん!? 2人でコメントで盛り上がったりさ!」
 なぜか少し慌てた様子の花宮が、俺ともう1人の最古参ファンについて語る。
「そうだなぁ……。オセロとは腐れ縁だけど、3年間同じ推しを応援してるからな」
「ふふっ。オセロさんはアイテム不足で悔しそうだよ。代わりにコメントくれるけど」
「コメント量では負けても、アイテムに応じて付くサポートランキングでは俺の勝ちだ」
「なんでそこ張り合うかな? 競い合わず、ふつうに応援してくれるだけで嬉しいのに」
「……オセロとは、3年来の同士だからな。同士と書いて、必要な邪魔者と読むみたいな?」
「どっちも漢字だから、読むも何もないね。……現金だとは思うけど、さ。課金ポイントでしか買えないアイテムを配信でプレゼントしてもらうと、やっぱり元気がもらえるんだ。私にお金使う価値があるって認めてくれて、本当にありがとうってね」
「リスナー側も、ライバーさんから元気をもらいたくて課金してるからな。ライバーさんの喜ぶことがリスナーの幸せ。需要と供給。推しの配信を一緒に盛り上げていきたいし。お互い納得してみんな幸せだ」
「そうやって応援してくれる人の為にもイベント走りきろう、良い順位取らなきゃって思うよ。こっちも気合いが入るってもんだね。3年間付いてきてくれる人たちも笑顔にしたいしさ」
「そう言われるとオセロよりイベントに貢献して、アルバイト代を課金してるかいがあるな」
「また張り合う。2人とも大切だから無理のない、課金。通称、無課金で応援してね。特にガチイベントの時以外には。こんなにお金……いいのかなって。あわあわしちゃうしさ」
「あわあわとか使う人、初めて見た。まぁ了解。イベントに備えて、週末短期バイト頑張る」
「もう、体壊したらどうするの? 無理しないでね。貯金したり、自分の為にも使いなよ」
「叶魅りあという推しが俺の元気の源。つまり、叶魅りあの笑顔に繋がる課金応援は自分の楽しみと癒やしの為だよ。みんなが自分にお菓子を買う代わりに、俺はバーチャルで課金アイテムを買うだけ。推し活っていうのはそういうもんだ」
「そ、そうなんだね。あ、ありがと……。私も、おかげさまで元気にさせてもらってるよ?」
 花宮は顔を背け、頬を掻いた。その仕草では何を考えているのか読み取れない。
 何度も言うが、全身がカメレオンなのだから。目元頼りで感情を察しているのに、顔を背けられちゃあな……。でも、小声で「ありがとう」と言っているから、どうやら照れているらしい。
「……何だろうな。今デレられても嬉しくないんだよなぁ」
「なっ!? べ、別にデレてないよ! それに、嬉しくないはひどいと思うんだけど!」
「……多分、俺と同じ立場になればわかるよ。ひどくないってことが」
「何それ?」
「自分が見てるものが、他人にも同じように見えているとは限らないって話だ」
「余計にわからないよ。もう、大神くんは私をからかってばっかり。意地悪だよね」
 頬を膨らませたカメレオンがそっぽを向く。同じように俺も花宮が向いた方角へ視線を向けると、窓から旧校舎が見えた。昨日、名前も知らない後輩に告白され、今日の放課後は返事をしにいく場所だ。
「この学校ってさ、何か七不思議みたいなのあるのか?」
「突然、どうしたの?」
「いや、古い旧校舎とか見るとさ。なんかそういうの浮かんでくるじゃん」
「まぁ、そうだね。この校舎は新しいけど、うちの学校って歴史古いし……あるらしいよ」
「あるんだ」
「うん。なんか、旧校舎には初代学長が世界中から集めた不思議な道具があるとか」
「ああ、初代学長は変わり者だったらしいね。……また、今日も初代学長の意思で校訓を聞かされるんだろうな」
「もう伝統だからね、校歌に負けず劣らずの回数、聞いてるかもね」
「ある意味、それが現代の不思議エピソードだな。それで旧校舎には、どんな不思議エピソードが眠ってるんだ?」
「なんかね……その不思議な道具には、オカルトマニアだった初代学長の魂がこもってて、見た者は呪われるとか」
「呪い系は怖いな」
「まぁ歴史が古ければどこの学校にもあるよね。具体的な話は何もない、もやっとした噂だよ」
「もやっとか……。例えば、人がカメレオンに変身するとかは?」
「どういうこと? そんなの有るわけないじゃん。リアルは怪獣映画の世界じゃないんだよ?」
 笑い飛ばす花宮に、俺は「そんなのありえないよね」と返す。そう、有るわけない。本来なら、有り得ない話だよな。
「まぁでも、あったら面白いかもね。不思議な世界観だし、新鮮かも!」
「面白いかは置いといて……斬新かつ新鮮で、不思議な世界だな」
 廊下から体育館に続く扉を通ると――俺は斬新活新鮮で、不思議な世界に頭を抱えた。1学年から3学年まで、全校生徒のカメレオンが整列しているのは……恐怖だ。
「うん、なんか1回体験してみたいかな。――じゃ、またね」
 そう言って、花宮カメレオンも小走りで集団の列に加わっていく。集団に溶け込んでしまうと、もう区別がつかない。――さて、困ったことがある。
「……俺の並ぶところは、どこだ」
 いつもなら見知った顔で自分の整列する位置もわかるが――今は見分けがつかない。
 結局、花宮の走っていった方角へ向かい、「俺ってどこに並んでたっけ?」とクラスメイトっぽいカメレオンに声をかけて教えてもらった。
「はぁ……1回体験してみたいか」
 いつ終わるとわかる体験ならいい。
 こんな生活が一生続いたらと考えれば……絶望でリアルを生きていけない自信がある――。

「――『人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。歳月だけで人は老いない。理想を失った時、初めて老いがくる。青春とは人生のある期間を言うのではなく心のあり方のことだ。人が若くある為には創造力・強い意思・情熱・勇気が必要であり、安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない』……初代学長が愛されたサミュエル・ウルマンの詩の一節を引用した言葉のように、君たち生徒は――」
 長い。そして聞き飽きた訓示だ。
 この学園を設立した初代学長――今はオカルト好きって情報も加わった御方か。
 このわけがわからない呪いのような現状は、初代学長の魂とやらが籠もるオカルトアイテム――大鏡が原因の可能性もあるだろう。現状を打開するヒントが眠っているかもしれない。
「……オカルト好きな学長の七不思議――呪いがもし本当なら、だけど」
 俺は――客観的に見れば老いているだろう。
 信念や自信がなく、人や場面に流される。我慢できず『それは違うんじゃないか』などと指摘して嫌われるのが怖いから、集団に話しかけられない。
 高校生の2学期にもなるのに、理想とする自分の姿なんてわからない。
 とりあえず『周囲に会わせていれば大きな問題はないだろう』と安易な選択をしてきた。
「旧校舎にあった大鏡は、客観的に見たら老いてる自分を……現実に映す呪いか? いや、それならなんでカメレオンなんだ?」
 周囲に擬態するように、個性を捨て周りに馴染もうと生きる若者を風刺した姿とか?
「……冒険せず擬態したように隠れて生きるお前は、人間じゃなくてカメレオンだ。……とかじゃないだろうな」
 馬鹿馬鹿しいオカルトだとは思う。でも、どこか否定しきれない。
 自分のふらふらとして、芯のない生き様に失望していたからだろうか。
 特に昨日は告白を断る時にも――『周囲と会話するきっかけの為に付き合うのもありか』などと考える始末だ。自分は『人として最低だ』という罪悪感や悩みを抱えていた。
 そんなタイミングで旧校舎の大鏡は――俺の見る世界を変えた。
「サミュエル・ウルマンさんの詩から引用した校訓から考えれば、俺は『青春』を生きてない。……初代学長から見たら、それはもう老いたやつに見えるだろうな」
 実際に鏡へ映ったのは老人ではなく、なんなら人間ですらなかったけど。でもHPを見る限り、初代学長はオカルト好きなだけじゃなくて、生徒想いの情熱家だったらしい。
 古いものには意思が宿りやすいとは聞いたことがある。旧校舎なんて古いものだらけなうえに、オカルトコレクションまであるそうだ。だから初代学長の呪いとか言う、具体的な話もない七不思議なんかができたんだろうけど……。
 もしも、もしもの話だ。呪いとして残った初代学長の熱い魂が持つ、なんらかの意思が実際に働いたのだとしたら――。
「……いや、我ながらボロボロのひどい仮定だな。藁にもすがりたい状況だからか、論理的じゃないことを考えちゃうな」
 肝心な部分はオカルトと仮定で済ませるボロボロな推論を一笑する。そのまま全校集会が終わり、放課後まで考え続けたが――笑い飛ばしたはずの自分の考えが、実は本質に近いのではないか。
 時間が経つほどに、そんな気持ちになっていった――。

「――なあ、花宮」
「どうしたの、大神くん?……そんな真剣な顔で。悩み相談があるなら、聞くよ?」
 下校しようとしている花宮を呼び止めて、俺は自分の考えを話してみようと思った。
 大勢のカメレオンの中から、花宮こと『叶魅りあ』の声がする個体は見分けられるようになった。このあたりは、我ながらさすが最古参ファンだと思う。
「もし、人がカメレオンに見えるとしたら……冒険への希求を止めて一時期の安寧を得ようとしてるってことだよな?」
「なに、それ。――あ、もしかして今朝の初代学長の話?」
 クスクスと笑いながら、花宮が聞いてきた。
「ああ、うん。もしもの仮定だけどさ」
「もしも、ね。そうだなぁ……カメレオンかはわからないけど、格好いい若者の生き方じゃないんだろうね。カメレオンって冒険とかしないで、可愛くひそんでるイメージだし」
「そうか……。俺ってさ、可愛くひそんでるように見える?」
「え、ふつう?……まぁやっぱり、他の人よりは色んなことを疑って、自分のことも疑っている部分は感じるかな?」
「自分も疑ってる?」
「そうだね、今朝も大神くんが言ってた言葉だけど……。周りに合わせる自分をヨシとしないって、自分がこういう環境に馴染んで良いのか疑問なんじゃないかな。疑問と自分の譲れないものがぶつからなければ、みんなに合わせてると思うからさ」
「……なるほど」
「そう考えると、一匹狼って言うのは、青春の一時期のあり方として格好いいよね」
「そういう考えはなかった。さすが、成績優秀者にして八方美人のドジっ子全肯定励まし――なんでもありません」
「全く……反省してよね。って言うか、詰め込みすぎでわけがわからない子みたいじゃない」
 実際、わけわからない子だし、わけわからないカメレオンなんだよ。
 それに――カメレオンが可愛くひそむだって? 嘘つけ。今の花宮カメレオンからは、忍者のように冷たい殺意を感じたぞ。……まぁ完全に俺が悪いんだけどな。
 いや、待てよ。最初会った時から、配信者をやっていることは絶対に秘密と言われてきた。でも、花宮はなんでそこまで隠したいと思っているんだろう。
 そりゃあ『嬉しいニャン』とか、ふだん絶対に言わない媚びるようなことを言っているならわかる。でも叶魅りあは『銀狐』ではあるが、語尾にコンとつけたり媚びるようなことは言っていない。むしろ挨拶以外は――ふだんの花宮貴子と大差ないことを言っている。
「花宮……配信者って、バレると恥ずかしいもんなのか?」
「ん~、そうだね。やっぱり照れくさいかな?」
 カメレオンの大きな口が、笑顔になる前に少しヒクッと動いたのを俺は見逃さなかった。
「そういうもんなのか。配信って色んな人が来るからさ、対応でストレスが溜まることもあると思うんだが……。そういう時、花宮が本音を話して癒やされるような相手はいるのか?」
「人を友達がいない人みたいに言わないでよ~。学校で私がみんなと仲いいのを見てるでしょ。頼れる人がたっくさんいるよ!」
 即座に、貼り付けた仮面のような笑顔で返してきた。いつかこういう質問をされると予測してたんだろうな。
 ただ、1つわかったことがある。――彼女は本心を隠している。
 頼れる友達が大勢いるのなら――叶魅りあを絶対に隠そうとするはずがない。
 だいたい、俺は『本音を話して癒やされるような相手』と聞いたんだ。『頼れる』とは似て非なる言葉で返してきたのは、話慣れている彼女なりに、嘘にはしないテクニックだろうな。
 そして俺は――彼女の現状を察すると共に、今までの自分を殴りつけたくなった。
「ありがとう花宮。……なんか、もしかしたらって可能性を見つけられたわ」
「可能性?」
「そう、現状を打破する可能性ってやつだ」
「……よくわからないけど、前向きに進めそうってことだよね?」
「そうだな」
「なら良かった。あ、私そろそろ……」
「ああ、呼び止めてごめん。貴重な意見、ありがとう。また今夜な」
「……その言い方、止めない? またね!」
 また今夜の配信でという意味だったんだけど、どう受け取ったんだろう。心なしか、頬に赤みがかっていたような気もしたけど……カメレオンじゃ見わけがつきにくい。
「さて……。自分のなりたい『理想』ってやつはわからない。でも、こう在りたくないって姿はわかったことだし……勝負にいきますか」
 昨日してくれた告白への返事と……自分なりの冒険をする為に旧校舎に向かおう――。

「あ……! 大神先輩。来てくださり、ありがとうございます!」
 昨日と同じ、旧校舎裏の人気がない場所で――彼女は既に待ってくれていた。
 思えば、彼女が人間だった時の顔も思い出せない。それぐらい面識もなく、後輩だったことすら先輩って呼ばれなければ気がつかなかった。黒髪のポニーテールに結んでいたことすら、ちゃんと彼女へ目を向けようと決意した今になりようやく認識したぐらいだ。
 そんな関係性なのに、一瞬でも『付き合うのもありかもしれない』と考えるなんて。俺が考えていたことは、失礼どころの話じゃない。周囲に馴染む為に彼女という存在を利用しようとほんの少しでも考えるなんて、人間として失格も良いところだ。初代学長の魂がかける呪いとやらが本当にあるのなら、さぞかしキツい叱咤と呪いをくれてやろうと思うことだろう。
 でも、そういう自分の意思や意気地のない生き方は――選ばない。
「ごめんなさい。俺は……君とは付き合えない」
「あ……」
「……」
「やっぱり、まだお互いのことを全然知らないからですか? それなら――」
「いや、そういうことじゃない。俺の気持ちの問題だ」
「そう……ですか」
 グチャグチャと言い訳はしない。もしかしたら、深く知っていくうちに好きになれる可能性はあるかもしれない。でも、少なくとも今――俺には彼女を好きだという情熱はない。この相手を必ず幸せにするという信念もない。
 手紙で呼び出すというのは、すごく勇気がいることだっただろう。初代学長が引用して作成した校訓風に言うなら、強い意思と情熱を持って告白をしてくれたのが彼女だ。そんな輝かしい人に、今の俺は相応しくない。
「じゃあ……最後に1つ、1つだけ教えてください」
「俺に答えられることなら」
 彼女は震える両手を胸の前でギュッと握り――。
「あの……好きな人がいるんですか?」
 ――震えていても、しっかり届かせようという意思を感じる大声で聞いてきた。
「好きな人……か」
 改めて好きな人と言われると悩む。でも、よく考えてみると――俺は今、なぜだか『叶魅りあ』と『花宮貴子』が気になる。
 推しはあくまで推し。リアルな恋愛と直結する存在ではない。それはアイドルが好きな人が、それとは別に愛する妻や夫がいるのと同じ。創作物に出てくるキャラクターが可愛い、格好が良い。癒やされる。推しとは、そういった感覚と同じようなものだ。
 だと言うのに――俺は花宮貴子という女性が気になってしまう。
 彼女は誰からも好かれる高嶺の花だ。アイドルに負けず劣らずの外見的な美しさは勿論だけど、男女問わず人気な理由は内面だろう。まだ出会って数ヶ月だけど、誰にでも優しく丁寧に接する。
 勉強がわからない人には、『私も一緒に勉強するから、教え合いしよう』と誘い、悩んでいる人には『何か私にできることはあるかな? 話を聞くぐらいしかできないかもだけど』と手を差し伸べる。
 そこに上から目線の傲慢さはなく、同じ目線――あるいは少し自分を卑下しながらも前向きに導く手を差し伸べる。どんな時も優しい笑顔を浮かべて。
 特別魅力的な容姿にも関わらず周囲に溶け込めるのは、その誰からにも好かれる言動によるものが大きいと思う。
 そんな彼女は俺から見ると――八方美人に見える。生まれながらに気立ても器量も良く万民に愛される完璧美女。
 そんな人間が存在するのだろうか。
 Vライバーとしてなら、そういうキャラクターとして売り出していると納得がいく。でも花宮貴子は、現実に存在する人間だ。彼女が人と接する姿が、不自然だと俺は感じる。偶像のように、無理矢理作り出した姿に見えると言うか。
 そしてさっき教室で話してみて、彼女は本心を隠して生きていることがわかった。
 その不自然で秘密だらけな姿がすごくモヤモヤして――気になってしまう。バケの皮をはがしてやろう。そこまで悪辣な思考じゃないけど、彼女は仮面を被っているんじゃないか。
 誰からも好かれるように無理を続けて、いつしか自然な素顔を歪めるような仮面を。
 もしも彼女のバケの皮をはぐことができたなら――仮面の下にはどんな花宮貴子が隠れているんだろうか。ずっと気になっていたが、それを深く指摘して彼女に嫌われたら……怖い。
 俺は臆病だから、今まで何も言えなかった。でも自分の言いたいことを偽って――この湧き上がる好奇心を止めたくない。これを恋などと美しいもので呼ぶことは余りに歪で、不純物が含まれていると思う。花宮貴子という女性を見た時に、叶魅りあと重ねて好意を抱いていないのか。バケの皮をはいでやろうという思いで近づいていないのか。
 そう問われると――自信がない。
「えっと、私嫌な質問しちゃいましたか?」
 考え込んでいる俺の姿を見て不安を覚えたのか、おそるおそる聞いてきた。
「いや、そんなことない。俺に好きな人はいないよ」
 だから好きな人がいないというのは嘘ではない。ただ、どうしようもなく気になってしまうだけ。恋心とは別の意味でだ。俺は――現実世界に存在する彼女の本心に、触れられていないと考えているから。そんな彼女の本心を知りたい、知ってなお――受けとめたい。
 バーチャルの世界でも花宮貴子に救われ、現実でも彼女がいなければ……俺は孤独に負け不登校になっていた可能性すらある。
 そんな魅力的な恩人の、本音を探す冒険。本音を誰かに晒すことを、彼女が望んでいるかはわからない。余計なお世話で、いい迷惑な行為かもしれない。
 でも俺が現実の花宮のことを、なんで数ヶ月経っても『叶魅りあ』と呼びそうになっているのかよく考えると――それは花宮貴子に人間としての現実味がなく、不自然なありかたすぎるからだ。
 花宮は――『叶魅りあ』のありかたを、現実でもやろうとしている。
 全肯定系バーチャルアイドルという不自然な状態で、現実という自然の中を生きるには――かなり無理をする必要があるはずだ。現に花宮貴子は時々、表情を曇らせたり辛そうにする。本人はやりがいがあると言っていたけど、疲れるという言葉も結局は否定しなかった。
 彼女が自然と本音を打ち明け、疲れを癒やせる相手に俺がなれたら……。そうやって、お互い助け合える関係性になれたら。想像するだけで、内からドクドクと血液が全身を燃やすように感じる。
 胸の鼓動が止まらないほど、未来を考えてしまう。俺の脳内には常に――目の前の子とは別の女性がいる。
「でしたら、お試しで――」
「ごめん、それはできない」
 恋じゃなく好奇心だとしても、脳内が花宮貴子に占有されている状態で他に彼女を作る。それは俺の中にあるプライドが許さない。それに、人間としても青春のありかたとしても間違っている。
 彼女と付き合ってからも、花宮貴子のバケの皮をはいでやろうとすればいいという考え方もあるかもしれない。でも、それは不誠実で――人間として正しくない。付き合ってからも『他の女性の本性が気になるので、仲良くなろうとしてます』なんて非道なこと、俺はやりたくない。
 だから、お試しで付き合うことなんてできない。
 『花宮貴子の本心を知りたい』、『本音を語り、支え合える関係になりたい』という思い。これは目標であり、こうなれたら楽しいだろうなという希望だ。それはきっと、冒険とも言える困難さと嫌われるリスクを伴う挑戦だろう。でも、保証もない冒険への希求を無視して安易に彼女と付き合えば――俺はきっと後悔する。
「そう……ですか。やっぱり私なんかじゃ……絶対にダメなんですね」
「俺には好きな人は確かにいない。でも気になって仕方ないことがあるからさ。ちょっと挑戦して、謎を解き明かしたいと思うんだ。――だから、本当にごめん」
 俺は、転勤続きで変わる環境や周囲に溶け込む為に生きているんじゃない。意思を持ち、成したいことの為に行動する……つまり青春をする人間らしくありたい。
「すいません、私しつこかったですよね。――ありがとうございました」
 そう言って、彼女は昨日のように……走り去っていった。
「こちらこそ、ありがとう」
 俺はポニーテールを揺らしながら去る彼女に向け、頭を下げた。
 彼女の足音が全く聞こえなくなってから、俺はゆっくりと顔を上げ、旧校舎へ視線を向けた。
「……旧校舎の大鏡か」
 結局、俺の見る世界がカメレオンだらけになったオカルト問題は何一つとして解決していない。
 俺の目標は、人間として花宮貴子と支え合える関係になり、目標と希望を持った楽しい日々をすごすことだ。つまり、青春をするということだ。
 カメレオンの姿では困る。
 七不思議にある初代学長の呪いだかなんだか知らんが、旧校舎にある大鏡を見てから世界が一変したのは事実だ。
「歪められた現実は、しっかり元通り戻してもらわないとな」
 どういう原理かは皆目見当つかないが、旧校舎の大鏡には見る世界を変える力がある。
 そう確信している。
 自分でもどうかしているとは思うが、そもそも見る世界が異常なのに、常識的な考えなんてしても意味がないだろう。
「常識や正論なんて、相手も常識や正論が通じる存在じゃないと意味がないんだ」
 極めて非常識な現状を打破するなら――俺も極めて非常識な行動をさせてもらおう。
 そう思いつつ、昨日と同じように旧校舎へと入り込み、大鏡のある場所に向けゆっくりと歩く――。
 戸についたガラス窓からは、既に奥の壁に飾られた鏡に映る俺が見える。立て付けの悪い戸を開き、室内へと歩みを進めていく。
「……相変わらず、でかい鏡に映るのはカメレオンが1匹か」
 アンティーク調に彫られた木製額縁にハマる大鏡に映ったのは、昨日となんら変化のない光景だ。
 カメレオン姿で動く俺が1人。全身どころか、教室の半分にも至る大きさだ。ギシギシと木造校舎の床を踏みならし、壁に掛けられた大鏡に触れる。触った感じは、なん変哲もない鏡。
「でも、改めてよく見ると……埃も、曇りも全くない。これは不思議だよな」
 ふつう、手入れをしていない鏡なんてホコリや湿気でくもって映りが悪くなる。それなのに、この鏡は誰かに手入れされているように不思議なぐらい澄んだ輝きをしている。
 まるで人の表層だけでなく、奥深くまで見透すのではと思わせるほど鮮明に映し返す。
「鏡ってのは、自分にぶつかった光を反射したものが映るんだったか」
 鏡映反転という現象で、鏡に映しても人が見ている自分と、自分が見る自分には違いがあるらしい。
「人が見ている世界と、自分が見ている世界は違う、か。今、人類が暮らす正常な世界を見て生きている人と、カメレオンの群れが蠢く世界を見ている俺みたいだな」
 試しにスマホで鏡機能を使い合わせ鏡にしてみるが――やはりカメレオンだ。
「これなら、他人にも俺がカメレオンに見えてないとおかしいんだけどな」
 やっぱりオカルトの謎は解けないか。世界が見る人間姿の俺がおかしいのか、俺が見るカメレオン姿の人がおかしいのか。やはりわからない。
「古いものには怨念や魂が籠もるって言う。鏡は、童話では異世界への入口で真実を映し出すとか言われてたか」
 この手の常識が通じないものには、非常識で対抗するしかないな。珠姫が持っていたオカルト本頼りの知識だが。
「それなら、初代学長の魂とやらが鏡に宿ってて俺の真実の姿を映し出しててもおかしくないな。俺の姿を人間に戻してくれませんかね?」
 鏡はうんともすんとも言わない。やはり、無理があったか。
「…………」
 何も反応がないなら仕方がない。もう鏡にまつわる不思議を手当たり次第だ。スマホを片手に調べながら、鏡に向かって仮説を語りかけていく。
「『他人は自分を映す鏡』って言葉は、『自分の目に映る他人の言動は、自分の心を写す鏡のようなもので、改めるべき参考にしろという教訓』。人の振り見て我が振り直せって意味と――『自分の口から発した言葉や、自分が取った行動は、自分に返ってくる』って意味がある」
 まず前者だが、俺には周囲がカメレオンに見えている。もしも俺が周囲に無理に溶け込んで、もめないように上手くひそむカメレオンのような心を映しているのだとしたら。
「俺だけじゃなく周囲の言動を――変えろってことか。人間らしくあれと」
 あくまで仮説だ。人が変わるのは簡単じゃない。変わったと思っても、本質は変化していないことだってある。これを鏡に認めさせるには時間がかかるだろう。
 後者だとしたら――。
「俺の思考や言動が人生を作り、同じような価値観の人が集まってくるか。感情的に動けば、相手も感情的に。優しくすれば、相手も優しくしてくれる。……これは、俺より『叶魅りあ』――花宮に相応しい言葉だな」
 どんなに調べて仮説を並べ立てても、鏡に映るカメレオンに変化はない。正直、俺にうつ手はないので、いよいよオカルトに強い珠姫に相談しようかという案件だ。
 だが、鏡の中にいるかもしれない初代学長の魂とやらに宣言しておくことがある。『校訓』にまでしてしまったサミュエル・ウルマンの青春の詩。毎週末語られる内容から、俺が学んで実践しようとさっき決意した内容だ。
「俺は……自分の成りたい理想の人間像ってのはまだハッキリとわからない。――でも、本気で興味が湧いたことがある。好奇心か真心か、恋心かもまだわからない。もしかしたら深入りすることで人間関係が壊れるかもしれないけど……本心でぶつかり合いたい。彼女に助けられた以上に――助け合える関係になりたい。そんな目標を成す為に日々を生きる、格好いい人間でありたいと思う。俺はその為に自分を探して、相手を知る冒険をしていく。このドクドクと胸がときめく感じ、自分は生きているって気分になる。冒険にリスクは付きものだしな」
 改めて言葉にすることで、そう行動しようという意欲が不思議と湧いてくる。言霊というものは、やはりあるのだろう。気の持ちようとして、やはり宣言して意識することで――行動も変化する気がする。
「まぁ、まだ変わった気がするだけなんッ!?」
 夕陽が大鏡に映り込んだ――次の瞬間。
「まぶし……!」
 ピカピカの鏡が、夕陽の光をオレンジ色に反射する。まぶしいオレンジ色の光に照らされ、目がチカチカして痛む。上手く機能しない目を腕で擦ると、痛みがいくらか和らいできた。違和感も弱まってから、ゆっくり目を開けると――。
「か、変わった……?」
 鏡に映るカメレオンが姿形を変えている。
 だが――。
「……これは、狼の耳と尻尾?――人間に戻ったのは、手足と目元だけか」
 自分の目で確認しても、触れてみても。そこにはザラザラな肌などない。もふもふとした灰色の毛に覆われる耳や尻尾まである。
「顔も髭ぼーぼーになるのは、まだ早いんだけどな」
 いずれにせよ――。
「そんなに俺が人間だと認めたくないか?」
 考えられるのは、鏡の中のなんらかが俺の本質はカメレオンじゃなく狼だと映し出したこと。あるいは鏡にすら俺の言動は寂しい一匹狼だと映ったか、いやもしかしたら――。
「嘘つきの狼少年とか、ぼっちの一匹狼がお似合いとか思ってるんなら――叩き割ってやろうか」
 すごく小馬鹿にされている気分だ。
「人の気にしていることを……。義妹にもさんざんぼっちだと煽られてるってのに。もうちょいあるだろ、俺に似合う可愛く愛くるしい生物とかさ」
 この鏡に宿る力とか、魂だとかってオカルト存在。そいつは絶対に性格が悪い。
「カメレオンだらけにしたり、今度はむさ苦しい狼男かよ。一匹狼とか……」
 煽られているようで、言いたいことは山ほどある。――でも、解決の手がかりは見つけた。
「今の俺が口だけで中身が伴ってない……人間になりきれてない狼男だって言うならさ。――人間らしく、青春してやろうじゃねぇかよ」
 野郎かどうか知らないけど、初代学長は男だったしまぁいいだろう。昂ぶる感情を抑えきれず悪態をついてしまったが、この挑戦的な鏡に見せつけてやろう。
「見せてやるよ、俺が口だけじゃないってことをさ」
 そうして意気込みながら旧校舎を出たはいいが、外には――。
「……周りがカメレオンなのは、変わってねぇのな」
 俺がカメレオンから狼に変化しても、俺以外がカメレオンに見えるオカルト現象には変化がないらしい。校庭では運動部のカメレオンが走り回っている。
 等身大のカメレオンが二足歩行で走り回るのって、気持ち悪いな。人気がなくて気分がスッキリするところで考えを落ち着けたい――。

「やだぁあああ! ぁあああッ、わぁあああん!」
「静かにね、周りの人に迷惑になっちゃうから」
 気晴らしから帰り、最寄り駅へと向かう電車内でのことだ。抱っこひもで小さな子供を抱き、隣にもう少し大きな子供を座らせているお母さんがいる。勿論、俺からすれば親子カメレオンに見えるんだけど、服装や距離感から察するに親子だろう。子供を育てるって大変だなぁ。人間の赤ちゃんでもカメレオンだから、やっぱり異様にでかく見えるわ。
 そんなことを考えながら、俺がスマホを見て時間を潰していると――。
「チッ。うるせぇなぁッ。静かにさせるのも教育だろ!」
 スーツを着たカメレオンが舌打ちの後に、声を荒げた。声の質的に、中年以上の男性かな。
 俺は3個前の駅から乗っただけだが、その時からこのスーツを着たカメレオンは車内にいて、かなり嫌そうな顔をしていた。特に2個前の駅はこの辺りで一番色々なお店があるから、大勢の人(カメレオン)が乗り降りした。そこからより一層、子カメレオンはギャン泣きしている。
 子供からしたら自分より大きな生き物が一斉に乗り降りして、自由に身動きも取れない満員状態なのはさぞ怖いことだろう。少しだけわかるぞ、俺も満員のカメレオンに囲まれて泣き叫びたいからな。これで自分より何倍も大きければ、間違いなく君のようにむせび泣く自信がある。
「すみません、すみません!」
「チッ。電車内では静かにだろうがよ……」
 まだ小さな子供に、そんな大人の常識を求めてもなぁ。言いたいことはわからなくはないけどさ。車内マナーってのはあるけど、小さなお子様には難しいだろうに。お母さん1人を責めるなら、子供に「車内では静かにしないといけないんだよ」と一緒に優しく諭してあげればいいのに。
「イラついて八つ当たりせずにいられないなら、車両を変えればいいのにな」
 つぶやいた俺の声は、子供の泣き声に消されて届かなかったようだ。お母さんは「ほら、もう泣き止もうね。帰ったらおもちゃで遊んであげるから」と、1人で必死にあやしている。
 車内の空気は正直言って最悪だ。スーツの男性のイラつきと、「そこまで言う必要ないだろ」とか文句を言いたそうなのに、周囲の顔色をうかがってだまる人ばかりで、空気は重い。
 みんなの心情を代弁するなら、『おかしいとは思うけど、自分が1番最初に言うのは嫌だ。面倒だし、誰も文句を言わないなら自分も我慢してればいいや。どうせこの人、そのうち降りるだろうし』ってところかな。
 俺はそんな同調圧力にも似て――自由な言動が許されない空間がとてつもなく嫌だった。
 満員の電車内を「すみません」、「ちょっと通ります」とすり抜けてゆき、椅子に座る親子の前にたどり着いた。子供の斜め前に屈んで、視線を合わせる。
 相変わらず泣き叫んでいる子供は、こちらにまだ気がついていない。
「す、すいません。静かにさせますので!」
「ああ、いえ。ちょっと手品をと思いまして」
「手品?」
 怪しむお母さんに微笑を返し、俺はポケットから100円均一で買ったマジックグッズを取り出す。
「ほら、見えるか? この玉は赤色だよね?」
 声をひそながら、子カメレオンに向けて問いかける。目の前に玉を出された子供が何事かと思ったのか、キョロッと目を向けた。
 よし、ひとまず注意を引けたな。その玉を一度箱に戻し、蓋を閉める。
 そして蓋を再び開くと――。
「変わった!」
 そう、色が変わるのだ。子供が泣き止み、笑顔に変わった。
「他にも、ほら」
「わぁ、お金が移動した!」
 10円玉をケースに入れて、持っていたハンカチで包むと違うケースの中に移動するという手品だ。種も仕掛けもあり、どれも100円均一で買える程度の品。それでもクラスメイトとの話題作りのきっかけにでもなればと買っていた。
 でも後日よく考えれば、100円均一で買ったマジックアイテムを高校生に対し得意気に披露するというのはキツい。そもそも使うような交流がない。そんな悲しいエピソードで眠っていたマジックアイテムたちが、日の目を見る時がきた。
「そうだろ、これはね――」
 子供相手に得意気に語り、親子カメレオンは目的の駅に到着すると「あ、ここで降ります」と車内から出てゆく。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ」
 ぺこりと頭を下げる母カメレオンに軽く頭を下げ返し、俺は出ていく親子カメレオンの背を目で追う。電車から降り駅の階段を目指し、多くのカメレオンの群れと同様に改札口を目指し歩いていた。俺はそんな親子の背中を見て、少しだけ心が楽になる。やっぱり、心からの笑顔っていいよなぁ。人間でも動物でも、カメレオンでもさ。
「うむ。良き良きってやつだな」
 車内にあった重苦しい空気はすっかり消えていた。そうして列車はまた動き出す――。
「……あ」
 俺の最寄り駅をとうにすぎ、さらに先を目指して。
「俺が夢中になってた……。まぁ、次の駅で乗り換えればいいか。叶魅りあの配信までには余裕で帰れるし」
 カメレオン姿であっても、やっぱり子供の笑顔は嬉しい。
 それに自分が周りに流されずやりたいこと――善行をできたんじゃないかという自己満足で、気分が良い。降りる駅を乗り越したことなんて小さな問題だと、ご機嫌に自宅へと帰った。
 ご機嫌じゃなかったのは、自宅で夕食と俺の帰りを1人寂しく待ち続けていた珠姫ぐらいだ。『兄さん、空腹のぼくを待たせるとは、よほど動きたくなるまじないでもかけて欲しいらしいね?』と俺の背中から首へ腕を回してきて離れてくれない。
 気にせず動き回る俺に掴まり続けてているから、ズルズル引きずられていた。「首が絞まるんだけど」と俺が文句を言っても「カロリー不足で離れる力もないんだよ」と力なく呟いていた。
 カメレオンの肌じゃなければ可愛かったかもしれないのになぁ。とりあえず、俺のもふもふな狼尻尾を踏むのは止めて頂きたい。この感覚をわかりやすく表現すると、指を踏まれているような感覚だ。
 その日は珠姫が好きなプリンを一品足すことで、なんとか妹の笑顔も取り戻すことができた。うちの義妹はちょろ可愛いんだよな。
 カロリーを摂取した珠姫と分担している家事をやり遂げた21時。
 ここからは俺のゴールデンタイムだ。
『はい、皆さんこんばんは! こんこん、こんりあ! 皆に元気と癒やしを届けにきた銀毛狐の叶魅りあだよ! あ、初見さんいらっしゃい。良かったらゆっくりしてってね!』
「きた、はじまった!」
 スマホのディスプレイで銀毛狐姿の叶魅りあが元気な挨拶と同時に3Dで動き出した。
 俺の1日を癒やしてくれる、3年間以上も続くルーティン。そう、叶魅りあの定期配信の時間だ。
 勿論1コメント目は譲らない。
 配信当初とは違い、今では同時接続者数が数十人となってもなお、譲れない勝負だ。それにしても、金曜日の21時という配信ゴールデンタイムにも関わらず、相変わらずリスナーが多い。企業に所属しているわけでもない個人配信者なのに、企業配信者にも負けていない。彼女の積み上げてきたあらゆる努力の結晶だ。
『オオカミ男爵さん、こんばんは! 今日も来てくれてありがとう!』
 オオカミ男爵とは、俺のネットネームだ。
「やっぱり、推しに名前を呼ばれるって嬉しい」
 自分がすっかり沼にハマって抜け出せないファンだということは自覚している。珠姫から白い目を向けられることにも慣れた。それでも、これは唯一の趣味だから譲れない。譲りたくないんだ。
『オセロさんもこんばんは! 1コメ取られちゃったからって泣かないで! 明日もあるよ!』
「また貴様か、オセロ。いくら同じ最古参とはいえ、明日も貴様は2番だ」
 この『オセロ』というリスナーは、俺と同じ――叶魅りあの初回配信から聞いている最古参だ。
 もっとも、俺が暇つぶしでデビュー配信者を巡っていて叶魅りあの配信枠にたどりついた時、既にこのオセロというやつはいた。
「叶魅りあの最初のリスナーという栄誉は取られたんだ。お前はそれで満足しろ」
 なんて憎まれ口を叩いてはいるが、俺はこのオセロというリスナーと仲が悪いわけではない。何だかんだで配信が盛り上がるような演出を1年以上している。たまに少し張り合ってみせるのはパフォーマンスだ。配信のコメント欄でしか交流はないのに、お互いそこを理解しているようで、俺とオセロには妙な絆が芽生えている気がする。
「そう思っているのは、俺だけかもしれないが」
 配信内で生まれる絆というのも面白いかもしれないな。空想に思いをはせていると――叶魅りあが両手の指を顔の前で組み、笑顔で話しかけてくる。
『今日も雑談励まし枠だよ。もし話すことがなくなれば、セリフ募集とかもしようかな。みんな、今日という1日はどうだったかな?』
 その後、色んな人に相談されては全肯定に変えるような前向き雑談配信をしていた叶魅りあ。やがて質問や相談が途絶えた時――バーチャルの狐が嬉しそうに微笑みながら「そういえば今日ね」と自分に起きた出来事を話しはじめた。
『そういえば今日ね、心がほっこりするエピソードがあったんだ! 電車の中で泣いてる子供がいてね、周りの人が不機嫌になっちゃったんだけど……』
「既視感のある話だな」
『その時、若い人がスッと出てきて子供に手品を披露して笑顔に変えちゃったの! すごいよね、手品自体は単純だったのに、微笑ましすぎて私まで笑っちゃったよ。利害なんて考えない真心で、人を笑顔に変えちゃう素敵な言動は心に響くよね。その人の勇気ある行動、私も見習いたいな!』
「わぁ……すごいなぁ」
 本当、すごい偶然だ。ていうか、花宮が車内にいたのかよ。急に現実に戻された。と言うか……照れてコメントをうつ手が止まるわ。
『大きな街に出て買い物いった帰りだったんだけどね、ギュウギュウ詰めの満員電車だったんだ。多分、その若い人が真正面に立たずに斜め横に屈んだのが良かったんだと思うんだよね! やっぱり真正面に大きな人が立つと、威圧感あって怖いからね! そこまで計算してたなら、すごいと思う!』
「……そこまで考えてたなら、すごいよね」
 すいません、全然計算してなかったです。なんなら、真正面に立つのは俺が怖いからやらなかっただけだ。でも俺は「その人は計算尽くで斜め前に立ったんだろうね。知らんけど」とコメントする。
 叶魅りは少し目を細めながら微笑み、俺のコメントを読み上げた後――。
『そうだよね。そんな計算高く優しい人なら、ふだんから友達も多くて人の秘密とかをうっかり口にすることもないんだろうな。勇気も気遣いも、本当すごいよね!』
 あ、学校で叶魅りあの名前で呼んでること気にしてるな。ちょっとした賞賛と同時に、軽い意地悪と『今後は口を滑らせないように気をつけて』という遠回しな優しさを感じた。自分とリアルで関係があると明かさない見事な牽制だな。
 でも俺は、叶魅りあの中の人が望むほど――優しくはならない。
 嫌われるのは身がすくむほど怖いけど……。それでも、疲れてたまに苦しそうな花宮をただ眺めていたくない。他ならぬ俺自身が、そんな姿を見てると苦しくなる。
 だから、あえて彼女が望む逆――彼女がみんなに覆い隠している本心へと突っ込んでいく。
 見られたくないのかもしれない『本当の顔』ってやつを、見てやろうじゃないか。本当の顔を見せられない相手に、弱音や愚痴は吐けないだろう。
 彼女の心のダムが決壊する前に、ネガティブ感情という淀んだ水を放出する相手になる。そんな友人や相手がいないことは、今日の下校前に確認済みだしな。バーチャルアイドル叶魅りあも、中の人である花宮貴子も知っているこの立場を、俺は利用させてもらうよ。
 まぁそれはそれとして……。
「はぁ、やっぱり叶魅りあは可愛いなぁ。すっごい癒やされる~」
 悶える思いを耐える為、布団を抱いてコロコロとベッドの上を転がる。カメレオンの集団に囲まれたストレスが吹っ飛んだ。
 なんだろうね。もふもふ銀毛狐がこんなにも可愛く健気で前向きとか……マジで最強だと思う――。

 そうして翌日の土曜日。俺は自転車に乗って1つ隣の駅にある激安スーパーにやってきていた。
 両親からの仕送りの他に、日曜日には建築現場での資材運びというバイトもしている。肉体的にはしんどいが、日給は2万円近い為生活には困らない。
「できれば、六年間最低でもオートロックつきの部屋から大学に通わせてやりたいなぁ」
 六年制大学を目指す珠姫の学費は、世間一般的に高額だ。いくらあっても困らない。それにあれだけ可愛いし、力の弱い女の子なんだ。オートロックぐらいないと俺が安心できない。
 割引シールが貼られる時間のスーパーというのは、1円の重さと大切さをよく考えさせられる。週に1回だけくるこの激安スーパーでは、まず調味料など日常でガンガン減っていくものを買い込む。いつもは近場のスーパーで済ませるだけに、この日は貴重だ。
「――きた、精肉コーナーの割引!」
 そう、肉は肉でも――牛肉だ。
 鳥や豚と比べて高値だが、やはり味が良い。珠姫も牛肉を出すとすごく喜ぶ。特にステーキなんて出した日には、機嫌よさげに揺れる。意味の分からん創作ダンスをはじめるぐらいだ。たまにクルッと回転もするし、独創的と言うか……天才様の芸術はよくわからん。
「ここで値下げした牛肉を多く勝ち取れれば、冷凍しておいてもいい。――目標を定めて、時が来たら捕らえる」
 負ければ――また1週間我慢だ。下手をしたら『牛肉の味を再現する野菜を作る』なんて珠姫が言い出しかねない。前にもそう言ってタマネギが大変なことになった。料理名をつけるなら、化学実験の犠牲だろうか。
 店員さんがシールを貼るのを邪魔するなど言語道断。店員さんの進路側から邪魔をするのも言語道断だ。狩るなら店員さんがシールを貼り終えて棚に戻した後、次の進路とは反対側からだ。
「――ハイエナの気配」
 いや、気分で言っただけだけど。今の俺は狼の外見で、周りにいるのはハイエナじゃなくてカメレオンだし。でも――確かにいる。獲物(割引商品)ができるのを嗅ぎつけたやつらが。店員さんの一挙手一投足を見ているハンターが、山のように集まってきた。店員さんの引いたカートの上でお目当ての牛もも肉に割引シールが貼られている。
 棚に戻す瞬間を、お菓子売り場に隠れて見つめ――。
「――ッ!」
 俺は商品棚に置かれた瞬間、早足で獲物を狩りに言った。他のハンターと体がぶつかり合うが、手は引っ込めない。そして店員さんには絶対にぶつからない!
「――よし、2枚入りゲット」
 これで我が義妹様、珠姫のご機嫌うるわしくなること間違いなしだ。後は近所のスーパーより安くて保存期間の長いものをカゴに入れて、今日の狩りは終了だ。
「野生の世界も、厳しいもんだ。弱肉強食ってね」
 バックヤードに通じる扉には鏡がついている。そこに見慣れない自分の顔が映り、思わず覗き込まずにはいられない。
 鏡に映る毛深い狼フェイスをした自分の頬を一なでし、俺は戦利品のお会計に向かった――。
 
「飢えた狼にならないで済んだ。早く帰って、珠姫の嫌いなブロッコリーは柔らかく煮て刻まないと」
 ステーキの付け合わせにはやはり、栄養バランスも考えて野菜だと思う。でも珠姫は『今日はチートデイだ! ぼくは今日は美味しいで終わりたいの!』と言って、野菜を翌日に持ち越したがる。
 そこでいかに美味しく野菜をスープに盛り込むかの技量が問われるのだが――。
「――きゃっ」
 なんて考えつつ帰路を歩いていると、後ろから女性の小さな叫び声と金属音が響いてきた。
「なんだ?」
 見れば自転車が倒れていて、女性らしきカメレオンが痛そうにアスファルトへ座り込んでいる。自転車のカゴからは大量の商品もエコバッグから飛び出していて、簡単に言えば惨事だ。
「大丈夫で……!」
 慌てて助けに向かうが、近づいてよく顔を見た所で思わず呼吸が止まり、胸が跳ねる。
「あ……!」
 向こうも慌てて顔を背けた。
 やっぱり……と思った。このカメレオン……ポニーテールなのだ。そう、先日俺に告白してくれた女子と同じ髪型。服装は休日だから私服だし、カメレオンだから見分けがつきにくい。
 少し気まずいが、困っているのをほうって去るのは人として良くないな。自転車を立ててから商品を拾い、エコバッグに戻すのを手伝う。
「いっ」
 短くも苦しげな声が、聞こえた。
 顔をしかめながら右手で左肘を押さえているが、指の隙間から血が見える。
「あの、これどうぞ。100均のだから生地は硬いかもだけど、ちゃんと洗濯乾燥してあるから」
「……」
 気まずそうにしつつも、俺が差し出したハンカチを受け取ってくれた。
 しかしこの時、俺は1つ大変な違いに気がついた。先日告白してくれた子は、小柄で凹凸の少ない体型をしていたように思う。でもこのカメレオンさんは、スレンダーながら出るところは出ているナイスボディで、すごく足が長い。座っているからわからなかったが、明らかに身長が違うんだ。
 いや、エロい目で見てるわけじゃない。Tシャツにスキニージーンズという格好だから、体のラインが見えやすいだけなんだ。本当に。
 マスクは転んだ時の衝撃か顎まで下がっているが、カメレオンフェイスだけではわからなかった。体を見たら別人だとわかるってのは、顔と違って個性が出やすいって理由だからな?
 まぁ少し脳内で言い訳をしたが……話を戻すと、告白をしてくれた子とは別人である。じゃあなんでこの人は気まずそうなんだろうかと考え、ハッと理由に思い至った。
「あの……もしかして割引シールは、恥ずかしいと思ってますか?」
「――!」
 やはりそうだ。
 カッと頬を赤く染め、素敵な奥様と思われるカメレオンは顔を俯かせている。俺と同じて、彼女も激安スーパーがさらに安くなる割引シールを狙ったらしい。
「……すごく経済的で、素敵だと思います」
 無理のない節約を志す同士だ。なんか、思わずテンションが上がってきた。
「素晴らしい節約術……あなたのパートナーは、幸せ者ですね」
 感嘆しながらそう言うと、女性は耳まで真っ赤に染めてしまう。ポニーテールで耳まで見えているから、変色がわかりやすい。無言でペコペコ頭を下げ、彼女はアスファルトの上に転がっている眼鏡を拾う。眼鏡をかけていたのが、転倒した時に落ちたのか。
 彼女は顎までずれていたマスクを戻すと、自転車に跨がり去っていく。走り出し、カゴに乗せたエコバッグが重すぎて少しフラついていたが、もう倒れることはなかった。
「うんうん、あるよな。お買い得品がありすぎてつい買いすぎちゃうこと」
 ずっと口をつぐんだままだった恥ずかしがり屋なさっきの女性と同様、俺も買いすぎてしまうことがある。それにしても、一言も喋らない相手に1人で話すぎたか。
「珠姫にも怒られるんだよなぁ。テンション上がったら、思ったことをズバズバと自由に言いすぎだって」
 だって仕方ないじゃん。節約上手な人を見て、テンション上がっちゃったんだから。それに、自由に生きるのはもう性分だ。何事かに囚われると、息苦しくて仕方がない。
「あ~……。でも、さすがにヤバいよな恥ずかしがっている人を相手に……言わなくても良いこと言いすぎたなぁ」
 いくらなんでも不審者と言われても仕方がない。自省しなければ――。

 そうして自宅に戻り、家事を済ませた俺のゴールデンタイム。
「今日も定期配信の時間がくる」
 スマホを持ったまま自室のベッドの上に座り、配信開始通知を待つ。
「――きた!」
 通知が画面上から降ってくると同時にログイン。そしてコピーしてあった挨拶文を即座に貼り付ける。
『はい、皆さんこんばんは! こんこん、こんりあ! 皆に元気と癒やしを届けにきた銀毛狐の叶魅りあだよ! オオカミ男爵さん、本当に早いね。私が挨拶する前に挨拶してくれてありがとう! ああ、オセロさん次またチャンスがあるって!』
「見たかオセロ。ずっと俺の背中を見ているがいい」
 ふっと勝者の笑みが勝手に浮かんでしまう。その後も続々と入室するリスナーへ向け、叶魅りあは改めて挨拶をしながら雑談をはじめた。今日は雑談のネタがなくなれば歌枠もする予定らしい。
「叶魅りあの歌は素晴らしいからな」
 彼女の歌は、本当に美しいと思う。音楽には全然詳しくないけど、テレビに映るアイドルに負けていない……むしろ勝っているとさえ思う。
「でも残念、1時間の配信で雑談ネタが切れることなんてほとんどないからなぁ。歌枠は激レアなんだよな」
 叶魅りあは、セリフ枠にしろ歌枠にしろ、雑談とわけては企画しない。必ず雑談のネタがなくなったのならという配信スタイルをしている。理由を聞いても、配信内では『みんなとお話してお互い笑顔になるのが、1番楽しいからだよ!』とはぐらかされてしまう。今度、本当の理由を中の人に聞いてみるのもいいかもしれない。
 そんなことを考えていたら――。
『オオカミ男爵さんは今日の休日、何かあった? 例えば、誰かと会ったりとか!』
 多くのリスナーがいるのに、自分のハンドルネームが呼ばれて驚いた。珍しいな。リスナーのコメントが止まっているわけでもないのに名指しで質問されるなんて。
「俺をぼっちと知っていての嫌がらせ? いや、叶魅りあは前向きな良い子だしなぁ」
 俺は首を傾げながらも素直に『いつも通りぼっちで、誰と会うこともない休日でした!』とコメントをうった。
 それを見た叶魅りあは微笑みながら頷く。
『そう……ふだん通りで、特に誰とも会わなかったと』
 すごくしみじみと言っている。何だろう。俺、叶魅りあになんかしたかな?
「ん~、いいんじゃないかな。何気ない日常って、実はすごく大切だと思うし!」
 今の『ん~』も、いつもの前向きに変換する時とは違うイントネーションだった。なんだか、様子がおかしい……?
「まぁ、たまたまかな。新しい一面を発見したということか」
 俺はいつも通り、闇深い人生相談をワタワタしながら前向きに変換する叶魅りあの配信を楽しんだ――。

 日曜日に頑張る肉体労働バイトのおかげで、精神も体も一番重い月曜日の朝。
 たった1人で朝からオカルト研究部の活動をする珠姫を見送り、俺はのそのそと教室へ向かう。今日もカメレオンの集団は健在だなぁ。俺はまだ残暑が残る中、毛むくじゃらボディだ。
「――ぁ……」
 俺の前で一瞬立ち止まったポニーテールのカメレオンが、逃げるように駆けてゆく。
「告白してくれた子……か? 勇気だしてくれたのに、俺は保留だの最低なことしたな……」
 周囲に溶け込む話題のきっかけに人の思いを利用しようとしたとか、改めて最低すぎる。今さらながら、罪悪感で押し潰されそうになってきた。
「――大神くん、おはよう。どうしたの、なんか辛そうだけど……大丈夫?」
「花宮……。どうして俺が辛そうって思うんだ?」
 同じく登校中の花宮が、斜め下から顔を覗き込み励ましてくれた。……辛そうな感じとか、出してなかったのはずなのに。……本当に、よくわかったな。
「雰囲気でわかるよ。今、辛いんだろうなって。……何か私にして欲しいこと、ある?」
「……大丈夫、自分がしたことだから。これは甘えちゃダメだし、落ち込むのも失礼だった」
「そっか、わかった! なら、一緒に笑ってこう! 同じ1日なら笑ったもん勝ちだよ!」
 口角を指でつり上げたカメレオンが、笑顔の作り方を教えてくれる。花宮は、やっぱり優しい。八方美人っていうのは、それだけ人の顔色に敏感ということだ。こうして楽しい場を作る為に一生懸命な姿を見ると、自然と笑顔になる。
 花宮の周りに人が集まる理由が、改めてわかった気がする。
「花宮はすごいな、人気者になる理由がよくわかったよ。一緒にいると安心する魅力もある」
「私、罪作りな女かな?――あ、いい笑顔になったね。うん、そのほうがこっちも安心するよ」
 冗談を言う姿に自然と笑顔になる。お礼を言おうとすると、花宮が顔を近づけてきて――。
「――大神くん、配信でも確認したけど……くれぐれも土曜日のことは内緒にね?」
 ――内緒話をするように、耳元でそう囁いた。
「……なんこと?」
「え、あれ理解してなかったの!? 土曜に配信で『誰にも会ってないし何もなかった』って、口裏合わせしてくれてたじゃん!」
「……は?」
「あの、だから!……値引シールが貼ってある商品をたくさん買ってたこと、言わないよって宣言じゃなかったの?」
「値引きシールたくさんの商品?――あ、もしかして激安スーパーの?」
 直近で値引きシールを貼られた商品を大量買いしてた人と言われると、すぐ思い浮かぶ方がいる。買い物上手でナイスなボディをしていた、ポニーテールのカメレオン奥様だ。
 いや、俺が勘違いしていただけで――。
「え。もしかして、あの自転車乗ってた人は花宮だったのか? 全く気付かなかった……」
「嘘、気付いてなかったの!? え、じゃあ私、もしかして自爆した!? やらかした……」
 片手で顔を抑え、耳を真っ赤に染めて恥ずかしがっている。まぁふつうは気がつくよな。今の俺には人がカメレオンに見えるから気がつかないけど。でも、やらかして恥ずかしがる姿って、いいな……ほっこりする。人間姿の時だったら、俺は可愛さに悶えていたかもしれない。
「……新たな性癖に目覚めそうだ。真剣に頑張り、やらかしたら恥ずかしがる。また頼むな」
「もうやらないよ! そもそも好きでやらかしてない!……なんでそんないい笑顔なの? もう、意地悪……。ハンカチを巻いてくれた優しさが、ふだんも出るといいのになぁ~!」
 意地悪じゃなくて、本当に気がつかなかったんだ。皆の顔が同じカメレオンに見えるし。
 そんな状態で髪型をふだんと違うポニーテールに変えていたら、わかるわけがない。ボディの起伏だけで人間形態時の姿が脳内に浮かぶほど、俺は上級な変態じゃない。ちゃんといつものように毛先を巻いたゆるふわの髪型でいてくれないと、花宮だったなんてわからない。あの時は喋ってもくれなかったから、声で判断もできなかったし。
「それにしても、まさか休日モードの花宮とスーパーで会うとは驚きの偶然だな」
「……本当だよ。私さ、Vチューバー活動を親に許してもらう代わりに、家の料理を担当してるんだ。でも食費がちょっと厳しくてね」
「へぇ、そうなんだ。意外だな、配信でかなり稼いでるんだろうなと思ってた」
「自分のお金から足すのは禁止されてるの。限られたお金のやり繰りを覚えなさいって」
「いい親御さんだね」
「ん~、教育熱心だよね。やっぱり感謝してるよ」
 そうか、『ん~』か。強引に前向きな言葉に変換する時一瞬考える、『叶魅りあの』癖が出たな。
 無意識だろうけど……それが出たということは、親の教育に対して何か思うところがあるってことだろう。
「値引き商品を狙って買うの、見られないようにずっと変装してたんだけどなぁ」
「眼鏡が落ちて、マスクも顎までずれてたしね」
「自転車で転ぶなんて、不覚だよ。もっと足腰を鍛えて、米俵でも運べるようにならなきゃ」
「さすがに自転車のカゴが潰れるでしょ。江戸時代の御方でも背負ってたよ」
「でもさ、また転んで同級生とかにバレたら――」
「――バレてもいいと思うけどな。昨日も言った通り、経済的で素敵だと思うよ」
「ダメだよ! 皆にケチって思われたら、陰口言われるかも……」
「花宮……」
 思った以上に強い口調で否定された。少し驚き視線を向けると、花宮は目を伏せて不安そうに手を握ったり離したりしている。
「それが盛り上がって嫌われたり、除け者になっちゃったら……」
 不安を隠すような仕草をほんの少し見せた後――花宮はパッと花が咲くような笑顔へ戻った。
「べ、別に軽い陰口はいいんだよ? 場が盛り上がるかもだしね。でも完璧キャラとして通ってる私としたことが、不覚だったな~。もう転ばないように補助輪でもつけよっかな。だからさ、昨日のことも秘密の契約に追加ね?」
「配信活動をしてることを秘密にするって契約に加えて、かぁ」
「も、もしかして……バラすの?」
「素敵な節約家ってことを秘密にしてもいいけど、条件がある」
「条件?」
「花宮に本音で話してもらいたい」
「……何を、言ってるの?」
「さっきみたいに、ちょっとした不安でもいい。隠そうとしないで――素の花宮も見せて欲しい」
 真剣に言う俺の気持ちにたじろいだのか。花宮の仮面のような笑顔が一瞬崩れ、視線が泳いだ。
 でも、すぐに俺と目線を合わせ――。
「私は、いつも素だよ?」
 少しだけ硬い声音で、そう返してくる。またいつものように柔和な笑顔で、「何を変なことを言ってるの?」とばかりに首を傾げながら。
「叶魅りあの配信と今は、全く同じ?」
「全く同じだよ。どっちも私」
「それがおかしいんだよなぁ」
「え、何がだろう?――でも、どっちの私とも仲良くしてくれて嬉しいよ。ありがとうね」
 とぼけているのか、これ以上踏み込ませないように話を切ってきたな。俺もいきなり踏み込みすぎるのはよくないか……。無闇に怖がらせたいわけではないし。
「今すぐ俺を信用してくれってのも無理な話だよな。まぁ、俺の本音は伝えたからいいか」
「…………」
「秘密の契約とかなしでいいよ、どうせ俺には話す相手もいないし。前言ったように、悪意があるワイドショーみたいな真似するのも嫌いだから」
 花宮は、目を下に向け何事か考えている。キョロっとした目だから、わかりやすい。
 時間にしてわずか1~2秒後。口角を上げて微笑む花宮が、俺に向けハンカチを差し出してくる。
「これは?」
「土曜日に巻いてもらったやつは血で汚れちゃったからさ。代わりにね!」
「……俺が100均で買ったやつと、手触りが違いすぎるんだけど」
 めっちゃ柔らかくてすべすべだ。何コレ、こんなハンカチがあるの?
「お礼と口止め料も込みだからね。ちょっとだけ奮発しちゃった。私から大神くんへの課金アイテムかな?――じゃあ、そういうことでよろしく! また教室でね!」
 そう言い残し、花宮は他の同級生らしきカメレオンに駆け寄っていく。挨拶をして廻るのを再開したのか。人気者は――いや、人気者であり続けるのは大変だな。
「口止め料かぁ。俺の希望、目標の達成は遠いなぁ……」
 本音を話してもらい、お互い支え合える関係性になる。そんな関係性にはまだまだ遠い事実が再確認できた。
 だからこそ――。
「燃えてきたなぁ。絶対に素で語り合いたい」
 俺はもふもふな頬を叩き、気合いを入れ直す――。

 昼休み。この長い休み時間は、ぼっちにとっては一般的に辛い時間だ。しかし俺にとっては、学校で叶魅りあの配信をゆっくりと振り返る素晴らしい時間である。いつもの俺なら叶魅りあの配信アーカイブを視聴して終わる。でも今日は片耳だけイヤホンをつけ、残った目や耳は中の人である花宮貴子に向けていた。
「同じだ」
 教室で友達と話す花宮は、リスナーの相談に乗ったり雑談をする叶魅りあと全く同じテンションだ。
 花宮は俺の視線に気がついているのか、時々俺のほうを見ては居心地が悪そうにしている。カメレオンが食物連鎖の上位である狼に見られているからではない。花宮からは、人間の俺が何するでもなくただジッと自分を観察していると感じているんだろう。
「……気色悪いなぁ、俺」
 我ながら気持ち悪いと思い、机に突っ伏すことにする。
 観察目的であった『花宮貴子はクラスの友人全員に、叶魅りあの相談同様の接し方をするのか』というのは観察できた。もしかしたらぼっちである俺には叶魅りあのように優しく接しているだけで、仲が良くて素で話せるようなクラスメイトが実は隠れているかもしれないという仮説だ。
 ものすごく花宮をジッと観察したことはなかったし、付き合いが長いわけでもない。
 もしかしたら小中学生の頃の友達にそういった人がいるのかもしれないが……。花宮は放課後、毎日のように同じ高校の友達と塾へいくか遊びに直行していると噂で聞いた。それに夜は叶魅りあとして配信もしている。さらにみんなに勉強を教え、宿題を忘れているのも見たことがないことから自主勉強も怠っていないんだろう。
 時間的に、今のコミュニティの人以外と深い関わりがあるとは思えない。もし今のコミュニティ内に、本心を話せる人が実はいるなら俺のやっていることは無駄になる。でもそれは花宮の心が壊れないで笑顔でいられる素晴らしいことだ。まぁ笑顔を無理して作っているようにしか見えないから、そんな人はいないだろうと思っていたけどさ。やっぱり確認は必要だと思って……。
「もう観察はお終いだ。……やっぱり、みんな平等に接するなぁ。八方美人、さすがだよ」
 観察は終了、適当な人への聞き込みも終了だ。もう『本当はなんでも話せるクラスメイトがいる』仮説は否定されたと確認できたし、これ以上無駄に嫌われる必要はない――。
 そうして、放課後。
「大神くん。今日はどうしたの、まだ帰らないの?」
 教室内には俺と花宮以外誰いない。
「ああ、ちょっと機を待ってる。いつもなら真っ先に家へと帰るんだがなぁ。帰宅部だし、家事もあるから」
「確かこの間も、1番遅くまで残ってなかった?」
「あの日は特別だよ。まぁ目的地は、ほぼ同じだけど」
 告白への返事とかもあって残っていたのは例外だ。今日は帰りのSHRが終わった後、起立して帰りの挨拶をしてから、もう一度椅子にこしかけた。
 放課後になると、嫌でも思い出すのが――先週末にカメレオンから狼へ変化したことだ。今日の放課後は変わらないんだろうか。自然と変わるのか、旧校舎へいかないと変わらないのか。条件がわからないし、できればもっと探りたい。
 そう思い、また旧校舎へと向かおうにもまだ下校前で校舎内に残っている人が多すぎる。
「……目的地?」
「ああ、ちょっといきたいところがあってな。まだ校舎内に人、たくさんいた?」
「そうだね、少しいたかなぁ?」
 そうだろうな。教室内からは声がしないが、校舎内でふざけて笑っている声が至るところから聞こえてくる。隠れて旧校舎方面へ向かえば怪しまれると思い、時間を潰していたところを、花宮に話しかけられた。
「……大神くんもその1人なんだけどね、機を待ってるってどうかしたの?」
 きっと件の秘密を俺が話すんじゃないかと、密かにマークしてたんだろうな。それで俺がいつもと異なる不審な行動をしているから、気になって教室へ戻ってきたといったところかな。
「心配しなくても、秘密は話さないよ」
「そっか。……でも、なんか朝から様子がすっごいおかしいよ。私のことを聞き回ってるとか言う噂も聞いたし……。ねぇ、何かあったの?」
 ヤバい、花宮の放課後の行動とか付き合いのある友人とか調査したことが早くもバレた。完全に気持ち悪い人を見る目だ。いや、これは間違いなく俺の行動が気持ち悪いから仕方ない。
「気持ち悪い行動をしていてごめん。やむにやまれるぬ事情があってさ……。今日の朝からと言うか、先週末の放課後から色々と変化してさ」
「ちゃんと認めて謝ってくれたのはいいことだね。でも、先週末の放課後から変化って?」
「……ああ、まぁ。色々と変わってな」
 どう伝えたものかと思う。まともに話しをして理解してもらえるとは思えないが、花宮には嘘をつきたくない。
「それは、私に言いたくないこと?」
「いや……。例えばの話だけど……」
「うん」
「自分だけ周りと違う狼だってやつがいるとしたら、そこにはどういう意味があると思う?」
「何それ?」
「いや、パッと思ったことを言ってくれればいいよ」
「う~ん。そうだなぁ」
 視線を斜め上に向けて数秒考えてから、花宮はにこやかな顔で――。
「自分だけってのが、一匹狼っぽいなって。大神くんのあだ名みたいだよね」
「それ、あだ名レベルで浸透してるのな」
「まぁね。でも調べてみたんだけど、一匹狼ってただ格好いいだけじゃなくてね、深い意味もあるみたいだよ?」
「深い意味?」
「そう。狼は本来、群れで生活するんだって」
「そうらしいね」
「そんな中、群れから独り立ちして新たなコミュニティを作る為に一時的に離れた狼のことを一匹狼って呼ぶらしいんだ」
「はぐれたじゃなくて、独り立ちって言うと一気に格好よく聞こえるから不思議だ」
「ふふ、そうだね。でも、自分がいる場所に安易に満足せず冒険する……。そんな一匹狼は、やっぱり格好いいよ」
 ほんの少しだけ、カメレオンの大きな瞳を寂しげに細めた。
 花宮が言ったのは、初代学長の愛したサミュエル・ウルマンが書いた詩にある言葉をかみ砕いたものだ。本当の詩文を翻訳すると、その部分は『臆病さを退ける勇気、安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心』という節だ。
「初代学長がどっかの詩を引用して作った校訓にも、今みたいな話があったね」
「あ、そうだね。毎週聞いてるから、影響されてつい出ちゃったのかも」
「脳に焼き付いてるってやつか」
「そうとも言うかな」
 楽しげに喋りながらも、花宮は教室の扉へ向かう。
「じゃあ、そろそろ私は帰ろうかな」
 俺が秘密をバラそうとして不審な動きをしているわけじゃないと考えたのかな。
 安心して帰ろうとする花宮の背に――。
「なぁ、花宮は……自分が人間以外の動物だとしたら、なん動物だと思う?」
 そう問いかける。深い意味はない。
 ただ、俺の目にはカメレオンに映る花宮は、自分をどういう動物だと思っているか気になった。
「私が動物だったら?」
 振り返った花宮が、首を傾げている。
「ああ、割と気になるんだ」
 多分、この時の俺は真剣な表情をしていたと思う。狼フェイスでどうするのが、人間形態で真剣な面持ちになるかはわからない。だけど、自分の身が人間以外の動物に変わっているわけだからな。
 よくある『自分が動物だとしたら何だと思う?』という、軽い冗談混じりの聞き方ではなかったはずだ。間違いなく、重々しく聞いていた。
「そうだなぁ……」
 そんな俺の雰囲気を察したのか、花宮は少し髪をイジりって考えてから――。
「――私はやっぱり、狐かな。Vチューバーの立ち絵と一緒だけど……。狐って臆病で警戒心が強いし、ストレスに弱いっていうからさ。私と一緒かなって」
「狐か、リアルでも似合いそうだな」
「ありがとう。でも、やっぱり人間でいたいよね。さっき話した校訓にもあるような立派な人間として、青春をすごしたいよね」
 俺の目を見て、カメレオンが笑顔でそう言うと――。
「まぶし……!」
 俺の視界いっぱいに光が広がって、思わず腕で目を覆う。
 と言うか、この現象って……!
「――え、狼!? なんでこんなところに……!」
 俺の目の前で、花宮が腰を抜かしてへたり込んでいた。
 それはそうだろう。
 今の言葉でわかる。――花宮の目には、俺が身長180センチメートル以上の、ブレザーを着た狼男に見えているようだから。そんなんが突然目の前にあらわれたら、スゲぇ怖いよな。
 カメレオンでもかなり怖かったんだから。
「いや、こないで化け物!」
「……はぁ」
 思わずため息が漏れ出てしまう。俺はポケットからスマホを取り出し、鏡面アプリを開きながら花宮に歩み寄る。
「あ……あ」
 怯えて目を見開き、口元を恐怖に震わせている花宮の前にしゃがみ込む。
「はい、とりあえずこの鏡を見てごらん?」
 項垂れながらスマホディスプレイを差し出し、声をかけた。
「……え? その声、まさか大神くん?――って、きゃぁあああ! 何、これ!?」
 俺の開いた鏡面アプリに映る顔を見て、悲鳴をあげた。そうして、花宮は慌てながら自分の鞄から手鏡を取り出し――。
「なんで、なんで私――狐になってるの!? 耳も尻尾もあるし、何なのこれ!?」
 瞳を涙で濡らしながら、半狂乱になって自分の姿を視覚だけでなく触っても確認していた。
 カメレオン姿から、狐姿に変化した。そんな花宮に俺は嘆息したながら告げる。
「ようこそ、こちら側のオカルト世界へ」
 花宮からしたら、人間から一気に狐へ変化したように見えているんだな。
 自分がカメレオンの姿をしていた時を見ていたら……もっと発狂していたかもしれない。そこは不幸中の幸いか? カメレオンに比べたら、獣人姿はだいぶ可愛くすらあるからな。
 いずれにせよ、この摩訶不思議で脱出方法もわからない現象は、約4日ほど俺が先輩だ。
 とはいえ、何も知らない先輩だけどな。それにしても、カメレオンから『狼』に変化した俺と、『狐』に変化した花宮の違いはなんなのだろうか。俺としては、爬虫類の群れの中に叶魅りあと同じ銀色の狐獣人があらわれたのは若干救いだけど。でも、これまで奇怪生物がいない人間の世界を見ていた花宮としては、頭を抱えて悩む状態だろう。俺も最初はそうだった。
 奇しくも俺が本気で抱える悩みと、花宮が現在進行形で間違いなく抱えている悩みを共有する形になった。
 両者ともに全く望んでいない、極めて不本意な形ではあるけどな――。