────赤い夏が、そいつの残像を消し去っていった。
 鮮明な記憶が濁流のごとく流れ込んでくる。その記憶はどこまでも赤く染め上げられており、『夏』と聞いて想像するような海や空の青さとは、到底かけ離れていた。

 思わず、ぽろ、と言葉が落ちる。

「どうして……ここに」

 サァ────と漣が揺れる。
 空と海に囲まれたクリアな視界の中で、目の前に立っている青年にしかピントが合わなくなった。

「お前に会いたくなったから、かな」

 ふっ、と微笑む青年は、昔から変わらない表情でたたずんでいた。

「そんなの、ありかよ」
「あり……なんじゃね?」

 悪戯っぽく笑って、砂浜に降り立つものだから。
 どうしてこんな酷い仕打ちをするんだって、何度も神を憎んだ。


「この夏はずっと、俺と一緒に過ごしてほしい」


 ────これは、夏が消し去る青年と、夏を生きる青年の、最後の夏の物語。







叶美(かなみ)、帰るぞ」
「……うん」

 那緒(なお)にとって十七回目の夏。
 明らかに浮かない顔をする幼馴染みの机に、那緒はトンッと手をついた。強引に視線を絡ませると、スッと逸らされる。明日から夏休みだというのに、叶美の気分が落ちているようすを見ると、那緒まで気持ちが沈む。ズキリと心臓が痛んだ。

「ごめん那緒くん、私やっぱり教室に残るね。まだここにいたい」

 うつむきがちにそう告げる叶美。那緒はどうにか頭の中で言葉を探しながら、それらを違和感のないように繋げていった。

「まだ……ひとりじゃ危ないだろ。あんなことがあったばかりなんだから」
「……思い出させないで。それに、那緒くんもでしょ。私なんかに構わず、はやく帰ったほうがいいよ」

 ふるふると首を横に振りながら告げられる言葉の端々から、なんとなく拒絶の雰囲気を感じ取る。きっぱりと言えないから、曖昧に誤魔化す、叶美の昔からの口調だった。
 これ以上、何を言っても無駄なんだろうな。那緒はそう悟り、静かに目を伏せた。

「あ……そ。じゃあ、またな」

 乾いた声で挨拶をし、もう一度叶美を見遣る。
 虚ろな瞳で窓の外を眺める叶美は、那緒が唇を噛んだことにすら気がついていない。那緒は苛立ちをなんとか噛み殺すように鞄を持ち、一度も振り返ることなく教室を出た。

 叶美が教室を出たがらない理由は、今自分が考えていることで間違いないだろう。きっと、教室から()の机がなくなるのが嫌なのだ。名残惜しいんだろう。


「……くそ」


 行き場のない感情が、喉を伝って口から吐き出される。那緒は何か黒いものが腹の中で渦巻いているのを感じながら、ひとり、帰路についた。




 那緒が住んでいる町は都会とも田舎とも言えない塩梅で、騒がしすぎず静かすぎない感じがわりと気に入っている。
 とはいえビルが建ち並ぶわけではなく、どちらかというと山や海などに囲まれているような田舎よりな部分があるので、小さい頃はよく自然を駆けて遊んだものだ。
 幼馴染みの叶美と、静流(しずる)。家が近所だったのと、同級生だったということもあり、昔からずっと一緒に育ってきた。
 小さな町ならば、ほとんど家族のようなもの。小さいながらも地域で開かれる祭りは、毎年盛り上がっていたし、人混みにどこか抵抗がある那緒にとっては、盛大になりすぎないこの町は住み心地がよかった。

 下校途中、漕いでいた自転車をふと止め、キラキラと太陽の光を反射する海に視線を投げる。

「久しぶりに行くか」

 しばらく水面を見つめていた那緒は、何かを決意したように方向を変えて海へと向かう。
 このどうしようもない思いも、海に行けば少しは吐き出せるかもしれない。終わりがないほど広がっているのだから、自分のちっぽけな気持ちだって、すぐに飲み込んで消化してくれるだろう。

 きっかけはただそれだけだった。まさかそれが、夏に去る彼との歯車を回すことになるなんて、那緒は微塵も知らなかったのだ。