太陽に分厚い雲がかかり、薄暗い影が落ちる。雨でも降るのだろうかとぼんやりと考えていると、一軒の店が目に留まった。
ステンドグラスがはめこまれたアンティークドアで、オフィス街のこの場所では異質を放っている。
気になって店の前まで歩んでいく。普段の私なら、こういうとき好奇心よりも、不安の方が勝って避けて通る。だけど、今日は何故か気になって仕方がない。
意を決して、ドアノブに手をかける。ゆっくりと開けると、低音のベルが三回鳴った。
「いらっしゃいませ」
二十代半ばくらいの男性が、柔和な笑みで私を出迎えてくれる。
カウンター席へ促され、歩みを進めながら横目で店内を物色した。
こじんまりとしていて、テーブル席が四つとカウンター席が三つのみ。剥き出しの小さな電球が、天井から五つほどぶら下げられていて店内は薄暗い。けれど家具はアンティーク調で揃えられているようで、この照明がむしろいい味をだしていた。
私以外にお客さんの姿はなく、従業員も出迎えてくれた男性だけのようだ。それでも気まずさはなく、BGMで流れているジャズの音色が優しく響いている。
「メニュー表ってありますか?」
「ございません。当店はお客様のご希望の品を作らせていただきます」
「え?」
そんなこと可能なのだろうか。すぐに作れるメニューもあれば、時間がかかるメニューだってあるはずだ。
私が戸惑っていると、店員の男性は「大丈夫ですよ」と微笑む。
「既に、お客様からご依頼をいただいております」
「ご依頼? あのちょっとよくわからないんですけど……」
「少々お待ちください。思い出のカレーをご用意いたします」
「カレーって、どうして……」
食べたいと頭の中で思い浮かべていたので、見透かされたようで気味が悪い。
それにこの人は、こちらの話など聞く気がないように思える。もしかして変な店に来てしまったのだろうか。
カウンターの後ろにある扉を開けて別の部屋へと店員さんが消えていく。隙間からコンロが見えたので、奥は厨房のようだった。
ひょっとしたらレトルト食品を使用する簡単調理のお店なのかもしれない。それならすぐにできるのも納得ができる。でも思い出のカレーとは一体なんのことだろう。
十分ほど経った頃、扉が開かれた。
カレーのいい匂いが漂ってくる。私は目の前に置かれた料理を見て、目を見開いた。
——まさか、そんなことあるはずがない。
とろりとした半熟卵がご飯の上にかぶさっている。隙間からは黄色い米粒が見えるので、おそらく中はターメリックライスだ。そしてその上にはじゃがいも、人参、ナスとほうれん草といった具沢山カレーがソースのようにかっていた。
「どう、して……」
「求めていらっしゃるのは、こちらの品かと思いまして」
私にとって思い出のオムカレー。
大学時代から付き合っている彼がよく作ってくれたメニューだった。
料理が全くできない私の代わりに、同棲している彼は夕飯を担当してくれている。「夕飯なにがいい?」と聞かれるたびに、オムカレーと答えると笑われた。
「さあ、冷める前に召し上がってください」
「……いただきます」
銀色のスプーンで卵を破った。ターメリックライスと卵、人参をのせて、カレーをつけてから一口食べてみる。ルーは中辛で、野菜はガーリックとバターで炒められていた。
——同じ味だ。
二口目、三口目と食べながら視界が滲んでいく。
私も少しくらいは料理ができるようになりたくて、自分で作ってみたこともあったけれど、彼と同じ味にはならなかった。どうしてこの人は彼の作るオムカレーを知っているのだろう。
『今日は夜ご飯いる?』
彼から電話がきたときのことを思い出す。
仕事で急な修正が入って、余裕がなかった。何時に帰れるかわからないから、一緒に食べられないし今日はいらないなんて素っ気なく伝えてしまった。だけどそんな私に彼は怒ることなく、『作っておくから帰ったら温めて』と優しく言ってくれたのだ。
ごめんね。結局作ってくれたオムカレーを食べられなかった。
あのとき、電話で〝ありがとう〟って言えたらよかった。
左手で涙を拭いながら、最後の一口を食べ終わる。
「……美味しかった、です。ごちそうさまでした」
彼と同じ味のオムカレーは、私がずっと考えないようにしていた大切な記憶が蘇ってくる。
***
咲さんを見送ってから、厨房の扉を開ける。
「新村様、咲さんは無事に成仏されました」
二十代後半くらいの男性が厨房から出てくる。目元が赤くなっていて、おそらくは泣いたのだろう。
「オムカレー、全て召し上がっていかれました」
空になったお皿を眺めながら、新村様が力の抜けた笑みになる。
「……それならよかったです」
彼は二ヶ月前に恋人の咲さんを交通事故で亡くした。そしてこの店へ来たのは三日前のこと。
憔悴してなにも手につかなくなっていた中、何故かここに電話をかけていたと言っていた。
ここはそういう場所だ。
未練のある現世のお客様だけが予約をできるお店。そして真昼の太陽が雲に隠れた時にだけ、ひっそりと彷徨える死者の魂を呼び寄せて、死者へ思い出のメニューを振る舞う。けれど、予約をした生者は死者と会うことができない。その代わりとして、お別れのレシピを提供し、伝言を預かる。
「新村様、咲さんから言伝があります」
俺の言葉に新村様が顔を上げる。半信半疑といった表情だった。
彼がここの店について信じているのかは、わからない。ただ心が折れそうで、縋るしか選択がなかったのかもしれない。
『電話で素っ気なくしてごめんね。最期にオムカレーを食べることができてよかった。……私も幸せだったよ。ひとりぼっちにしてごめん。今までありがとう。ごちそうさま』
咲さんの想いを伝えると、新村様はハンカチを握りしめながら嗚咽を漏らす。
「ぁ……っ、咲……さ、き」
何度も彼女の名前を呼びながら、苦しそうな涙を流している。
たとえ恋人からの伝言を聞いて、成仏したと知っても、気持ちの整理なんてつかない。そういう人たちをこの店で何度も見てきた。
心にぽっかりと穴が開いて、寂しさに押しつぶされそうになった人たちにとって、なにかでその穴を埋めようとしても埋まりきらない。少しずつ現実を受けとめることができるよう、日にち薬が効くのを待つしかない。そしてこの先、失った痛みを忘れることはないのだろう。
暫く泣いたあと、新村様は深くお辞儀をして咲さんが入ってきた現世の扉から出て行った。
言えなかったことがある。
『私のこと忘れて……っ、嫌。……お願い、忘れないで……すみません。これは伝えないでください』
咲さんは泣きながら、何度も言葉を訂正した。
本心では忘れないでほしいという想いがある。だけど、彼のことを考えると正直な気持ちを伝えるべきではないと思ったのだろう。
傍にいたいと願っても、それはもう叶うことはない。
目を真っ赤に腫らしたまま、咲さんは微笑んだ。
『ごちそうさま』
***
ノートに書き記したレシピを眺める。あともう少しでこのノートも書けなくなってしまう。随分とたくさんの人を見送ってきたのだと、感慨深くなる。
ドアベルの音が一回鳴った。新しい依頼主が来たようだ。
微笑みを浮かべて、出迎える。
「——いらっしゃいませ」
どうか未練が消えますように。
完