変わらないものなんて存在しないと世界が知ることになったのは、当たり前のように繰り返していた日々の歯車が狂い出してからだ。
そして私が陰鬱とした感情を抱え出したのは、その変化に人々が慣れ始めた頃だった。
「麗央、悪いけど洗濯物干しておいて!」
私の朝は緩やかなものになったけれど、お母さんたちの朝は忙しない。
お母さんはスーパーでパートをしているため、休むことなく出勤している。
お父さんも現場に出なければいけない仕事のためリモートワークはできず、家にいるのは自宅学習をすると中学校によって決められた私だけ。
「はぁい」と気の抜けた返事をして、朝の挨拶もしないままマスクをしている両親を見送る。今ではこれが日常になっていた。
顔を洗って歯磨きをして、朝食を食べる前に洗濯の終わった衣類をカゴに入れてベランダに出る。立て付けの悪い窓を開けて、重たい洗濯物カゴをベランダに置く。
早朝の空気は、身震いをするほど冷たい。けれど、その温度は不快なものではなかった。透き通っているような澄んだ空気を肺にいっぱい吸い込む。
そうすると「ああ、朝だな」って感じる。あれ……けれど今朝は少し匂いが違う。芳ばしくてほろ苦いどこかで嗅いだことのある匂いがした。
そんなことを思って深呼吸をしていると、不意に視線に気づき勢いよく後ずさって尻餅をついてしまう。
「びっ、」
びっくりしたと言いかけて、ぐっと言葉を飲み込む。まさか人がいるとは思わなかった。
「あ、ごめん。驚かせた?」
うちの右隣に住んでいる家の人がベランダに出て、椅子に座っていた。
そうだった。右隣のベランダとの衝立が昨年の台風のときに壊れてしまって、お互いそのまま放置していた。だから、丸見えなのだ。
「だ、大丈夫です」
大袈裟なリアクションをとってしまったことが恥ずかしくって、顔を背けて立ち上がり、洗濯物を手に取る。
「学校休みなんだ?」
まさか話しかけられると思わず、すぐに反応ができなかった。視線を彷徨わせて、なんと答えるべきか悩んだ後、頷いてみる。
「……当面は自宅学習らしくて」
「へぇ。私は今日からやっとリモートワーク」
「そう、なんですか……」
きつく絞られたバスタオルのシワを伸ばして干しながら、横目でお姉さんのことを見やる。
二十代半ばくらいで、胸元まで伸びた焦げ茶色の髪。
服装はだぼっとしたパーカーを着ていて、完全にゆるい部屋着スタイル。だけど近寄りがたい雰囲気を感じるのは、自分とは歳の離れた人だからかもしれない。
両親とも違う、同級生たちとも違う。私の知らないものを映していそうな色素の薄い瞳。
「学校行けなくて、寂しい?」
「……わからないです」
「どうして?」
「毎朝起きるのが面倒でサボりたいなって思ってたし、仲の良い友達もいるけど、なんかちょっと嫌なこと言ってくる子もいたし……全部が全部楽しかったわけじゃなかったから」
学校に行けないことへの不満や寂しさを話している学生が、リモートでインタビューを受けているのをテレビで見たことがある。
だけど、私は最初ちょっとだけ嬉しかった。学校行かずに済む!朝もっと寝れる!と短絡的に思ってしまって、そのあとすぐに罪悪感を抱いた。
世の中の問題は根深くて、日々失われていくものがあることを、コロナによって初めて緊急事態宣言がでたときには本当の意味で理解していなかったのだ。
「でも当たり前だった場所へ行けなくなるのは、悲しいなって」
学校が好きだったかと聞かれると、少し答えに詰まってしまう。それでも嫌いではなかった。学校へ行くことは、私にとって日常のひとつだったのだ。
「ちゃんと自分の居場所だったんだね」
「え?」
「学校」
だからそんなふうに思えるんだよとお姉さんが笑った。その表情に見惚れてしまう。当たり前のことだけど、お姉さんって笑うんだと思ってしまった。
何度か見かけたことはあったけれど、堅そうなスーツを着こなしてメイクもきつめで、いつも無表情だったので少し怖そうだと思っていたのだ。
「日常が変わって、行動も制限されてしんどいかもしれないけどさ。なにか一つでいいから、自分にご褒美を作ってあげなよ」
「ご褒美?」
「そ。毎日自分になにかご褒美を与えていたら、いろいろ頑張れそうじゃん」
洗濯物を干す手を止めて、お姉さんと視線を合わせたまま首を傾げる。
「お姉さんは自分にどんなご褒美を与えてるんですか?」
「毎朝ちゃんと起きれたら、ドリップコーヒーを淹れる」
「……それってご褒美?」
「起きれて偉いねっていうご褒美だよ」
顔をくしゃっとさせて笑いながら、持っていたマグカップを持ち上げる。
どうやら先ほどからほのかに薫っていたほろ苦くて芳ばしい匂いはコーヒーだったらしい。
「そんなちょっとしたことでいいんだよ。それが楽しく生きる秘訣」
そう言った後、お姉さんがなにかを思い出したように口を丸く開けた。
「言い忘れてた。おはよう」
突然の朝の挨拶に驚きつつも、反射的に「おはようございます」と返した。
「朝の挨拶って、なんかよくない? 今日が始まったなって気がする」
「そういうものですかね?」
「うん、そういうものなんだよ」
緩やかな会話を交わしながら、私たちは洗濯物を干し終わるまでの時間を一緒に過ごした。
そうして私の新しい一日が始まった。
*
毎朝、私が洗濯物を干す間だけ私たちはベランダで話すようになった。
ただのお隣さんなのに、まるで歳の離れた友人ができたような気分になる。話してみるとお姉さんは気さくで、私もすっかり打ち解けていた。
「前にさ、お姉さんがご褒美を与えるといいって言ってたでしょ」
靴下を干しながら、お姉さんに視線を流すとコーヒーを飲みながら生返事をされる。
「お姉さんとこうしてベランダで喋れるのが私にはご褒美だと思う」
朝起きて思うのは、今日もお姉さんはベランダにいるだろうか。
お姉さんの仕事が始まる時間までに洗濯物を干しにいかなくちゃと、体が自然と動くようになり、布団から出るのが億劫じゃなくなった。
「人誑しだね」
視線だけを私に向けて、目を細めた。
「こんなこと誰にでも言わないよ。お姉さんだから言っただけ。だってお姉さんと話すの好きだから」
「ほら、そういうところ」
肩を揺らしながら笑われてしまう。お姉さんは大人なのに笑うと子どもみたいで、急に近い存在のように思えてかわいく感じる。
「あー……今日雨降りそう」
お姉さんがぽつりと雫のように言葉を垂らした。私は手を止めて、空を見上げる。
淡青におぼめく空には、いつの間にか厚みのある雲がかかりはじめており、灰色を溢したような模様が見える。
「雨かぁ。やだなー」
「麗央ちゃんは、雨が嫌なの?」
誰だって雨が嫌だと思っていたため、お姉さんの質問に目を丸くする。
だってせっかく洗濯物を干しているのに。それに部屋で乾かすと生乾きになって臭いし、乾燥機を使うと動作音が五月蝿い。
外に出ていたときは、髪の毛がうねるし、靴下が濡れるから朝起きて雨が降っていると憂鬱だった。傘をさすのだって面倒くさい。
「雨って外暗くなるし、気分落ちること多いんだもん」
「まあ、そうか。湿気も多くなるしね」
お姉さんが灰色が侵食するの空を見つめている。
色素の薄い瞳には、先ほど私が見ていた空が映っているのだと思うと、どこか不思議な気分だった。だけど私とお姉さんには本当に同じものが見えているのだろうか。
感じ方、捉え方が私たちは異なっていて、お姉さんは雨に対し好意的ように感じる。
「雨が好きなの?」
「んー、どちらかといえば好きかな。雨がないと世界は枯れちゃうでしょ。それに雨があるから晴れた日が有り難く感じる」
「そっか……私が見てきた景色は雨が繋いでくれていたからあるんだもんね」
「うん。だから無駄なことなんてない」
多分私は、こうしてお姉さんと話すことがなければ、そんな考えには行きつかなかった。あーあ、雨やだな。で終わっていたと思う。
マグカップを足元に置くと、お姉さんが両手を上げて伸びをする。
「Après la pluie, le beau temps」
よく聞き取れず首を傾げると、お姉さんがフランスのことわざだと教えてくれた。
「やまない雨はないってこと。苦しいことがあっても、そのあとにはきっといいことが起こるよって意味。そんなことわざもあるくらいだから、雨も悪いもんじゃないかもよ」
「いいこと、起こるかな」
「そう思うってことは、今は憂鬱なの?」
唸りながら思考を巡らせる。正直憂鬱ではある。
友達と連絡を取り合ったりしているけれど、前みたいにほぼ毎日会えるわけでもない。
SNSは情報の海となっていて、あの子がこんなこと投稿してるとか、あのふたり別れたらしいとか私たちは温度の感じない電子機器の中で、周囲の変化を知っていく。
「家の中で私の学生生活が終わっていくのかなって思うと、ちょっと……」
この日々に慣れつつあるものの、以前は当たり前のようにしていたことが遠くなっていくことに虚しさを感じていた。
手のひらで大事に掬っていた水が、こぼれ落ちていくような空虚な思い。
「だけどね、ひとつだけ特別なことを見つけたよ」
私の中でしとしとと降り続いた雨は、心が腐りかける前にひとつだけ種を芽吹かせてくれた。
「お姉さんとこうして話せてる。きっと今までの生活だったらお姉さんとこんなふうに話すことはなかったと思う」
きょとんとした表情でお姉さんが瞬きを繰り返してから、たっぷりと五秒くらい黙り込んだあとに噴き出した。
「人を誑し込むのが上手いなぁ」
「本当のことだもん」
「私も、この朝が好きだよ。苦しいことが続く中でも、探せば嬉しいことも見つかるもんだね」
私たちの関係はなんだろう。家族でも同級生でもない。私の世界には今まで関わりのなかった人。それなのにこうして毎朝私たちは約束もせずに会うようになっている。
私はきっと明日も明後日も、日が昇ればベランダに出る。
頭が冴えるような朝の冷たい空気を身に纏って、柔らかなコーヒーの香りを漂わせる眠たげな眼差しのお姉さんに声をかけるはずだ。
「だからね、お姉さん」
こんな日々がいつまで続くのかはわからない。
変わらないことなんて世の中には存在しないから、きっといずれはこの習慣も消えてしまう。それでも私は大事に抱きしめて、朝を迎えたい。
「おはよう。今日もいい日にしようね」
大人になって思い返したとき、今をどんな風に感じるのだろう。
ひょっとしたらお姉さんとベランダで話すこの朝を、いつか私は青春と呼ぶのかもしれない。
私たちは日々不安と戦っていて、失われていくものもたくさんある。
だけどこの朝を忘れずにいたい。
「おはよう。今日はいい日だよ」
だって、また会えたから。
そう言ってお姉さんが笑った。
完