この夜が明ける前に、伝えなければいけないことがある。
送らなくちゃ。
——俺が。
——私が。
今日が平行線の終わり。
▶︎【送信】
『別れよう』
メッセージを送ると、すぐに既読になった。
逃げるようにベッドに潜り込み、叫び出したい気持ちを耐える。
正直かなり後悔している。やっぱり嘘だと今すぐ追加でメッセージを送りたい。それでも電話をかけることはできないし、一度送ってしまった以上、後戻りはできない。
卒業式前日にする話ではないとわかっている。だけど、好きでも、離れ難くても、終わりを迎えないといけない。
数分後、スマホの振動が聞こえて、恐る恐る枕元に手を伸ばす。
薄目を開けて真っ暗な布団の中で画面を確認すると、送り主は彼女。
『今までありがとう』
それだけだった。
あまりにも呆気なくて、別れのやりとりはたったの二通。
でもその中に、全てが詰まっているように感じた。
どうしようもなく好きで、目が合っただけで照れくさくて、落ち込んだ日には会いたくなって、ふたりで共通の話題が増えていくたびに、彼女は唯一無二の特別な存在になっていった。
次はあのお店に行こう、映画の続きを来年観に行こう。そうやって未来の話をたくさんしていたのに、約束は泡のように消えていく。
この先もずっと同じ歩幅で歩いていけるものだと、信じて疑わなかった。そうあるべきだと思い込んでいた。
でも無理に一緒にいる方法を探しすぎて、上手くいかないことばかりが増えて、気まずくなっていった。
だからこそお互いの好きが嫌いになる前に、いい思い出のまま終わらせた方がきっといい。
傍に居続ける方法を、今の俺たちには探し出すことができなかった。
毎日のように続いていたメッセージは、きっと今日で途絶える。
自分から別れようと言ったくせに、さよならを言うことができなくて、画面に涙が溢れ落ちた。
——こうして俺らは、恋人から他人へと変わった。
***
翌日の卒業式では、すぐに彼女の姿を見つけてしまった。別れても目で追ってしまう癖は、すぐには直すことができない。
ポニーテールをしていることが多かった彼女は、今日は髪をおろしていた。胸元まで伸びた艶やかな黒髪は癖がなく、普段よりも大人っぽさを感じる。
目に涙を溜めている横顔が、綺麗だと思った。
そういえば好きになったきっかけも、彼女の横顔だった。
高校の入学式の時、先生が話している姿を真剣に見つめていて、その横顔に惹かれたのだ。一見気弱そうなのに、真っ直ぐな瞳は意志が強そうで、どんなことを考えているのか知りたいと思った。
彼女に会うのが最後かもしれない日に、こうして好きになった日のことを思い出すことになるなんて皮肉だ。
だけど逸らすことができずに、目に焼き付けるように見つめる。
いつかこのときのことすら、懐かしく思える日がくるのだろうか。
***
卒業式後、昇降口へ行くと人で溢れかえっていた。最後だからと涙ながらに話し込む人や写真を撮っている人たち。
立ち止まっていた俺の隣を、ひとりの女子が横切って行く。
靴を履き替えている姿を見て、息が止まりそうになった。
会いたいような会いたくないような複雑な気持ちだったけれど、いざ彼女が声をかけられる距離にいると身体が動かない。
今日でこの学校に来ることはなくなる。約束をしなければ、彼女と会うことだってないはずだ。
そんなことを考えていると彼女と目が合ってしまった。そしてぎこちない表情で手を振られる。どうするべきかわからないまま、俺も同じように右手をあげた。
僅かな沈黙が流れて、目を逸らすことができないまま、時が止まったような感覚を覚えた。
今ひきとめたら、なにかが変わるだろうか。
ごめん。やっぱり何度考えても好きだ。一緒にいてほしい。
たぶんその言葉は、今しか伝えられない。
けれど彼女は軽く頭を下げると、俺に背を向けて歩いて行ってしまう。
「……待って!」
思わず叫ぶように声をあげた。
「栞」
名前を呼んでも、彼女は振り返らない。
いつものように笑顔を向けてくれることもない。
行かないで。やっぱり俺は——。
『私ね、ひとつだけ願いが叶うなら……』
彼女の言葉が頭に過ぎる。
最後にかける声が、こんな情けないものだなんて嫌だ。
「——っ」
伸ばしかけた手を、握りしめて引っ込めた。
好きだけど、一緒にいたいけど、俺たちはきっと同じことを繰り返す。
お互いに譲れないことがあって、将来の夢も違う。
地元に残りたい彼女と、この街を出たい俺。
お互い望みを譲る気持ちがなく、進路は結局バラバラだった。
話し合っても平行線で、喧嘩をすることが嫌になって、話し合いを諦めて、向き合うべきことから目を背ける。
そうやって根本的な問題から俺たちは逃げ続けていた。
好きだからって、一緒にいられる結末を迎えるわけではない。
好きだから離れないといけない時だってある。
「さよなら」
彼女は振り返ることはなかった。
その背中を見つめながら、涙がこぼれ落ちた。
+++
もしも、ひとつだけ願い叶うのなら、貴方の声を聞いてみたかった。
私は生まれつき耳が聞こえない。
無視をしていると誤解されたこともあるし、近寄ってきた人も聞こえないと知ると少しずつ話しかけてくれなくなっていく。
彼もそうだと思っていた。
でも、目が合えば笑顔で手を振ってくれて、他愛のない話をノートに書いてくれる。
眼差しが優しくて、なにかと気遣ってくれる彼にいつのまにか惹かれていた。
そんな彼が私を好きだと伝えてくれたのは、高校一年生の冬。
『私といると苦労するかもしれないよ』
スマホに打って伝えると、彼は『そんなこと気にする必要ない』と微笑んだ。
そして毎晩たくさんのメッセージを送ってくれて、私専用のノートまで用意してくれた。
聞こえない代わりに、言葉越しに想いをくれる。
私を見つめる瞳や微笑み、ちょっとした仕草から彼が私を大事にしてくれていたのは伝わってきた。
誰かを好きになる幸せと、好きになってもらえる幸せを、私に教えてくれたのは彼だった。
でも周りからどんな目で見られていたのかはわかっていた。
耳は聞こえなくても、唇を読むことはできる。
私の傍にいる彼を偽善者だとか、変わり者だと言う人。私たちがどれくらい続くのかと賭けている人もいた。
好奇な目に晒されて、別れた方がいいのではないかと悩んだこともある。けれど彼は嫌な顔ひとつせず、私の傍から離れなかった。
聞こえているはずなのに。視線にも気づいているはずなのに。
私に変わらない笑顔を向けてくれた。
そんな彼を、私はより愛おしく思った。
***
だけど、私たちはお互いに将来の道が違った。
私はできれば自分のような人たちの支えになりたくて、そういった進路に進むつもりだった。
将来の夢が違うのは当たり前で、遠距離になったとしてもメッセージのやりとりをしたり、休みのときに会いにいければいいと思っていた。
でも彼の考えは私とは異なっていたのだ。
『俺と一緒に来てほしい』
その言葉を聞いた瞬間、彼は私が傍にいることを望んでくれているけれど、私にもやりたいことや夢があることは理解していないのだと悟った。
だって、彼は一緒に来てと言ってくれても、私の進路は一度も聞いてくれない。
『でも私、遠い大学は耳のこともあって不安で……それに行きたい大学も決めてて……』
『大丈夫。不安があるのは当然だと思うし、俺が支えていく。困ったことがあったらすぐに教えて』
傍にいたいよ。好きだよ。でも、私庇護されたいわけではない。
守って支えられるんじゃなくて、私も支えていけるような人になりたい。
『ごめん、私にもやりたいことがあるの』
この日から、私たちは進路の話をするたびに気まずくなっていった。
遠距離が嫌な彼と、自分のやりたいことを諦められない私。
私たちの考えは平行線で、いつしか進路の話題を避けるようになっていた。
そうして各々進路を変えることなく、時は流れていく。
終わりを迎えなくちゃいけないことはわかっていたけれど、結局卒業式前日までずるずるときてしまった。
『別れよう』
彼に言わせてしまったことに申し訳なさを感じながらも、内心私は安堵した。
『今までありがとう』
ようやく私たちが前に進む時が来たのだ。
***
卒業式の日、私は思い出が残る学校をじっくりと観察した。
もうここに来ることはない。
憂鬱だった学校生活も、彼がいてくれたおかげで楽しく過ごせた。別々の道を歩むことになってしまったけれど、付き合えたことに後悔はしていない。
昇降口で彼と目が合った。
顔を合わせたら泣いてしまうかと思ったけれど、涙はでない。
たぶん、進路の問題があってから私は心の中で別れる準備をしていた。
彼と離れて、毎日の習慣も消えていく。そんな想像や準備を少しずつ重ねていって、涙が出ないのかもしれない。
でも寂しくないわけではない。今でも彼が大事な人なのにはかわりない。
だけど、私の心は一歩前に進めている気がした。
〝今までありがとう〟
もう一度心の中で言って、踵を返す。
傍にいてくれたのが貴方でよかった。
たくさんの想いをくれて、幸せをくれて、ありがとう。
昇降口を出ると、緩やかな春風が私を包み込む。
優しくて暖かくて、過ぎ去って行くのがほんの少し名残惜しい。
〝さよなら〟
私にとって、彼は春風のような人だった。
完