「じゃあ休憩にしようか」
「あー! 疲れました!」
私が休憩を促すと、暁音ちゃんが体を思いっきり伸ばしている。肩や背中を少しだけバキバキと鳴らしているから、少し休憩時間を増やそうかな。
蛍ちゃんと一緒に二人が休んでいるのを横目に、私は椅子から立ち上がってカウンターまで生き、灯彩さんの元まで行く。
「今日も来てくれてありがとう。何か飲む?」
「甘いのが良いので、カフェラテで」
私が笑顔でお願いすれば、彼女は笑顔で了承してくれた。背中を向けて、カップなどを準備する音が響く。甘いにおいが届いてくる中、意識がうつらうつらとしてくる。
彼女に告白まがいの事をしてしまっても、彼女は私を拒絶することは無かった。またここにくるように、と約束をしてまで、私を許してくれた。
待ち合わせの時間より早くお店に訪れ、緊張により心臓がバクバクとして、冷や汗も流している私を見て、彼女はいつも通り、寧ろいつもより優しい雰囲気を纏って笑顔で私を出迎えてくれた。それがどれだけ嬉しかったか、涙が出そうだったか。
星叶ちゃんが綺麗にしてくれたメイクが崩れるから、必死に泣くのを我慢しても彼女にはお見通しだったみたいで、「来てくれて嬉しい」と言葉をもらった瞬間、涙は結局こぼれた。
「疲れてる? 大丈夫?」
「……はい、色々と考えてて」
私の前にカフェラテを置いてから、彼女はちらりと私の様子を見て、体を真っ直ぐと私と向き合うように立つ。
「やっぱり、無責任だったかしら。かってに、約束だと言っちゃったのは」
「そんなことは絶対にないです」
首を激しく横に振る。彼女が気に病む要素なんて一つもないのだ。全部、全部私の問題。
「私の思いを真正面から受け止めてくれて、それでも拒絶しないでくれたのが、本当に嬉しかったんです」
カフェラテのカップを両手で包み、そのまま持ち上げる。ゆらゆらと揺れる表面の色は、どこか目の前の彼女の髪色を思い浮かばせる。甘くて、温かくて、優しい。
「今まで、周りを全く見ようとしていなかった私に、奇しくも色々な人との縁が出来て。そうしたら人それぞれの違いや思いが見えるようになってきて……」
どうせ無駄だから、と諦めて周りをずっと見てこなかった私の前に、突然現れた天使とか。その天使の行為で外に出たら、外の人たちは思ったより敵ばかりではなくて。訪れたカフェでは、私を慕ってくれる高校生たちや、気遣ってくれる男子大学生たちや、素敵な女性が居て。
顔を上げて、灯彩さんと顔を合わせる。皆や灯彩さんは、いつだって相手の気持ちに寄り添ってくれている。それって、きっと、自分自身にもそうしているから、そうしようと決めているから、他人相手でも出来るんだろう。
目の前に現れた出来事に、今の自分は悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、辛いのか。そうした思いを掬い上げて、気持ちに寄り添っている。
そうした、本当はちゃんとある気持ちに、私は向き合うことは無く逃げてきた。何もなかったかのように、笑ってごまかして「何でもない」「大丈夫だ」と忘れたふりや気付かないフリをしてきた。
「灯彩さんがこの前気付いてくれて、話を聞いてくれて、本当に助かりました」
頭を下げて礼を述べる。つらい、という気持ちにすっかり蓋をしてしまった私に、そっと寄り添ってくれたからこそ、私は自分の気持ちと向き合うことが出来た。
思えば、私は自分に対して勝手に可哀そうなことをしてきたんだな。
「だから、これからは大切なものを大切に出来るようになりたいんです」
私の笑みを見て、彼女は少し驚いたようだけれど、ゆっくりと、頬を少し染めながら優しい笑みを返してくれた。
「那沙」
ここ最近で随分と忘れかけた声。それでも、嫌な記憶として、根深く、雑草の根っこのように心に残してしまった。ゆっくりと名を呼ばれた先へ振り向けば、そこに居たのは、私を自殺の一歩手前にまで追い込んだ元彼だ。
驚いて目を開く。何かを言おうとしても何も言えずに、微かに体が震える。彼が一歩、一歩と近づいてくるのに、逃げることもできない。
このお店に居る皆は、私の名を相手が呼んだことで私の知り合いだと察したようだが、私の様子をすぐに察して、店内が張り詰めた空気となった。
「ごめんな? 長い間一人にさせて。寂しかったよな? 不安だったよな?」
言葉に違和感を持つと同時に、彼の目つきに背筋が凍る。
目は濁っており、ギラギラと光り醜く充血しているようだ。黒目はうろうろと動いており、目の焦点はどこにも結ばれず、失ったような空虚な眼差しだ。それが酷くこちらの心を不安と恐怖によって焦らせる。
「……新しい彼女さんは?」
「え? ああ別れたよ。すぐ泣くし、文句言うし。那沙の良さが余計に分かったっていうか?」
この人は、何を言っているの?
人を人として見ていない、扱っていないような言葉遣いに、意図せずとも目つきが鋭くなる。
勝手に浮気しておいて、他人に暴言を吐いて、新しい恋人になった相手にも最低で自分勝手なことを言う。
「正気とは思えない言葉だね。わざわざ社内で、私の事を気持ち悪いと言って振っておきながら。本当に吐き気がする」
「は? 何その言い方。嘘は言ってなかっただろ」
思わず椅子から立ち上がり相手と対峙する。後ろから灯彩さんが、心配そうに私の名を呼ぶ。
どうしてここまで、私や他人を悪者に出来るわけ。
ああ、分からないんだこの人は。大事じゃないんだ、人の心も、時間も、命も。
大事なのは自分のプライドだけ。相手から何て言葉をかけられても、都合のいいように受け取るか、受け流すかして。結局、自分のしたいようにする人。
私の大っ嫌いだった、親と全く同じ。吐き気がする。
いちいち真に受けたり、今更何かを相手に期待したりしても、自分を傷つけて削られるだけ。
「私はもう貴方とは復縁しないよ」
「笑うってことは、まだチャンスはあるんだよな?」
その言葉を聞き、驚きで目を開き口元を手で覆う。それと同時に自分にも落胆した。私はこんな時でも、笑みを浮かべて何とかしようとしている。
「あの、失礼ですが」
落胆している私の前に、人の壁が出来る。私の前に立っていたのは、いつの間にかカウンターの向こうから出てきたらしい灯彩さんだった。
驚きによって目と口を開いていると、そのまま口を開く。
「彼女との関係者だと思うんですけど、お店の中でこうした行為をするのは止めていただきたいのですが」
「こうした行為?」
「ええ、私のお店への迷惑行為です」
目つきを鋭くさせ、いつもよりも凛として強気な声で灯彩さんが放つ。
ハッキリとした迷惑行為という言葉を聞いた相手は、顔を真っ赤にしていき、元々つり上がって鋭い目をいっそう細めると、こちらに飛びかかってくる気配を見せる。
周りの静止の言葉も間に合わず、私が灯彩さんの前に出るのにも間に合わず、私の元彼だった相手は、癇癪を起こした子供のように灯彩さんの顔を殴りつけた。
子供が力加減などできない様に、相手の力が強かったのだろう。灯彩さんは私の方へ体を吹き飛ばされて、私ごと地面に倒れこむ。私というクッションが無かったら今頃どうなっていただろう。血の気が一気に引く。
「店長! アンタ!」
「昴くんダメ!」
事態を見守っていた昴くんも慌ててこちらの方へ近寄ってくる。彼は今にも相手に掴みかかりそうで、思わず静止の声を上げる。
「店員がお店に来た人を殴るのは良くない!」
私の荒げた声を聞いて、昴くんはすぐに冷静になったらしい。小さく息を飲んで、悔しそうに歯を食いしばって、利き手を逆の手で押さえこんでいた。
そんな私の行為を見て、相手は私が自身の味方だと勘違いしたらしい。嬉しそうに、気持ちの悪い笑みを浮かべる。
灯彩さんを抱えて、大丈夫かと問えば、彼女は想像通りの「大丈夫」という返答をする。聞き方を変えればよかった。
悔しくて、自分の馬鹿さに嫌気がさして、唇を噛みしめる。灯彩さんは目を開いて、唇を嚙んでいる私の口元に手を添え、心配そうな顔をする。
『辛いの?』先日、そう問いかけてきた彼女と同じ顔をしていて、言葉が過る。
そう、そうなの。私、ずっと辛かった。今も、どうして私がっていう思いで膨れ上がって破裂しそう。私を酷く扱った家族も、いつも目の敵にされることも、酷い言葉を言われるのも。
全部、全部嫌いだった。目に見える全てが。何もかも汚くて冷たくて、神様は私にだけ笑ってくれなくて。世界がずっと気持ち悪かった。
世界が嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ。
『アンタは王子にも姫にもなれる。堂々と生きてやんなさい!』
でも、年下のあの子と決めた。堂々と生きてやるって。
灯彩さんに一言述べて、彼女の手を握ってから立ち上がらせ、私が座っていた椅子に座らせる。彼女が私を見上げる中、笑みを浮かべてから、そっと離れる。
灯彩さんを置いて自身の元に来たことで、相手の笑みはもっと歓喜に満ちたものとなる。
「ほら、一緒に行こう」
気持ち悪い笑みを浮かべる相手を一瞥して、私は小さく息を吐く。
そして、腰を回転させた。右手の手のひらを、男の頬めがけて振り抜いている。空中で何かが炸裂したような音が響く。したたかに頬を打たれたのだと、すぐにはわからなかったのか、男がそのまま転がる。
「なめんじゃないわよ」
「な、な……! お前、こんなことして」
「ああ、私は良いのよ。このお店で働いているわけじゃないし。それに、痴話げんかみたいなものでしょう?」
あっけらかんと話せば、相手は信じられないと言いたげな表情をして、叩かれた左頬を手のひらで覆っている。
瞳を薄らと細め、かすかな冷笑に似た、奇妙な笑みが私の唇の端に浮かぶ。
「お前、こんなことをして良いと思ってんのか」
「それはこっちのセリフですね」
突然の第三者の声。声のした方へ目を向ければ、こちらにスマホを向けている蛍ちゃんが居た。
スマホを私達、特に男の方へ見せしめる様に掲げる。
「貴方と那沙さんって元々職場恋愛だったんですよね? 貴方は今もそこで勤めているって前提で大丈夫です?」
「それがどうした」
「ああ、よかった! 私の父、そこで部長という立場で働いているんですよ!」
へ? と間の抜けた声がこぼれた。
蛍ちゃんからそんな話は一度も聞いていなかった。いや、私が辞めた会社だから、彼女もわざわざ話題に出すのを止めたんだろう。
彼女はスマホをいじって、私達にスマホの画面を見せる。そこには、先程の一部始終である、灯彩さんが殴られている場面が見事に動画に撮られていた。
相手の顔色がどんどんと青くなっていき、血の気など感じないほど真っ白になっていく。
「どういうことか、分かりますよね?」
高校生だとは思えない程の冷徹な顔つきなった蛍ちゃんを見て、相手はか細い悲鳴を上げる。
そして、まるで助けを乞うようにして私の方を見る。座り込んで完全に力の抜けた相手に向かって、私は立ったまま満面の笑みを浮かべた。
「逃げるなら今のうちじゃない?」
私の言葉を皮切りに、彼は最後に謝りながら店を飛び出していった。
*
お店のバックヤードに、灯彩さんと共に入って、彼女の腫れ始めた頬に、氷水を入れた氷嚢を頬に当てる。彼女は冷たそうに眼を一瞬閉じて、肩を跳ねらす。
「……本当にごめんなさい」
「いいのよ、私の立場での責任だから」
それでも、彼女を含め皆には迷惑をかけた。あの人も、この後に逆恨みをしてこないと良いのだが。
だが、蛍ちゃんのお父さんが、元職場のお偉いさんだったとは想像もしていなかった。もし彼女が居なかったら、警察沙汰になって色々と大変だっただろうし、お店の評判にも関わっていただろう。
因みに、彼女は即座にお父さんに動画を付属したメッセージを送ったらしく、現在はお父さんと電話で相談しているようだ。今時の高校生は本当にたくましい。
「でも那沙ちゃんとてもかっこよかったわ」
「え?」
「私達を守ってくれてありがとう」
彼女の頬に添えている氷嚢を持つ私の手に、彼女の温かい手が重なる。冷たい私の手と温かい彼女の手が交わって、そこがじんわりと溶けていってしまいそう。
彼女が手を離すと同時に、私も氷嚢を持つ手を離し、ジェル状の冷却シートを丁寧に貼る。
頬の手当ては最初にしておいたけれど、口の中も切れてしまったかもしれないから、医者に行ってくださいね。と救急箱を整理しながら口にすると、彼女は小さく笑みをこぼす。それは段々と声に出てきて、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
「ど、どうしたんですか」
「ふふ、何だか那沙ちゃんの本心が見えた様な気がするの」
「本心?」
思わず首を傾げる。
「うん。那沙ちゃんって思ったより口が悪いんだなあとか、それでも正義感は強いんだなあとか」
思ったより口が悪い、という言葉を聞いて体がカッと熱くなったような気分がする。その熱は顔まで登っていき、今や顔面真っ赤な茹で蛸状態だろう。
恥ずかしくなって顔を両手で覆うと、少しおちゃめな彼女の一面も出てきたらしい。隙間から私の顔をのぞき込んで来ようとする。勘弁して。
「うう、かわいい自分だけを見てほしかったです」
「どうして?」
「だって、灯彩さんは、わ、私の大切な人だから。大事にしたいから」
口が悪くて、汚い言葉で彼女を傷つけてしまうのは勘弁したい。彼女の前では可愛い女の子で居たい。女の子は誰だってそうじゃない? 好きな人の前では、一等可愛らしい女の子で居たいと願うのは。
「ふふ、うふふ! 那沙ちゃん可愛い!」
「そんな笑わなくても……」
可愛くいたいと言った傍から可愛いとは言われたが、意味合いが違う。少しだけすねたような表情をしていたら、彼女はゆるりと笑みを浮かべた。
「どんな那沙ちゃんでも可愛いわ。少し気持ちが弱いところも可愛いし、正義感が強いところも可愛いわ」
「急に何を……」
彼女はゆっくりと私のほうに顔を傾けると、私の頰に手をあてがってきた。温かい手が、少しくすぐったいような優しさで撫でつけ、思わずその手に頬を摺り寄せてしまう。そんな私を見て彼女は再度笑う。
けれど、その笑みは今まで見たことのないようなもの、妖艶と言わんばかりなものだった。
少しとろけさせたような瞳が、私を見つめてくる。その目から見離せないでいると、彼女の綺麗な顔が近づいてくる。かと思えば、小さなリップ音が響くと同時に、唇に柔らかいものが添えられる。やさしくて穏やかで、凪いだ水面のように穏やかで、優しかった。
それが、私達の口づけだと気付いたのは、一瞬の後だった。
「ちょっと血の味がしちゃったらごめんなさいね」
「え? あ、え?」
「そろそろお店の方の様子も見てくるわね」
私が言葉を発する時間もくれず、彼女は私の頭を最後に一撫でしてから、部屋から出て行ってしまった。
扉が閉まった音を聞いたと同時に、快い熱が、体中を一気に満たした。
私にとってあまりに都合の良い、夢のような言葉を貰って、信じがたい気持ちと嘘でもいいから信じたい気持ちが混ざり合って、バターのようにどろどろと溶け合う。それはけっして不快な感覚ではなくて、くすぐったい、けれどとても楽しくてあたたかい感覚だった。
「随分と可愛らしいもので」
口元を手で覆って顔を真っ赤にしていれば、いつの間にか私の前に星叶ちゃんが少しだけ呆れながらそこに立っていた。
彼女の言葉にさらに顔に熱が集まっていく気がする。そんな私を見て、彼女は笑う。
「よかったね?」
「いや、でも、本心は違うかもだし」
「混乱しすぎでしょ。なに? アンタは初めて本気で好きになった人まで疑うの?」
可愛らしく温かい笑みを浮かべる灯彩さんが、脳裏に浮かぶ。そんな彼女が、本当に私の思いに応えてくれたのだろうか。それが信じられないほどの幸福で、現実味がないのだ。
唇に指を添える。先ほどの柔らかさと、自身の指の柔らかさの違いが分かって、やっぱりさっきの行為は現実なのだと思い知る。
「けど、本当に頑張ったねアンタ」
唇に指を添えながら星叶ちゃんの顔を見上げる。
彼女は、優しく穏やかな表情で私を見ている。
今までも優しい笑みは向けられたけれど、ここまで穏やかな物は初めて見た。
それだけで察してしまう自分が居る。彼女が、もう、私の前から居なくなるのだと。
「そんなこと。全部、星叶ちゃん達のおかげだよ」
「でも、今日の事は自分の思いでやった行動でしょ?」
「ま、まあね……」
今更ながら、後が怖くなってきちゃったな。なんて思っていると、星叶ちゃんがけらけらと笑う。
「まあまあ安心して。アフターサービスもしといてあげるから」
「あ、そうですか」
「だから、これからは少しでも自分を大切に出来るといいね」
少しだけ雑に頭を撫でる彼女の手は、相変わらず冷たい。でも、その冷たさが少しだけ心地よくて、ほんのりと口角を上げる。
「うん、頑張りたい。大切な人達の横に並べるような、かわいい人になる」
「最後まで意志が曲がらないで安心した」
彼女が私の頭から手を離すと、最後に笑みを浮かべてから半歩後ろに下がった。
「私が大人まで生きていたら、アンタみたいな、可愛い人になりたかったな」
「……なっていたよ、絶対に」
きっと私以上に。
扉の向こうから私の名を呼ぶ声がする、振り返って返事をした。そしてまた星叶ちゃんのいる方へ顔を向けると、そこにはもう彼女の姿は無かった。
少しの驚きと共に、小さく笑みがこぼれた。
「お疲れ様、かわいい天使ちゃん」
「最後に面倒くさい仕事を投げてきたな、君」
三度目の帰還。白い空間に呼び戻された矢先に言われたのは、これ。
お疲れさまも無かった。思わず目を細めてみれば私の意図も伝わったらしい、相手は頭を乱暴に掻いたかと思うと「まあお疲れ様だ」と言葉をよこした。
「仕方ないでしょ。あのままだったら、逆恨みされるかもしれない」
「それもそうなんだがな。まあ、頼まれた通りやったら面白くなったぞ」
天使がニコニコと笑みを浮かべている。少し意地の悪い笑みで、容姿とまるで釣り合っていない。
彼に頼んだことは、あの人が男に逆恨みをされるかもしれないから、彼女を守ってほしいという願いだった。
最初はこの人も渋っていたが、見習いの課題対象であった善人が被害にあうのは天使としても、私の上司としても問題が大ありだったようで、しばらくは彼女とあの男を見張ってくれていたようだ。
「課題三の元彼だが、課題一の父親によって最初は謹慎、左遷となる予定だったんだが、なんてことか奴の家に違法薬物があることが判明してな」
ははは! と笑いながら手を叩いて笑う。彼の笑いに思わず顔を顰めた。
確かにあの時の男は正常とも思えない顔つきだったが、まさか薬物にも手を染めていたとは。もしかしたら、新しい彼女という人も、それに気付いて自ら離れたのかもしれない。
結局その男は解雇、そして逮捕とまでつながったというわけだ。男の自業自得というか、なんというか。
「それなら良かった」
今回担当した女性の、最初と最後の表情の変化が脳裏に過る。
最初は、ずっとずっと笑みを浮かべている、よく分からない女だなと、正直思った。
けれど関わっていくうちに、大人なのに、いや大人だからこそかもしれない、芯はあるくせに弱い人間なんだなと分かった。
可愛いものが好きだと述べていた通り、彼女はいつだって自分も可愛くあろうとして、強くあろうと見えた。
好きな物と虚勢、その二つが共存してしまって苦しんでいる女の人なんだろうなと。
本当の愛を知らない、寂しい人。けれど、最終的には自分を大事に出来るように思える人達と出会った、愛を知った人。
「自分の記憶はないのに、他人事と思えなかったから」
「……そうか」
私の呟きに、天使は穏やかで優しい笑みを浮かべた。その笑みは初めて見るもので、驚いて目を開く。彼の顔を凝視していれば、いつもの飄々としたものに変わって、どうしたのかと問うてきたので、何でもないと返事をする。
「さて、これで最後の課題となる」
天使はそういって、彼曰く最後の課題の資料を手渡してくる。もう、最後までたどり着いたのか。
実感は沸かない。
最初は訳の分からないものに巻き込まれて、なんで私がと思ったが、ここまで関わってきた人達を見て、どんどんと胸が苦しくなっていくような気がして。記憶はないけれど、これは自分が本来持っていた感情なのかもしれない。
最後の課題の相手は、私より年下の男子。髪の毛は金髪で、サラサラに切りそろえられた短髪。服装は、私と少し似ているようなブレザーの制服。相変わらず瞳に光がない。
そんな対象者の名前を見て、小さく疑問の声をこぼす。
「あれ、水月って……」
「ああそうだ。お前の知っている水月家と思って貰って良い」
「あの姉妹の?」
私が問いかければ天使は首を縦に振る。顎に指を添えて、眉に皺を寄せる。
これは偶然、何だろうか。どうしていつも、この家庭が出てくるのだろうか。偶然という言葉では終わらせることは出来なさそう。
よく考えれば、蛍の時もどうして水月暁音の傍にやったのか。昴は偶然なのか分からないけれど、バイト先をあそこに導いたのか。那沙は恋の相手を水月灯彩にしたのか。
あの家族なら大丈夫だ、という認識がどこかにあった、ということなんだろうか。けれど、私はどうしてそう考えたんだろう。記憶は、天使によって取られていたはずなのに。
「……考えているところ悪いが、これで最後だ。頑張れよ」
「うん」
少しだけ上の空で返事をして、ふと脳裏に過った疑問を口にする。
「ねえ、もしこの課題をこなせなかったら、私はどうなる?」
私の疑問を聞いて、天使は一瞬だけ目を真ん丸に開き、そしてすぐに寂しそうな顔をする。
「そうだな。それは、もう無理だとか、もう嫌だと思った時に教える」
今更過ぎるな、という思いと共に、今はもう動いていないはずの心臓が騒がしくなっていく気がする。
これで最後。これが終わったら、私は願いを叶えてもらう。
「頑張ってくる」
気合を込めて、最後の課題の主の元へ向かおうと、光の輪をくぐった。
「海に行きたくなってきた」
「海に行ってどうする」
「……死ぬ、とか」
「死んでどうするの」
どうするんだろう。彼女はぼうとした顔のまま、聞き返してきたオレの顔を見つめていた。
その日は秋を迎えた夜だった。夏の最後の悪足掻きの様な、湿度のある夜だった。
制服はかすかに汗でしっとりとしていて、隣に居た彼女も襟を仰いで、熱さを逃がしていた。
夜に灯る街頭、町中の人々の声や、車やバイクのエンジン音。記憶にこびりついた記憶。
時計は夜の九時を越しており、近所である彼女の家へ送りに行く最中だった。
本当は彼女の家に帰したくない。
やましい気持ちがあるから、ではない。完全に否定することが出来ないのが恥ずかしいけれど。
彼女の家庭は崩壊している、と言っても過言ではないだろう。
それでも、彼女は真面目に家に帰って、翌日は真面目に学校に通う。オレは彼女が弱音を吐いたのを聞いたことがない。だから、彼女の呟きになにか意味があるのだろうと信じたかった。
彼女が本気かどうか、本人でさえ判別つかぬ発案に、オレは茶々も入れずに真正面から言葉を返す。まさかそう返答が来るとは想像も出来なかったのだろう。彼女は緩く首を傾げた。
「死んだら、それまでなんじゃない?」
「そうとも限らないじゃん」
怒りではない。呆れが滲む口調である。彼女は、言われてみればと改めてこっちを見る。少しだけ考えこんでから、答えが見つかったのか、そうして思いつきを声に出した。
「猫になりたい」
風が吹けば消えてしまいそうな彼女の声が聞こえた。笑顔も見せていた気がする。
けど、大きな音が俺達の間を引き裂いた。最初は何かの動物の叫び声かと錯覚したが、それはブレーキ音だったのだと少ししてから気付いた。ずいぶん長い間、タイヤが地面を滑り、鳴っている気がした。
ーードン! という鈍く重い音が響いたかと思えば、彼女の姿はもうそこには無かった。
一瞬だけ、しん、と静まり返ったその空間に、俺の呼吸だけが嫌に響いているような気がした。心臓が一つの生き物のように暴れまわって、喉から飛び出しそうになる。
ゆっくりと視野を動かした瞬間、膝から力が抜けて、へたり込んでしまう。周囲はどんどんとざわめく、中にはオレに向かって声をかけてくれる人も居たようだ。
呆然と地面に手を付けていると、べったりと赤い手形がついた。それを拭う思考も無くて、体もぐしゃぐしゃに赤で濡れている。生ぬるい液体がついたままの、その手を見た。
赤い、あかい、あかいあかい!
俺の手を、顔を汚すのは、視界いっぱいに広がるのは、紛れもない、血だ。彼女の、血だ。
人々に覆われてもみくちゃになる彼女の目が、濁ってしまった目が赤く染まって、そのまま血の涙を流して俺を見ている。
噎せ返るくらいに濃厚な、錆びた鉄の匂い。彼女の姿とは思えないものをみて、酷い吐き気が込み上げる。
オレの目の前で、彼女は自ら命を絶った。
人が死ぬのを見るのも、大切な人が死ぬのも初めてだった。怖かった。ひたすらに怖かった。
全てが頭から離れなかった。彼女の声も、彼女がオレに掛けてくれた言葉も、笑顔も、彼女の最後の笑顔も。彼女が死ぬ瞬間も。
オレにアンタを背負わせて、絶対に許さない。
夢から押し出されるように息を吸って、目が覚めた。
意識と肉体が上手く繋がっていないようで、体が思い通りに動かない。見上げた天井が、ぼんやりと見え始めた。だんだんと、五感が覚醒し始めたようで、記憶の中の鉄臭いにおいではなく、馴染みのある自室のにおいを吸い込んだ。
あの日から、嫌でも見続ける悪夢。おかげで毎日が寝不足。いっそ寝なければいいのかと踏ん張ったこともあったが、簡単に睡魔に負けて倒れるようにして寝た。その結果として悪夢も見た。
部屋のテーブルの上に置かれているのは、あの日から変わらないものばかり。学校のノート、それと相談窓口の案内、担任からの手紙。
対応としては妥当。受け持っているクラスの子が、ショックな場面を目にして、それも親密な子が死んでしまったことで、学校に通わない。関係のない他人に出来ることは限られているだろうし、それでも見捨てるわけにもいかないから、こうして気配っているつもりでいる。
こんなところへ電話したって、言われることは想像することも容易い。
どうせ『その人の分まで生きよう』とか『ずっと悲しんでいるとその子も報われないよ』とか『貴方は自分を大切に』とか。テンプレートなことを言われるんだろう。その返答をされたら、オレはきっと「うるさい」とキレて乱暴に通話を終わらせてしまうのだろう。それだったら、電話をしない方が互いの為だ。
他にも置いてあるのは、一本のネクタイだ。あの人が、二本持っているからと、入学前にくれてそのまま愛用していたものだ。まさか遺品になるとは思いもよらなかった。
ベッドの上から、手繰り寄せるようにしてネクタイを手に取る。暫し眺めてから、ネクタイをぐるぐると首に巻き付けた。二周は少し厳しいか、と思いながら両端を思いっきり引っ張った。
「それは無理だろ……」
突然の第三者の声に、動きが止まる。呆れるような声色で述べられ、声のした方へ首を捻れば、そこには一人の女子高生が立っていた。
その姿に、ずっと伏せ気味だった瞼が上がり目を開く。
そんなオレの行為に目前の相手には関係なく、変わらずに呆れたような顔で、淡々と言葉を述べていく。
「自分で絞められるわけなくない? 脳に酸素が行かないと確かに死ぬけど、その前に自分の腕に力が入らなくなって無理だよ」
一つの事実を述べる為だけに話している彼女を、首にネクタイをかけたままオレは見つめていた。
じっと眺めているオレを見て、彼女は眉間に皺を寄せる。
「なに? 変に冷静すぎて怖いんですけど」
「ああ、そう見えるのか」
首筋をこすりながらネクタイを外す。擦れた個所が少々ヒリヒリとする。
「オレは怒っているんだよ」
ベッドから足を降ろして、自分より背の低い相手を睨みつけるように見下ろす。
大抵の女子はこれだけで怖がり、体が強張って、目を泳がす。けれど、相手は変わらず平然としていた。
「怒りで、逆に顔がこうなるのさ」
「成程ね。私はアンタに怒らせる行為をしたわけだ。不法侵入? 事実を言ったこと?」
小さく舌打ちをこぼしてから、分かりやすく目つきを細めた。
「ああそうだ。アンタのせいだよ。全部、全部な」
自然と拳に力が籠っていたようだ。握りしめていたネクタイを、相手に見せつける。
「このネクタイに覚えはないか」
「……あるね。今の私と同じ柄のネクタイだ」
その言葉と共に、ネクタイを相手に向かって投げつけた。
彼女はそれを難なく受け止めた。驚くそぶりも見せず、表情も変わらず冷静な彼女を見て、怒りは沸々と湧き上がっていく。
「残される者の気持ちなんて考えたことも無いから、分からないから、そんなこと出来るんだろ……?」
「は? それはアンタが今から」
「黙れ!」
声を荒げ、思いっきり床を踏みしめた。大きく響いた音は、下の階に居る人達にも聞こえ煩く不快に思ったかもしれない。だが、相手にそんなことを気に掛けてやることもできない。
「アンタはオレがこの手を使った気持ちや、寝起きの度の気持ちや、それらをすべて理解できると、分かろうと思っているのか?」
バタバタ、と階段を走って上ってくる音がする。
「アンタはオレの気持ちなど絶対に分からない! この先ずっと!」
目前の相手の肩を掴んで、そのまま力を込めて思いっきり押す。彼女は驚きによってか目を開き、こちらを見ている。その、何が何だか分からない、と言いたげな目がたまらなく腹立たしい。視界がにじむ。
「さっさと消えろ!」
俺の叫び声と同時に、扉の向こうから俺の名を呼ばれた。
「晶斗! どうしたの?」
「何かあったの?!」
身内である二人の姉の声がした。声を聞いて、彼女は舌打ちをしてから、最後まで俺の方を目で追いながらすれ違い、部屋の扉をすり抜けていった。
非現実的な現象に声を上げそうになったが、寸のところで踏みとどまった。
さっき、己は彼女に触れられたのに。
思わず自身の手のひらを見てから、ぎゅ、と拳を握る。服越しだったのに、ハッキリと分かる程、相手の体は冷たかった。まるで、冷凍庫から取り出したばかりの保冷材のようで。
先ほどよりボリュームは下がった声掛けに、ゆっくりと言葉を返す。
「……ごめん、なんでもない」
「本当に?」
「ああ。無駄なお節介をされただけ」
二階が少し騒がしいな、と皆で天井を見上げたタイミングで、暁音ちゃんと店長が謝りながら店を後にし、扉の向こうにあるらしい階段を上っていく。
「二階……弟くんかな?」
「大丈夫でしょうか」
那沙さんの言葉に返事をする。
その瞬間、こちらに向けて、扉から何かがすり抜けてきた。
「へ?」
普通ではありえない現象に目を開くと、それは人間の容姿をしたものだった。困ったように頭を掻きながら声をこぼして、こちらに気付かずに独り愚痴りながら歩いてくる。
「門前払いとか、無理すぎんでしょ」
もう会うことは絶対に無いだろうと思っていた。綺麗な金髪を持ち、白い制服を身に纏うその姿は……。
「星叶?」
思わず名を口にしてしまって、慌てて口を手で覆う。
彼女は他人には見えない、霊体のような存在だったはずだ。突然ここに居ないはずの人名を口にしたら、皆に変に思われる。
そんな考えが一瞬で過ったタイミングだった。
「え? 金咲さん?」
「星叶ちゃん?」
私達の近くに立っていた昴さん、向かい合う位置に座っていた那沙さん、それぞれが名を口にした。それは、あの人が初めて出会った時に、名乗ったものと一致している。
私以外に見えないはずの天使見習いの彼女を、三人そろって呼んだ。
「え?」
考えは同じだったのか、私を含む三人同時に間の抜けた声をこぼし、顔を見合わせる。
呼ばれた当人は目を丸くして、額に手を添えて「マジか……」と嘆いていた。
その後、二階の騒動も少し落ち着いたらしい。だが、姉妹に謝られながら、本日は解散を提案された。店に残っていた私達三人は頷いた。
店から出る時に再度謝られたが、気にしないでと言ってから、私達三人と天使を含めた四人が店から少し離れた場所で輪になった。
「聞きたいことは沢山ある。だが最初に問う。何をしたんだ」
昴さんが腕を組みながら、少し頭が痛そうな表情で、代表して彼女に聞いた。星叶は少しだけ視線を泳がせた。
こんな姿、私と話していた時は滅多に見せなかった。我々と彼女との立場が逆転してしまっている。
「えっと、その、怒らせた?」
疑問なんだ。そんな彼女に昴さんは再度溜息である。
「じゃあ星叶ちゃん、私も良い?」
「なに?」
「その子も、課題なの?」
那沙さんの言葉を聞いて、勢いよく彼女の方へ顔を向ける。真っすぐと相手を見る横顔を眺めてから、少しだけ顔を伏せる。
そうか、私の他にも、こんな間近に、彼女と関わっていた人が居たのだ。
彼女の姿が見えるということは、経験上、そういうことだと察する。
ああ、この二人と少し似た雰囲気を感じたのは、星叶と縁があるもの同士だったからか。
「……そうだね、最後の相手だよ」
「そっか」
先ほどの二階での騒動、星叶の独り言曰く門前払い、を合わせる限り、最後の相手は暁音さん達の弟くんだろう。彼も、そうした手段を取ろうとしたところだったのか。
皆の言葉が詰まる。何て言葉をかければいいのか分からないのだろう。実際に私もそうだ。
そんな中、私のスマホに通知が来た。画面を確認すると、お母さんからのメッセージだったようだ。そこでようやく、現時刻を知る。
「ええと、とりあえず……明日は休日ですし、明日集合しません?」
私の意見に、全員が異議なしと手を上げた。
とりあえずと皆の集合場所として選ばれたのは那沙さんの家だった。
私の家は家族が居るから最初に除外。次に一人暮らしをしている二人のどちらかになったけど、男の家に女二人が入るのは気まずいだろう、という那沙さんの配慮で彼女の家となった。
まさかの再会を果たした星叶は、なぜか私の家にいる。ローテーブルを挟んで向き合って座っている。
私の世話をしてくれて、堂々としていたあの時とは違い、体育座りをしている。調子が狂いそうだ。
何か話題を出そうと思えば、最初に口を開いたのは向こうだ。
「最近は上手くいっているの?」
用意していた温かいお茶二人分のうち一つを彼女に差し出していたら、そう問われた。
彼女ってお茶とか飲むのかな、という疑問を抱えていた最中だったのもあり、問われた内容に瞬きしながら、少し間の抜けた声も零れた。
誤魔化すように、自分のお茶を口に含みながら答えた。
「そうだね。おかげで生きやすくなったよ」
あの出来事の後に、いじめっ子たちは退学させられたし。
教師の間でも会議を行ったのか、いじめに対する先生の目が厳しくなったような気がする。それと同時に、生徒は守ってもらえるという意識も混み上がってきたのか、先生と生徒の中が縮まり、実は生徒たちの成績も上がっているという話を小耳にはさんだ。
「私も余計な事に巻き込まれないから、勉学に集中できるしね」
「それは何より」
声が低い。まだ、今日の事を引きずっているのか。
「星叶のおかげだよ」
出来るだけ落ち着かせるように、相手の心に添えるイメージの声色を意識して述べれば、彼女は私の方へ顔を向けた。
「私みたいに、昴さんや那沙さんも助けていたんだね。すごいや」
「……違うよ、自分の為でもあったよ」
「結果救われているんだからwin-winでしょ」
自分のお茶は少しだけぬるめにしていたから、少しだけ冷めてきた。でも口の渇きを潤すには丁度良い。
正直緊張しているのだ。彼女と接していた時は、いつだって彼女が言葉をくれた。私に勇気や生きる気持ちをくれた。彼女の言葉にはいつだって説得力と、不思議な安心感があった。そんな相手に、自分が伝えられる言葉は薄っぺらいものにならないだろうか。
ばくばくと騒がしい心音が体内で響いている中、ゆっくりと星叶に目を向ければ、彼女は驚いたように目を開いている。
「本当に強くなってる」
思わず吹き出してしまった。彼女は少し怒ったのだけれど。
「だから、今度は私達が協力するよ」
「でも、これは私の」
「課題だから?」
しおしおと、気持ちの落ちた猫のようにしぼんでいく彼女。あるわけない耳と尻尾が、ぺしょりと垂れていく幻覚が見えた気がした。
本当に猫みたいな人だ。急に現れて、急に姿を消して、再び見たときは弱っていて。
「別に一人でやれとは言われていないんでしょ?」
「まあ」
「じゃあ使えるものは使っときなよ」
これは彼女が私に教えてくれたものだ。
「それに何より、そんな状態の星叶を、友達として放っておけないんだよね」
私の言葉を聞いた彼女は、ゆっくりと伏せていた顔を上げる。
水の中に太陽の光が優しく射しこむように、少しだけ沈んでいた彼女の瞳に、ゆっくりと明るさが見えてきた。その姿に、自然と小さく笑みがこぼれた。
「じゃあ、明日は久しぶりに星叶に服とか選んでもらおうかな」
腕を天井に向けて、体を伸ばす。そんな私を見て、彼女はゆるりと笑みを浮かべた。
小さな礼を述べたのが聞こえたが、彼女の性格から考えるにこれは聞かれたくない独り言の様なものだろう。私は小さく笑みを浮かべながら、聞こえないふりをした。
那沙さんのお宅に向かう途中で昴さんと合流した。彼は片手を軽く上げながら挨拶をしてくれて、そのまま私の隣にいる星叶に目を向け、苦笑い気味だけれど少しだけ顔をやわらげた。
「昨日よりはマシかな?」
「昨夜は見るに堪えない感じでしたね」
私が笑いながら言えば、照れ隠しなのか、星叶に無言で力強く背中を叩かれた。相変わらず力加減が微妙だ。
昴さんも音の響き具合から中々の威力だと察したらしく、私の背中に手を添えながら星叶に叱咤していた。まるで妹とお兄ちゃんである。
けれど、まだ加減が出来るほど彼女の心に余裕はあまり無いのだとも分かる。
教えられた住所とマップを頼りに三人で歩いていけば、とあるアパートの前に那沙さんがスマホをいじりながら立っていた。
先ほど昴さんが、もう少しで着きそうだと連絡したから出てきてくれたのかもしれない。こうしたところが、二人とも真面目でしっかりしている大人だなぁと、惚れ惚れしてしまうのだ。
彼女は私達に気が付くと、笑顔を浮かべて手を振ってくれた。
「お疲れ様。迷わなかった?」
「はい、大丈夫です」
「よかった」
にこりと笑みを浮かべた後、彼女も昴さんと同じように星叶に目を向けてから、先程の彼と同じような顔をした。
「私の時と違いすぎる」
ふふ、と小さく笑みを浮かべつつも、彼女は優しい目で星叶を見る。
「けど、そうだよね。高校生だもん、当たり前か」
この中で唯一社会人としての経験を持つ、大人と括られる彼女だからこそ、なのかもしれない。「今度は大人の私も頼ってね」と那沙さんの優しい言葉遣いと声色に、星叶はそっと視線を逸らした。
照れているのか、それともムズ痒い気分になったのか。元々は自分が手助けをした相手に同じような言葉を返されるのは、不思議な感覚なのだろう。
那沙さんの家は、一Kらしい広さの、可愛らしくも綺麗な部屋だった。清潔感のあるオールホワイトカラーで、置かれている小物も可愛らしく、生活感のあるものはしっかりと収納されていた。
「とても素敵な部屋ですね」
「え? えへへありがとう」
私と昴さんが腰かけていたら、彼女は四人分のジュースを用意してくれた。私の言葉に彼女は照れながらも礼を述べ、それぞれの前にコップを置いていく。
「でも、ちょっと前まではすっごい汚かったよ」
ね? と星叶に同意を求めると、彼女は何度も首を縦に振った。
「めっちゃヤバかったよ。一緒に掃除した」
「そうなんだよねえ」
頷きながら呟いて、彼女も腰かけた。
昨日も星叶はお茶を飲んでいなかったけれど、飲み食いはやっぱりしないのかな。そんな疑問を抱えながらオレンジジュースにささったストローを口にくわえて吸う。オレンジジュースの酸味が口内に染み込んできた。
部屋が静寂に包まれて、少し気まずいなと思っていると、昴さんが手を上げる。
「えっと、どうします? 早速本題に入ります?」
「そうしましょう」
この沈黙に少し耐えられなくて、食い気味に頷いた。
「えっと、昨日は最後の課題の相手を怒らせた、って話を聞いたところだったな」
昴さんが星叶に確かめるように問うと、彼女は胡坐をかいて、ぽつぽつと話し始める。
「まず、最後の課題である〝水月晶斗〟に会いに行った」
「何かしてた?」
「アンタらと同じだよ。死のうとしていた」
私達と同じという言葉に、ここに居る全員の心臓が大きく跳ねたことだろう。
現に私だって、息を小さく飲んで、心臓は大げさなほどに騒いだ。ここに居る人達が、死のうとそれぞれ行動をしていたのだと、改めて認識した。
「えっと、その人については詳しく知らないの?」
話題を逸らす意図も込めて、星叶に問う。
彼女がずっと課題と口にしているのだから、私がやっている学校の課題のように、何か教科書のような、資料集のようなものを持っているのかなという憶測だ。
それに、私と出会った時、彼女は私の名前をもう知っていて、私の状況すら理解していた。ということは、前もって何かで予習していた。ということにならないだろうか。
私が問いかけると、彼女は思い出したように、どこから取り出したのか分からない紙の束を私達に見せて私に手渡した。
予想が当たっていたのと、どこから取り出したのという疑問で驚きの声がこぼれたが、何とか礼を述べて受け取る。
そのままテーブルの上に置けば、那沙さんと昴さんが覗きこんで見る。
表紙には『課題四 水月晶斗』と書かれており、証明写真のようなブルーバックな背景に、正面を向いている写真が貼ってある。
「この子が」
ぽつりと呟きながら紙をめくって、詳細に目を配る。
水月晶斗。
花巻台高校一年生。家族構成を見ると、見慣れた名前も表記されている。私達の想像通り、灯彩さんと暁音さんの弟だ。
彼が心に抱えているものは、親密な人が目の前で交通事故に寄り亡くなったのを目撃したこと。
「目の前で交通事故によって人が亡くなるのを目撃した場合、他人でもカウンセリングが必要になるくらいだ。親密な相手なら余計に心を病むことがある」
昴さんが口にすると、思わず彼と同時に口を噤む。
もしかしたら、私達も、家族などに同じ思いをさせていたのかもしれない。という思いが、今更ながら大きくなったのだ。
「……人の死が原因なのは難しいと思うけど、大丈夫?」
那沙さんが問うと、星叶が立ち上がった。
「……監視してくる」
「え、ちょっと」
私達が何か言う前に、星叶は開いていた窓から出てベランダから飛び降りた。悲鳴を上げそうになったのをこらえて、慌てて窓からのぞき込めば、そこに彼女の姿は無かった。
姿を消したのか、それとも天使の羽根で移動をしたのかは分からないが、その身を落としたわけではなさそうだ。
「もう!」
思わず声を荒げて、ベランダの手すりを力強く殴った。
「……少し疑問なんだけどさ」
星叶が居なくなった後、昴さんがぽつりと呟いた。
那沙さんと共に彼の方に顔を向ければ、彼は考え込むように顎に指を添えて少々思考する。
考えが決まったのか、それとも話す決意が決まったのか、少ししてから浮かんだ疑問を口にする。
「そもそも、なんで金咲さんは、天使をやることになったんだろう」
その問いに、ぱちりと瞬く。何の違和感もなく、彼女を受け入れていたけれど、彼が疑問を口にして、謎の違和感が霞にまかれているような気分がする。
「そういえば、星叶ちゃんは交通事故で亡くなった高校生、なのよね」
「それに少し違和感があるんですよね」
「違和感?」
私が問えば、彼は小さく頷いた。
最初は何が違和感なのかと首を傾げたが、ふと学校で習った倫理の授業を思い出す。
そうか、死者の善人に括られる人は天国に、悪者は地獄に、と日本人の多くは言われて育ってきただろう。だが彼女は亡くなった後に天国に行くことは無く、天使として私達の前に現れた。
彼女は車に轢かれて亡くなったという。それは決して悪行と言われる部類ではなく、逆に無慈悲な出来事で、ルールを守っていたとすれば寧ろ被害者側である。
じゃあ生前に何か問題を起こしたのか。となれば、問答無用で地獄に落とされるかもしれない。
それなら、どうして彼女はこうして天使にされて試練を与えられた?
「そりゃあ、罪を抱えていたら、簡単には天国には行けないからさ」
昴さんとは別の男性の声がして、全員の体が固まる。油をささずにずっと放置されていたロボットのように、ぎこちなく、ゆっくりと声のした方に全員が顔を向けた。
真っ白な服一式を身に纏い、服と比例するように真っ白というよりは銀に近い髪色で、全体的に色素が薄いという印象。そして何より、背中には白くて大きく立派な翼が存在していた。
全員が突然の事に呆気にとられ言葉を失った。だが、変に大きな声も動きもせず騒がないのは、目の前の男と同じような翼をもつ女の子と、前もって接してきてしまったからだろうか。
けれど、まだ人間味のあった星叶と違い、男は完全に、この世の生物ではないと思わせる何かがあった。
「なんだ、もっと大きな反応を楽しみにしていたのに」
白い手袋をしている手を顎に添え、こちらを少し不満そうに見つめながら眉をひそめた。
そんなことを言われても、状態な私達を見て、相手も諦めたらしい。小さく息を吐いて、自分の胸元に手を当ててようやく笑みを見せた。
「遅くなったな。俺は金咲星叶の監視を対応している者だ。名前は無いから好きに呼べ」
「……もしかして、星叶が上司とか言っていた人?」
「え? そう呼んでたの? まあ間違いではないから、まあ良いか」
あの人の話に度々登場してきた上司とやらで、認識は大丈夫なようだ。そうか、彼女は彼と共に私を助けてくれたわけだ。
「えっと、色々とお世話になりました」
私が頭を下げれば、昴さんと那沙さんも続いて頭を下げる。そんな私達を見て、彼は変わらずに笑みを浮かべている。
「礼儀正しいな君達は。まあそこまで気にしないでくれ」
ははは、と人当たりのよさそうな、からっとした笑い声をこぼす。
にわかに相手が天使であるとは思いにくいのだけれど、それでも彼の背からずっと消えない純白の翼と、その人間離れしたおそろしい美貌は、やっぱりそうした相手なのだと本能が認識する。
私はこれまで、こんな摩訶不思議な美貌の青年を見たことがない。
「それより、罪ってどういうことですか?」
「そ、そうだ。それが気になっていたんです」
昴さんの問いかけに同意するように、思わず正座しながら、相手と向き合う。
「彼女は事故で亡くなったんですよね。それ以外に罪でも?」
「良いや? 彼女は、見た目こそ派手かもしれないが善良な人間だった。ただ、死ぬときに罪を背負ってしまったわけだ」
死ぬときに罪を背負ってしまった。
その言葉の意味を理解できない程、私達は彼女と共に居たわけではない。
彼女が私達の行動で、最初に、必死になって止めた行為。
「まさか」
「表向きでは事故死となっているが、事実は、金咲星叶は自ら道路に飛び込んだ自殺者だ」
全員が息を飲む。嫌な予感が的中した。それと同時に過る、友人と話した過去のこと。
暁音さんが話していた、幼馴染の亡くなったときの話。それと晶斗くんが心を痛めた理由の類似性。
暁音さん達の幼馴染の変貌、最初は些細だった。だんだんと一緒に居るのを避けられるようになり、最後に見た彼女の姿は、彼女たちが知っている強いものではなかった。そして彼女の弟である晶斗くん曰く『彼女はいじめられてるんじゃないか』という予想。それから暫くしたら、彼女は亡くなってしまった。
そしてこうとも言っていた『死因は事故死なんだけど、弟曰く飛び込んだように見えたって』と。
これは偶然だろうか。いや、そんな短期間に、似た死因が重なる確率の方が低いだろう。
「まさか」
私がぽつりと呟くと、昴さんと那沙さんが私の方へ顔を向ける。
「星叶の死が、晶斗くんの原因になるわけ?」
どうか、この推理が外れていてくれ。そんな願いを込めて拳を握りながらも口にしたが、真実とは残酷なものだ。
「その通り」
ぐ、と唇を噛みしめ、胸元に当たる部位の服を握りしめる。
小さく「星叶」と友人の名が口からこぼれた。
私の姿は、対象者以外の目に映ることは無い。まあ、偶に鋭い子供や年配の人が私の方を見てくることはあったが。何でだろう、純粋な心を持っているから? 邪神が無いから、とか?
まあ、今は他人の目は気にしている場合ではない。
私の最期の課題の相手である、水月晶斗。
彼がまた、そうした行為をしない様に見張っておかないといけない。もし亡くなったりでもしたら、それだけで私の課題は失敗だ。そうなったら、と考えるのも恐ろしい。
宙に漂うことが出来ることを良いことに、向こうからすれば死角となるが、私からはちゃんと彼の部屋を覗き見ることが可能な場所を見つけて、監視をしている。
今のところ、彼は再びそうした行動に移ってはいない。私の視線でも感じるのか、偶にこっちの方へ目を向けるが、残念だが私は姿を消すことも可能だ。本当に、幽霊と言った方が近いかもしれない。
一人目の課題であった蛍の後は、ほとんど身を隠していたと言っても良い。昴と蛍が対面したときは勿論、まさか那沙が蛍の家庭教師となったから、ずっと姿を消して見守っていた。
けれど、この胸のざわめきは何なのか。嫌な予感、というものなのだろうか。天使見習いという立場の私でも、そうした予感を察知することも可能なのだろうか。
それだったらよいのだけれど、という思いが溢れてくる。
そう、彼だけじゃない。水月家を見ると、偶に胸が苦しくなる。晶斗の姿を見る時が、一番胸がざわざわと煩い。私の知らない何かが、必死に何かを訴えてくるように。
上司は、私が生きていた時の記憶は消したと言っていた。それは理解している。生前の記憶があったら、未練がましい行動をとってしまうかもしれないから、その行為自体は十分理解できる。
「監視は順調か?」
対象を眺めていた時、後ろから翼をはためかせる音と、聞きなれた声が聞こえたので振り向いてみると、上司の姿がそこにあった。
まさかこの世、現世で上司と会うとは思っておらず、ただ目を丸くしてしまう。返事をしようと思っても、うまく言葉出てこない。あ、とか、えっと、とかコミュ障みたいな返事ばかりしてしまった。
「なんとも」
暫し経った後の返事がこれ。それでも相手は怒ることはせず、そうかと言葉を返して、私と同じ方向に目を向けた。
どうやら、本日の対象者は何かの雑誌を読んでいるようだ。表紙が風景の写真だったのと、タイトルが大きく短い単語で主張していたので、旅行雑誌かもしれない。何でそんなものを、という疑問が浮かぶ。
もしかして、ここではないどこかで死のうとしているのでは……。
眉間に皺を寄せて眺めている私を、上司はまじまじと眺めていた。
「何ですか」
「いや。人間は大変だよなって」
「他人事すぎる」
実際に他人事なんだろうけれど。彼はれっきとした天使で、私は死んだ人間に翼が生えた、まがい物みたいな天使見習い。彼は人間に対して、関心意欲はあまりないのかもしれない。本当は、人が亡くなっても、生きていても、どうでも良いのかもしれない。
ああ、上手くいっていないからって、最低な考えが過ってしまった。慌てて首を横に振って、邪な考えを振り払おうとする。
「そんなに他人事でもないさ」
「え?」
「俺もお前と同じだから」
まさかの返答に驚きの声をこぼし、上司の方へ目を向ける。すると、彼はゆっくりと、その手にしている、汚れのない真っ白な手袋を外す。手袋が外された左手は、手袋をしていなくても肌は白くて、男性の手らしく骨ばっている。
だが、白いからこそ、あるものが目立つ。それは、赤い痣――いや入れ墨だ。痛々しいものが見える。
手の甲に入れ墨は痛いだろうな、と現実逃避をしそうになった時に、彼はその模様をよく見えるように、私に手の甲を見せてくる。
赤いバツ印の模様が彫られていた。
「それは何?」
「不合格者の印」
「不合格?」
それに、私と同じってどういうことだろうと首を傾げれば、彼は小さく笑いながら、手袋でその印を隠していく。
「今までの見習いには見せたことは無かったんだけどな。お前はどこか放っておけない、似た感じがして」
今までの、ということは、彼は過去にもこうした課題を別人に出していたことになる。
「今までの人は合格したの?」
「半々だな。合格した人は、今は幸せに生きているさ」
「……幸せなら、良いんだけどさ」
不合格の人は、やっぱり地獄行きなんだろうか。嫌だな、そう言った知識は無いから憶測でしかないけれど、火に炙られたり潰されたりするのは嫌だな。
「安心しろ。不合格者は、俺と同じような仕事をしている」
「安、心?」
何に安心しろというのか分からないが、とりあえず地獄に行ったわけではないようで、こっそりと安堵する。
「相変わらず心が綺麗なようで」
「なにそれ」
「だから言っただろう? 最初に」
再度首を傾げて、彼との最初の会話を思い出そうとするが、どのことを言っているのか思い出せない。
そんな私を見て、彼は小さく苦笑いを浮かべた。
「本人は悪くないのに、その道を選んでしまう」
彼がヒントのように告げた言葉を聞いて、私の中で何かが弾けた。ダムが決壊するように記憶の洪水が頭の中を駆け巡る。
『だけど、その道を選んだ数々の人は、心が綺麗な人が多い! 本人は悪くないのに、その道を選んで命を絶ってしまう。勿体無い。本当に残念だ。なのに悪だなんだと言われるのは悲しいことだろう? ということで、自殺者にチャンスを与える。これが事の流れだ』
彼と出会って、課題の説明をされた時に言われた言葉だ。これは、課題の対象者の事を表していると思っていた。いや、それも含まれているのだろうけれど、彼等だけの話じゃない。
「まさか」
口角が引きつる。取り返しのつかない絶望に陥って、青ざめた顔になっていくのが自分でも分かる。
そんな私の様子を見て、目の前の天使は一瞬、すごく気弱な笑顔を作った。ふ、とため息をつくような、悲しい笑い方だった。
すべての音声が途絶えた。誰かが背後にまわって、私の両耳にこっそりと栓を詰めたような密封感と圧迫感。思わず両耳を押さえて、頭を抱えるような姿勢になる。
隠されていたはずの記憶が、頭の中に溢れ出した。塞いでいた蓋を押しのけ、泥水のように、記憶が流れてくる。
毎日毎日聞かされ逃げ出してしまいたい喧騒が、脳の中を爆音で駆け回り頭が割れそうになる。毎日のようにこちらを見る嘲笑の顔と声。
私の頬を一滴の雫が流れる。それを拭うこともせず、ゆっくりと顔を上げる。
目の前のように、私も無理に笑みを作ろうとしたが、強張った頬が震えてしまう。そして、頑張って自然な笑みを見せようとした。精一杯自然に。でも、精一杯やることで、既にもう自然ではない。
「なんで、こんな」
「言っただろう? 他人事と思えないと」
断片的な記憶が、どんどんと繋げられていく。鮮明になっていく映像と比例するように、胸の奥からどんどんと感情が色々な手段を使いあふれ出る。
それはもう嗚咽に近かった。
この世界から抜け出す方法を、いつだって探している。
けれど、それはいつも叶うことのない夢として終わる。私が私で居続けて、この世界にしがみついて生きていく限り。
「いい加減にしてよ!」
いつも通りの怒鳴り声で目が覚めた。
夢うつつでぼんやりとした空気に浸ることもできず、嫌でもこの世界に呼び起され、逃げ出すことを許されない。はっきりと覚醒した体に、嫌でも耳に入ってくる内容はいつもの両親の喧嘩だ。
二人はいつものように一階で互いに言葉で殴り合う。私の部屋は二階だというのに、ここまで聞こえるなんて、朝から近所迷惑すぎるだろう。結局、嫌な目、可哀そうな目で見られるのは私だというのに。
今日は月曜日。何もかもが憂鬱な一日のスタートだ。
「最悪」
そう呟いた声は誰にも聞こえることは無い。着替えるのは、いつも食事の後。家から出る寸前まで、汚さない様に。
ベッドから降りてすぐに置いてある姿見で自身の姿を見れば、生気などまるで感じないような顔色だ。いつものことか、と気にすることも無く、慣れてしまっている自分も嫌になる。
ゆっくりと階段を下りれば、リビングは殺伐とした空気が張り詰めていた。まるでガソリンが気化した空間に、ちょっとした火花でも爆発するような。
母は食器を洗っていて、父は出社の時間までテレビを見ている。ちょっとした動作、言葉で大爆発してしまう部屋。
朝ごはんなど用意されていない。母が適当に買ってきた食パンを一枚手にしてお皿の上に置く。コップに牛乳も注いで、その二つをテーブルの上に置いてから椅子に腰かける。
母は日々家事や仕事などに追われ、最近では父の浮気が発覚して、すっかり精神が弱っている。父は家庭に全く関与しようと思わず、仕事一筋という雰囲気を出しているが、その実、アルコール中毒一歩手前だし、女好きの浮気野郎。
両親の稼ぐお金は、父が消費している。最近では母も当てつけのように、浮気をしていることを知っている。
そこまでして夫婦でいる必要はあるのか。共に、もう一緒に居る気持ちなど微塵も無いだろうに。子供である私の事を気に掛けることも、興味を持つことも無いくせに。
「なに? こっち見ないでくれない?」
食パンを食べている最中、無自覚にいつの間にか母を見つめてしまったらしい。内心、しまった、と焦りの感情が沸き上がる。気を付けていたはずなのに、自分で火種を作ってしまった。
「アンタのその目、本当に嫌い。何か言いたいことでもあんの?」
ここでなんて言葉を返すのが正解なのか、未だに分かっていない。ただ、目を逸らせばそれはそれで怒られるし、どういう行動をとればいいのかもわかっていない。
母から目を逸らせないでいると、それがついに癇に障ったらしい。
母親は苛立ちを隠さない目で、私に向かってスポンジを投げつけてきた。
ベシャ、と音を立てて私の体に叩きつけられる。泡がついたままで水分が多く含んでいたため、しっとりと冷たい。そのまま地面に落ちて、私はそれを拾う。母は、まだ怒号を貴方にまくし立てる。ヒステリックな高い声が実に不愉快だ。
そんな母の声を聞いて、父が「うるせえぞ」と怒鳴り散らす。血が上って赤くなった顔の父は、力任せに机を拳で思い切り叩く。それが火種となったのか、二人がまた怒鳴り声が飛び交う空間となってしまった。
毎日の光景。だからと言って、この空間に慣れることは無いのだろうけれど。
頭と耳がズキズキと痛くなる。ばくばくと心臓の鼓動が体内に響き、体が微かに震えていく。得体のしれない感情が増していく。
椅子から立ち上がって、注いだ牛乳を、申し訳ないなと思いながら排水に捨てて、コップとお皿を置いて、パンを無理やり口の中に放り込み、空間から出ようとする。
「どこに行くの」
「……部屋に。学校、準備しないと」
「アンタは良いわね、嫌になったらこうして逃げれて」
母親の言葉を背に向けられ、少しだけ視線を両親のいる方へ向ける。
逃げられる、なんてどこから出た言葉なのか。子供である私は、まだ一人で生きていくには難しいのに。この世界から逃げ出したくても、それも叶わないというのに。
何も言い返さない私に腹が立ったのかもしれない、母は再度頭に血を上らせ、置いたばかりのコップを手に取って、こちらに向かって投げつけてきた。
「言いたいことあるなら言いなさいよ! いい加減キモイんだよ!」
その言葉と共に、体にぶつかったガラス製のコップが私に傷を作る。ぶつかったときは割れなかったけれど、地面に落ちた瞬間にガラスは割れて、破片が飛んできて素肌に傷を作り血が薄らとにじむ。
ずきずき、と至る所が痛む。どこが痛いかなんて、もう、分からなくなってしまった。
「ごめん」
小さく謝って、落ちて割れたコップの破片を手に取って集める。その際にガラスで手が切れて赤くにじんでいくけれど、気にすることも許されない。
全部拾ってからようやく両親に背を向けて、廊下で新聞に包んで、それを持って部屋に向かう。後日、今までのゴミもまとめて出そう。
部屋に着いた頃には、手は真っ赤になっていて、二階にある洗面所で血を洗い流す。真水が傷口に沁みて痛い。洗い流してから、自分の部屋で傷口の手当てをする。両手が傷だらけだから、今日一日不便かもしれないな。
改めて洗面所に向かって、学校に向かう身支度をする。歯を磨いて、顔を洗って。その際もずきずきと手が痛んでいやになる。
部屋で制服に着替えて、鏡を取り出してメイクをする。
髪の毛は、自由な校風であるのを良いことに、入学と共に髪を染めた。何度も脱色してから、毛先に色を入れた。ピアスをつけるために、何か所も穴をあけた。ネットを使って、メイクを学んだ。誰からも教わることは無く、何でも独学でやってきた。
最後に姿見の前に立って、おかしな部分は無いか、ネクタイは曲がっていないか、と確認をする。相変わらず顔は無表情で、顔色も化粧では誤魔化せてはいないけれど、誰も気にしないだろう。
時間を確かめてから、教科書の類でズシリと重みのある傷だらけのスクバを手に取って、部屋を出る。両親はまだ家に居るのか怒鳴り声が聞こえる。その騒動に隠れるように、こっそりと家を出た。
扉を閉めてしまえば、不思議なことに家の喧騒などあまり聞こえなかった。いっそ、誰かが不審に思って、警察とか呼んでくれないだろうか。
そんな無駄な他力本願でいるからダメなんだろう。重い足取りで学校へ向かう。
まあ、学校に辿り着いたと言っても、そこが安置というわけでもないのだが。
教室に向かおうと廊下を歩いている途中、足が止まる。教室の入り口でたむろって、私の居場所を奪っていく相手が居る。
常に私に敵意に似た感情をぶつけ、私の存在を否定する。彼女はお仲間である複数人の生徒に囲まれて、甲高い声を響かせながら笑っている。
小さく息を吸って、意を決して彼女たちの横を通り抜けることにした。
私の足音が聞こえたのだろうか。さっきまで騒いでいた彼女たちは一斉に静まって、私の方に視線を向ける。気味悪い視線から逃れるためにも、気にしていないそぶりで足早に去ったが、背後から嫌に耳に届くあの女たちの嘲笑が、更に気分を酷く害する。
彼女達に何もしていないにも関わらず、なぜこのように軽蔑されなければならないのだろうか。だが、私を襲う理不尽は今日も手加減をしない。
机は相変わらず落書きされているし。周りから聞こえるのは、くすくすと馬鹿にされるような笑い声。家に負けずと、耳障りの声だ。
気にするそぶりを見せずに、唇を少し嚙み締めながら、鞄の中に入っていた除光液で机の落書きを黙々と落としていく。そんな私の様子を見て、舌打ちや「つまんねえの」という小言が聞こえたが無視。
ゴミを捨てようとゴミ箱に向かえば、思わず目を開く。ゴミ箱にはクラスメイトが捨てたお菓子やジュースのごみと一緒に、私の筆箱が入っていた。
ああ、油断した。昨日の帰り道、筆箱を忘れたことに気付いて、すぐに取りに戻ればよかった。ゆっくりと取り出していたら、一層視線を感じる。振り向いてみれば、クラスの女子がこっちを見て笑っていた。
「どうかしたの? ゴミ箱なんか見つめて」
ここにも、私の居場所など存在しない。軽蔑し、見下す声。
わざわざこんな私に声をかける者は誰もいない。立ち尽くしていても、邪魔になるだけだし、これ以上ここに居たらショックを受けていると思われる。弱みを見せることになる。
自身にとってはゴミではないものを取り出し振り返ると、勢いよくすれ違いざまに誰かの肩がぶつかる。思わず体がよろけてしまう。振り返ると、相手は嘲笑をしながら、私の背中を見ていた。
筆箱を手に取って洗いに向かう。いくら自由な校風と言っても、私の容姿は周りからすると目立つ。まわりからの視線が突き刺さる。こちらを見て、こそこそと話している人物を横目で見れば、相手は大げさなほどに肩を跳ねらせて、睨まれただとか泣き言を言う。
授業が開始して、落書きをされ破かれたノートを開いて授業を受ける。学校の教師達は、誰も彼も見て見ぬふりだ。寧ろ、いじめられる人物犠牲者を出すことでクラスが団結しているのだから、先生からすれば願ったり叶ったりだろうか。
自分の皮肉にこそりと笑みを浮かべれば、教室内でスマホの電子音が響く。基本的に自由な校風だが、授業中は別だ。先生は生徒である私達の方へ体を向ける。犯人は誰かと問いはしないけれど、きっとそうした類の事を聞きたいのだろう。
私は普段からスヌーズのマナーモードなので関係ないのだが、クラスメイトはざわめき、続々と声をこぼす。
「金咲じゃね?」
「うわメーワク」
「怒られろ」
「教室から出てってくださーい」
先生の視線がこちらを向く。新人である先生が戸惑いの顔をしているのが分かる。私は小さく息を吐いてから、ポケットをいじるふりをしてから、小さく手を上げた。
「私です。電源切ったので続けてください」
「そ、そう? それじゃあ、続けるわね」
私の行動と、先生の即断にクラスメイトは少しつまらなさそうな空気となる。
こんなのは日常だ。毎日毎日、こんな空気の中で私は生きる。
世論やネットでは色々な言葉であふれている。若者は未来が沢山ある、選択肢がある、世界は広いと。それでも、私たち学生が生き抜かなければならない世界、現実は、この狭い学校内か家庭で終わってしまうのだ。
私はその狭い世界、現実では、どちらも歓迎されず弾かれている。
私がこの世界で生きる必要性が見いだせない。
学業が終わる寸前に、私は自身の机や荷物を再確認する。学校に留まる時間が終了した瞬間に、この世界から飛びだすために。
スクールバックの中に、明日の授業の予習や、今日の授業の復習で使う教科書やノートなどをしまい込む。
終業のチャイムが鳴ると同時に、私は席から立ち上がり、まずは引き出しの中を確認する。何も入っていない、大丈夫だ。続いて鞄を肩に背負って、鍵付きのロッカーを確認する。何も不備はない。本日使わない道具は、全てここに入れておく。一度鍵をし忘れ、体操着にカッターの切り傷が刻まれていた時があった。二度と、あんなへまはしないと心に決めている。
早足で学校を去る。当時の私は、犯人と立ち向かう勇気も、何より気力も、全てが無かった。だから全ては己が我慢すればいいのだと、自分に言い聞かせていたのだ。
「星叶さん」
玄関でローファーに履き替えた時、玄関で声をかけられた。私をそう呼ぶ人物は限られていた。姉弟そろって幼馴染な水月家の末っ子である、水月晶斗。今年入学したばかりな、二歳年下の男子。
彼は薄く笑みを浮かべて、私に向かって手を振っていた。周りの視線など気にせず、彼はこちらへ寄ってくる。
「今日も帰りに寄ってく?」
「そうさせてもらおうかな」
「うん、わかった」
にこり、と笑みを浮かべた彼は顔がほころんでいて、私でも彼が喜んでくれているのだと察する。彼と並んで学校を後にしようとすれば、彼は私の手に包帯が巻かれているに気が付いた。
「星叶さん、それ」
「目ざといね。コップを片付ける時に手を切ってさ」
「……今度からは、箒とかで片づけてよ」
「そうだね」
きっと、彼らには色々と気付かれている。
私は一度も家庭事情を話したことも、学校での愚痴も話したことは無い。まあ、家の門限は緩くて夕飯は各自で済ますとか、テスト面倒いなとか、そうしたことは口にしていたけれど。表立って、大げさに心配されるようなことは、口に出したことは無い。
それなのに、彼ら姉弟はいつだって聡い。長女である灯彩さんも、同い年である暁音も、年下である晶斗も。全員が私を心配してくれているのは分かっている。勘づいているのも分かっている。
それでも、私は彼らにも弱みを見せることは無い。
学校からしばらく歩けば、彼の家であり、お姉さんが経営しているカフェに辿り着く。
灯彩さんもいつも通り笑顔で迎えてくれて、続いて弟と同じことを心配して、同じように怒る。
馴染みのある席に座って、一緒に勉強していれば、予備校帰りの暁音も帰ってきて、三人で一緒に夕飯を食べる。その後も一緒に話したり、二階の彼らの住居で一緒に遊ぶこともあれば、勉強もする。その日は、確かゲームをしていた。
暫く水月家に滞在していれば、私のスマホが通知を知らせる。メッセージの送り主は母だった。
『いつ帰ってくるつもり?』という短いメッセージが表示されている。文面だけで、不満がこぼれ出ている。また、父と言い合いでもしたのだろうか。それで、私で憂さ晴らしでもしたいのだろうか。
「そろそろ帰るよ」
「じゃあ送ってく」
晶斗が立ち上がって、暁音が「またね」と笑顔で手を振ってきた。私は包帯が巻かれている手で振り返す。
この空間だけは、私が生きるのを許してくれる場所だった。それでも、最近、母親からの監視が厳しい。毎日気を抜くことは許されない。私は、どこでもいつでも、気を張って生き続ける。
「海に行きたくなってきた」
「海に行ってどうする」
唐突な私の言葉に、隣に居た彼は驚いたようだが、すぐに呆れたような言葉を返す。
「……死ぬ、とか」
「死んでどうするの」
どうするんだろう。私はぼうとした顔のまま、聞き返してきた彼の顔を見つめていた。
「死んだら、それまでなんじゃない?」
「そうとも限らないじゃん」
怒りではない。呆れが滲む口調である。言われてみれば、と改めて彼を見る。確かに、輪廻転生とか言ったりするからな。
それでも、私は死んで生まれ変わったとしても、また人間になるのは嫌だな。また、こうした苦痛を毎日味わうのは、もう今世だけで十分だ。少しだけ考えこんでから、答えが見つかり、思いつきを声に出した。
「猫になりたい」
その声は彼に届いていただろうか。分からない。それでも、答えが出た様な気がする。
そっか、そっか。私は、さっさとこの世界から去ってしまいたかったのだ。
信号がもう少しで赤から青に変わる。隣の彼はまじめだから、ちゃんと信号が変わってから、左右を念のために確認し渡るのだろう。
いつもより早く、足を一歩早く踏み出した。後ろに居た赤の他人であろう人が、声を荒げていた気がする。危ないだったか、止まれだったかは覚えていない。
ただ、案外、人間も捨てたもんじゃなかったんだなあって、最後の最後に思っただけ。
――ドッ! と大きな衝撃が私を襲い、世界が大幅に揺れた。
生まれて一度も味わったことのない大きな痛みを感じてすぐ、そこからは何が起こったのか、自分でもはっきりと分からない。ただ、体が無様に地面に転がったのが、自分でも分かったのが阿保みたいで面白かった。
脳が現実逃避でもしているのか、痛みが分からない。視界もぼやけてきて、鼓膜も破れたのか周りの音も良く聞こえない。口から何かがこぼれ出ていたのは分かって、それが一番不快だった。
ぼやける視界の中、必死に声を荒げている人物が居たのは分かる。きっと、晶斗だったのだろう。
彼には、後ろに居た関係のない人達には、酷いものを見せてしまって、本当に申し訳ないことをしたと思う。
それでも何故だろう、私の心はこんなにも軽くなっていた。
本当はね、いつだって思っていたの。
何で私の家庭は、皆の家みたいな安心できる場所なんかじゃなくて、あんなに荒れているのかなあって。何で私は学校の皆と、友達になったり楽しく毎日を過ごせなかったのかなあって。
ううん、そんなの今更なんだよね。でも、私がもう少しでも誰かを庇えるほど力があったり、優しい言葉をかけることが出来たら、逃げ出さずに家の手伝いをしていたら、お母さんだけでも味方だったかもしれない。
学校でも、話すときに笑顔を見せていたら、嫌なものを嫌だと言えていたら、先生に相談できていたら、もしかしたら友達は出来ていたはずなんだって。
自分を中心に、どんどんと流れていく赤い液体。いうことを聞かない体。噎せ返るくらいに濃厚な、錆びた鉄の匂い。
ああ、私はここで終わりなんだと、漸く終えることが出来るのだと喜ぶ自分が居た。
もう、何もわからない。どんどんと暗闇が私を引きずり込んでいく。
私はこの世界で生きるのに向いていなかった。ただそれだけだった。おしまい。
プツン。そこで、私は完全に意識を閉ざした。
「おめでとう! 君は天使候補生に選ばれました!」
はずだったのだ。
パーン! と小さな破裂音が聞こえたかと思えば、こちらに向かって降ってくる色とりどりな紙テープと紙吹雪。
呆然と見上げている私の上に紙テープと紙きれがハラハラと何枚か降りかかった。
すべてを失ったはずの私の前に、天使が立っていたのだ。
目が覚めると、小屋の隅から青白い日光が、じんわりと部屋を明るくしてくしていた。夢の世界から追い出されたようで、暫しの間ぼうとしていたが、ゆっくりとオレの目は覚める。
少し重たい瞼を何度かパチパチと瞬きする。体内が渇いているようで、枕元に置いてあったペットボトルの水を飲んで渇きを潤した。
この時間にふと起きた自分は、天使さんにだって見つかっていないような気がする。
そういえば、ふざけたあの人はどうしたのだろうか。来るなと自分で言ったのに、どこか姿を探してしまう、未練がましい自分が気持ち悪い。
ベッドから足を降ろし時間を確かめる。まだ早い時間かと思ったが、季節的の事を考えていなかった。時間は、一般からすれば目が覚めていたかもしれない時間だ。
それでも、ここ最近の自分の中では上出来。そもそも、今までの自分は滅多に寝ることもできなかった。寝ると、あの時の惨劇が鮮明に思い出されるから。
なのに、今夜はうなされることも無く、悪夢も夢も何も見ないで十分な睡眠をとることが出来ていた。
家の中で姉たちが歩く音が聞こえる。灯彩姉さんはこれから俺達の朝食を作ってから、その後は店の支度でもするのだろう。暁音姉さんは朝食を食べて、休日だがどうするのだろう……そうだ、あの人は休日も早起きだったことを思い出した。
学校も、どれだけ通っていないだろう。あの人が死んでから、学校に嫌悪感を抱え、あの人の同級生達をこっそりと呪い、学校に通うことも無く、ただぼうとして生きている。
そんな自分が、このままこの世界を生きていても良いのだろうか。生きているだけで何もしないオレは家族に迷惑をかけるし、かといって学校に通って勉学に励んだり、あの人が死んだ原因を無くすこともできないし、働いて金を家に入れるわけでもないし。
それじゃあ、今の俺はどうして生きているのか。さっさとこの世界から消えてしまった方が良いんじゃないかって。あの人の元に、オレも行った方が楽な気がして。
――海に行きたくなってきた
あの人の最期の言葉が脳裏に過る。
――……死ぬ、とか
そう、彼女は海に行きたがっていた。いつかあの人を含め皆で遊びに行きたかったから、こっそりと買った旅行雑誌。居なくなったから意味はなくなったと思ったが、気がつけば雑誌内に載っている海のページをひたすらに眺めた。
青く透き通る海の写真を眺めていると、あの人の最期と正反対な色で頭がいっぱいになり、思考をごまかしていた。
久しぶりにクローゼットを開き、選んだものはこの季節に丁度良いものたち。姉達とあの人が一緒に買い物に行った際に、付き添いに出た時、荷物持ちの礼にと姉が買ってくれたもの。そんなこともあったな、深く思い出すといけないから、慌てて袖に腕を通す。
久しぶりに自分から部屋を出たこと、服を着替えている事。それらを踏まえて、二人の姉が心底驚いたような表情をする。
「……朝飯、ある?」
少し居心地が悪くなって問いかければ、灯彩姉さんが相変わらずの笑顔でうなずいて、オレの朝食を準備してくれる。暁音姉さんは驚いているけれど、すぐに朝食の準備途中だったことを思い出している。
「おはよう晶斗」
暁音姉さんが久しぶりに朝の挨拶をしてくれた。こくり、と頷けば姉は少し乱暴にだけれど頭を撫でてきた。
「どこかに行くの?」
「……そう」
「そっか。あ、もしかして電車とか乗る? 乗れるお小遣いある?」
「あるよ」
少しだけからかいながら姉は笑う。一番上の灯彩姉さんはもはや親心でオレを見るけれど、暁音姉さんは年が近いからこうしてよくからかってくる。
そう、そういう人達だったことすら忘れるところだった。
朝食の準備が終わったらしい。灯彩姉さんに呼ばれて、全員で久しぶりにテーブルを囲って朝ごはんだ。テーブルの上には、フレンチトーストが置いてあった。昨夜から仕込みでもしていたのか、ふわふわのパンに甘みが染み込んでいる。黙々と食べているオレを見て、二人の姉は嬉しそうな笑みを必死に隠そうと、会話をしながら食事をする。そんな二人の姿を見て、久しぶりに心臓が締め付けられるような気分がする。
食事を終えて片づけている姉の元に皿を持っていけば、姉は礼を述べながら服を着替えた俺に問う。
「どこか行くの?」
「まあ」
「お小遣いあげようか」
「いらない」
一個上の姉と全く同じことを問われ、思わず眉間に皺を寄せた。
「帰る時とか時間は連絡をしてね、ご飯とか用意しないといけないから」
「……わかった」
即座に返答しなかった俺に姉は少し首を傾げたが、頭を撫でようとしたが手がびしょびしょで泡まみれだったことに気付いて、肩で俺の腕をつついてくる。
「気を付けてね」
「うん」
礼を述べてから皿を置いて、洗面所に向かう。姉と並んで歯を磨く。久しぶりの構図な気がした。いつだって朝は洗面所の争奪戦だったのだが、最近は姉が広々と使えていたことだろう。今日は狭くして申し訳ないな。
姉に先を譲ってもらったので、口をゆすいでから吐き捨て、顔を適当に水で洗う。顔をタオルで拭って顔を上げると、姉がこっちを見ていた。
「洗顔しないの?」
口に歯磨きを咥えたままだったから、口元を手で覆い、泡でモコモコの口内だったからちゃんとした発音ではなかったが、多分そう問うてきた。
ああ、そういえば。ちょっと前までは、洗顔もちゃんとしていたような気がする。
「忘れてた」
俺が素直に答えれば、姉は大して興味なさそうに「ふーん」とだけ返事をした。興味ないのなら聞かないでほしい。
口元を拭いながら、洗顔の泡を立てながら姉はこちらを見る。
「まあ気を付けてね」
また同じことを言われた。返す言葉が思い浮かばないので、また首を縦に振るだけで終わらせた。
そのまま部屋に戻って、小さな鞄の中に物を詰め込んでいく。財布と、スマホだけあれば十分だろう。そういえば、電子マネーをチャージしていただろうか。スマホを確認してみれば、ちゃんと残高は残っている。そりゃあそうか。ずっと電車にも乗っていないし、買い物もしないし、外にもずっと出ていないし。
身支度も整えて家を出る。家から出るまで、こっそりと姉達に見守られていたのは視線で察した。休日の朝だからか学生の姿は全く見えず、社会人であろう大人数名は少し駆け足気味で道を行く。マウンテンバイクを漕いでいるスーツの男性を、同じようにスーツを纏っている別の男性が恨めし気に見ている。
秋の朝日を浴びながら、少し冷えた空気を全身に浴びながら、周りの朝時間とは違う時間を生きているような気がした。ゆっくりと一歩ごとに、久しぶりな足の下のアスファルトを踏みしめながら駅に向かって歩を進める。
この世界から逃げよう。その気持ちだけで、逃げ道に向かい歩みを進めていた。
あの人が亡くなる寸前に呟いた言葉が脳裏に過る。海に行きたい、という気持ちが分かってしまう。ドラマなどでも最後に海に逃げるシーンがあるが、それを沸々とさせる。人間は元々海の生き物だったと言われているから、故郷に帰りたい、逃げたくなるのかもしれない。
駅が近くになると人の数も多くなった。電子マネーを使って改札口を通る。そのまま階段を上って、目的の番線に向かって行く。この時間にこの方角を使う人は居ないのか、誰ともすれ違わないし、誰もオレの後ろをついてこなかった。
ホームに辿り着いて、小さく息を吐く。目的の電車が来るまでは、暫くかかりそうだ。
朝のぼんやりとした輪郭の景色をぼうと眺め、数少ない人々の動きを遠目に眺めている。
きっとこの行為には何も意味がない。死んだあの人の願いをオレが叶えようとする、とか。なんて滑稽なんだ。
いや、あの人の願いを叶える、とか格好つけて言ってみたが、本心は自分勝手だ。逃げ出したい、その一心。あの日の出来事から閉鎖された心と世界は、息苦しく、生き苦しい。だから楽になりたい、それだけ。
ていうか、わざわざ海にまで行かなくても、いっその事。
「電車だけは止めときな」
誰かがオレの隣にやってきたのか、横から声がする。この声は知っている、この止められ方も、知っている。
ゆっくりと首を横に向ければ、金髪のロングヘア―を巻いて、真っ白な制服を身に纏っている彼女が居た。
また出た、来るなと言ったのに。アンタを見ると、あの日の出来事が鮮明に思い出されて苦しいから。
無言で睨みつければ、ゆっくりと彼女がこちらに目を向けた。そして、その顔にただ目を開く。夜中にオレの自死を止めようとしていた時の力強い瞳ではなく、死ぬ前と同じような目をしていた。目の輪郭が少しぼんやりとしていて、地球のように生命力のあった瞳は、まるで干からびた星のように命を感じない。いや、彼女は死んでいるのだから、命が無いのは当然なのだけれど。
でもその瞳を見るだけで、悔しくて、虚しくて、寂しくて、唇を噛みしめて涙をこらえることしか出来ない。
「電車に轢かれた死に様は見れたもんじゃないよ。それに、迷惑料って半端ないし。そのお金って家族が払うんだから。灯彩さん達に迷惑かけるの嫌でしょ」
「え、姉さんの呼び方」
「死にたいなら他のやり方考えな」
まさかの言葉に目を開いた。電車に飛び込むのは止めたけれど、死ぬこと自体を止めることはしなかった。
「……他のやり方なら、死んでも良いの」
「しょうがないよ。アンタのそれは私のせいなんでしょ」
目に力は感じないけれど、彼女の沈んだ瞳には引き込まれるような別な力があった。
「死んで楽になりたいくらい苦しいのも分かるよ。私には、アンタを止める資格は無いから」
ああ、そうだ。気付いていた。皆気付いていたんだ。この人がいつも怪我している理由とか、家に帰りたくない理由とか、ボロボロな鞄の原因とか。大人もオレ達も、皆。でも、この人が助けを求めないから。
アンタがオレを止める資格が無いというのなら、あの時のオレ達も、止める資格は持っていなかった。
「……海に行こうと、思って」
「そう」
「星叶さんが、行きたいって言っていたから」
「じゃあ、着いていこうかな」
海に行って死にたいとか言っていたけれど、どうやって死ぬのか分からない。溺死になるのかな。偉人に、恋人と海で心中しようとした人が居たが、失敗したんだっけ。じゃあ難易度は高そうだな。
電車がやってくるアナウンスが流れる。少しすれば、誰も乗っていない電車がやってきた。一つ前の駅が始発だったはずだけれど、面白いくらいに人が居ない。
最初にオレが乗り込めば、星叶さんも一般人のように歩いて乗車した。がらがらの電車の、ボックス席に腰かける。隣に星叶さんが座った。足を組んで座っていれば、偶に彼女の素足と触れ合う。だが、こうしたことは日常茶飯事だったから、互いに声を出すことは無かった。
電車もまた、小さな世界だった。誰もいない車両に人間はオレ一人、それと隣に彼女だけが座っている。何だか寂しくなって思わず視線を下げる。
そろそろ電車が出発するのだろう。アナウンスとベルが鳴ると同時に、ドタドタと駆け込んでくる大きな足音がした。
どこか現実離れした空気から、現実に腕を引かれて呼び戻された気分がした。駆け込み注意のアナウンスが響くなか、足音と誰かの息切れが近づいてきた。
「驚かせないでよね」
落としていた視線を上げる。そこには息切れをして、肩を大きく上下に動かしている女子が、オレ達の方を軽く睨みつけている。
「あんた、は」
確か暁音姉さんの友人だった気がする。偶に窓の向こうに見えた程度で、ハッキリと顔を見たことは無いけれど、この声は聞き覚えがあった。
正直に言えば、俺達は初対面のはずだ。何故だろう、という疑問よりも先に、星叶さんが腰を浮かせたが、彼女はそのまま肩を押して無理矢理座らせると、その向かい側に腰を下ろした。
彼女の姿は見えないはずだし、扉を通り抜けるくらいだから、幽霊みたいに普通の人は触れられないはずだ。なのに、この人は星叶さんに触れていたし、どこか彼女を睨みつけている様にも見える。そして当人は、過去では見たことないくらいに縮こまっていた。
電車はゆっくりと発車して、ゆらゆらと体も揺れる。
目の前の女子の隣、俺の前には大人の女性がゆっくりと座り、それとボックス席に入る場所には一人の男性が吊革に手をぶら下げながら立っていた。
「いきなりごめんなさい晶斗くん。私は阿土那沙。暁音ちゃんの臨時の先生をさせてもらっていて、灯彩さんにはお世話になっています」
にこり、と柔らかい笑みを浮かべる。二人の姉と知り合いだという彼女は、ふと視線を動かし、星叶さんの方へ目を向ける。どうしたのかと問えば、何でもないと笑みを浮かべるが、その笑みが怒っている様で少し怖く思えた。
「俺は木之上昴。君のお姉さんのお店でバイトさせてもらっている」
よろしくな、と人当たりの良い笑みを向けられる。彼も那沙と名乗った彼女と同じように、星叶さんのいる方へ目を向けた。
「えっと、皆さんは星叶さんが見えるんですか?」
「そうだね」
そう答えたのは星叶さんの前に座った、姉さんの友人。彼女は目の前の彼女から俺の方へ視線を移して、胸元に手を当てる。
「私は火燈蛍。学校は違うんだけれど、暁音さんの友達。予備校が一緒なんだ」
彼女曰く、予備校で知り合ってから仲良くなり、それからうちにもよく通うようになったんだそうだ。ここに居る全員が、姉さん達と星叶さんと関わりのある人。
俺の事も、姉さんから話を聞いたと言われ、名を知られていることなどを理解した。
「えっと、何で全員ここに」
「まあ、晶斗くんにもだけど、星叶に用があって」
蛍さんの少し鋭い目が星叶さんを刺す。
「上司さん? が来たんだよね。それで駅に行ったって教えてもらった」
怒られている彼女は、必死に目を逸らして窓の向こうを見ている。このまま逃げようとすればいいのだが、蛍さんに手首を掴まれていて逃げ出せないようだ。
昴さんはオレ達が逃げ出さないように立っているのかもしれない。けれど、周りにいる彼女達の纏う空気そのものは怖くない。それが少しだけの救いだった。
「晶斗くんも、お姉さん達を困らせちゃだめだよ」
「すみません……」
那沙さんに促されて、今度はオレが縮こまる時間だ。もしかして、姉さん達は俺との些細な会話で、様子が変だと気付いたのかもしれない。それで、どうしようかと相談した、とか。
ありえる。今朝の俺を見れば、嫌な考えが過る可能性もある。だって、ずっと部屋に籠っていた弟が急に外へ出た。けれど、表情はまだ浮かない顔をしている。最悪の手段を想像していてもおかしくない。
逃げようとしたとは口が裂けても言えない。何て言い訳しようと目を泳がせていれば、目の前の彼女の方が困ったように眉をひそめた。彼女に嘘は通用しない。だが嘘をつかねばならぬときもある。それ以上は聞いてくれるなど何重にも予防線を張ればきっと何も言わないだろう。
「えっと、なんで皆さんは星叶さんが見えるんです?」
「君と同じだからさ」
話題を逸らした俺の問いに、今度は昴さんが答えた、顔を上げて彼の顔を見れば、彼は少しだけ苦笑いを浮かべる。
オレと同じ? 周りにいる彼女達にも目を配ると、少し寂しそうな笑みを浮かべたり、少し目線を泳がせたりする。
自分との共通点があまり浮かばない。年齢と性別も見目も違うし、性格も少し違いそうだ。姉との知り合いというのは共通点だけど、それで星叶さんが見えるのはあまり関係ないような気がする。
彼女は、確か天使見習いとかあまり意味の分からないことを言っていた。それで、オレを助けに来たとか言っていて。
そこで一つの事を思い出し、顔を彼の方に向ければ、昴さんは口元に人差し指を添えていた。
ゆっくりと那沙さんを見れば窓の向こうを眺めて、何も言わなかった。蛍さんは変わらずに星叶さんの手を握っていて、ぼうっとどこかを眺めていた。
そんな彼女たちの事を口にしない昴さんにも、オレに対して根掘り葉掘り聞き出したりしない優しさに、少しだけ申し訳ない気持ちが沸いた。