午後一時、バイトから帰宅した幼馴染に「おかえり」と声をかける。
「なんでいんだよ」
リビングのソファを陣取っている私を見て、真千が眉根を寄せてきた。
そりゃそういう反応するよねと、納得しながら眺めていると「聞いてんのか」と鞄を投げつけられた。
「うわ、痛い。反抗期だ」
「不法侵入」
「不法じゃありませーん」
小さい頃はひとつ上の私を姉のように慕っていたはずなのに、すっかり生意気になってかわいくない。
見慣れた黒髪が、最近別の人のように見えて落ち着かない。ワックスなんてつけてセットしちゃって、かっこつけてる。
「てか、俺の特等席座んな」
「てか、手ぇ洗ってうがいしろ」
「うっせぇな、忘れてたんだよ。どうもありがとな」
「いや、忘れるなし。どういたしまして」
いつも通りのしょうもない会話を交わしながら、リビングを出ていく真千の背中を見送る。
高一になってから、すっかり背が伸びちゃって、私は追い越されてしまった。ちょっと悔しい。
「母さんは?」
洗面所からする大きな声に、私も声を張り上げて答える。
「お友達と買い物行くから、お留守番お願いって〜」
「なんで弥代ちゃんが、俺ん家で律儀に留守番してんだよ」
「だって、うちに彼女連れてきてんだもん。気まずいじゃん」
クッションを抱きながら、双子の弟への不満を漏らす。休日だっていうのに、居心地が悪くてお隣さんへと避難してきた。ここは私にとって第二の家だ。
「へー、あのちょっと面倒くさそうな人か」
「あ、違う違う。その人とは別れたっぽくて、今は別の人」
「うえ、まじ? やるなぁ」
前まで付き合っていた彼女は、ちょっと……いやかなり面倒な人で手を焼いていたのは知っている。
けれど、どうやら別れたらしく、夏の終わりには新しい彼女ができていた。
「バイト先の人らしいよー」
「彼女どんな感じ?」
「年上で綺麗系」
「前とタイプ違うじゃん」
洗面所に行っている真千と大きな声で会話をしながら、先ほど見た新しい彼女のことを思い浮かべる。
落ち着いている雰囲気で気配りができる人って感じだった。歳は一つ上で、今高三らしい。
見るからにぞっこん。最近機嫌いい理由が、これかってすぐわかった。
そんなことを真千に報告していると、再びリビングへと戻ってきた。
当然のように私の隣に座り、肩がぶつかる。相変わらず乱暴だ。
「未弥くんは彼女できんのに、なんで弥代ちゃんは彼氏できないんだろうな」
「その気になればできますー」
「へー」
興味なさそうな返しをされて、それなら話振るなよと内心ツッコミながらも真千の恋愛話って聞いたことないなと考える。私の知っている限りでは彼女ができたというのは聞いたことがない。
「弥代ちゃん、新刊買った?」
「買ったよ。後でうちで読む?」
「やった。読む」
一緒にいる時間が長いからか、新刊ってだけでなんの作品かもわかってしまう。
隣にいると落ち着く。きっと真千もそうなのだと思う。
「眠いの?」
「うーん、ちょっと」
「俺が帰ってくるまで寝てたんじゃないのかよ」
おもしろがるように私の頬をつねったり、潰したりしてくる。どうせやめてと訴えても続行されるので、されるがままだ。
真千にとって、私って姉というよりもペットかなにかなのだろうか。
「なんか食わせたい。リスみたい」
ほら、やっぱり。頬を潰しながら、唇に指先を当てて楽しんでいる。その指噛んでやろうか。
「あ」
唇に触れられて、あることを思い出してしまった。
「ん、なに」
「いや……なんか恥ず」
「頬潰されて照れてる意味がわからん」
「この状況に照れてるわけではない」
私がこの家に逃げ込もうとした理由のひとつが、見てしまったからだ。
「実は未弥たちが……ちゅーしてるところ見ちゃって」
「わー」
「リアルちゅーだよ、やばい」
「それは気まずいな」
私がリビングを少し離れて、戻ったときだった。
未弥と彼女さんがほんの一瞬、触れ合うだけのキスをしていて、咄嗟に隠れてしまった。
もう一度覗いてみると、見つめ合って微笑んでから再びキスをしている。
テレビや漫画の中ではない。本物を見てしまい、私はかなり動揺した。
気持ちを落ち着かせるようにこの家に避難して、記憶の隅に強引に追いやったのに再び思い出してしまった。
「弥代ちゃん変態」
「私は無実です」
「だって思い出して赤くなってるし」
そりゃ、恥ずかしくもなるでしょ。弟のそういう現場を目撃してしまったわけだし、家に帰ってからも少し気まずい。まあ、未弥は目撃されていたことなんて気付いていないだろうけど。
「弥代ちゃんも彼氏できればするじゃん」
「えー……想像つかない」
自分が誰かと付き合って、キスをするなんて別世界の話のように思えてしまう。そもそも、まだ私には恋自体がよくわからない。
「ねえ、恋ってどんな感じ」
「は? 弥代ちゃん、したことねーの?」
「んー、ないと思う」
「まじか」
少し考えるように目を伏せた真千を眺めながら、案外まつげ長いなと気づく。そういえば小さい頃は、顔が女の子のようにかわいかったため、私の服を着せて遊んでいた。
「してみる?」
「なにを?」
「未弥くんがしてたこと」
私が言葉を発するよりも先に、真千が顎に手をそえて持ち上げてくる。
その手をパシパシと叩いてみてもびくともしない。女の子のようにかわいかった頃なら、力は私の方が強かったはずなのに。
「興味あるんだろ」
「それは……ないわけではないけど、でもここはないって言っておくべきなのかもしれないっていう私もいる」
「長くて聞き取れない」
「あるけど、ない!」
「どっちだよ」
だって、興味はあるよ。キスってどんな感じかなって、気になっている。
けれど、私たちは付き合っているわけでもなくて、幼馴染同士だ。こんなお試しみたいなキスをして、気まずくなるなんて嫌だ。
「そもそもなんでこんな話に」
「無駄口多すぎ」
「好きでもないのに、こういうのはどうかと!」
「好きだよ」
突然のことに、目を大きく見開く。頭が追いつかない。
これで恋愛的な意味だと勘違いしてしまって、幼馴染としてという意味だよばーかと言われてしまったら、恥ずかしくてこの家にこれなくなる。
ここは慎重にいこうと心の中で頷いた。
「けど、姉とちゅーするのは、違うでしょ」
「誰が姉だよ。俺ら血繋がってねぇけど?」
真千のいう通り、血は繋がっていない。だけど、昔から姉弟のように育ってきた私と今更そんなことができるものなのだろうか。
「あのさ、真千」
「試してみればいいじゃん」
「あ、あのですね」
「嫌なの?」
嫌……なのだろうか。でも嫌悪感はない。
むしろ真千に触れられるのはいいけれど、ほかの男子なら今すぐに逃げ出している。
よくわからないと答えると、真千はそのままゆっくりと顔を近づけてくる。
「嫌なら、突き飛ばして」
キス、される。そうわかったのに、私は避けることも突き飛ばすこともしなかった。
そして、唇——ではなく、頬に柔らかな感触。
あれ?っと思ったときには、額が軽く重なる。至近距離で真千が上目遣いをしながら私を見つめていた。
「期待した?」
「……っ」
意地悪な問いかけをして、ふわりと甘い香りを残し、真千が私から離れていく。
すっかり騙された。けれど、頬に真千の唇が触れたのは事実で、照れくさくなってくる。
「……真千から甘い匂いがした」
「さっきまで甘い味のガム噛んでたからかもな」
変だ。落ち着かずにそわそわとしてしまう。真千から目を逸らしてしまいたい。
それに今すぐここから逃げ出したくなってくる。
「あ、あの、私、家に」
「未弥くんと彼女いるのに帰んの?」
「うっ」
心臓がバクバクと騒がしい。頬が熱くて、思考がまとまらない。これはなんだろう。
やっぱり家に帰って、自分の部屋に篭ろう。
そう決意して、立ち上がろうとした私の腕を真千が掴んだ。
「ま、ち」
私の唇に乗って出た名前は、知っている人のはずなのに、目の前にいる彼は別人のように思えてしまう。
生意気な弟のような幼馴染。
つい先ほどまでは、私の中で彼はそういう存在だった。
だけど、向けられていた感情に私が気付いていなかっただけだ。
常に変わらない関係なんてないのだと、甘ったるい笑みを見せる男————真千を見て、思い知る。
「弥代ちゃん、ようやく俺のこと意識した?」
完
「なんでいんだよ」
リビングのソファを陣取っている私を見て、真千が眉根を寄せてきた。
そりゃそういう反応するよねと、納得しながら眺めていると「聞いてんのか」と鞄を投げつけられた。
「うわ、痛い。反抗期だ」
「不法侵入」
「不法じゃありませーん」
小さい頃はひとつ上の私を姉のように慕っていたはずなのに、すっかり生意気になってかわいくない。
見慣れた黒髪が、最近別の人のように見えて落ち着かない。ワックスなんてつけてセットしちゃって、かっこつけてる。
「てか、俺の特等席座んな」
「てか、手ぇ洗ってうがいしろ」
「うっせぇな、忘れてたんだよ。どうもありがとな」
「いや、忘れるなし。どういたしまして」
いつも通りのしょうもない会話を交わしながら、リビングを出ていく真千の背中を見送る。
高一になってから、すっかり背が伸びちゃって、私は追い越されてしまった。ちょっと悔しい。
「母さんは?」
洗面所からする大きな声に、私も声を張り上げて答える。
「お友達と買い物行くから、お留守番お願いって〜」
「なんで弥代ちゃんが、俺ん家で律儀に留守番してんだよ」
「だって、うちに彼女連れてきてんだもん。気まずいじゃん」
クッションを抱きながら、双子の弟への不満を漏らす。休日だっていうのに、居心地が悪くてお隣さんへと避難してきた。ここは私にとって第二の家だ。
「へー、あのちょっと面倒くさそうな人か」
「あ、違う違う。その人とは別れたっぽくて、今は別の人」
「うえ、まじ? やるなぁ」
前まで付き合っていた彼女は、ちょっと……いやかなり面倒な人で手を焼いていたのは知っている。
けれど、どうやら別れたらしく、夏の終わりには新しい彼女ができていた。
「バイト先の人らしいよー」
「彼女どんな感じ?」
「年上で綺麗系」
「前とタイプ違うじゃん」
洗面所に行っている真千と大きな声で会話をしながら、先ほど見た新しい彼女のことを思い浮かべる。
落ち着いている雰囲気で気配りができる人って感じだった。歳は一つ上で、今高三らしい。
見るからにぞっこん。最近機嫌いい理由が、これかってすぐわかった。
そんなことを真千に報告していると、再びリビングへと戻ってきた。
当然のように私の隣に座り、肩がぶつかる。相変わらず乱暴だ。
「未弥くんは彼女できんのに、なんで弥代ちゃんは彼氏できないんだろうな」
「その気になればできますー」
「へー」
興味なさそうな返しをされて、それなら話振るなよと内心ツッコミながらも真千の恋愛話って聞いたことないなと考える。私の知っている限りでは彼女ができたというのは聞いたことがない。
「弥代ちゃん、新刊買った?」
「買ったよ。後でうちで読む?」
「やった。読む」
一緒にいる時間が長いからか、新刊ってだけでなんの作品かもわかってしまう。
隣にいると落ち着く。きっと真千もそうなのだと思う。
「眠いの?」
「うーん、ちょっと」
「俺が帰ってくるまで寝てたんじゃないのかよ」
おもしろがるように私の頬をつねったり、潰したりしてくる。どうせやめてと訴えても続行されるので、されるがままだ。
真千にとって、私って姉というよりもペットかなにかなのだろうか。
「なんか食わせたい。リスみたい」
ほら、やっぱり。頬を潰しながら、唇に指先を当てて楽しんでいる。その指噛んでやろうか。
「あ」
唇に触れられて、あることを思い出してしまった。
「ん、なに」
「いや……なんか恥ず」
「頬潰されて照れてる意味がわからん」
「この状況に照れてるわけではない」
私がこの家に逃げ込もうとした理由のひとつが、見てしまったからだ。
「実は未弥たちが……ちゅーしてるところ見ちゃって」
「わー」
「リアルちゅーだよ、やばい」
「それは気まずいな」
私がリビングを少し離れて、戻ったときだった。
未弥と彼女さんがほんの一瞬、触れ合うだけのキスをしていて、咄嗟に隠れてしまった。
もう一度覗いてみると、見つめ合って微笑んでから再びキスをしている。
テレビや漫画の中ではない。本物を見てしまい、私はかなり動揺した。
気持ちを落ち着かせるようにこの家に避難して、記憶の隅に強引に追いやったのに再び思い出してしまった。
「弥代ちゃん変態」
「私は無実です」
「だって思い出して赤くなってるし」
そりゃ、恥ずかしくもなるでしょ。弟のそういう現場を目撃してしまったわけだし、家に帰ってからも少し気まずい。まあ、未弥は目撃されていたことなんて気付いていないだろうけど。
「弥代ちゃんも彼氏できればするじゃん」
「えー……想像つかない」
自分が誰かと付き合って、キスをするなんて別世界の話のように思えてしまう。そもそも、まだ私には恋自体がよくわからない。
「ねえ、恋ってどんな感じ」
「は? 弥代ちゃん、したことねーの?」
「んー、ないと思う」
「まじか」
少し考えるように目を伏せた真千を眺めながら、案外まつげ長いなと気づく。そういえば小さい頃は、顔が女の子のようにかわいかったため、私の服を着せて遊んでいた。
「してみる?」
「なにを?」
「未弥くんがしてたこと」
私が言葉を発するよりも先に、真千が顎に手をそえて持ち上げてくる。
その手をパシパシと叩いてみてもびくともしない。女の子のようにかわいかった頃なら、力は私の方が強かったはずなのに。
「興味あるんだろ」
「それは……ないわけではないけど、でもここはないって言っておくべきなのかもしれないっていう私もいる」
「長くて聞き取れない」
「あるけど、ない!」
「どっちだよ」
だって、興味はあるよ。キスってどんな感じかなって、気になっている。
けれど、私たちは付き合っているわけでもなくて、幼馴染同士だ。こんなお試しみたいなキスをして、気まずくなるなんて嫌だ。
「そもそもなんでこんな話に」
「無駄口多すぎ」
「好きでもないのに、こういうのはどうかと!」
「好きだよ」
突然のことに、目を大きく見開く。頭が追いつかない。
これで恋愛的な意味だと勘違いしてしまって、幼馴染としてという意味だよばーかと言われてしまったら、恥ずかしくてこの家にこれなくなる。
ここは慎重にいこうと心の中で頷いた。
「けど、姉とちゅーするのは、違うでしょ」
「誰が姉だよ。俺ら血繋がってねぇけど?」
真千のいう通り、血は繋がっていない。だけど、昔から姉弟のように育ってきた私と今更そんなことができるものなのだろうか。
「あのさ、真千」
「試してみればいいじゃん」
「あ、あのですね」
「嫌なの?」
嫌……なのだろうか。でも嫌悪感はない。
むしろ真千に触れられるのはいいけれど、ほかの男子なら今すぐに逃げ出している。
よくわからないと答えると、真千はそのままゆっくりと顔を近づけてくる。
「嫌なら、突き飛ばして」
キス、される。そうわかったのに、私は避けることも突き飛ばすこともしなかった。
そして、唇——ではなく、頬に柔らかな感触。
あれ?っと思ったときには、額が軽く重なる。至近距離で真千が上目遣いをしながら私を見つめていた。
「期待した?」
「……っ」
意地悪な問いかけをして、ふわりと甘い香りを残し、真千が私から離れていく。
すっかり騙された。けれど、頬に真千の唇が触れたのは事実で、照れくさくなってくる。
「……真千から甘い匂いがした」
「さっきまで甘い味のガム噛んでたからかもな」
変だ。落ち着かずにそわそわとしてしまう。真千から目を逸らしてしまいたい。
それに今すぐここから逃げ出したくなってくる。
「あ、あの、私、家に」
「未弥くんと彼女いるのに帰んの?」
「うっ」
心臓がバクバクと騒がしい。頬が熱くて、思考がまとまらない。これはなんだろう。
やっぱり家に帰って、自分の部屋に篭ろう。
そう決意して、立ち上がろうとした私の腕を真千が掴んだ。
「ま、ち」
私の唇に乗って出た名前は、知っている人のはずなのに、目の前にいる彼は別人のように思えてしまう。
生意気な弟のような幼馴染。
つい先ほどまでは、私の中で彼はそういう存在だった。
だけど、向けられていた感情に私が気付いていなかっただけだ。
常に変わらない関係なんてないのだと、甘ったるい笑みを見せる男————真千を見て、思い知る。
「弥代ちゃん、ようやく俺のこと意識した?」
完