窓ガラスに吹きつける大粒の雨がばちばちと弾け飛ぶような音を立てている。同じマンションでも部屋が違うと見える景色は随分と違っているように感じた。
電気のつけられていない薄暗い部屋の中にふたりきり。
まるで私と彼だけが世界に取り残されたみたい。
私にしては少しロマンチックなことを考えていると、背後から情緒のない言葉が聞こえてきた。
「鍵、翼は持ってるってさ」
緩慢な動作で振り返る。濡れた衣服のせいで身体が重たい。
視線と下げると制服が肌に纏わりついて、真っ白なシャツの下が淡く透けていた。
そういえば今日はカーディガンを着ていなかった。けれど今更恥ずかしがったところでもう遅い。
鍵を忘れたと言ってこの家にやってきた時点で彼には見られてしまっているのだ。
「なにボーッとしてんだよ」
「んー」
「……風邪ひくからタオルでしっかり拭けって」
心配してくれているのはわかっている。けれどそんなことどうだってよくて、徐に彼の頬に手を伸ばす。私の指先の冷たさに驚いたのか彼の身体がぴくりと反応を示した。
乾いた口を潤すように言葉を零す。
「ねえ、千昭」
ひとつ下で幼馴染の彼の名前。
小さい頃は女の子みたいで嫌だってよく拗ねていたけれど、私は彼の名前が好きだった。
「千昭」
応答がないのでもう一度名前を呼ぶと、千昭は顔を隠すように俯いて消えそうなくらい小さな声で答えた。
「なんだよ」
「こっち見てよ」
遊んでいそうな外見に反して純粋な千昭は透けた下着を見ないようにと気遣っているのだろう。
「……風邪ひく」
「いいよ」
「よくないだろ。馬鹿」
相変わらずの口の悪さが可愛くて抱きつきたくなる。ふたりきりのこの空気が照れくさいのか千昭の耳は真っ赤だ。
「風呂沸かしてくる」
「千昭があっためてくれればいいのに」
「っお前馬鹿なんじゃないの本当に」
動揺して早口になるのが千昭の癖。それに優しくて突き放せないお人よし。だから私みたいのにつけ入られるんだ。
髪から雫がぽたりと落ちて、冷えきった頬に伝う。
今日だってこうして濡れたまま彼女(仮)の私が家まで押しかけたのは、彼が受け入れてくれるってわかっていたからだ。
「千昭、こっち向いて」
熱を帯びた彼の瞳が私を映す。どきっと心臓が跳ねたのがわかり、私にもまだ純粋さが残っていたのだなと実感した。
「近いって」
「近くしてるの」
「お前なあ……」
千昭の手を取って私の制服のリボンへと持ってくる。それが何を意図しているのか、いくら千昭でもわかるはずだ。
「未来……こういうのは」
「〝好きなやつ〟としろって?」
口角を上げて微笑むと千昭は気まずそうに視線を下げた。私が投げやりにでもなっていると思っているのだろう。
「千昭は好きでもない女とは嫌?」
意地の悪いことを口にしている自覚はある。
明るめの茶髪に着崩した制服。左耳につけられたシルバーピアス。一見遊んでいそうな外見の千昭だけど今まで彼女を作ってこなかった。
だって千昭の好きな人はずっと前から私だったから。
でも千昭は私が気持ちに気づいていることを知らない。
「俺じゃなくて未来の気持ちの方が問題だろ。……自分のこと大事にしろよ」
千昭は本当わかっていない。私は千昭だからこうしているのに。一応付き合っていることになっているけれど、この関係は恋人のフリみたいなもの。
きっかけは一ヶ月前に私が先輩にしつこく付きまとわれていたことからだった。
少し対応に手を焼いていたこともあったけれど、そこまで困っていたわけではなかった。そんなとき心配してくれる千昭を見て、狡い考えが頭に浮かんでしまったのだ。
『彼氏ができたら諦めてくれるかな』
千昭はなんとも言えない表情で「適当に誰かと付き合うのはやめろよ」なんて言ってきて、告白してくれないんだって少し落胆した。
こういうときくらい男らしさ見せてよって不満がじわじわと滲んでいく。
なかなか踏み出してくれない千昭が焦ったくて試すようなことを言ってみたのに見事に撃沈。けれど、これで引き下がるのも悔しかったので、自らある提案をしてみた。
『じゃあさ、先輩が諦めてくれるまで千昭が彼氏になってよ』
ちょっとした賭けだった。
千昭の気持ちを聞かせてくれるか、変なとこ真面目だから断られるかどちらかだと思っていたので、千昭の返答には驚いた。
『いいよ』
この返答を聞いた瞬間、千昭の心情が全く見えなかった。
ただの幼なじみとしてしか思われていないのだろうか。
千昭の私への好意は勘違いだったのかもしれない。
千昭の本当の気持ちが知りたい。けど、私もストレートには聞く勇気がなくて、言えなかった。
もしかしたら仮でも付き合い出したら千昭も一歩踏み出してくれるかもしれない。
なんて淡い期待を抱いていた。
けれど、一ヶ月が経っても千昭はいつも通りでなにもアクションを起こしてこないのだ。
「千昭は好きでもない私と付き合っていていいの? 女の子から告白とかされてるんでしょ」
千昭の手を離して、自分でリボンに手をかける。私たちの間にはらりとリボンが落ちた。
「俺は……別に」
たった一言が聞きたいだけだった。
それなのに千昭は口にしてくれない。
勘違いだったのなら虚しいけれど、言ってくれないだけなのなら寂しい。駆け引きばかりするのは少し疲れてきてしまった。
やっぱりこの付き合いを一度解消してしまった方がいいのだろうか。
好きって、私から言ったら千昭も気持ちを教えてくれる?
けれどもしも、千昭の気持ちが私になかったら……
「ごめん、電話」
ブレザーのポケットから携帯電話を取り出すと、千昭は気まずそうに電話に出た。
賑やかな声が漏れて聞こえてくる。相手の声が大きいので千昭を遊びに誘っているのが丸聞こえだ。
カラオケにいるから暇なら来いよ。
渡辺さんが千昭にきてほしいってさ。
誰それ。一応彼女いるんだけど。不満が喉から出てきそうなのをぐっと堪える。千昭も歯切れ悪そうで、本当は友達と遊びに行きたいのかもしれない。
ああ、なんかダメだ。
千昭を縛り付けてしまっている罪悪感とか、自己嫌悪。
顔も知らない電話の向こう側の女子への嫉妬とか、醜い感情がどろどろに混ぜられて胸のあたりに浸透していく。
私が行かないでと言えば、優しい千昭はこの場に残ってくれる。
ずるいことをしてでも引きとめて、この付き合いを続けたら千昭は傍にいてくれるはずだ。
また自分のことばかり。
目を閉じて、小さく息を吐く。
「行ってきていいよ」
「え、いや……でも鍵」
「翼帰ってくるだろうし、大丈夫」
落としたリボンを拾い上げて、貸してくれたバスタオルを肩からかける。
こうすれば下着が透けているのは見えないだろうし、ひとつ下の階だから運が良ければ誰とも会わない。
「先輩ももう諦めてくれたし、終わりにしよ」
携帯電話を耳に当てたまま、千昭がわずかに目を見開いた。
「ありがとう」
口角をしっかりと上げて、できるだけ自然に微笑む。
千昭の私への想いが勘違いだとしても、この状況で好きだと告げれば千昭は悩んでしまうだろう。
もしも本当に千昭が私のことを好きでいてくれたとしても、このままでは上手くいかない。
玄関に置きっぱなしだった濡れたカバンを手にとって、千昭の家から出ようとドアノブに手を伸ばす。
この先どうしたらいいのかが思いつかない。
最初から好きって私から告げていたら、どうなっていたんだろう。
私たちの状況はきっと今と同じではなかったはずだ。
「未来、待って」
背後から聞こえた声から少し焦りの色を感じた。怒らせたと思ったのかもしれない。
「……なに?」
「翼から連絡きてないし、その格好で外出るなよ。それに……」
続きが気になり、振り返って千昭を見上げた。どうやら電話はもう終わったみたいだった。
「それに?」
「……行かないで」
まるで女の子みたいな引きとめ方。真っ赤な顔をして私の指先を掴みながら、不安そうな眼差しを向けてくる。
「俺……別れたくない」
赤い顔を覗き込むようにして距離を縮めると、千昭の瞳がわずかに揺れ動いた。
冷えきった指で千昭の唇を撫でるように触れた。
「千昭はどうして、私と付き合ってくれたの?」
「……それは、」
「心配だったから?」
「……それだけじゃ、ない」
欲しい言葉がある。
だから、それをちょうだい。
強請るように、ゆっくりとなぞる。
私の勘違いじゃなかったのなら、きっと欲しい言葉がここにある。
純粋すぎるくらい真っ直ぐな千昭の瞳を見つめながら、空いた手でシャツの袖をそっと引っ張る。
千昭は視線を下げると振り絞るように小さな声を出した。
「ずっと……好きだった、から」
欲しかった言葉に胸の奥がぎゅっと収縮する。
耳まで真っ赤になりながら必死に自分の思いを口にしてくれた千昭がどうしようもなく愛おしくて、抱きつきたくるのをぐっと堪えた。
微かに開いた唇からはまだ言葉の続きがあるのがうかがえた。
「……付き合えて浮かれてるのとか知られたくなかった」
「浮かれてたの?」
「そうだよ。だから変にかっこつけてて……未来の気持ちを自分に向かせる方法がわからなかった」
「もうとっくに私の気持ちは千昭のものなのに」
千昭は弾かれたように私へ視線を向けると、驚いた様子で目を見開た。
やっと私の気持ちに気づいたようだった。
「千昭、ちょうだい」
「え、ちょ……っ」
両手で千昭の頬を覆って、顔を近づける。
純粋で穢れていない綺麗な瞳。困惑しているのか、視線がそらされて私の手を離そうとしてくる。
「ま、待って未来! 俺、こういうの、その……初めてで」
知ってる。口には出さないけれど、千昭がそういった経験がないこともわかっている。
「一緒に知っていけばいいよ」
他の人になんてあげない。私が千昭の全てをもらう。
「い、いやでも、ここはまずいって」
「じゃあ、どこ? 千昭の部屋? それとも別の場所?」
「心の準備ができてないんだって」
そんなヘタレなところも千昭だから愛おしくてたまらない。
「ねえ、千昭」
「ちょっ、だから」
いつも以上に速い鼓動。私をドキドキさせるのは千昭だけなんだ。だから、早く千昭に全てをもらってほしい。
「私も緊張してるんだよ」
「……俺の方が絶対緊張してる」
もういいかな。千昭から動いてもらいたいって思っていたけれど、我慢の限界。
もっと私のことを知って、千昭。
そっと唇を重ねると、千昭の動きが止まった。
突然のことに驚いて固まっているみたいだ。
「未来、待っ」
「だーめ。待たない」
お互いの体温を分け合いながら、頭の中では冷静に考えていた。
濡れたまま、誰もいない彼の家の玄関でこんなことをしている。なんともいえない背徳感がじわじわと私の心を侵食していく。
千昭が緊張しているのが伝わってくる。私に答えるように抱きしめる千昭の腕が心地いい。
私たちの甘ったるく欲情した空気を壊すような電子音が鳴った。
ピンポーンと何度もしつこく鳴らされ、のぞき穴から確認しなくとも相手が誰なのか察しがつく。本当タイミング悪いやつ。
そういえば千昭が鍵のこと聞いていたんだった。
「残念」
仕方なく千昭から離れて、外していたリボンをした。あいつは目ざといから、リボンが外れていたらすぐに気づいて怪しむはず。
「千昭、私帰るね」
にっこりと微笑むと、顔を真っ赤にした千昭が視線を逸らしたまま頷いた。
未だに鳴り続けるインターフォンを止めるために、湿ったローファーを履いて玄関のドアを開ける。相手は私の格好を確認して頷くと、開口一番に言った。
「よし、未遂だな。千昭が襲われる前にこいつ引き取る」
目の前の男——翼は私の心配ではなく、千昭の心配をしている。本当可愛くない。千昭と同い年なのに純粋さが足りないんだ。
「えー、それ逆じゃない? お姉ちゃんが心配だから来たんでしょ?」
「お前は黙ってて。じゃ、ありがとな。千昭」
翼は相変わらず私に冷たい。昔から翼は千昭のことばかり心配して私のことは適当にあしらってくるのだ。
千昭と別れて、翼とともに階段を下っていく。
せっかくいいムードだったのに。けれど、これでちゃんと彼氏と彼女になれた。千昭の気持ちも聞けてよかった。
「本当我儘で手段を選ばないよな。お前って」
「弟なのに姉に向かって、お前お前言うのはどうかと思いまーす」
可愛げのない弟は私のことなんてお見通しらしい。
家の前までつくと、翼はポケットから鍵を取り出した。それをじっと見つめると、眉根を寄せてため息を漏らした。
「なにが鍵忘れただよ」
スカートのポケットの中で、ちりんと鈴の音が鳴る。
「恋には時に賭けが必要なんだよ、弟くん」