『ねえ、由宇ちゃん! この間ね、あの人を見たの!』
中学生の頃からの友人からいきなり電話がかかってきたと思えば、いきなり勢いよく話し始めた。けれど、全くなんの話なのかついていけない。

『あの人って誰?』
『あの人だよ! 由宇ちゃんが昔付き合ってた男の子! えーっと、まつー……そう、松下くん!』

一瞬、驚きのあまりスマホを落としそうになりつつ、質問を投げかける。

『……どこで?』
松下という名前を聞いて、心臓が五月蝿いくらいに騒ぎはじめるのを感じていた。その名前の響きは懐かしくて、胸の奥が苦しくなる。私は中学を卒業してから、なるべく彼のことを思い出さないようにしていた。そうじゃないと、当時の自分の情けなさが浮き彫りになり、後悔するからだ。

『中学の通学路にあった喫茶店だよ! ほら、ベーカリーつつじの前にある』
『あー……そういえば、喫茶店あったね』

大人になってからの彼の情報なんて聞いて、どうなるんだろうと思いつつも、しっかり覚えてしまう。ベーカリーつつじの前にある喫茶店。入ったことは一度もないけれど、中学生の頃は何度も前を通った。

きっと十代のうちにこのことを聞いていたら、私は絶対に会いたくなかった。
でも大人になった今だからこそ、記憶の中で未だに中学生の姿のまま生き続けている彼に会いに行きたい。

美化された残像と別れを告げるために。





——週末になると、私は適当な理由をつけて久々に実家へ帰ってきた。そして少し散策してくるとお母さんに告げて、噂の喫茶店に向かう。

大人になった彼は、どんな姿だろう。
同級生がわかるということは、当時の面影が残っているはず。

懐かしい道を眺めながら歩いていくと、丸っこい書体で『ベーカリーつつじ』と書かれたパン屋の赤色の看板が見えてくる。そしてそこの前には、古びた喫茶店。店先は色とりどりの花が置かれていて、ブラックボードには本日の珈琲とおすすめのケーキについて書かれている。

アンティーク調の重厚感のある扉の前に立つ。この中に、彼がいる。そう思うと、急に緊張してきた。
でももしかしたらシフトが入っていない可能性もあるので、会えないかもしれない。変に意識しすぎずに、私はお茶をしにきただけだと言い聞かせて扉を開ける。

その瞬間、全身を覆うような深く濃やかな珈琲の匂いに粟立った。呼吸をするだけで、まるで珈琲の芳香が内部から広がり吸収していくような不思議な感覚。

店内はほぼ満席で、カウンター席しか空いていないようだった。

店員の女性にカウンター席へ通されると、グラスを拭いている男性に自然と視線が向く。

息が一瞬止まるかと思った。

——彼だ。間違いなく、松下だった。
黒いダブリエと白シャツ。少し短めな焦茶色の髪は綺麗にセットされている。

当然だけど、大人になってる。でもキリッとした目元も、ほどよく焼けた肌も中学生の頃の面影が残ったままで、すぐに松下だとわかった。


「こんにちは」
心臓が破裂するのではないかと思うほど、大きく鼓動を繰り返す。平然を装いながら、私は松下に笑いかけた。すると、こちらを向いた松下はほんの数秒固まってから、驚愕した様子で目を見開く。

「ひっ!?」
まるで幽霊でも見たような声を上げると、松下はグラスを床に落とした。悲鳴のような音を立てて、グラスは砕けてしまった。

私は顔を引き攣らせながら、ため息を吐きそうになる。
おっちょこちょいでビビリなところも、全然変わっていない。




その後、別の店員さんの助けを借りながらグラスの処理をした松下が、気まずそうに「ごめん」と謝ってきた。

カウンター越しに目の前にいるのに、先ほどから視線が合わない。

「動揺するとすぐ失敗しちゃうところ変わってないね」
「……そうだな」
昔もよく班の発表とかでいきなり質問を投げかけられて、何を慌てたのか床ですっ転んでたり、噛んだり資料まき散らしたりしてた。

外見はクールそうに見えるのに、中身は全く違う。そんな彼はクラスでもよくからかわれていた。でもそれは陰湿なものではなく、みんな彼のそんなところが好きで、男女問わず人気があった。


「……中学卒業以来、だよな?」
「あー、うん。そうだね」

松下とは中学卒業してから一度も会っていない。だから、知らなかった。真っ黒だった髪が焦げ茶色になっていることも。身長が私よりもずっと高くなっていたことも。

記憶の中の松下が、霧散していく。
私たち、別々の道を歩いてきたんだなと改めて感じた。


「成人式でも会わなかったし」
「風邪ひいちゃったんだよね」
「……そっか」

どこかナヨナヨしていて頼りない。相変わらずの彼だけど、手は以前よりも骨張っていて親指の付け根の辺りには、傷痕が残っている。中学の頃にはなかったものだ。

中一の頃に手を繋ごうと何度もしたけれど、恥ずかしくて繋げなかったことを思い出す。付き合っていることをクラスでからかわれて、教室で話すことすらできなくなっていた。だからお互い変に意識してしまい、恋人らしいことはなにひとつできなかったのだ。

本当は手を繋いで帰りたかった。でも勇気が出なかったんだ。
そういえば、私……どうして彼のことを好きになったんだっけ。

「なんか……大人っぽくなったな」
「そうかな。だとしたら服装のせいかも」
OLっぽい雰囲気にしたくて、白のブラウスとダークグレーのパンツスタイルにした。たとえ元カレだとしても、以前とは印象が違っているように見せたい。ただの私の見栄だとしても。

注文が入ったのか、なにかを作り始める松下のことをぼんやりと眺める。
いつも記憶の中にいた松下が手の届く距離にいる。本当は色々言いたいこともあった。


なんでバレンタインのとき、チョコ苦手だって教えてくれなかったの。我慢して食べたのか、それとも家族にあげた?
隣の席だった和田さんと浮気してるんじゃないかって噂流れてたの知ってた? 本当はどうだったの?
中二のときに私が別れようって言ったら、すぐ頷いたけど、松下も別れたかった?
松下は私のこと本気で好きだった?

改めて考えてみると、どれも今更聞いたって意味のないものばかりだった。

「はい、どうぞ」
「え……?」
注文もしていないのにアイスミルクティーが出てきた。生クリームが盛りつけられ、小さなミントが飾られている。

「これ、好きだっただろ」

頭に過るのは、帰り道の風景と中学の松下の姿。
帰り道、私たちはコンビニに寄ることが多かった。私はミルクティー、松下はサイダーを買って、飲み終わるまで二人で公園で話していた。松下は知らないかもしれないけれど、私は少しでも長く一緒にいたくて引き留めるようにゆっくり飲んでいた。

「……覚えていてくれたんだ」
もう十年くらい前のことなのに。

「よく飲んでたから印象に残っているんだ」
ああ、そうだ。私、この人の笑った顔を好きになったんだ。
きっかけは些細なことだったけど、笑いかけてくれた松下のことが忘れられなくなって気づいたら目で追っていて好きになってた。

夕暮れ時の教室で告白をして、付き合えたときドキドキしちゃって顔を見れなくて松下にからかわれた。

ミルクティーを一口飲むと、濃厚で安らぐような甘さに緊張が解けていく。

「美味しいね」
「だろ? 絶対気に入るだろうなって思ってた」

彼の記憶の中にも、ちゃんと当時の私がいるんだ。
ミルクティーが繋ぐ過去と現在の記憶。付き合って幸せいっぱいで、からかわれて距離が生まれて、その距離を埋めることもできずに、噂に振り回されて別れてしまったほろ苦い恋。


いつのまにか、私たちは大人になってしまった。
ここに来たのは、自分のため。記憶の中の後悔が象った松下じゃなくて、今の松下に会ってみたかった。

今なら笑って話せるかもって思っていたんだ。
いくら年月が過ぎても、忘れることができない唯一の人。だから、もう一度だけ会いたかった。

「あのさ、握手しよう」
「へ?」
松下の突拍子もない言葉に素っ頓狂な声を出してしまった。どうして彼が握手をしたいのかわけがわからない。
目の前に手を差し出されて、凝視する。いくらなんでも脈絡がなさすぎる。

「握手!」
「え……あ、うん。いいけど」
「ん!」

骨張った色っぽい手に自分の手を重ねる。ぎゅっと握られた手に少しだけドキっとしてしまう。

……大きな手。
中学生の頃、握れなかった手は大人になってこうも簡単に握れるようになっていた。初めて知る彼の温もりと力強さに、なんだか虚しくなる。


「会えて良かったよ」
「……うん。松下に会うためにここにきたんだよ」
「え?」
驚いた様子で松下が目を見開いて私を見た。

「なんてね」
戯けたように軽い口調で言って笑ってみせる。すると、松下がつられて小さく笑った。

「からかうなよ」
「本気にとってもらってもいいけど?」
「もう騙されないから」
私はあの時、彼の手を握れていたら……もっと自分から積極的になれていたら、私たちの未来が交わることもあったのだろうか。

手が離れ、終わった青春に微笑む。

「じゃ、ごゆっくり」
松下がどうして握手をしようと言ったのか。聞かなくても、なんとなくわかった気がする。

これが私たちの思い残した青春なんだ。

あの頃のように手が触れそうになるだけで心臓が五月蝿いくらい騒ぐようなことはないけれど、一瞬だけあの頃に戻れたような気がする。

ミルクティーを飲み干して、席を立つ。私に気づいた松下がレジに立った。


「ごちそうさま」
「じゃあ、またな」
会計を済ませて、喫茶店をでると外は夕暮れ時に姿を変えていた。

右の手のひらを太陽にかざす。眩しくて、温かくて心地よい。

あのさ、松下。私はこの街を出たんだ。だからもう、きっと〝また〟はない。青春の残像は今日ミルクティーと一緒に飲み干した。


「ばいばい」
ゆっくりと家路を歩き、柔らかな秋の風を感じる。久々にコンビニのミルクティーでも買おうかな。
そんなことを考えながら、思い出の公園の前で立ち止まる。中学生くらいの初々しい男女がブランコを漕ぎながら楽しげに笑っているのが目に映った。


私たちもあんな風に見えていたのかな。
いつか一緒に見た夕焼けに似た空は、だんだんと濃紺へと表情を変えていく。



さよなら、あの頃の私たち。