【那緒side】
この街は、昔から平和だった。みんなが家族みたいなものだから、手を取り合って助け合って、協力して日々を彩りあるものにしていた。
────だから想像もできないだろ、通り魔なんて。
高校生にもなれば、帰る時間なんて遅くて結構。平和な街だから、「ある程度」を守っておけばうるさく言われることはなかった。だから、まさか二人で家に帰る途中、そんなやつに出くわすことになるなんて、誰が予想できたことだろう。それも、小さい頃から慣れ親しんだ山の中で。
「那緒────!」
向かいから歩いてくる男のようすがどこかおかしい、と。
まず初めに異変に気づいたのは静流だった。俺が気づいた時には、もう身体は静流によって突き飛ばされていた。ゴロゴロと急な勾配を、物のように転げ落ちる。木や枝に身体がやられて、たまらなく痛い。何度も何度も衝撃が走るなか、打ち付けるような雨に身体を刺されて、幾度も意識が飛ぶ。意識が戻ればまた痛みの繰り返し。もう、地獄のようなものだった。
「っ、はぁ……」
木に引っかかってやっと止まった頃には、身体中が鞭で打たれたかのような感覚だった。生きているのか、死んでいるのかすら分からない。朦朧とする意識の中で、途切れ途切れの呼吸の中で、突き飛ばされた時の記憶だけが、鮮明にフラッシュバックしていた。
「静流……しず、る……!」
ああ、なんて痛いんだろう。心も、身体も。
重い身体を引きずって、上へ上へと這い上がる。もがくように、ただひたすらに。
なんとか元の場所へと戻った時には、恐ろしくなるほどの静寂があたりを包み込んでいた。視線だけを動かして、姿を探る。
「静流……?」
道の端に横たわる静流の姿が、やけに鮮明に映った。ドクン、と嫌な音が一度だけ響き、それは透明な汗となって額に伝う。
近づけば近づくほど、生への希望が薄れていく。倒れている幼馴染みの脇腹が、真っ赤に染まっているのが見えたからだ。
「おい、しっかりしろよ。なあ、静流……っ」
目の前の男からたらりと流れ出ていく赤い液体が何なのか、見当はついているのにまったく信じられない。
ズキズキと痛む頭も、擦れた手足も、どうでもいい。心臓が、横たわる男の生命の響きを感じようと、必死に鼓動を続けている。
閉じた瞳がうっすらと開く。俺は死ぬほど安堵した。
「お前……死なないよな? 大丈夫だよな? さすがにこんなとこでいなくなったり、しないよな?」
そう言ったら、「なに馬鹿なこと言ってんだよ」なんて、お前はいつも通り笑うんだろ。はやくその顔を見せてくれよ。冗談でもいいから、笑ってくれ。
「ちょっと……やばいかも、しんない」
それなのに、静流は笑うことはなかった。だんだんと顔が青ざめていき、静かにまぶたが降りていく。
その光景は、どうにも輪郭がはっきりとしなくて、誰か別の人生を代わりに見ているような感覚だった。
「あー……多分俺、死ぬ」
「なに、言ってんだよ。ふざけんな」
「それがふざけてないんだよね、結構真面目な話」
ふと、道の少し先で伸びている男が目に入る。灰色のパーカーに同じような色のズボン。そしてところどころに目につく、赤色。いや、黒。
けれどそれは、きっとその男のものではない。
「アイツ……!」
「気絶してるだけ。殺しては、いない」
「……っ!!」
頰を緩ませる静流を見て、血液が信じられない速さで全身を駆け巡る感覚がした。ふと、道端に転がった包丁が目につく。刺された時、ナイフを抜いてはいけないと。そう知ったのは、この出来事からずいぶん後のことだった。殺人なんて響き、この町で聞くことはなかったから。きっと、静流も同じだったのだろう。
静流の傍から離れて、ふらりふらりと包丁に近づく。
「……おい、那緒、何してる」
「どうしてお前だけなんだ。なんでこいつのこと殺さないんだよ、お前は」
「なに、言って……」
「お前、傷つけられたんだぞ。正当防衛だってなんだって言えるんじゃないのか。どうしてお前だけが死にそうにならないといけないんだ」
真っ赤なものがついた包丁を、両手で持つ。これは、静流の。
「そんなの、おかしいだろ……?」
静流の、赤が。すべての夏の記憶を、血塗っていく。
そこからは、ただ無だった。ひどく冷静なまま、意識を失っている男めがけて包丁を振りかぶる。これで俺が殺人犯になってしまっても、それでもいいと思った。それよりも、自分を守ってくれた幼馴染みがただひとり、孤独に死んでいくことの方が耐えられなかった。
「やめろ……!」
振り上げた手が、誰かによって阻止される。それは紛れもなく、静流の手だった。いったいどこから立ち上がる力が湧いてくるのか、まったくもって理解不能だった。一度に色々なことが起こりすぎて、まるで刑事ドラマか何かを観ているようだった。
「なんで止めるんだよ! こいつを殺さないと、お前だけが……!」
「いいんだよそれで! 那緒、お前が殺人犯になっちまったら、お前の両親も、相楽のおばさんも、街の人たちも、何より叶美が悲しむ!!」
「だけど!」
途端に、腹を押さえて身をかがめる静流。
目の前の幼馴染みとの記憶が走馬灯のように蘇ってきて、透明な雫に込められたまま、ぽろぽろと溢れ出した。
もう嫌だ、そんなの。お前がいない世界で生きる意味を教えてくれよ。これまでもこれからも、ずっと一緒なんじゃないのか。こんなにはやく別れが来るなんて、そんなの聞いてねえよ。
「────だったらせめて、お前と一緒に死なせてくれよ」
恐怖はなかった。スローモーションのような意識の中で、ぼんやりと一輪の花を想う。
俺たちが消えたら、叶美はどんな顔をするんだろう。申し訳ないことしてしまったけど、あいつはすごくいい奴だから、どうか幸せになってほしい。俺たちの分まで、たくさん笑って、喜んで、幸せいっぱいのまま、生きていってほしい。
「……那緒っ!!」
体当たりされた衝撃とともに、胸へと向けた包丁が、ヒュン、と頰を掠める。カラン、と無機質な音を立てたそれを、素早く静流が拾って森の中へ投げた。見届けたのち、強烈な痛みを頬に感じる。痛みというより、熱さというほうが正しいのかもしれない。これまでに経験したことのないような痛み方だった。
「やだ!! 那緒ちゃん静ちゃん、何があったの!?」
大きく響き渡る声は、俺たちが昔からよく知っている人のもの。その顔が見えた瞬間、安堵とやるせなさが大きく膨らんで、感情が爆発した。止めようと思っても、涙が永遠に止まってくれない。
「おばさん、救急車を。あと……警察も」
自分の声が、どこか遠くから聞こえているような気がする。真っ青な顔をした相楽は、慌てたようにその場を離れていった。
その姿を見届けてから、静流がふらっと体勢を崩す。慌てて支えた身体は重くて、なによりもあたたかかった。
ゆっくりと寝かせてやると、安堵したようにゆるりと頰を緩ませた静流の唇がわずかに動く。
「俺は……お前を庇ったんじゃないからな。あくまで、叶美が悲しまないようにしただけだ。だから助けられたとか、庇われたとか、そんな俺の武勇伝を話すんじゃねえぞ」
青白い顔のままゆっくりと口角を上げたのち、苦しそうに顔を歪ませる。
「そんなのできるわけないだろ。全部話すよ」
「やめろ。俺は俺の意思で動いた。だからお前が何かを思うことも、負い目を感じることも、何もない。事実はお前だけが知ってれば、それでいい」
命の灯火が、少しずつ小さくなっていく。
「俺は、ただ……好きな女と、大事な親友が、いちばん……っ、幸せになる道を、とっただけ、だ……」
「静流! おい、諦めんな!」
「……傷つけて、ごめんな……」
ゆっくりと頬に手が伸びてくる。赤い線をスッ、と静流の視線がなぞった。
「幸せに、なれ……」
その手は頬に届くことはなく、パタリと力なく落ちる。
……赤い夏夜に、俺は生まれて初めて、慟哭した。
*
那緒は苦々しい記憶に顔を歪ませる。思わず那緒の口から「ああ……」と声が洩れた。平静を装っている静流を思うと、胸の奥が締め付けられて、息ができないほど苦しくなる。
「すげー死にたくなかったんだけどさ。でも、お前が死ぬくらいなら、安いもんだなって思ったんだよ」
「……わけ、わかんねえよ」
「俺も。なんでこんな気持ちになんのか、全然分かんねえけど。とりあえず、助けられてよかったって、それだけは思うよ」
ふはっと笑う静流の視線の先で、花火が上がる。皮肉なことに、眩しいほどの赤だった。
「考えてもこの気持ちなんて分かんねえじゃん。ただ、小さいときから一緒にいるお前が、俺の中では一番大事なの。だから叶美も、命も、これからの人生も、ぜんぶお前にやるよ」
「そういう言葉が、いちばん罪づくりなんだぞ」
「……知ってて言ってる」
ああ、本当に、どこまでもずるい奴だ。
普通、好きな女の前に現れて、最後の夏をすごして、夏に溶けるみたいに消えていくものだろ。それで俺はヒロインにとって二番手ポジションで、お前のことが忘れられないヒロインを、二番手ながらにも幸せにするんだよ。
それなのに、お前は俺の前に現れるんだから。悔しいと同時に、どこか安堵していた。
本気を出したお前には勝てないと、わかっていたから。
きっと、もっとはやくに叶美のところに向かわせるべきだったし、二人の恋の結末を見届けるべきだったのかもしれない。だけど、できなかった。
この夏去りゆくお前に叶美をとられたくなかった……なんて。
そんなのは建前だ。
本当は、お前と過ごす夏が楽しくて、誰にも邪魔されたくなかったのだ。俺たちだけの秘密にして、大切な記憶にしてしまいたかった。なぜこんな感情になるのか、そんなのは分からないけれど、とにかく二人だけの何かがほしかった。
(そんなこと言ったら……こいつはどんな顔をするんだろう)
唇を噛んで笑うのだろうか。それとも「気持ち悪い」と言うのだろうか。
たぶん、どっちもだ。こいつは「気持ち悪い」と言いながら、また忘れられない表情で、ずるい顔で、笑うんだろう。
「だから言っただろ。俺は多分、お前のことが好きなんだよ。命投げ打ってやれるくらいには」
「いい奴、すぎるだろ」
「それはどうだろ。お前はこのさきずーっと、俺のこと忘れられないしな。叶美のこと幸せにしなかったら、すぐ化けて出てぶん殴ってやる」
カハッ、とまた声をあげて笑う静流は、すっくと立ち上がり、振り向いた。その儚さに那緒は思わず息を呑む。
「ありがとな。最期の夏、お前と過ごせてよかった」
幾度となく聞いた「さいご」という響きが、やけにリアルに耳朶をうつ。この夏が終わったら、教室から静流の席は消えるのだろう。生前とは違う幼馴染みの冷たさと軽さが、那緒はひどく怖かった。身体が触れ合うたび、その熱を知るたび、彼の死を再認識させられる。
こうしていると、まるで錯覚を起こしそうだ。お前がまだ────生きていると。
毎日毎日、幸せな夢を見ているみたいだった。醒めたとき、それ以上の絶望に襲われてしまう幸せな夢を、俺はずっと見続けていたのだ。
「俺も、お前と……静流と、過ごせてよかったよ。本当にありがとう」
最後のほうは嗚咽で言葉にならなかった。初めて見せる泣き顔がこいつだなんて、悔しいとも……それでいてなんだか納得だなとも思う。
あと数分で、日付が、変わる。こいつとの夏が、沈んでいく。そして水面で泡が弾けるように、那緒たちの夏の記憶も弾けて消えていく。
「叶美のこと……頼んだ」
「おう……まかせろ。死んでも、守る」
そんな約束が交わされた夏夜。
星空の下、二人だけの清夏が、静かに終わる。いつかの日、共に見た夕陽が、水平線の彼方へと沈んでいくように。
清夏に沈む 了