どうして昼休みに女子だけが体育館に集められたのか、もう察しがついている子もいるわよね。実は最近校内で化粧をしている子が多いと問題になっています。

この中にも何人かいるでしょう?

つけまつ毛を没収された人や、化粧落としを渡された人。男の先生たちは学生が化粧をするという行為自体を反対しているので、女子のみんなにとっては窮屈に感じるかもしれません。

あ、こら今井さん。今は私語を慎んでね。大事な話の途中だから。今井さんもこの間、口が赤いなんて言われて口紅落とされていたわよね。

え? 口紅じゃなくてグロス? 似たようなものでしょう。どちらにせよ、禁止なのよ。


でもまあ先生も女だし、みんなの気持ちもわかるの。

化粧をして友達と写真を撮ったり、好きな人に可愛いって思われたい気持ちもあるわよね。だからね、化粧自体を私は反対じゃないわ。男の人って案外気づかないから、薄くならバレないかもしれないわね。あ、これは内緒よ?

けどね、口紅は〝ここぞ〟という大事なときにしなさい。いつって……それは女としての勝負のときよ。







閉め切った部屋の中、埃っぽい匂いに混じってほんのりと柑橘系の香りが鼻腔を掠める。

この半年間で嗅ぎ慣れた先輩の匂いに一日の疲れがすっと溶けていく。閉じそうになった目を開けて、慌てて先輩から距離をとった。


「先輩」

今日こそは言おう。思って彼に会いに来たのはこれで何度目だろう。

その度になかなか言い出せなくて、言葉を零そうとする唇を塞がれる。柔らかいその感触に甘い痺れを感じては、また溺れてしまう。


「なに? もっとしてほしいの?」

先輩は確信犯だ。キスをすれば、私が従うのをわかっている。拒否するように俯くと、先輩の手が頬に添えられた。


「先輩……私」

強引に顔を上げさせられて、指先が口を抉じ開けてくる。

抵抗しようと思っていた私の思考は目の前の先輩の微笑みによってドロドロに溶かされてしまった。毒のような甘さから抜け出したいのに抜け出せない。


長いキスが終わり、呼吸を整えながら首筋に顔を寄せる。
シャツから香る柑橘系とは違う、先輩自身の匂いは少し汗が混じっていて男らしさを感じる。


「痕はつけないで」

自分は私につけるのに、私はつけてはいけない。わかりきった理由に胸が痛む。

それなのに先輩を受け入れてしまう自分に嫌気がさしていく。今日も言えないまま流されてしまった。


私の中で先輩の代わりはいないけれど、先輩の中で私の代わりなんていくらでもいる。

その場だけの快楽と恋情に浸ってしまう弱さと、現状から抜け出すべきだという理性が私の中で常に争っていた。


私と先輩は関係を持っていても学校では知らん顔。すれ違っても声もかけず、目すら合わせない。

私が目で追っていても、先輩が振り返ってくれることなんて一度もなかった。隣には小柄の可愛らしい女の子がいて、幸せそうに笑っている。



「ねえ、今日どこ行こっか」
「ちとせが行きたいって言ってたタピオカの店行く?」

聞こえてきてしまった会話が心を抉っていく。
タピオカのお店でデートなんて私にはできるはずもない。胃のあたりが熱を持ち、じくじくと痛んだ。


「うん! 楽しみ」

あなたの彼氏、私と浮気していますよ。

すれ違いざまに隣にいる彼女に向かって心の中で言ってみる。直接言う度胸も覚悟も私にはない。馬鹿馬鹿しいこの現実を壊したいのに私は叩き割ることができずにいた。

先輩が他の人と唇を重ね、肌を合わせて抱き合っていることを彼女は気づいているだろうか。先輩のことだから、きっとバレないように上手くやっている気がする。


「本当お似合いだよね」

私の隣を歩いていた女子生徒が友達と話している。視線は先輩たちに向けられていて、その場から逃げるように階段を駆け下りた。

先輩と関わっていなければ、私もお似合いの二人だと思っていただろう。
けれど堂々と隣にいることができず、隠された関係の私は惨めで情けないだけの存在だった。


浮気をされていて、なにも知らず惨めなのは彼女のはずだ。それなのに私は彼女が羨ましい。

私は学校で堂々と先輩の隣に立つことはできない。
今の彼女と別れたとしても、先輩には私に対して恋情なんてこれっぽっちもないはずだ。

遊びやすくて自分に従順な後輩。それが先輩の中の私。

嘘でも愛を囁かれていたら少しは自惚れていたかもしれない。けれど私は一度も愛を告げられたことがなかった。


保健室の前で自然と足が止まり、ため息が漏れる。


始まりはここからだった。
まだなにも知らず、不純に溺れていないあの日が半年経った今では懐かしく感じる。


入学して一ヶ月が経った頃、私は体調を崩して保健室で寝ていた。横になったおかげか頭痛が和らぎ、瞼を閉じようとしたときだった。カーテンがわずかに揺れて、声が聞こえてきた。


「起きてる?」

突然のことに驚いて身体を硬くしながら言葉を返す。


「起きてますけど……」
「具合、結構悪いの?」
「もうだいぶ良くなりました」

相手が誰なのかわからないけれど、聞いたことのない声。
二年か三年の先輩かもしれないので一応敬語を使った。
先生からいつ注意を受けるかとひやひやしていたけれど、先ほど出て行ったそうでほっと胸を撫で下ろす。


「退屈だね」

少し黄ばんだ白いカーテンの向こう側にいる相手は優しい口調で話題を振ってくる。

時折、体調のことを心配してくれて、他愛のない会話で私の緊張を解きほぐしていった。


「昨日賞味期限切れたお菓子食べたからかな。腹痛で保健室きたんだ。今はすっかり治ったけど」
「少しくらい切れていても大丈夫だって聞きますけど、お腹痛くなったならそれが原因かもしれないですね」
「たしか賞味期限が美味しく食べられる期間で、消費期限を守らないとまずいんだっけ。やべ、どっちだったっけ」
「え、消費期限だったら腹痛の原因ほぼ確定じゃないですか?」

クラスの友達との会話はまだ気を遣ってしまい疲れるときがある。けれど、この人との会話は不思議と疲れなかった。

顔が見えないので反応を気にせずに済むからだろうか。特別おもしろい話題ではなくても、不思議と心が躍り、話したいことが溢れてくる。


「そういえばさ、何年生?」
「一年生、です。何年生ですか」
「俺は二年」

相手のいる方向を見つめながら、枕の端をぎゅっと握る。

一つ年上の先輩。中学でも高校でも部活に所属していなかった私は先輩と呼ぶような存在が今までいなかった。カーテンの向こう側の先輩は未知の存在だ。


どんな人だろうと気になったけれど、対面する勇気が出なかった。顔を見てみたい。

けれど、私を見てがっかりされるかもしれない。先輩も想像とは違っているかもしれない。


「また話そうよ」
「いいんですか?」
「俺は話したいけど、いや?」
「私も話したいです」

顔を合わせて先輩がイメージと違っていても、話していて楽しかったことにはかわりない。

もっと話したい。先輩のことを知りたい。上半身を起こし、カーテンを開けようとしたときだった。


保健室のドアが開かれた。足音が生徒の上履きとは違っていて、スリッパの音がする。先生が戻ってきたようだ。

カーテンを開けるタイミングを失ってしまい、少し後悔をしながら宙ぶらりんになった手を膝の上に落とす。

先輩との間を隔てていたカーテンが少し揺れた。驚いて顔を上げると柔らかそうな茶髪の男子生徒がカーテンをくぐってこちら側にやってくる。


唇に人差し指を当てて、声を出さないようにと合図する相手は私が先ほどまで話していた先輩のようだ。

中性的な顔立ちで男の人なのに綺麗だと感じた。線が細くて、シャツの隙間から見える鎖骨と細い首筋が妙に色っぽい。


私の耳元に顔を寄せると、「連絡して」と甘い声で囁く。
わずかに身体を震わせると、先輩は耳のふちに軽くキスをした。全身に甘い痺れが走り、顔の熱が上がっていく。


私の手の中に紙を握らせると、先輩はカーテンの向こう側へと戻っていった。
くしゃくしゃになった紙はおそらく生徒手帳のメモ欄をちぎったもので、先輩の連絡先が書いてある。


今にも叫び出したい想いを抑えるように頭まで布団に潜って、両手で顔を覆った。

これが私と先輩の始まりだった。




それから先輩に教えてもらった空き教室で会うようになって、三度目に会ったときに不意にキスをされた。

生まれて初めてのキスは想像以上に柔らかくて、先輩が食べていたミントのタブレットの味がした。

握られた手から伝わる先輩の少し高い体温が愛おしくて、涙が出そうだったことを半年経った今でも覚えている。

私と先輩が関係を持ったのは、初めてのキスから一週間後。


いつも放課後の学校でこっそりと会っていたけれど、学校の外で会おうと先輩から連絡が来て私は舞い上がった。

先輩からのメッセージには待ち合わせ場所が書かれていて、学校がある駅から五駅ほど先だった。


待ち合わせ場所に現れた先輩は私の手を引いて歩き出す。
デートみたいでドキドキして、緊張で手に汗が滲んでいた。

先輩に伝わってしまうのではないかと焦ったけれど、手を離したくない。このまま時が止まってしまえばいいと思った。


どこに向かっているのかと聞くと、「俺の家だよ」と答えが返ってきて心臓が大きく跳ねた。

自分の今日の下着はなに色だったかとか、きちんと処理はしていたかなど色々な問題が私の脳内でぐるぐると回り出す。

家に行くということは、そういう行為がある可能性も覚悟しなければいけない。キスよりも先のことは私の中では上手く妄想力が働かなかった。


少女漫画ではキス止まりがほとんどで、その先が描かれているものでもぼかして描かれている。

なにをするのかは頭ではわかっていても、想像ができない。それに自分がそういう行為をするということに妙な感じがして急に恥ずかしくなってきた。


先輩の家には誰もいなかった。
両親は仕事でお姉さんもバイトがあるので夜まで帰ってこないそうだ。

つまりはそういうことなのだと覚悟をして先輩の部屋に足を踏み入れる。



ドアが閉まる音がして振り返ろうとすると、後ろから抱きしめられた。
細身だと思っていたけれど、こうされていると先輩は男の人なのだと再認識する。私よりも広い肩幅と力強い腕。耳元に落ちる熱い吐息が私を高揚させていく。


「緊張してる?」
「……してます」

声が少し掠れてしまった。もう一度やり直したい。もっと可愛らしく答えたい。

後悔していると、先輩が小さく笑ったのがわかった。



「ベッド行こう」

触れるだけのキスをしながら、頭の片隅で自分たちがまだなに一つ大事な言葉を交わしていないことを思い出す。けれど確認するのが怖かった。


今更面倒だと思われたくない。それにすでに先輩に私の想いは伝わっている気がする。

シャツのボタンを一つずつ外されながら、先輩が私の頬や首筋にキスを落としていく。

手から伝わってくる先輩の熱が私の緊張を加速させていく。

細長いけれど女の子の指よりも骨ばっていて、予想できない動きに翻弄される。このまま私はどうなってしまうのだろう。



「怖い?」
「……大丈夫です」

シャツを抜いで露わになった先輩の上半身は案外引き締まっている。浮き彫りになっている鎖骨から色気を感じて指先でそっと撫でた。



「擽ったい」
「あ、ごめんなさい」
「可愛いから許す」

包み込むように抱きしめられ、ダイレクトにお互いの鼓動が伝わってくる。素肌で抱きあうのは心地よかった。


「先輩」
「大丈夫?」
「……はい」

自分の中に侵入する異物を感じながら、眉根を寄せて色っぽい表情をしている先輩を見つめる。


この人が好きだ。

今この瞬間、私だけを見ていてくれることがたまらなく幸せだった。


「先輩」
「ん?」
「好きです」

勇気を振り絞って初めて伝えた私の想いに先輩は微笑んでキスをする。

「ありがとう」

返事はそれだけだった。

嬉しいはずなのに少し寂しくて、もっと別の言葉を聞かせてほしい。
けれど、面倒だと思われたくなくてなにも言えなかった。


初体験は恋をしたとき以上のドキドキと不安、そしてほんの少しのほろ苦さが残るものになった。



違和感を覚えたのは、それから数日が経ってからだった。

すれ違っても彼は私を見ない。彼の隣にはいつも同じ女の子がいて、どう見ても付き合っているようにしか思えなかった。


私たちは学校でこっそりと会うか、放課後に誰もいない先輩の家で身体を重ねる以外の過ごし方をしない。不安が募り、強くなる嫉妬が先輩への恋情を煽る。


聞くのは怖かったけれど、もやもやとしたまま過ごすことは耐え切れなかった。
勇気を出して私たちの関係について聞いてみると、先輩はいつものように優しく微笑んだ。


「言葉にする必要ってある?」

重量のあるなにかで頭を殴られたような衝撃だった。ようやくそれで確信する。
私は彼にとって都合のいい身体だけの関係の女でしかなかった。


浮気されているくせにどうしてあの人は幸せそうなの?

浮気しているくせにどうして彼は別れないの?

私がもっと早く出会えていたら状況は変わっていた?


そんな感情がドロドロに溶けて身体中に侵食していった。

今日も遠くにいる先輩を見つめるだけ。生徒がたくさんいる中では私と先輩は関わったことのない他人でしかない。





「瑞希、なにしてんの?」

昼休みに廊下を歩いていると、後ろから勢いよく抱きつかれて身体が前のめりになる。

倒れそうになるのをなんとか堪えて、ほっと胸を撫で下ろすと香織が抱きついたまま耳打ちしてきた。


「もしかして武藤くん見てた?」

予想外の人物の名前が出てきて首を捻る。
前方にいる人物を確認して思い出した。同じ学年で一時期かっこいいと話題になっていた人だ。


「今彼女いないらしいよ」

私には武藤くんよりも遠くで談笑している先輩の姿の方がずっとよく見える。

先輩に恋したときから同級生の男子に対して特別な感情は一切抱いていなかった。


「瑞希、狙っちゃえば?」
「そんなんじゃないって」
「えー、そうなの?」

この恋が純粋な片想いならよかった。
けれど、この恋は不純でとても人から褒められるようなものではないから打ち明けることはできない。

軽蔑されたくない。そんな感情を抱く時点でこの恋が間違っているのだと痛感する。


「香織は好きな人いるの?」
「んーとねぇ、えへへ」
「あ、いるんだ?」

照れたように笑う香織は完全に誰かに恋をしている表情で私にとっては眩しかった。

香織は小声で〝真野〟と言うと、両手で顔を覆う。


「真野って同じクラスの?」

私の質問に香織は小さく頷く。髪の隙間から見える耳は赤く染まっていて、伝わってくる本気の想いに私まで照れくさくなってしまう。


「真野かぁ。香織仲良いよね」
「そうかなぁ。緊張していつも上手く話せないんだよー。瑞希も好きな人いるなら教えてね」
「うん、できたら教えるね」

自分の口から出た言葉がちくりと胸に刺さる。けれど、嘘をついて笑ってやり過ごすしか私にはできなかった。

こんな関係やめるべきだ。
そしたらきっとこんなに辛い思いをせずに済む。そう思うのに、また勇気が出ずに流されてしまう。

結局のところ、最低な男でも先輩のことが好きで離れられない。そんな私も最低だ。




いつも私と彼が学校で会う場所は、放課後の三階の空き教室。

今日は約束をしてないけど、なんとなくそこへ足が進んだ。

いっそのこと連絡をしてみようか。もしかしたら来てくれるかもしれない。そんなことを考えてドアに手をかけようとすると、中から声が聞こえてきた。


明らかに男女のような影で、私たち以外でもここを使っている人がいることに青ざめていく。

結構まずいことかもしれない。私たちも誰かに見られている可能性があるのだ。


「ん、もっと」

聞こえてきた声に息を飲んだ。嫌な汗が手のひらからじわりと滲み出てくる。


「ちとせと今日は約束してないの?」
「あいつはバイトだから平気。それよりこっちに集中して」

今の声は私がいつもここで聞いている人物の声で、時折漏れる甘い声は知らない女の子の声。


「優しくて誠実って嘘ばっかりだね」
「ちとせが勝手に言ってるだけだろ。あいつは夢見がちすぎんの」

「初めては特別な日にしたいからって、クリスマスまでやらせてくれないし?」

彼らが話している〝ちとせ〟は確か先輩の彼女の名前と同じだ。
ブレザーから携帯電話を取り出す。恐る恐る履歴から先輩の番号を探し出して、震える指先で押した。

真実なんて知りたくない。けれど、ここで目を伏せて耳を塞いでしまったら、私はもう抜け出せなくなる気がした。


わずかな可能性に賭けながら祈るように目をぎゅっと瞑った。


「ね、電話じゃない?」
「んー……ああ、後輩の子だ」
「ちょっと、一年にまで手ぇ出してんの?」
「素直で可愛いんだよ。ちとせと違って面倒なこと言わないし」

声の出ない笑いを溢す。心臓が押しつぶされそうなほど苦しくて、鼻の奥がツンと痛くなる。

電話がかかっている先はこの部屋の中にいる人物で、一緒にいるのは本命の彼女ではなく別の女の人。


私と彼の秘密の場所は、私たちだけの秘密の場所ではなかった。
彼が浮気をするための場所だった。私と彼だけの特別なんてどこにもない。


留守番電話に繋がる前に震える指先で電話を切る。


「都合がいいってこと? 本当最悪」
「お互い様だろ。お前も友達の彼氏と浮気してんだから」

馬鹿みたいだ。下唇を噛み締めて、気づかれないようにその場を立ち去る。

ひとけのない校舎を嫌な現実を振り切るように必死に走り、廊下の突き当たりで滑り込むように転んだ。


足がじんじんと熱を持って痛む。けれど足よりも心の方が負傷していて、溢れ出てくる涙を堪えながら歯を食いしばった。

知りたくなかった。聞きたくなかった。けれど、いつかは向き合わなきゃいけない現実。


流すな、流すな、流すな。
こんな涙は飲み込め。

私はきっとどう足掻いても、堂々と彼の隣には立てない。けれど、結局またキスをされれば言えなくなる。

先輩はきっと何人も浮気相手がいて、私はその中の一人に過ぎなかった。

物分りがいいふりをしていたけれど、本当は心の片隅にほんの少し淡い期待もあった。

今の彼女と別れて、私の方に来てくれるかもしれないなんて虚しい幻想。



きっと私は次に先輩に会うときに前のようには戻れない。

いい加減この関係から進むときが来たのかもしれない。




放課後、この日も先輩からの呼び出しはなかった。

おそらく彼女と帰る予定か別の浮気相手と過ごす予定なのだろう。なにもない日にだけ私は呼び出される。


廊下の窓から校舎を出て行く生徒たちをぼんやりと眺める。私だって本当は先輩と一緒に堂々と歩きたい。こんな風になる前に聞けばよかった。

彼女はいるのかを聞いてさえいれば、私は先輩とのキスをせず、ただの苦い失恋で終わって身体だけの関係にはならなかったかもしれない。

じわりと浮かんできた涙で視界が歪む。私は初めてキスをしたあの日から間違えていたのだ。


「杉本さん」

後方から声をかけられて振り返ると、先生が立っていた。
化粧か服装に関して注意をされるのかと身構える。先日も女子だけ呼び出されて注意を受けたばかりだった。


「現文のノート、提出していないのはあなただけよ」
「あ、忘れてた。ごめんなさい。今出します」
「会えてよかった。このままだと減点だったわよ」

慌ててカバンから現文のノートを取り出して先生に手渡すと、不思議そうに首を傾げられた。


「なにかあったの?」
「……どうしてですか」
「少し目が赤い気がしたから」

誰にも言ったことのない先輩との関係。先生になんて特に知られたくない。けれど、大人ならこんなときどうするのだろう。


「先生」

なにを言おうとしているのだろう。
本当なら話すべきではないのに、言ってしまいたい。

誰かに背中を押してもらいたい。先生が言っていた勝負って意味は勝ちに行く勝負のことだけじゃないはずだ。


「女としての勝負って負けが見えているときでもいいと思う?」

先生は少し驚いた様子で目を丸くした後、困ったように苦笑した。


「なにがあったかわからないけれど、勝つことだけが幸せじゃないと思うよ」
「けど、負けたら私の大事にしていたものが消えるんです。きっともう取り戻せなくなる」
「それでも杉本さんは負けるための勝負をしたいのでしょう?」

先輩は一途じゃないし、私以外にも浮気相手がいる。

一緒にいて私と同じ感情を持っていないことは伝わってくるし、好きと返してくれたことは一度もないのだ。

もうそれだけで答えが出ているようなものだった。


「どうして上手くいかないんだろう」
「きっとこれからも上手くいかないことばかりだよ。恋愛ってそんなものだから」
「……恋愛の話って私言いましたっけ」
「顔見ればわかるよ。辛い恋でもしているの?」

誰かに話せるほど綺麗じゃなくて、否定されることの方が多いだろう。

そんな惨めで情けなくて最低な恋愛。私と先輩に明るい未来なんてない。


「辛いけど……後ろめたいやつです」

言い訳のようだけど、最初は先輩に付き合っている相手がいることを知らなくて、私が彼女になれるのだと思っていた。


「でもきちんと決着をつけたいんでしょう? それが杉本さんにとって負けることでも、ここぞというときの勝負をしてきなさい」

ポーチに眠っているほとんど使用していないグロスを思い浮かべながら、なにもつけていない唇を指先でそっとなぞる。


「先生、私負けにいくよ」

だから、ちょっとだけ校則違反を許して。


「いってらっしゃい」

先生は私の背中を優しく押してくれた。

陰っていた気持ちが少しだけ前を向けて、私の中で決意が生まれた。もう躊躇うことをやめよう。




金曜日、先輩を呼び出した。
予定があると言われたけれど、少しでいいから時間がほしいとお願いした。今日じゃないと意味がない。


落ち着きのある深紅のグロスを手に取り、丁寧に唇を彩る。

鏡で確認した自分の姿は不思議と大人っぽく見える。
紅く色づいた唇に少しだけ自信をつけてもらい、心の中で唱えた。大丈夫。きっと伝えられる。



いつもの空き教室に行くと、既に彼は待っていて私に笑顔を向けて手招きする。


「おいで。約束あるから、少ししか時間ないけど」

私の好きな先輩の仕草に心臓がどきっと跳ねた。
けれど、唇を結んで、彼の目の前に堂々と立つ。


「今日はなんか違う」
「そうかな?」
「口紅い。……拭いてもいい?」

私の唇に触れてこようとする彼から逃げるように一歩下がる。


「だめ」
「……なんで?」
「これは、私の小さくて強い防御だから」
「は?」

先輩は顔を顰めて不機嫌そうに目を細めた。
意味がわからないと言いたげだ。

けれど、それでいい。


これは女だけにしかわからない。
一呼吸おいて、真っ直ぐに彼を見据えて微笑む。


「もうこうやって会うのやめるね」
「……本気で言ってる?」
「うん」
「俺のこと好きなのに? 別にそうしたいなら俺はいいけどさ」

自惚れないでよ。最低男。と罵ってやりたい。
やっぱり離れるのは辛いから無理なのって泣きながら可哀想な女の子を演じてほしい?

あるいは私だけを好きになってよって怒って縋る姿がみたい?

けれど私は先輩の前で罵れるほど強くもないし、泣けるほど弱くもない。好きになってとねだることもしたくない。


「最後にこれだけ、いい?」

先輩の返事を待たず、抱きついた。

シャツの襟の内側にそっと唇を寄せる。

大好きだった先輩の匂いと温かな体温。もうこれでお別れだ。


「本気で終わりにするの?」
「うん。これで終わり」

一歩後ろに下がり、先輩に向かって微笑む。

私なりに精一杯考えた結果だ。

先輩を好きになって、先輩も私を好きになってくれたのだと思っていた。けれど、現実は違っていた。


先輩は私に心をくれない。それなら、私にとって最強の言葉を武装した紅い唇で告げる。


「さよなら」

私と先輩のちっぽけで小さな関係を終わらせるのはこの一言でいい。これくらい呆気なくていい。

紅い防御がある限り、先輩は私の唇を塞げない。

目を見開いて唖然としている先輩に微笑み、背を向けて歩き出す。他になにも言葉はいらない。

昨日よりも廊下を歩く足取りが軽かった。それと同時に寂しくて、心にぽっかりと穴があいてしまったけれど、これが私の選択。


昇降口で誰かを待っている様子の女子生徒が目に止まった。きっと先輩をまっているのだろう。

毎週金曜日は先輩と彼女が一緒に帰っているのだ。だから、私はこの日を最後に選んだ。

迷わず彼女のいる方向へ歩いていく。
視線を上げた彼女とほんの数秒目が合って微笑んだ。


不思議そうな表情をされたけれど、言葉を交わすことなく横切っていく。


先輩の襟の内側にグロスがついていることに彼女は気づくだろうか。抱きつきでもしなければつかない位置。

私がつけている色と同じ〝紅い印〟はささやかな仕返しだ。


敗れた恋に軽やかに別れを告げて、そっと指先で紅い唇を撫でる。



いつか勝つために、この紅を使えますように。