東の空が白む。もうじき陽が昇りはじめる頃だ。

 笑い声がたえないほど賑やかだったのが嘘のように、ひと気が消えた。遠くから波音が繰り返し響いている。それが私にとっては非日常で、好奇心から周囲を散策していく。

 窓越しに見える車内にはキャップ帽で顔を隠している先輩や、腕を組んで座ったまま目を瞑っている先生の姿。誰も起きてないみたいだ。

 来る途中のパーキングエリアで購入したお茶のペットボトルを握りしめながら足を進めると、岩場にたどり着く。私はそこに腰を下ろした。七月の半ばの朝は、思ったよりも肌寒い。羽織るものを持ってきてよかった。

 明け方の淡い水色から、蜜をたらしたような琥珀のグラデーションがかかった空は、夜は鈍色にしか見えなかった海に色を灯す。水面は日差しを反射して輝きを放っていた。
 誘われてなんとなく来ただけだったけれど、この景色を見れただけでも来た意味があったかもしれない。

「あれ、ひとり?」
 聞きなれない声に振り向く。相手の顔を見た瞬間、高揚していた気分が沈んでいく。

 目にかかりそうな黒髪に、隙間から見える耳には無数のシルバーピアス。耳たぶの部分はピアスホールが拡張されていて、小指が入りそうなほど大きい。切れ長の目は私を見ているはずなのに、視界に入っていないような感覚になる。

 私のだいきらいな、一学年上の男の先輩。

「他のみんなは?」
「寝てます」

 先輩は私の隣に座ると、左手に持ったスミノフの瓶を開けた。ごつい指輪が瓶にぶつかるたび、カン、カンと音が鳴る。
 無駄に多い装飾品とか、ハレーションが起こりそうな派手な柄シャツとか、感情がこもってない胡散臭い話し方とか、苦手な部分を挙げればきりがないけれど、爪はかなり短く切り揃えられていて、やっぱり先輩も絵を描く人なんだなと納得した。


「俺らもみんな寝てるわ。日の出見るとか言ってたのにな」
「騒ぎ疲れたんじゃないですか」
「あー……あいつら、騒いで酒飲みたいだけだもんな。馬鹿みてぇ」

 私たちが海に来ることになったのは、友達が先生に『海に行きたい』と言い出したからだった。普通であればそんな言葉が実現することはないと思うけれど、私たちの専門学校の先生は生徒と距離が近く、遊びに連れて行ってくれることも多い。

『じゃあ、金曜日の夜から行こう』
 その一言で海行きが決まり、話は一年生から二年生まで広がっていった。

 車は先生たちのものと、免許を持っている一年生と二年生がレンタルしたもので合計四台。授業が終わった後、食料の買い出しに行って、夕方から出発した。

 誰が来るのか知らなかったけれど、この先輩もいると気づいたのはパーキングエリアに着いたときだった。

 友人のまどかは、嬉しそうに先輩に話しかけていて、私は少し離れた位置からその光景を眺めていた。離れてほしいのに、言えない。それにきっと言っても、私の言葉にそんな効力はない。


「まどかと仲良いよな」
「……そうですね」
「入学してまだそんな経ってないのに、すげぇな」

 すげぇと言いつつ、淡々とした口調だった。適当さが伝わってくる。

 入学して約三ヶ月。確かにそこまで経ってはいないけれど、同じ学科の中でもかなり親しい関係を築づけていると私は思っている。だけどそれを先輩に言ったところで、あまり意味がないし、理解もしてくれなさそうだ。

 私とまどかは、初日の授業で偶然隣の席に座ったのがはじまり。
 お互いに人見知りで、目があって、逸らしてを二度繰り返してから、『緊張するね』と声をかけてみたら、まどかが頷いて小さく笑った。その瞬間、仲良くなれそうと思った。



「いっつもあんたの話ばっかしてる」

 私の前では先輩の話ばかりしてますよ。

 高校を卒業して一年ほど働いた後に専門学校に入学したから、ふたつ年上なんだってとか。先輩はデジタルの成績は悪いけど、絵の具でキャンバスに絵を描くのが得意なんだってとか。
 そんな話をまどかは夢中になってしている。
 だけど私は複雑な思いのまま聞いていた。

 それは他の先輩から忠告を受けたことがきっかけだった。

『まどかちゃん、あいつと関わってるけど大丈夫?』

 一年生のときに付き合っていた彼女は一時期精神的に追い詰められて、不登校になったそうだ。
 口論となり、首を絞められたり、髪の毛を掴まれたりしたとか、そんな話まで聞く。そしてその後、退学したらしい。

『友達としては楽しいやつだけど、恋愛絡みだとやばいから。気をつけて』

 噂だけで決めつけるのはよくない。それはわかっている。だけど、一目見たときから——やばいなと直感した。

 不安定というか、なにをするかわからない。湿っぽくて陰鬱とした嵐の前の静けさを纏ったような、影のある雰囲気。

 それに話してみると相手に関心を持っていないのがわかる。興味があるのは、絵に関することだけ。目が笑わなくて、話し方にも抑揚がない。

 抱えきれないほどの大きさのキャンバスに先輩が描いていた絵を、一度廊下を通りかかったときに見たことがある。
 それは黒や紫、赤などの色が渦を巻いているようなおどろおどろしいものだった。息をすることすら許されない場所に引き摺り込まれそうな絵。しばらく頭から離れなかった。


 先輩とまどかの始まりの場に、私も居合わせた。
 自画像を自分なりのアイディアでデザインするという課題で、まどかが絵の具を使って極彩色に塗っていた時だった。
 独創的な絵に驚く人は多かったけれど、変わってるねと言ったり、意図を聞いている人がほとんどだった。けれど、画材を取りに教室に入ってきた先輩だけは違った。

『才能あるね』
 恥ずかしそうに口元を緩めたまどかと、絵しか見ていない先輩。ふたりを見た瞬間、胸騒ぎがした。


 そして、それ以降先輩はまどかを好き勝手振り回している。
 突然指定した場所に呼び出して、距離が近づいたかと思えば、興味を失ったように放り投げて連絡を無視する。
 それなのに気が変わったのか、絵のモデルになってほしいと頼みこむ。まどかはふたつ返事で了承したけれど、当日それが過激なものだと知り、躊躇ってしまうと『じゃあ、いいわ』と言ってひとり残して帰っていく。そんな男。

 まどかは『恋愛じゃなくて、ただ尊敬してるんだ』と言っていたけれど、私から見たらふたりの関係は歪だ。


「まどかの保護者みてぇだよな」
「……言いたいことはわかります」

 まどかは危なっかしくて、課題の提出が間に合わなくなりそうなことや、人に譲ってばかりで損することがよくある。

 提出まであと三日だよ。こっちから行ったほうが早いよ。私の半分あげる。
そんな押しつけがましいことを、私はしていた。
 周りから、〝保護者じゃん〟と言われることも一度や二度じゃなかった。


「面倒じゃねぇの?」
「思ったこと一度もありません」
「へー」

 どうでもよさそうな返答に眉を顰める。そんな反応するなら最初から聞くなよと心の中で毒づいた。


「まどかのどこが好きなの」
「……考えたことないですけど、優しいとことか」
「そんなん誰でも優しさなんてあるじゃん。優しさなんかで人を判断するの薄っぺらくね」

 あなたに優しさが見えないんですけど。そう言いたいのをのみ込む。

 誰だってしようと思えば、人に優しくできるかもしれない。だけど、〝優しい人〟になるのは誰にでもできることじゃない。

 一時期的な優しさじゃなくて、常に人を想いやることができる。そういう人を薄っべらいなんて思わない。

 優しさを持続すること、できるんですか?
 荷物を運ぶのを手伝ったり、飲み物の差し入れをしたり、絵に悩んでいるときに声をかけにいったまどかの優しさを先輩は薄っぺらく思ってたんですか?

「……人によると思います」
「まあ、そうかもな」

 言いたいことが山ほどある。先輩、優しくできない人もいると思います。だって私はたぶんあなたに優しさなんて向けられない。
 それに私たちの過ごした時間を、見てきてもいないのに薄っぺらいなんて言葉で片付けないでほしい。



 ——五月頃。うまくいかないことがあって、ひと気のない踊り場で落ち込んでいたとき、私のことを見つけてくれたのは、まどかだった。


『どこにもいないから、探してた! だってさっき、泣きそうだったから!』

 息を切らしながら、駆けつけてくれた彼女を見て、堪えていた涙が頬に伝った。
 私の隣に座ったまどかに、ぽつりぽつりと悩んでいることを打ち明けていく。
 すると、鼻を啜る音がして目を見開いた。

『なんでまどかが泣いてんの』
 笑いながら言うと、『だって』とまどかが声を震わせる。

『いつも励ましてくれてるのに、私はこういうときにいい言葉が出てこなくて』
『聞いてくれるだけで十分だよ』

 けれど首を横に振ったまどかは、不器用ながらに私のことを励ましてくれる。
 一つひとつの言葉を私のことを想って選んで伝えてくれたことが嬉しかった。

 一通り話し終えて、ふと我に返る。

『てか私たち、教室戻れなくない? 泣いたってすぐわかる』
 お互いにひどい泣き顔で、悩み事よりもそっちに意識が向いていく。

『え、嘘。私もわかる?』
『まどか顔白いから泣くと赤いの目立ってるよ』
『えー! どうしよう!』
 まどかの傍は穏やかで、目があうと自然と笑ってしまう。


 おっとりとしていて、一生懸命で、だけどちょっと不器用。言葉よりも先に涙が出てきてしまう。そんな女の子。

 そして私にとって、大事な人。彼氏とか、家族とは違う。もうひとつの特別な形の存在。

 だから、そんなまどかを傷つけるかもしれない、もしかしたらもう傷つけているかもしれない先輩が嫌でたまらない。



「俺、学科のやつ全員嫌いだったから、一年のやつらが入学してすぐ仲良くなれてんの見るとびびるわ」
「……嫌いだったんですか?」

 先輩たちは仲良さそうに見える。しょっちゅう喫煙所を溜まり場にして喋っているし、今日だって一緒に海まで来ている。嫌いだった影なんて感じない。

「ガキだし、うるせぇし、ムカつくし、マジで嫌いだった」
「それなのになんで今は仲良くなったんですか」
「周りを変えるのは無理だって気づいたから。でも俺は変えられるじゃん。だから避けるんじゃなくて、話してみるようにした」

 先輩がそんなふうに考えて、今があることに正直かなり驚いた。他人のために自分を変えたりはしなさそうに見える。だけど私が知ろうとしなかっただけで、外側だけのイメージで決めつけていたのかもしれない。


「自分をちょっと変えてみたら、なんだかんだうまくやれてる」

 人を嫌いになる前に相手を知って、自分を理解して、そうすることで変化する感情もあるのかもしれない。

 まどかに近づかないでほしいと、ずっと思っていた。だけど、私にまどかを変えられないし、この人も変えられない。見守るだけしかできないただの部外者。

 完全に陽が昇り、眩しさに目を細める。

「え、もう朝じゃん!!」
「うわまじじゃん! なんで起こしてくれないの!」
 後方から先生や友人たちの声が響いた。
 日差しの明るさで起きたのか、あたりが急に騒がしくなりはじめる。

 先輩が危険だと思うことは変わりない。だけど想像とはちょっとだけ違った。
 人を嫌っていた自分を変えようと、努力ができる人で、私が頭の中で勝手に作り上げた冷たいだけの人間ではないのかもしれない。


 まどかが私を呼ぶ声がして、振り返る。

「ね、見て見てー! カニ見つけた!」
 さっきまで車の中で眠っていたはずなのに、完全に目が覚めているみたいだ。まどかが無邪気に駆け寄ってくると、小さなカニを私に見せてくる。

「こっち来て! たくさんいるよ!」

 立ち上がると、そのまま腕を掴まれて引っ張られていく。

 まどかが傷つかないでほしいとは、今も思ってる。だけど守るんじゃなくて、以前彼女がしてくれたみたいに、私も寄り添える存在でいたい。





 朝日が完全に昇るまでのわずかな時間。

 だいきらいな先輩と話をしたこの夏の日が、大人になっても忘れられない思い出になった。