「未弥って名前好きだよ」

自分の名前が女っぽくてあまり好きじゃないって話をしたら、バイト先のせんぱいが笑顔でそう言ってきた。


香坂未弥。
小さい頃に〝みーちゃん〟とか女みたいとからかわれてから、周りには〝こう〟と呼んでもらっている。

理由を話すと『いいじゃん』とか『そんな気にすること?』と、彼女や友達は言ってくる。

だけど、こんな風に名前が好きと言われたのは初めてだった。


「それなら、せんぱいは未弥って呼んでください」
「じゃあ、未弥くんって呼ぶね」

勢いで呼んでくださいなんて口走ってしまったけど、せんぱいはすんなりとその呼び方を受け入れた。


「嫌だった?」
「……いえ、大丈夫です」
「未弥くん。さっそく〝これ〟よろしくね」

人懐っこくは見えないけど、この人は案外とっつきにくい人ではないのかもしれない。


「はい……って、せんぱい皿洗いしたくないだけでしょ」
「あ、バレた。だって未弥くんの方が早いし」
「キッチンじゃなくて、ホール希望ですか?」
「……やりまーす」


呼ばれ慣れていないからなのか、この人に呼ばれると少しくすぐったさを覚える。

けれど不思議とせんぱいに呼ばれるのは嫌ではなかった。



せんぱいに〝未弥くん〟と呼ばれるのは少しずつ慣れてきた。


「また一緒ですね」
「未弥くんと一緒だと、私の仕事少なくなるからラッキー」
「ちゃんと仕事してくださいよ。それ、ミントのせ忘れ」
「わ、やば。忘れてた」

せんぱいは一つ年上で、よくシフトが被る人。
それがきっかけで話すことが増えて、いつのまにかバイト終わりは一緒に帰ることが多くなっていた。

俺は基本的に、いつも人間関係は波風立てずにやってこれた。
相手がなにを求めているのか察知するのは得意で、人当たりもいい方だ。

でも、せんぱいが求めているものはよくわからなかった。
それに笑顔の裏側を見透かされる気がして、時々落ち着かない。

帰り道で不意に漏らした本音に対して〝未弥くんは案外冷めてるよね〟なんて言われてしまったこともある。


……その通りだなと思った。

俺を優しいと言う人が多いけど、本当に優しい人はきっと相手のためを思って行動をする。

だけど俺は相手が欲しているモノを与え続けて、中毒症状になっていることに気づきながらも、知らないフリをして都合の良い相手を演じている。


相手を思って言葉をかける優しさも強さもない——最低なやつだ。




「未弥くん」

思考の沼に落ちていきそうになったところで掬い上げるような声が聞こえて我に返る。


「なんですか」
「これ私が失敗したパフェ。廃棄だから食べる?」
「え、いいんですか。食べたいですけど」
「そのかわり内緒ね」

いたずらに成功した子どもみたいに笑うせんぱいがおかしくて、つられて笑う。

特別おもしろい話をしているわけでもなく、ただ何気ない会話のやりとりを交わしているだけ。

それなのにこの人と話していると、最近ずっと重かった気持ちが軽くなっていく。



だけど、すぐに視界も感情も暗転する。
バイトが終われば俺にとっての現実が戻り、虚しいだけの苦味が支配する。


せんぱいと別れたあと、嫌な予感がしてスマホを見れば大量の着信。


『ごめん、ごめんね。こうくん、違うの。誤解だから!』


ため息が漏れそうなほど、留守電には言い訳の嵐。
ただの友達。浮気なんかじゃない。そうやって俺の彼女は毎回言い訳を繰り返す。


〝好きなのは、こうくんだけだよ〟

その言葉も声も、体内に浸食して細胞を破壊していく毒みたいだった。



本当は浮気をしていることことなんてわかっている。

だけど知らないフリをし続けるのは、情があって突き放せないからだ。そして泣き崩れる彼女を突き放す酷い自分になりたくないだけだ。


家の前につけば、目を真っ赤に腫らした彼女が立っていた。
俺を見つけると、大粒の涙を流しながら勢いよく抱きついてくる。


「私、こうくんじゃないとダメ」

いつもそうだ。
縋り付いて、泣いて、離れないで行かないでと駄々をこねる。そうすれば俺が離れないことをわかってやっているんだ。

彼女は誰かに依存していないとダメで、精神的に不安定な人だ。



「こうくん……ごめんね」
「……わかったから」

彼女の一番大事な人は、自分自身であって俺ではない。

別れよう。
たった一言で終わるはずなのに、きっとまた縋りつかれる。それに揉めるのが面倒だった。


〝未弥くん〟

彼女に抱きつかれながら、せんぱいのことを思い出した。
長い黒髪をひとつにまとめて、大人びた雰囲気なのに時々妙に子どもっぽくなる。


〝これ私が失敗したパフェ。廃棄だから食べる?〟
〝内緒ね〟

先ほどまでバイト先でせんぱいと過ごしていた時間は温かくて歯痒いものに思えるのに、彼女に抱きつかれている現実は酷く冷たいもののように思える。

お互い相手のことなんて想いあっていない。ただの依存関係。


そして、どうせいつか終わりがくる。






タバコの匂いが嫌いだった。
吸わないで欲しいと何度言っても、彼女はこれがストレス発散だからと言う。

それなら俺のこのストレスはどうしたらいいんだよ。

そんな解決策の見えない苛立ちを覚えながら今日もバイトをしていると、上がる数十分前にコンビニの袋を持ったせんぱいが目を輝かせて声をかけてきた。


「未弥くん。店長からアイス貰っちゃった」
「え、まじっすか」
「一緒に食べながら帰ろうよ」

たったそれだけのことが嬉しくて、せんぱいを見ていると眩しくなる。

タバコ吸う吸わないの言い合いや、繰り返される浮気と言い訳ばかりの関係が酷く醜いものに思えてしまう。


早めに上がっていいと店長に言われて、俺とせんぱいは裏口から外に出る。

雨はすっかり止んでいたので、持ってきたビニール傘は従業員用の傘立てに置いておくことにした。雨上がりの湿気たアスファルトからは独特な匂いがする。


「未弥くん、なにかあった?」
「なんでですか」

——嫌だ。

この人を好きだけど、時々無性に嫌になる。



「ちょっと元気ないなって思って」


俺のことなんとも思っていないなら、俺の異変になんて気づかないでほしい。身勝手なのはわかってる。

でも俺には彼女がいて、せんぱいは俺のことなんて意識していなくて、ただの無謀な片思い。

その事実を考えるたびに虚しくなる。



「……ちょっと彼女と喧嘩して」
「そっかぁ」

試すように〝彼女〟という言葉を口にする。けれど、せんぱいの顔色は変わらなかった。

やっぱり俺は意識すらされていない。



「未弥くんは、メロンソーダ味とみかん味のアイスどっちがいい?」

店長からもらったアイスを両手に持って、俺に選ぶように言ってくる。


「俺はどっちでもいいですよ」
「食べたことない味ある?」
「メロンソーダ味はないです」

それならと、せんぱいが俺にメロンソーダ味のアイスを渡してきた。


「食べたことないほうにしたら、新しい発見があるかも」
「なんですか、新しい発見って」
「美味しくてハマるとか?」
「アイスでメロンソーダなんて美味しいんですかね」

ビニール袋を開けると、淡い黄緑色のアイスが出てきた。冷気とともにほんのりと甘い香りがする。この香りは結構好きだ。


せんぱいと並んで歩きながら、アイスを食べていく。
普通のメロン味のアイス……と思っていると、中からラムネが出てきた。口の中に入れると、シュワシュワとしてすぐに溶けていく。


「それ美味しいよね」
「まさかラムネが入ってるとは思いませんでした」
「私、結構好きなんだ」
「なのに俺にくれたんですか?」

たしかに美味しいけど、好きならせんぱいが食べればよかったのに。



「好きだから、食べてほしかったんだよ」


……嫌だな。
好きだけど、すげー嫌だ。

人の気も知らないで、喜ばせる言葉ばかり与えてくる。

みかんアイスを食べながら笑うせんぱいの横顔を眺めながら、今日言わないとダメだと思った。

〝別れよう〟ってちゃんと言おう。相手が納得するまで話して、終わらせたい。


この人の前では誠実な自分で在りたい。






せんぱいと別れた後、彼女に連絡を入れようとするとタイミングよく向こうから会いたいと連絡をしてきた。

泣き喚かれたり、修羅場になることは覚悟して彼女の家まで向かう。

ずっとだらだらと先延ばしにしていたツケはきっと大きいはずだ。


——そう思っていたのに、彼女の部屋に入ると予想外の言葉を告げられた。



「別れてほしいの」

目の前に座っている彼女は涙を流しながら、別れたい理由を回りくどく説明してくる。


「それでね、辛いときにその人が相談に乗ってくれてね。あ、でも違うんだよ。そのときは私、こうくんが一番でね」


台本でもあるのかと聞きたくなるくらい、新しく付き合うことになった男との馴れ初めを語られて、呆然としてしまう。


「こうくんって優しすぎるっていうか……一緒にいてもつまらなく感じることがあったの。だって、こうくん自分の意見言わないでしょ?」


意見を言わない。
自分の意見に合わせてくれる人が欲しかった彼女から出た言葉に心底驚かされた。


最初はよかったけど、思い通りになりすぎる俺はつまらなくなったってことか。


「わかった」

たった一言、これだけが限界だった。
ショックを受けたからではなく、まさか彼女の方から言われるとは思わなかったし、今までのことが酷く馬鹿馬鹿しくなってきた。


「え?」

大きな目を瞬かせて、きょとんとしている。そんな彼女を見下ろしながら、ため息を吐いた。

「俺もう帰るよ。元気でね」
「それだけ……?」

これ以外になにを言ってほしいんだ。
でもだいたいの想像はつく。彼女は俺に縋られたり、悲しそうにしてほしかったのだろうな。

だけど、そんな感情はなかった。



「こうくんって、そんな冷たい人だった!?」
「……どういうこと?」
「だって、前はもっと優しかったよ!」

一緒にいても、きっと彼女はせんぱいよりも俺のことをわかっていない。



「それ、勘違いだから」

最低だろうとなんだっていい。後ろから俺を罵る声が聞こえてくるけど、構わずに外に出た。


一度は止んだ雨が再び音を立てて降っている。置いてきてしまった傘のことを恨めしく思いながらも、俺はそのまま帰路を歩く。


もう縋ってくる相手がいないのかと思うと、沈んでいた心が少し軽くなる。


偽りの優しさも、浮気を繰り返しては縋ってくる彼女も、本当の気持ちを隠してせんぱいに接する俺も



本当は、全部捨てたかったんだ。




あれからひと月ほどたった。
梅雨が明け、夏のうだるような暑さの中、俺はバイト帰りにせんぱいを誘った。

ただ少し話しませんかと、ほんのちょっとでいいから一緒にいたい。そんな願望を込めて。


せんぱいは何かあったのかと俺を心配しながらも了承してくれた。


「振られたんですよね」

バイト先のビルの裏側にある花壇に座りながら、俺はぽつりと漏らす。

驚いたのか、隣に座っているせんぱいが勢いよく飴玉を砕く音がした。

彼女と別れた話をしていると、せんぱいは黙って耳を傾けてくれている。
でも浮気をされていたことも、それを受け入れていたこともせんぱいには話していない。

真実を話してしまえば、自分はせんぱいに比べて酷く汚いもののように思えてしまうから、それが怖かった。

せんぱいには俺が無理しているように見えるのかもしれない。心配そうに眉を下げて真剣な表情で聞いてくれているので、少し申し訳なくなる。


「せんぱいって好きな人いるんでしたっけ?」

ずっと聞けなかったことを聞いてみると


「いるよ」

即答された。
なんとなくいるんだろうなとは思っていたけれど、本人の口から聞くと衝撃は大きい。


「どんな人ですか」
「優しくて、冷たくて、よわい人」
「それだけ聞くと、女々しそうですね。そういう人がタイプなんですか」
「そうかもね」

優しい人なら、きっと今までのようにしていればいい。
案外冷たいと言われたこともあるけど、よわい人というのが俺にはきっと当てはまらない。

……せんぱいはそういう人が好きなのか。

他愛のない会話をして自分の思いを隠していく。好きな人がいる相手に告白なんて振られること前提みたいなものだ。


諦められたら楽なのに。きっとそう簡単には無くすことはできないだろうな。
せんぱいはいつだって俺にとって予測不可能で、沈んでいた感情も何度も救われてきた。

だからこそ、諦めが悪くなる。


「せんぱいって時々なに考えてるかわからなくておもしろいです」
「未弥くんこそ、なに考えているかわからないこと多いよ」
「俺ですか? けっこう単純でわかりやすいですよ」
「じゃあ、今なに考えてるの?」


……なに考えてるって、そんなのせんぱいのことばっかりだ。




せんぱいから逃げるように背を向けて、返答に悩む。
この際、失恋覚悟ではっきりと宣言しておくべきだろうか。

そしたら俺のことも少しは意識してくれるかもしれない。


「優しくて、冷たくて、よわい人になる方法、とか」

言い方を間違えた。好きですってちゃんと言えばよかった。

……なに直前で怖気づいてるんだよ。


「あー……ちょっと、今の忘れてください」
「た、たぶん、無理」
「……また今度、改めてちゃんと……言わせてください」

自分の言動に困惑しながら、右手で前髪を掻く。

はぁー……なんでこういうときは頭回らないんだ。


「あの……未弥くん」

きっと俺の気持ちはせんぱいにバレてしまった。
また今度改めてなんて逃げて、かっこ悪い。

……こういうときくらいしっかりしろ、俺。



「やっぱり忘れないでください」

せんぱいの目の前にしゃがみ、視線を合わせる。



「汐理せんぱい」
「は、はい」

名前で呼ぶのは初めてかもしれない。
口にした直後、恥ずかしくなってきた。


「俺じゃダメですか」

好きな人がいることはわかっているのに無謀だとは思う。だけど、もう後に引けなかった。

「私……好きな人がいて、」
「知ってます」

この際、はっきりと振られてしまった方がいいのかもしれない。きっと振られても諦めなんてつかないだろうけど。


「そんなに好きですかその人のこと」
「……うん」
「俺が知っている人ですか」

せんぱいは微かに震えている人差し指を俺に向けてきた。


「せんぱい?」
「あの、だから、その! 目の前!」
「目の前?」

涙目になりながら必死に人差し指を何度も振っている。
その意味を、最初は理解できなかったけれど、もしかしてと息を飲む。


「……伝わった?」

目を逸らしているせんぱいの手を掴むと、肩を震わせた。
そしておそるおそるといった様子で俺のことを見つめてくる。


「汐理せんぱい」

視線があったまま、今度は真っ直ぐに思いを口にする。



「好きです、すごく」


きっとせんぱいが思っているよりも、俺の感情はずるくて重たい。


「こんな俺でもいいんですか」
「私は未弥くんがいい」
「俺、ずるいし最低だし、面倒くさいですよ」
「そういうところも結構好きだけど」
「せんぱい、趣味悪くないですか」
「悪くてもいいよ」


こんな俺を、せんぱいが好きでいてくれるなら……


「それなら全部もらってください」

その言葉を告げると——汐理せんぱいの顔がさらに赤く染まった。


「うん。全部ちょうだい」