「振られたんですよね」

口の中で転がしていた飴玉がガリッと砕けた。
甘ったるくて、鋭利な小さな欠けらが〝なにか言え〟というように私の舌を刺す。



「ひと月くらい前に。他に好きな人できて、それでその人と付き合えることになったらしくて」

隣に座って話し続ける彼を、私は無言のまま見つめることしかできない。


「まぁ……そろそろ決着つけなきゃなとは思ってたんですけど」

夕日に縁取られた寂しげな横顔がやけに綺麗で、泣いていないはずなのに涙を流しているように見えた。


初めて見たときから、男の子だけど綺麗だなと思っていた。

……今思えば、一目惚れだったのかもしれない。


高校二年の夏。バイト先の純喫茶に、ひとつ年下の彼が入ってきた。

彼は人懐っこい笑顔ですぐに周りと打ち解けたけれど、どこか人と距離があって基本的に聞き役になっていることが多かった。



だから私は、彼がどんなことを考えているのか知りたくてたまらなかった。



約一年経った今では、知っていることは増えたと思う。


「すみません。こんな話しちゃって」

ニコニコしていて優しいなんて言われているけれど、実はちょっと冷めていて人付き合いは面倒。

だけど、彼女のことは大事にしていた。彼はそういう人。


「私のことはいいよ。……むしろ未弥くんの気持ちが軽くなるなら好きなだけ話して」


香坂未弥くん。
私は彼の名前が好きだけど、彼は自分の名前が女っぽいって少し気にしていた。

友達にも彼女にも苗字からあだ名をとって〝こう〟って呼ばせているらしい。


だけど、私が〝未弥って名前好きだよ〟って言ったら、少しだけ驚いたように目を丸くして——それなら、せんぱいは未弥って呼んでくださいって言われたんだ。


それが唯一の私だけの特別。



「せんぱい」

だけど、彼は私の名前を呼んでくれない。

ただ〝せんぱい〟って他人だと線を引かれるような呼び方で、私に話しかけてくる。そのことが時々寂しくなる。


本音を隠すように余裕な笑みを浮かべながら答えた。


「なに?」

この二文字が、細い喉の隙間から痛みを覚えながら吐き出されたなんて、きっと彼は気づかない。




「俺、本当は自分から別れようって言うつもりだったんですよ」
「……だけど、先に言われたから複雑?」
「複雑っていうよりも、驚いたっていうか……」

情があったのか、それとも別れてから未練があると気づかされたのか。

どちらにせよ、別れても彼の心を占領しているように見える彼女が羨ましくなる。


「一緒にいてもつまんなかったって言われちゃって」

なんてことないような顔をして彼は笑いながら話す。その表情は痛々しくて、本当は酷く傷ついているようにしか見えなかった。


「多分その言葉に驚いたんだと思います。俺だって別れ話するつもりだったのに……自分勝手ですよね」
「恋愛なんて、みんな自分勝手なものでしょ」

私もそうだ。
彼女がいると知りながらも、未弥くんと被るようにシフトをいれていた。

希望なんてないとしても、ただ会える時間が欲しくて、想いを隠しながら親しくなっていった。

きっと彼女側からしてみたら、私みたいな女は邪魔でしかない。


「せんぱいって好きな人いるんでしたっけ?」
「いるよ」

隣に。だけどまだそれは言えない。
失恋につけ込んでしまいたいけれど、告白は今ではないことくらいわかっている。


「どんな人ですか」
「優しくて、冷たくて、よわい人」
「それだけ聞くと、女々しそうですね。そういう人がタイプなんですか」
「そうかもね」

自分のことだなんて一ミリも気づいていなさそうな未弥くんが、目を丸くしながら不思議そうにしている。私の好きな人が女々しそうだなんて意外らしい。



「せんぱいには幸せになってほしいです」
「私は別に幸せにならなくてもいいけど」
「え、なんでですか」
「嫌なことも、嬉しいことも平等にあるくらいの、普通でいいんだ」
「でもちょっと嬉しいことが多いくらいの方がよくないですか」
「未弥くんにとっての〝嬉しいこと〟ってどんなこと?」

私の質問に未弥くんが口をへの字に曲げて、考え始める。

そこまで真剣に悩まなくても、適当に返してくれてよかったのに。けれど、彼の案外真面目なところも私は好きかもしれない。


「駅前の美味いラーメン屋に並ばずに入れたときとか、バイト終わりにアイス食べたりとか、好きなアーティストの話で盛り上がったりとか……ってこれ全部せんぱいとしてることだ」

ひとりで噴き出して笑う未弥くんに対して私は目を見開いたまま、硬直してしまう。

未弥くんにとっての嬉しいことが、私と一緒にしたことだったなんて、特別な意味がなくてもあまりにも嬉しすぎる不意打ちだった。


今更、好きだなんて再認識したって苦しいだけなのに。
この一年間、彼女のことを大事にしてきた未弥くんのことを見てきた。


それなのに〝一緒にいてもつまんなかった〟と捨てるなら——私にちょうだい。


言えるはずのない身勝手な感情が堰を切ったように流れ込んできて、耐えるように下唇を噛み締めた。




「俺のこと、最低って思うかもしれない話していいですか」
「いいよ」
「即答ですね」
「だってなに聞かされても、きらいにならないと思うから」

はっきりと答えると、未弥くんが苦笑した。


「……本当は俺も気になる人がいたんです。だから、そういうのも彼女には伝わってたのかもしれないなって」

更に追い込まれたような気がして、軽く目眩がする。
未弥くんが彼女と別れたとしても、次の相手が私になるわけではないと現実を突きつけられた気分だった。


「引きました?」
「……別に、自由だと思う」

そう答えるのが精一杯だった。
でもまだ気になるという存在なら、なんて考えてしまうけれど、余計惨めになるだけのような気がした。


「そういえば……これどうしよ」

未弥くんがカバンから取り出したのは、封の開いたタバコの箱と透明なピンク色の使いかけのライター。

どうやらこれは別れた彼女の忘れ物だったらしい。


「もうきっと会わないし、捨てようかな」

箱の中には二本のタバコ。
私はそれに手を伸ばして、捨てるのを阻止する。


「捨てるなら、全部ちょうだい」
「……タバコ吸いましたっけ?」
「本日記念すべきデビュー」
「体に悪いですよ」
「ちょっとくらい悪いことしたい」

呆れたように未弥くんが笑うと、タバコを一本手に取った。


「俺も、今日だけ悪いことします」
「じゃあ、今日だけふたりで悪いことしよ」


普段はしない、私たちのちょっとした悪いこと。
慣れない手つきで指に挟んだタバコに火をつけて、ふたりで白く細いそれに口をつける。

バニラのように甘い香りと口内に広がる妙な苦味、肺の奥から迫り上がってくる不快感に咽せてしまう。それはほぼ同時だった。


「っげほ」
「う、ぇ」

お互いに眉を寄せ合って顔を顰めた後に、コンクリートにタバコの火を押し付けて消した。


「想像よりも苦くはなかったけど……なんか変な感じ」
「俺も……胃のあたりがなんか気持ち悪くなってきました」


初めてのタバコは、一瞬で終わってしまった。

ダサい結末を迎えた精一杯の悪いことは、私の中では思い出としてきっと残っていく。





「せんぱい」
「んー?」
「ありがとうございました」
「へ? なにが?」

なにに対してのお礼なのかわからなかった。
未弥くんは私の質問に答える気は無いのか、笑みを浮かべてタバコの箱の中にコンクリートの上で潰れている吸殻を入れていく。


バニラの匂いとほろ苦い味を残した真夏の夕暮れ時。

好きな人との時間や物の共有をして、二度とこない瞬間を味わいながらほんの少しセンチメンタルになっていく。

ひょっとしたらこれが〝嬉しいこと〟なのかもしれないと思った。



そろそろ帰ろうかと言葉を交わして、立ち上がると未弥くんがどこか甘ったるいような優しい笑みを向けてくる。


「せんぱいって時々なに考えてるかわからなくておもしろいです」
「未弥くんこそ、なに考えているかわからないこと多いよ」

だからこそ、特に出会った当初は知りたくてたまらなかった。


「俺ですか? けっこう単純でわかりやすいですよ」
「じゃあ、今なに考えてるの?」


なんとなく口にした質問。
けれど、未弥くんは何故か私に背を向けてしまう。


そして消えそうなくらい小さな声で、たった一言返ってきた。




「優しくて、冷たくて、よわい人になる方法、とか」


驚きと戸惑いに、私は立ち尽くしたまま、なにも言えなくなってしまう。


「あー……ちょっと、今の忘れてください」
「た、たぶん、無理」
「……また今度、改めてちゃんと……言わせてください」


未弥くんの黒髪が夏の風に靡く。
隙間から見えた耳が夕暮れの色のように染まっていた。