これで何回めだっけ。

「本当ごめん! 本気じゃないから!」
必死に謝っている彼を眺めながら、三年間のことをぼんやりと思い返していた。

学生のときに告白されて付き合いだして、あの頃は毎日のように大学で顔を合わせて講義が終われば一緒に過ごしていた。

私は彼が好きで、彼も私が好き。
そういう幸せがずっと続くと思ってた。


「そっか」
自分でも驚くくらい冷めた声が出てしまった。
もう怒りすら感じない。ただただ虚しいだけだった。


「じゃあ、もう終わりにしよっか」
笑顔で別れを切り出す私を口をぽかんと開けながら見つめている彼が滑稽で、笑みを深める。

私が別れるって言わないって思っていたのだろう。そのくらい私はお利口な彼女を演じてきた。そうあるべきだと自分に言い聞かせて、辛い気持ちも悲しい気持ちも全部心の中の小さい箱にぎゅうぎゅうに押し込めて隠してきた。


「待って、ほなみ!」
「私の荷物は捨てていいよ。じゃあ、帰るね」
もう顔も見たくない。言い訳ばかり並べても、どうせまた時間が経てば浮気するんでしょう。
心が黒くてドロドロなものに浸されて、窒息していくみたいだった。


私ってなんでこの人と付き合ったんだっけ。
靴の裏側についている雪がまだ溶けきっていない。きっとこの部屋にいたのはほんの数分だ。
会って数分で終わった温度の無くした恋は、玄関のドアを開けた冬の冷たい空気に溶けて消えていく。


ドアが閉じたのを確認してから、ため息を漏らす。白い息が頬にかかる。
よりにもよって、雪が積もるだなんて。

アパートの階段を下っていくと、積もった雪が靴の中に浸透してつま先を刺すような寒さに身震いした。


雪は嫌いだ。
楽しい思い出ばかりだったから。

彼のことばかり思い出してしまう。一緒にスキーやスノボにも行ったし、雪の日にデートもした。あの頃は楽しかった。


あ、でも彼とじゃない後輩の子との思い出もあった。
大学生の頃、雪が降ってきて困っていると傘を差し出してくれたっけ。一緒に雪の中をお喋りしながら、たくさん笑って帰ったんだ。楽しかったな。

紺色に染まった夜空から、ふわりふわりと宙を漂うように雪が落ちてくる。
凍えそうな指先で雪に触れると、じわりと溶けてしまう。


恋の終わりって、一人ぼっちの夜みたいに寂しくて、雪みたいに呆気なく思い出が溶けていく。

早く過去になってしまえば、この寂しさも消えるのだろうか。





「てかさ、ありえなくない!? よくほなみ耐えてたよね!」
「よーちゃん、飲みすぎ」
私が別れたと話すと、大学の頃からの付き合いの友達が集まってくれた。

通い慣れた居酒屋でお酒を飲むこと、二時間弱。
お酒に一番弱いよーちゃんのテンションが上がり始めて、声が大きくなってきている。

よーちゃんのこの姿を見慣れているみんなは、落ち着けと言いながらお酒を奪う。これ以上飲んだら、確実によーちゃんは潰れてしまう。


「でもまあ、俺もそう思いますよ。ほなみ先輩ってなんでいつも浮気許しちゃうのかなって思ってましたし」
「でしょ!? 涼はわかってるなー!」

一つ下の後輩の涼くんの発言に目を剥いたものの、同意してくれたことにテンションが更に上がったよーちゃんが別の人のビールを奪い取ってがぶ飲みをし始めた。

「もったいないですよ。あの人の浮気性絶対治らないと思う」
涼くんはいつも興味がなさそうに私の話を聞いていた気がしたから、そんな風に思っていたなんて驚きだった。
大学のサークルで仲よかった私とよーちゃん、松くん、後輩の涼くんと美樹ちゃんというメンバーで卒業してから度々集まるようになっていた。

涼くんとは帰り道が一緒だからそのときに少し話すけど、いつも他愛のない会話ばかりで私の恋愛に関してはなにも言ってこなかった。

「でも、ほなみ先輩はそれくらい好きだったってことですよね? 今もまだ好きですか?」
「うーん……どうだろ」

美樹ちゃんに曖昧な笑みを返して、残っているビールを飲み干した。まだ好きなのか、それとも一人になるのが寂しいだけなのかわからない。

「けど、あいつお前とまだ別れた気はないらしいけど。話し合う気だって昨日言ってた」
「え」
「まあ、結局あいつってお前じゃないとっていつも言ってるし」
彼と連絡をとっているらしい松くんは試すような眼差しで私を見つめてくる。その視線から逃げるように枝豆に手を伸ばす。

「私は都合の良い女ってこと?」
「悪い言い方すればそうかも」
「良い言い方したら?」
「浮気者な俺を受け止めてくれる包容力のある女?」

バカじゃん。と笑ってしまうけど、私以外は誰も笑わなかった。どちらかといえば、みんな怒っているような感じだ。


「本気で縁切ったほうがいいです。ほなみ先輩がこれ以上振り回されるの嫌です」
「可愛いな、美樹ちゃんは。松くんはこんな可愛い彼女で幸せだね」
私になついてくれている美樹ちゃんは妹みたいで本当に可愛い。松くんがベタ惚れなのもわかる。

「ほなみも自分の幸せ考えろよ。いっつも不幸せになる道ばっかり選んでるようにしか見えねぇよ」
「そうだそうだー!」
「ようは酒癖直せ」

松くんの言葉は痛いくらいに私の心を抉った。不幸せな道を選んでいたことくらいわかってる。

……いや、今ならわかったけど、あの頃はわかってなかった。溺れていたんだろうな。
浮気を許す自分に。最後には私の元に戻ってきてくれるという自信に。私を求めてくれる彼に。



三時間制だったので、お店をでて今日はよーちゃんが飲みすぎているのでおひらきになった。
よーちゃんは松くんと美樹ちゃんが送って行ってくれるらしくて、私は涼くんが送ってくれるらしい。

涼くんと二人っきりって久しぶりだ。


二人で夜道を歩きながら、冷えた手を擦り合わせる。
今日も冷える。手袋そろそろ使おうかな。

マフラーに口元を埋めると、隣を歩く彼が私の名前を呼んできたので視線だけ上げる。


「大丈夫っすか」
「え?」
「無理して強がってるんじゃないかと思って」

無理をしているように見えているんだろうか。実際どうなんだろう。

彼のことは好きだった。一番大事にされたかった。自分だけを見ていてほしかった。
浮気を知って、最初は心を痛めたし、辛かったけど、浮気を重ねられるたびに心が麻痺してよくわからなくなってきていた。


「浮気ってさ、男の人はしたくなるもの?」
たとえば、私がこの先別の人と付き合っても同じことが起きてしまうんだろうか。


「俺はしませんよ」
「あー……涼くんとか松くんはしなさそうかも」
松くんなんか美樹ちゃんにぞっこんだし、浮気して隠し通せるようにはみえない。

「俺は一途なんで」
「え、彼女いるっけ?」
「いません。けど、好きな人はいますよ」

涼くんって自分のことをあまり話さないから、そういうの全く知らなかった。好きな人いるんだ。


「涼くんの好きな人ってどんな人?」
街灯に照らされた夜道を並んで歩きながら、空を見上げると今日もまた雪が降ってきた。粉雪だから、今回は積もらないかな。そういえば、大学の頃も涼くんと雪の中歩いて帰ったな。

傘がなくて困っていたら、涼くんが一緒に入れてくれて初めてお互いの話をたくさんした。あの時すっごく楽しくて、私の中で今でも大切な思い出だ。

「時々無邪気で、ケーキとか好きそうに見えるのに枝豆が好きみたいです」
「その人のこと、すごく好きなんだね」

言葉の端々から伝わってくる想いを聞いていると私まで照れくさくなってくる。涼くんに好かれている人はきっと幸せだ。


「それで、彼氏に浮気されてる人です。別れたら俺にもチャンスがあるかもっていつも思ってるのに、浮気されてもなかなか別れません。今回だって結局別れないんじゃないかってもやもやしてます」
「え……っと」

それってまるで私みたいだと思って振り向くと、まっすぐな瞳がこちらに向けられていて、思わず立ち止まる。
吸い込まれそうなほど綺麗な真っ黒な瞳に、少しだけ前髪が長い黒髪。寒さでほんのりと頬が染まっているように見える。


涼くんはただじっと私のことを見つめていて、その真剣な表情が私から言葉を奪う。

冗談だよね。気のせいだよね。そんな言葉は口に出す前に溶けて消えていく。



「俺にしませんか」

私たちの間に、粉雪がはらはらと降っている。
まるで世界に私と涼くんしかいないように、音が聴こえない静かな夜だった。


唇から漏れた吐息が白く染まって、視界を遮る。


「……う、浮気はしないんでしょ」
「それは俺に彼女がいたらって話です。俺が好きなのはずっと一人だけですから」

鼓動が高鳴り、冷えていた指先に熱が流れ込んでくる。甘く優しい言葉で私を誘い、逃すまいと距離を縮めてきた。


「でも、私……別れたつもりだけど相手はそのつもりじゃないみたいだし」
「だから、今から浮気しましょう」

向き合うのが怖くて言い訳ばっかり並べている私の手を涼くんが掴んだ。
温かくて、大きな手。線は細いのに案外男らしい手をしていて、緊張に心が震える。


「ずっと好きでした。もう見守るのはやめにします」
「あの、」
「奪います」

だめだ。心を完全に掴まれてしまった。ちゃんと終わっていないのに、彼はまだ別れた気ないって言っているのに。浮気彼氏に嫌気がさしたのに。

私は向けられたまっすぐな恋に手を伸ばしたくなってしまった。

街灯に照らされて色濃くアスファルトに落ちた二つの影が近づいていく。
伸ばされた手が私の頬を捕らえて、ゆっくりと顔を上に向かされた。なにをされるのかわかっているはずのなのに、私は抵抗をしなかった。


寒空の下、冷えた唇を重ねられる。久しぶりに感じるときめきに心臓がドキドキと大きく跳ねて、恋の始まりみたいな甘い痺れ。もう後戻りはできない。


「全部俺のせいにしてください」
私の心を見透かしたように涼くんが囁く。

涼くんの胸に自分の耳を押し当てると、緊張しているのか鼓動が速い。
余裕そうに見えるのに、それがちょっと嬉しくて、ぎゅっと抱きついた。


「好きです、先輩」
別れたばかりの彼にだって最近全く言われていなかった好きという言葉。
涼くんは大事に、宝物みたいに告げてくれる。それが嬉しくて、心地よい甘い空気に浸っていく。

涼くんのせいになんてしない。

「俺、本気なんでなかったことにはしないでください」
私の手を掴んだ涼くんが真剣な眼差しで私を見つめてくる。

「……しないよ、ただ」
「ただ?」

言葉の続きを催促するように、涼くんが顔を近づけてくるので慌てて身を引く。
けれど、目があった瞬間にどきっとしてしまう。心臓が痛いほど五月蝿い。

まっすぐな想いに片足を突っ込んでしまった私は、もう抜け出せなさそうなくらい浸ってしまっているのかもしれない。
でもまだ決着をきちんとつけなければいけない問題が残っている。


キスをする代わりに、涼くんの唇に指先を当てて微笑む。


「待ってて」