二階が少し騒がしいな、と皆で天井を見上げたタイミングで、暁音ちゃんと店長が謝りながら店を後にし、扉の向こうにあるらしい階段を上っていく。
「二階……弟くんかな?」
「大丈夫でしょうか」
 那沙さんの言葉に返事をする。
 その瞬間、こちらに向けて、扉から何かがすり抜けてきた。
「へ?」
 普通ではありえない現象に目を開くと、それは人間の容姿をしたものだった。困ったように頭を掻きながら声をこぼして、こちらに気付かずに独り愚痴りながら歩いてくる。

「門前払いとか、無理すぎんでしょ」

 もう会うことは絶対に無いだろうと思っていた。綺麗な金髪を持ち、白い制服を身に纏うその姿は……。
「星叶?」
 思わず名を口にしてしまって、慌てて口を手で覆う。
 彼女は他人には見えない、霊体のような存在だったはずだ。突然ここに居ないはずの人名を口にしたら、皆に変に思われる。
 そんな考えが一瞬で過ったタイミングだった。
「え? 金咲さん?」
「星叶ちゃん?」
 私達の近くに立っていた昴さん、向かい合う位置に座っていた那沙さん、それぞれが名を口にした。それは、あの人が初めて出会った時に、名乗ったものと一致している。
 私以外に見えないはずの天使見習いの彼女を、三人そろって呼んだ。
「え?」
 考えは同じだったのか、私を含む三人同時に間の抜けた声をこぼし、顔を見合わせる。
 呼ばれた当人は目を丸くして、額に手を添えて「マジか……」と嘆いていた。

 その後、二階の騒動も少し落ち着いたらしい。だが、姉妹に謝られながら、本日は解散を提案された。店に残っていた私達三人は頷いた。
 店から出る時に再度謝られたが、気にしないでと言ってから、私達三人と天使を含めた四人が店から少し離れた場所で輪になった。
「聞きたいことは沢山ある。だが最初に問う。何をしたんだ」
 昴さんが腕を組みながら、少し頭が痛そうな表情で、代表して彼女に聞いた。星叶は少しだけ視線を泳がせた。
 こんな姿、私と話していた時は滅多に見せなかった。我々と彼女との立場が逆転してしまっている。
「えっと、その、怒らせた?」
 疑問なんだ。そんな彼女に昴さんは再度溜息である。
「じゃあ星叶ちゃん、私も良い?」
「なに?」
「その子も、課題なの?」
 那沙さんの言葉を聞いて、勢いよく彼女の方へ顔を向ける。真っすぐと相手を見る横顔を眺めてから、少しだけ顔を伏せる。
 そうか、私の他にも、こんな間近に、彼女と関わっていた人が居たのだ。
 彼女の姿が見えるということは、経験上、そういうことだと察する。
 ああ、この二人と少し似た雰囲気を感じたのは、星叶と縁があるもの同士だったからか。
「……そうだね、最後の相手だよ」
「そっか」
 先ほどの二階での騒動、星叶の独り言曰く門前払い、を合わせる限り、最後の相手は暁音さん達の弟くんだろう。彼も、そうした手段を取ろうとしたところだったのか。
 皆の言葉が詰まる。何て言葉をかければいいのか分からないのだろう。実際に私もそうだ。
 そんな中、私のスマホに通知が来た。画面を確認すると、お母さんからのメッセージだったようだ。そこでようやく、現時刻を知る。
「ええと、とりあえず……明日は休日ですし、明日集合しません?」
 私の意見に、全員が異議なしと手を上げた。

 とりあえずと皆の集合場所として選ばれたのは那沙さんの家だった。
 私の家は家族が居るから最初に除外。次に一人暮らしをしている二人のどちらかになったけど、男の家に女二人が入るのは気まずいだろう、という那沙さんの配慮で彼女の家となった。
 まさかの再会を果たした星叶は、なぜか私の家にいる。ローテーブルを挟んで向き合って座っている。
 私の世話をしてくれて、堂々としていたあの時とは違い、体育座りをしている。調子が狂いそうだ。
 何か話題を出そうと思えば、最初に口を開いたのは向こうだ。
「最近は上手くいっているの?」
 用意していた温かいお茶二人分のうち一つを彼女に差し出していたら、そう問われた。
 彼女ってお茶とか飲むのかな、という疑問を抱えていた最中だったのもあり、問われた内容に瞬きしながら、少し間の抜けた声も零れた。
 誤魔化すように、自分のお茶を口に含みながら答えた。
「そうだね。おかげで生きやすくなったよ」

 あの出来事の後に、いじめっ子たちは退学させられたし。
 教師の間でも会議を行ったのか、いじめに対する先生の目が厳しくなったような気がする。それと同時に、生徒は守ってもらえるという意識も混み上がってきたのか、先生と生徒の中が縮まり、実は生徒たちの成績も上がっているという話を小耳にはさんだ。

「私も余計な事に巻き込まれないから、勉学に集中できるしね」
「それは何より」
 声が低い。まだ、今日の事を引きずっているのか。
「星叶のおかげだよ」
 出来るだけ落ち着かせるように、相手の心に添えるイメージの声色を意識して述べれば、彼女は私の方へ顔を向けた。
「私みたいに、昴さんや那沙さんも助けていたんだね。すごいや」
「……違うよ、自分の為でもあったよ」
「結果救われているんだからwin-winでしょ」
 自分のお茶は少しだけぬるめにしていたから、少しだけ冷めてきた。でも口の渇きを潤すには丁度良い。
 正直緊張しているのだ。彼女と接していた時は、いつだって彼女が言葉をくれた。私に勇気や生きる気持ちをくれた。彼女の言葉にはいつだって説得力と、不思議な安心感があった。そんな相手に、自分が伝えられる言葉は薄っぺらいものにならないだろうか。
 ばくばくと騒がしい心音が体内で響いている中、ゆっくりと星叶に目を向ければ、彼女は驚いたように目を開いている。
「本当に強くなってる」
 思わず吹き出してしまった。彼女は少し怒ったのだけれど。
「だから、今度は私達が協力するよ」
「でも、これは私の」
「課題だから?」
 しおしおと、気持ちの落ちた猫のようにしぼんでいく彼女。あるわけない耳と尻尾が、ぺしょりと垂れていく幻覚が見えた気がした。
 本当に猫みたいな人だ。急に現れて、急に姿を消して、再び見たときは弱っていて。
「別に一人でやれとは言われていないんでしょ?」
「まあ」
「じゃあ使えるものは使っときなよ」
 これは彼女が私に教えてくれたものだ。
「それに何より、そんな状態の星叶を、友達として放っておけないんだよね」
 私の言葉を聞いた彼女は、ゆっくりと伏せていた顔を上げる。
 水の中に太陽の光が優しく射しこむように、少しだけ沈んでいた彼女の瞳に、ゆっくりと明るさが見えてきた。その姿に、自然と小さく笑みがこぼれた。
「じゃあ、明日は久しぶりに星叶に服とか選んでもらおうかな」
 腕を天井に向けて、体を伸ばす。そんな私を見て、彼女はゆるりと笑みを浮かべた。
 小さな礼を述べたのが聞こえたが、彼女の性格から考えるにこれは聞かれたくない独り言の様なものだろう。私は小さく笑みを浮かべながら、聞こえないふりをした。