果たして。
その頃ミツトオの妹の家では、一体どうなっていただろうか。


夏の暑い時期だったために、彼女は薄手の水色のワンピース一枚でのんびりしていた。
『バトルジャンキーの極悪犯罪者』なるものに人質にされるには、随分と心細い格好である。
ゆえに彼女は着替えようと思ったかもしれないが、そんな暇はなかった。襲われた事実に目を白黒させるうち、あれよあれよの間に捕まってしまったのであった。


彼女は哀しかった。

こんな風に戯れるのがゆるされるのは、兄だけだと思っていたのに。
どんぐりとくりでお手玉をやっていて、彼女がわざとふざけて「どんぐりの背比べ!」と笑いかける……つまり、兄様は平凡な烏合の衆ですと暗に言ってみせた時。兄はコラッと眉をへの字にして自分を抱え込み、悪戯で彼女の腕をぎゅっと掴んでみせたりした。「さあ捕まえたよ。ここから逃げてごらん!」と。
くすぐったくて笑い転げ、彼女は兄と団子になってくるくる犬の子のように戯れたものだった。

そんな風に楽しい思い出がたくさんある、この『捕まえたよ』のポーズである。
これをまさかロクデモナイ、風呂にも長い間入っていなさそうな臭い煙い犯罪者に真似をされたのだ。嘆き悲しみたくもなるだろう。抱え込まれて密着されてを、こんなの家族でもない奴にやられれば泣きたくもなるだろう。
彼女がシクシク泣き出したのも、無理はない。
犯罪者野郎はいよいよ彼女をか弱いシンデレラみたいな娘だと判断して、「俺が人質を取ってる!今のうちに警備を突破しろ!こっちもズラかるから、とっとと逃げるんだ!」などと、スピーカーモードで通話中の、床に転がった携帯に向かってガミガミ叫んでいる。どうやら仲間と連絡を取っているらしい。

その手には、黒光りする刀。
とはいえこのご時世、真剣などというものは認可がないと持てないもの。
きっとこの犯罪者、頑張って出刃包丁か何かを加工してそれっぽく仕上げたのだろう。刃先が異様に短いし、柄の部分も全く職人技が光っていない。子供の工作のような努力の結晶は垣間見えるが、それだけだった。
まあ、仕方ない。古代からの武器はロマンだ。魅力的だ。たとえ偽物でも関係ない。木刀を振り回す子供がいかに多いか、歴史ある古都のお土産屋さんをのぞいてみればすぐにわかる。

しかし、である。そんな子供っぽいオモチャでもって大勢を脅かしているつもりの男の様子が、彼女を冷めさせた。
とてもとても、心底から残念な男だと彼女は軽蔑した。

なぜか?
彼女のスーパー格好いい兄は————占い師なのである。
それがどう言う意味を持つのかを説明しよう。

占い師どうしの喧嘩は、神事である。よって細かで厳しいルールがある。たとえば丸くひかれた円から絶対に出てはならないとか。たとえば一対一の決闘にしなければならないとか。
その他諸々あるが、大事なことが一つある。

『武器を使わないこと』

拳技、脚技、投技。
この三つのみというカッチリバッチリした枠組みに沿って繰り出される技の、なんと美しいことか。
占いを遂行する彼のきらめく汗には神が宿り、極限まで集中した瞳には天地の理が映る。

だというのに、である。
それと比べて、たった今自分を羽交い締めにしている犯罪者の、なんと格好悪いことか。恐ろしいほどの違い。差異である。
強く優しく、野生の獅子のような気高い美しさを纏ったイケメンの兄様に勝てる者がいるとは思えないが、それでもこれはあまりにも興醒めである。

いじけた彼女は、犯罪者を無視して、床の上にたまたま転がっていたスプーンへ手を伸ばした。
携帯に向かってガミガミ怒鳴っていた犯罪者の男は、さっと警戒した。

(なんだ、この娘。まさかコレで俺を殴る気か……?)と想像したのだが、なんのことはない。
彼女はスプーンを指でつまんだかと思うと、無造作に捻り潰して粉々にしただけだった。
別に武器を手に入れようとしたわけではない。単に八つ当たりしただけである。

ギョッ、と。
驚いた人間は、二人いる。

一人は言わずもがな、犯罪者の男。
もう一人は、好奇心のままに瓦礫の向こう側から一部始終を観察していたあのジャーナリスト青年である。

(ああ、これは大井さんが妹様の心配をなさらないわけだ。)と彼はしみじみ頷いた。
(あのスプーンは、いかに怪力で名高い大井さんであっても、雄叫びを上げながらゴルフクラブを振り回してぶっ叩き、ようやく粉々に出来るといったくらいの硬さでしょう。それを指先一つであんなにするなんて、そりゃびっくり。というか、心配なんてするはずがありませんね。なるほどなるほど。)
と、一人深々納得。
納得した後は、抜き足差し足、そっとその場を去っていった。


一番かわいそうなのは、現場に残された犯罪者の男だった。
————やべえ。と、思ったかもしれない。
こんなおっかない女を人質にするなんて、何考えてるんだ、俺は。チョチョイのちょいで手足をもぎ取られちまうかもしれない。いや、マジのマジでそうなりかねない。

男の判断は早かった。
さすがは長年後ろ暗い活動を続け、『バトルジャンキー』の異名まで獲得した男である。引き際はわきまえているとばかり、ミツトオの妹をあっさり放り出した。
手作りの刀だけは大事に抱え、青ざめて、すたこらさっさと逃げ出したのだ。

……と、そこで逃すようならこの国の治安維持システムが終わっている。
数日逃亡できたとしても、監視カメラやら何やらのおかげですぐに追い詰められるだろう。というか、まさに追い詰められそうになった仲間を助けるために起こした事件がたった今のコレだった。自分のほうに気を惹かせて、仲間を逃す。ついでに自分も人質をとって逃げる。その作戦は途中で潰えたもいいところだし、きっとそもそも最初に結託する奴を間違えたのだろう。
彼自身これから永遠に逃げ続けていられるわけもなく、今走っているのはただの現実逃避もいところ。

しかも泣きっ面に蜂と言わんばかり、いかにも異様な黒い狩衣服の集団がゆくてを塞いだ。占い師のミツトオはSPを雇っているので、彼らにちゃっかり警官隊の先回りをさせておいたのであった。

警察よりも強いんじゃないかこいつら、と言わんばかりの鮮やかな手際でSPたちは男を捕まえて手錠をかけた。
黒い狩衣服のうちの一人が、繋がりっぱなしになっていた携帯電話に報告。それで、ミツトオにも男確保済みの情報が伝わった。
そう。さっきミツトオが電話で連絡したのは、彼専用のSPだったのである。

「もしもし?うん、僕がそっち行くからさ、そこで待っててよ。おっけい、噴水が目印だよね。わかってる、大丈夫。うんうん、了解、それじゃあまたね。」

などとミツトオは携帯に喋りかけながら、警察がそこへ到着して人払いをするより前に現場に急行することにした。
理由は特にない。強いて言えば、妹の平穏な日常を邪魔した奴の顔をちょっと拝みに行くとか、そういうことである。SPたちも事情はよくわかっていて、ミツトオのために男を確保したまま警察への連絡も後回しに待ってくれていた。

さて。手錠に繋がれた肝心の男はというと。
地面に転がったまま、放心状態でぼーっと空を眺めていた。
やっと到着したミツトオは、黒狩衣のSPたちにお礼を言って回ると、男のほうへ歩み寄って声をかけてみることにした。

「おい。きみ、僕の妹を襲ったバトルジャンキーくんかい?」
「……あ…まぁ。」

そうかそうかと頷いて、ミツトオはもっともらしく問いを投げかけた。

「きみさ、偽物だろう。」
「……いや、ホンモノっすけど。」
「ふふん、そんなわけないよ。極悪犯罪者がせっかく人質をとったのに、なんで捨てて逃げ出したりするもんか。ねえ、おかしいなあ?」

わざとらしくニコニコ微笑みながら見下ろすミツトオ。だんだんテンポが乗ってきたのか、それとも男の元々持っていた度胸とお喋りな精神が顔を出し始めたのか。男は『面倒くさっ』という渋々の顔をしながら、案外普通に返事をし始めた。

「いや、今回ばかりは仕方ないっすよ。」
「ふーん、何が?」
「普通の女だと思ったら、全然違うじゃねえっすか。指でスプーンを粉々とか、もう悪夢見てるみたいな気分だし。こっちのスーパーカッチョいい刀も一捻りされそうだなって思うし。この分じゃあ、俺の腕とかへし折られてもおかしくねえって怖くなるっすよ。逃げるに決まってるっつーか、逆に逃げないとかありえなくないっすか?」

ミツトオはそれを聞いて嘲笑った。
ふん。大事な妹をあんな目に合わせたんだ。このくらいみっともなく地面に這いつくばってもらわないと釣り合いが取れないね、と。
男を捕えるSPたちは、いついかなる敵に対しても敬意を払ってお辞儀をする人格者なミツトオの隠れた一面を目の当たりにして、内心とても喜んだ。

……そう。これこそが幼い頃のミツトオに近い、彼の秘された本質とでも言うべき姿。滅多に見られないものの、いったんタガが外れるとしばらく持続する、スパイスたっぷりカリスマどんぐりモード!
占い師ミツトオのファンがこれを見たら、別の角度からのオッカケが誕生しそうである。

ふふふ、とミツトオは不気味な笑い方をした。
だんだんエスカレートしていくカリスマモード。それはまさに酒が入ってじわじわ上がっていく若者のテンションそのものだった。

「あの子を刀で突こうとか、修学旅行帰りの小学校六年生坊主でもやらない馬鹿だよ。逆に腕を取られて適当にねじられて、肩がロボットの腕みたいにすぽーん!って引っこ抜けてたに違いないよ。あー、五体満足で帰って来れるとか、つくづくお前は運がいい。星座占いでも今日の運勢は上々だったんじゃないかい?
このミツトオでさえ、お前を踏み潰して蟻みたいに殺すのは朝飯前なんだからね。ランニングマシーン代わりにしてやろうか、え?そうしたらお前の命なんかすぐに吹っ飛んじゃうよ。
で、そんな僕の二倍あの子は強いんだから。見た目は舞踏会でくるくる踊ってるお姫様みたいにおしとやかだけど、中身は怪物。僕が悪戯であの子の手を掴んだら、逆に握り返されたが最後、ビリビリッと痺れてついつい振り払っちゃうぐらいなんだから。
……っと危ない危ない。デコレーションケーキ最後の仕上げ、お前への罵倒を忘れるところだった。バーカバーカ!オマケにもひとつバーカバーカ!」

上機嫌でいつになく語り、笑い、また語るミツトオ。
最後に奇妙に棒読みの「バーカバーカ!」の罵倒と共にニコリ、と三日月型に持ち上がった唇で笑いかけられて、男は背筋にぞぞおっと寒気が走ったような表情を浮かべて青ざめた。

(……怖ぁ…。)

その胸中の吐露が全てだった。
『目の前にいるやつが不気味だけど俺が手錠付きで地面に転がされてるからどうしようもない件』、などとネットに書き込みたくて仕方なさそうな目で、男はミツトオを唖然と見ていた。それだというのに周囲は無慈悲である。彼を拘束するSPたちがなぜかせっついて促すので、男は仕方なく返事をすることにしなければならなかった。

「いや、その……普通の女だと思ったんすよ。悔い改めてますから、そりゃあもう、……全然事情とか、何も知らなくて……。」などと、あちこち詰まりながらしどろもどろに言う。

ミツトオは、冷たい目つきで「ふうん。」と言った。

「で、お前は罪を自覚してるのかな?」
「それは、えっと、相応に……っす……?」
「うん。本当ならお前、死罪だからね。」
「え。」

当然じゃないか、といった顔でミツトオはつらつらと続きを述べた。
もしや少しだけ落ち着いたか、と思われるテンションのミツトオ。しかしそれはそれで男にとって嫌な悪寒を走らせる語り口を生み出していた。
まるで恨みを抱き合うおじいさんとおばあさんの愚痴のような陰湿さ。そんなものが、カリスマどんぐりのスパイスに加わってしまったのだ。

「占いの儀式で使う火薬盗んだのもお前なんだろ?それに加えて僕の妹の家を爆破して人質作戦取るとかさ、意味わかんないよ。今までの犯罪歴は……うーん、さっきネットで調べた限りじゃあ路地裏のケンカで傷害罪くらいらしいけど。まあ、それを加味しなくても大変罪深いことをお前はやらかしたわけだよ。
でもって、僕がお前に不利になるような証言をしたら一貫の終わりなわけだけど、まあそこは勘弁してやろうかな。結果的に妹には傷もついてないし、お前ったら本屋の漫画コーナーでウンウン唸っていたのに違法海賊版サイトでお目当て作品が無料公開されてると知って満面の笑みで手ぶらのまま店を飛び出ていくおじさんみたいな変わり身の速さで逃げ出す無様を見せてくれたしね。
ああ、言っておくけど海賊版サイトからのダウンロードは違法だからね。そもそもそんな悪質なお金のケチり方するやつに漫画を読む資格なんてないから。」

途中で登場したたとえが長すぎる。しかも微妙にわかりにくい。というか、なぜ自分は身に覚えがない犯罪で叱られなければならないのだろう。
男の困惑に応えるツッコミは存在しなかった。
ここにいるのはミツトオの信者のSPしかいないので、誰もがどんな馬鹿な話にも真剣に耳を傾けるのだ。

最後にミツトオは、とんっと男の頭を優しく小突いてピストルで打つ真似をしてやった。

「それにしてもあの子は鉄のフライパンを膝にのっけて、あの花車(きゃしゃ)な細腕で枯れ木みたいに打ち砕くくらい造作もないんだよ。短銃で頭を撃ったのにたまたま不発だったっていうくらい運がいいね。まったく命冥加なやつだよ。……やっぱり星座占いで今日は運勢上々だったんでしょ!」

———いや別に俺、星座占いなんてしたことないっすけど、という男の心の呟きは無視された。

それじゃあ、とミツトオはくるっと背を向ける。
その表情は爽快で、溜まった澱みを吐き出した川のような浄化された雰囲気を放っていた。

……後で自分の言動を思い返し、真っ赤になって悶えることになるかもしれないが。まあ、それは必要経費である。
重要なのは、今さっぱりすることなのだから。

ミツトオは満足していた。
妹は無事。
家が壊されたようだが、しばらく自分の家に泊めることで解決するだろう。
幸い立て直すためのお金なら十分にあるし、刑事事件の被害者ということで賠償金がおりるはず。
事件を起こした男についても、ここに放置しておいて問題ない。後はこの国の優秀な警官が全てを処理してくれるだろう。


————まったくとんでもない力持ちの女もあったものだ、という話が刑務所内の伝説として広がることになるのは、後の話である。