「ねえ、成海くん。馬鹿って思ってるでしょ」
 雨も降っていないのに濡れている黒髪を絞りながら、彼女が笑う。ぽたぽたと滴がコンクリートに染みを残していくのを眺めて、ため息を漏らした。

「まあ、そうですね」
「わー、正直!」
「こんな夜に水風船したいとか言い出して、自滅してるのは馬鹿だなって思いますけど」
「だって、成海くんと水風船で遊んだら楽しいかなって思ったんだよね」

 サークルの飲み会の帰り道、なにを思ったのか柚乃先輩が公園に寄りたいと言い出したのだ。目的を聞くと、一緒に水風船をやるためらしい。「絶対楽しいから」と言って意気揚々とカバンから取り出した水風船を蛇口に取り付けて、膨らましていると、悲劇が起こった。

 勢いよく破裂して、水道の前でしゃがんでいた柚乃先輩に水が思いっきりかかってしまったのだ。
 ずぶ濡れのまま声を上げて笑い出す柚乃先輩に、やると思ったと呆れながらもハンカチを手渡して、今に至る。

「だいたいなんで水風船なんて持ってるんすか」
「飲み会の帰りって、最後成海くんと一緒になるでしょ。だから、ふたりでなにか楽しいことしたいなって考えててさー」
「一緒って言っても、五分くらいですよ」

 偶然家の方向が同じというだけで、毎回こうしてふたりで帰る流れになる。けれど少し会話をして歩いていたら、すぐに分かれ道がくるくらい短い時間だ。

「あ、このハンカチ成海くんの匂いがする」
「ちょ、変なこと言うなら返してください」
 ハンカチを取り返そうと手を伸ばすと、背中に隠して無邪気な笑みを見せてくる。

「洗って返すから、今はだめ」
「……変なことするのだけは、やめてください」
 時々こうして変なことをしてくるので油断できない。柚乃先輩は普段はサークル内ではあまり喋らないのに、ふたりきりになると僕のことをからかってきて口数が多くなる。

「成海くんは私のこと、苦手だもんねー」
 生温い夏の風が吹く。ほんの少し、甘い花の匂いがした。それは、今でも記憶の中に残り続けている柚乃先輩の髪の香り。

「だから少しでも仲良くなれたらなーって思って」

 サークルに入った当初から、人に優しすぎる柚乃先輩が苦手だった。そんなに我慢をして、周りに気を遣って疲れないのだろうか。いつか他人の容赦ない言葉や感情に、押し潰されてしまいそうに見えた。
 自分とは全く違う柚乃先輩に苦手意識を持ち、気づけば避けるようになっていた。けれど、すれ違ったり、飲み会で一緒になるたびに、この香りが鼻腔を掠める。

 意識したくないと思えば思うほど、この香りを嗅ぐたびに初めて会ったときの柚乃先輩の笑顔を思い出してしまう。


「柚乃先輩に結構ひどいこと言ったと思うんですけど」
「あー……〝そんなんで疲れませんか〟って言ってきたよね」

 半年前、優しく声をかけてくれた柚乃先輩にダメだと思いながらも言ってしまった。我慢していることに気づいているくせに、そんな言葉しかかけられない自分に嫌気がさしたけれど、柚乃先輩は「時々疲れるよ」なんて言って、無邪気な笑みを見せた。

「それなのになんで……」
 あれからだ。飲み会が終わると同じ方向だから一緒に帰ろうと誘われて、ふたりで夜道を歩くようになり、少しずつ距離が縮まっていった。

「なんでかなぁ……うれしかったのかも?」
「意味わかんないです」
「いいよ、わからなくても。あ、ねぇ! コンビニ行こ!」

 僕の腕を強引に引いて柚乃先輩が歩き出す。ふわりとまた花のシャンプーの香りがした。
 やっぱりこの匂いは嫌いだ。香りは無意識に記憶と結びつく。こうして柚乃先輩と過ごすたびに、香りと共に思い出が蓄積していく。

「いやです。面倒くさい」
「やだやだアイス食べたい!」
「冷たいもの食べ過ぎなんですよ。腹壊しますよ」

 触れられた腕から伝わってくる熱に、胸の辺りが締めつけられる。かわいい後輩だと言って構ってくる柚乃先輩のことが、好きだけど嫌いだ。人の気も知らないで、無邪気に翻弄してくる。

「平気、平気~」
「とか言って、この間だって腹痛いとか言い出したじゃないっすか!」
「成海くんがいるから大丈夫だって」
「なんですか、それ」

 もうすぐいなくなるくせに。呆気なく僕の前から去っていくのに、思い出を残そうとしてくる。

「柚乃先輩は案外自分勝手でわがままです」
「それは相手が成海くんだからだよ」

 柚乃先輩はもうじき〝安達柚乃〟ではなくなる。苗字が変わった彼女は母親と共に遠くへ行ってしまう。そうなったらこんな風に一緒に過ごすことはない。

「……夏なんて終わらなければいいのに」
 ぽつりと彼女が漏らした言葉は消えそうなくらいか細くて小さい。それは滅多に聞くことのない柚乃先輩の本音のように感じた。


「そんなこと、僕だって何度も思いましたよ」
 振り返った柚乃先輩が僅かに目を見開いた後、寂しげに微笑む。
 ――好きだけど、嫌いだ。

 どうしようもない感情は彼女に届くこともなく、僕の腕を掴んでいた手が離れていった。手が宙を掴み、吐き出した息が微かに震える。


「成海くんは時々素直だよね」
「いつも素直ですけど」
「えー、うそだー」

 くだらない会話を交わして、僕らの夜は過ぎていく。隠した感情に気づきながらも、別れを目前にしている僕らは互いに手を伸ばさない。柚乃先輩のシャンプーの香りが僕は嫌いだ。きっとこれから先、何度も思い出が蘇ってしまうから。