この後宮は期限付き平凡妃が乗っ取りました!

 瑠璃帝の後宮では日々大勢の妃たちが寵を競っているが、未だ勝者が現れないのは理由がある。
 今の事実上の後宮の主は、その名を寧々(ねいねい)公主という。瑠璃帝の妹君で、御年十歳、やんちゃな盛りのお姫様だった。
 寧々公主は本日も華奢な手足を投げ出して、侍女たちに憤慨する。
「つまんなーい!」
 寧々公主は人形のように愛くるしい面立ちをしかめ面に変えて当たり散らす。
「あれもだめ、これもだめ! わたくしは公主のはずでしょう。一番はお兄様に譲るとしても、その次にこの世の遊興のすべてを楽しんでいいはずだわ」
 寧々公主は皇帝陛下に絶対の重きを置き、幼いながら理論立てて話すために、侍女たちはうかつにいさめることもできないのだった。
「近頃の妃たちはわたくしを宴にも招かないし」
 その結果、大いなるわがまま公主が後宮に君臨して、後宮の妃たちを委縮させている現状があった。
「どこかにわたくしをうならせる、骨のある妃はいないのかしら」
 寧々公主は聡い公主だった。妃たちが自分を恐れているのを理解していながら、根性がないと苛立っていた。
 困り果てた侍女たちの一人が、ふいに寧々公主に耳打ちする。
「公主様、近頃後宮入りした中に、少し変わった妃が……」
「ふうん?」
 寧々公主はくるくると巻いた黒髪を手でもてあそびながら、侍女から聞いた名前を口にする。
「平凡妃? お兄様が宝珠宮に部屋を取らせたって? なに、どうしてあなたたちはそういう話をもっと早くわたくしに伝えないの」
「し、しかし。公主様」
 侍女たちは互いに顔を見合わせながら言葉を濁す。
「公主様のお側に近づけるには、いささか不気味な妃でございまして……」
 寧々公主は話のわからない公主ではなく、侍女たちから平凡妃の使う妖術に耳を傾けた。
 なぜか宴の最中に妃たちが眠ってしまう、天井の絵を動かす、臣下たちを道に迷わす……それらを聞き終わった公主は、ふんと鼻で笑ってみせた。
「どんな怪異かと思えば、子どもだましのいたずらではないの。でもまあ、いいわ。あなたたちが怖がっているなら、わたくしが少し叱って来てあげる」
 寧々公主は時々見せる面倒見の良さで、さっと椅子を立つと準備を整え始めた。
 寧々公主の来訪はいつも突然である。平凡妃の元に公主の来訪の使いが来たのも、廊下を挟んだほんの向かいの部屋に寧々公主がやって来ているときだった。
 侍女のシーファは寧々公主を畏れながら平凡妃にうかがいを立てる。
「唐突なご来訪でございますが……凡妃様、お支度をされないわけにも参りません」
 平凡妃は眠たげにまばたきをすると、いたずらを思いついたようにほほえんだ。
「お庭でお待ちしますとお伝えして。今日は風が強いから、たぶんよく飛ぶわ……」
 平凡妃が付け加えた言葉に、シーファはきょとんとしてうなずいた。
 まもなく寧々公主は庭に出て、平凡妃の待つという東屋に向かった。確かにそこには女人と侍女が膝をついて控えていて、寧々公主は歩く姿も花のようにそちらに近づく。
 東屋に寧々公主が着いたとき、東屋に控えていた平凡妃は口を開いた。
「寧々公主のご来訪、大変畏れ多く存じます。後宮の秩序たる公主様は、さぞ私の所業にお怒りでしょう」
 平凡妃がシーファに言った通り、風の強い日だった。渦巻くような風が、平凡妃の衣の裾を揺らしていた。
 平凡妃は身を屈めると、恐れ多いとばかりに顔を覆う。
「……しかしご容赦を。寧々公主様のご威光の前には、私は紙人形に過ぎません」
 平凡妃はふいに紙人形のように薄くなって、ぴゅうっと風に吹き飛ばされた。
「え?」
 寧々公主以下侍女たちは、息を呑んで唖然とそれを見上げる。
 引き留めようにも平凡妃はもう屋根の彼方まで吹き飛んでいて、それが人なのかどうかもわからなくなっている。
 すぐに後宮は大騒ぎになったが、平凡妃の行方は知れなかった。
「あら、おはよう」
 ところが翌朝にシーファが宝珠宮の平凡妃の寝室に入ると、何事もなかったかのようにあいさつを返した平凡妃の姿があった。
 どこへ行かれたのですか問いかけたシーファに、平凡妃はおっとりと答えた。
「まさか、人間が紙のように吹き飛ぶはずがないわ。ずっとここで午睡をしていたわよ」
「ですよね」
 シーファは自分の見間違いだったのだとほっとした。そういうところが素直な女官だった。
 後宮一同は紙人形の妖術を知りたがったが、結局誰も平凡妃から答えを引き出せなかった。
 寧々公主すら、「確かに不気味ね」とうなってしまった、そんなある日の不可思議な出来事だった。
 近頃、瑠璃帝の後宮の侍女たちを悩ませている怪異がある。
 草木も静まる宵の刻、瑠璃帝をお招きして宴が開かれる最中、それは起こる。
「あっ……」
 宴席で舞を披露する妃の衣が、ふいに解けるのだ。
 はらりと垣間見える肌、さらされた手足がなまめかしい。ただ、いくら遊興の宴といってもそこは皇帝陛下のおわす席である。
 臣下たちも侍女たちも慌てて駆け寄り、当の妃も顔を赤くして謝罪する。
「陛下の御前で……申し訳ございません!」
 瑠璃帝は別段動揺する様子はなく、下がって衣を整えるようにとだけ命じる。
 宴の最中の小さな事件とはいえ、こんなことが先月から三度続けざまに起こっている。
 何者かが妃の衣装の糸を切っているのだろうが、それが誰かがわからない。衣装を扱う侍女たちは、今日こそ後宮を追い出されてしまうのだろうかと怯えていた。
 さすがに三度となると、臣下たちも瑠璃帝の気分を害するのではと恐れた。ある日、優秀な瑠璃帝の臣下の一人が瑠璃帝に進言した。
「先般の糸切り事件ですが、疑わしきを中心に据えてはいかがでしょうか」
 瑠璃帝は涼し気な目を細めてうなずく。
「考えがあるなら聞こう」
「次の宴で、平凡妃に舞を披露させるのです」
 瑠璃帝はそれを聞いて少し遠い目をした。臣下の気持ちはわからなくもないが、大いに疑われている平凡妃がいささか哀れな心地がした。
「平凡妃の衣も解けたら、彼の女人が犯人ではないということか」
「は。もし解けぬときは罰しましょう」
 果たして罰まで必要だろうかと瑠璃帝は思ったが、宴のたびに衣装が解けても困ったものだった。瑠璃帝は渋々、次の宴で平凡妃に舞を披露するようにと命を下した。
 いつも通り職務熱心な臣下たちのはからいにより、三日の後には次の宴が開かれた。
 月がほのかに輝き、草木が静かに鳴っているおだやかな夕べだった。
 瑠璃帝が現れたときには、妃たちは既に宴席に集い、侍女たちが給仕に控えていた。
 瑠璃帝が列席者を見やると、平凡妃は最前列で緊張感なく座っていた。今日もあまり特徴のない小豆色の衣で、髪は舞のために結ってはいるが、その変化にさしたる色気は感じられなかった。
 臣下たちの中には衣が解けるという怪異を期待している者もいた。ところが今日は平凡妃が舞うと聞いて、なんだか気落ちした様子の者もいた。
 自分はいつになく期待しているが。瑠璃帝はそう思った自分が破廉恥な気がして、小さくかぶりを振った。
「……始めてくれ」
 なぜかばつが悪そうに宣言した瑠璃帝を、臣下がちらと見上げた。
 合図を受けて、平凡妃はすすっと裾さばきも色気なく進み出ると、舞い始めた。
 ひらりと袖が宙をかき、ふわりと裾はたなびき、意外にも平凡妃の舞はそこそこ上手だった。瑠璃帝はふむとその舞を見て、傍らの臣下に声をかける。
「清廉ではないか」
「色気はございませんが」
 間髪入れずに臣下が答えたので、瑠璃帝は顔をしかめて言い返す。
「女人は色気だけが取り柄ではない。見よ、案外に……」
 そのときだった。平凡妃の肩口の紐がはらりと解けた。
「衣が……!」
 ある意味ここしばらく臣下たちの待望の瞬間だったが、次の瞬間には彼らは奇怪なものを目にする。
「……見え、ない?」
 平凡妃の衣は確かに解けた。しかしその下にあるはずの下着も肌も見えず、まったく同じ小豆色の衣が現れただけだった。
 袖はひらりはためき、裾はふわりと膨らむ。臣下たちの中から声が上がる。
「あ、また……!」
 平凡妃の衣はつと解ける。ただしその下には変わらず小豆色の衣がある。
 脱いでも脱いでも現れる衣。それが三度、四度と繰り返されるうち、瑠璃帝はこれも彼の女人の妖術なのだと気づいた。
 舞は終わり、平凡妃はそつなく一礼する。そのとき、皇帝は何かお褒めの言葉を与える決まりになっていた。
 実に清廉な舞であった、などと言えばよいところを、瑠璃帝は思わず違う言葉を告げていた。
「……平凡に終わってほっとしている」
 瑠璃帝が心からの安堵とともに告げると、平凡妃はほっこりと微笑みかえした。
 その日から、ぱたりと衣の糸切り事件は途切れた。
 後日、妃たちが自らの衣を切って皇帝の目を引こうとしていたことがわかったが、その頃から皇帝は平凡妃に特別なお言葉を与えるようになったのだった。
 衣切り事件の前からそうだったが、平凡妃は侍女シーファの人柄をとても気に入っている。
 几帳面で、生真面目に受け答えし、まさかわざと衣を切ったりなどしないと信じていられる誠実さを持っているのが、シーファだった。
 ある朝、いつものように正確な時間にお茶を淹れてくれたシーファに、平凡妃はその身の上をたずねた。
「シーファはどうして後宮に?」
「年頃だと両親に嫁がされそうになって、逃げてきたのです」
「あら」
 シーファは行儀がよく、きちんとしつけられた子どもという印象だった。だから親から逃げてきたというのは、平凡妃には意外だった。
「相手の方のことが気に入らなかったの?」
「だって殿方って、私の胸ばかり見るでしょう?」
 平凡妃はあえて口にはしなかったが、確かにシーファの胸はずいぶん大きい。地味でゆったりとした女官服を着ても目立つのだから、目を留める男性は多いことだろう。
 シーファは満足そうにうなずいて言う。
「女性ばかりの後宮ならそういうことがなくて安心です。衣食住も保証されますし、今の生活が気に入っています」
 平凡妃はその言葉を聞いて、そうねとつぶやいた。
「胸を気にしない殿方も、世の中にはいるのだけど……」
 とはいえ本人が後宮を気に入っているなら、無理に外の世界を勧めるのもどうかしら。平凡妃はそう思って、そっとしておくことにしたのだった。
 一方、衣切り事件の前から薄々気づいてはいたが、瑠璃帝は乳兄弟の挙動不審を見かねて、ついに言葉をかけることにした。
柳心(りゅうしん)よ、何か気がかりがあるのではないか」
 瑠璃帝は就寝前のひととき、茶を出してくれた柳心に思わずそう言ってしまった。
 うっかり屋で、何かと抜けていて、側近としてはいささか頼りないが、誠実さだけは山より高い柳心のことを、瑠璃帝は一番信頼していた。
 柳心はそのうかつさで、瑠璃帝の問いに大慌てで答えた。
「とんでもない! 気になる女官がいて夜も眠れぬだけです!」
「私はそなたが、皇宮という複雑な場所で生きていけるのか心配でならない」
 瑠璃帝はため息をついて、ふと問いかける。
「どこの女官だ?」
 女人にだまされそうではあったが、柳心はいい年して女人に一切興味を示さなかった。瑠璃帝はにわかに興味がわいて、柳心からその名を聞きだそうとする。
 柳心は子犬が耳を垂れるようにしぼんだ声で言う。
「名前も、どなたに仕えているのかもわからぬのです……。すみれのように可憐で、小さく小さく、守ってさしあげたいような女官だったのですが」
 瑠璃帝は柳心ののろけのような話を聞いているうち、平凡妃の顔がぽっと頭に浮かんだ。
「……いや待て」
 平凡妃のどこが可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような女人だ? 確かに小柄だが、あのふてぶてしさに柳心の言う特徴はまったく重ならない。
 ただ柳心の切れ切れの話をつなぎ合わせると、そこは宝珠宮であったり、瑠璃帝が平凡妃と遭遇した東屋であったり、平凡妃が吹き飛んだ屋根の真下であったりした。すぐ側で平凡妃がほくそ笑んでいる光景がありありと浮かんでくる。
 瑠璃帝ははたと思い当たって声を上げる。
「ああ、そうか。あの女官だ」
「えっ! 陛下はご存じでいらっしゃるのですか!」
 瑠璃帝はうなずいて、柳心にその女官を伝えようとした。
 可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような印象で、なおかつ状況証拠からいって間違いない。
「あの、胸の大きい……」
「胸?」
 瑠璃帝は男性として一番大きい印象の部分から口にしたが、柳心はきょとんと目を丸くした。
 柳心は不思議そうに瑠璃帝に問い返す。
「胸、大きかったですか?」
「うっ……」
 そんな純真な目で自分を見ないでほしい。瑠璃帝は変な顔をして、自分の認識をひどく恥じた。
 自分は当たり前のように胸の印象を記憶していたが、恋に落ちた男にはあの胸さえ見えていないのだ。恋は盲目とはこういうことか……。
 悩みが一つ増えた瑠璃帝の夜だったが、その翌日が平凡妃の舞う日だった。
 宴の始まる半刻ほど前、シーファは裏手の由緒ある神木の前で平凡妃の舞の無事を祈っていた。
 そこに柳心が走って来て、シーファに気づかないまま目を閉じて祈りの言葉をつぶやく。
「は……ぁ、はぁ、どうか、陛下が心を注げる妃に出会えますように……!」
 その言葉を聞いていたシーファは、彼女らしくもなく思わず振り返った。
 シーファは少しの間まじまじと柳心をみつめて、あらぬ方を見ながら思う。
 ……このひと、なんだかかわいい。
 その夜、二人は席もずいぶん離れていて、まだ会話もしなかったけれど。
 二人がこっそり会うようになるのは、もう少し先の話。
 一種不気味な妃として遠巻きに見られていた平凡妃だったが、近頃後宮で妃仲間ができた。
「元気でやっているかね、凡妃」
 昼餉が終わる頃に、その妃はひょいと戸をくぐって平凡妃の元にやって来た。
 その妃は男のように背が高くすらりとしていて、言葉遣いも文官のようだった。彼女は代々学者を輩出する(かい)家の出身なのだそうだ。
 平凡妃は侍女のシーファにお茶をお願いして、その妃に向かいの席を勧める。
「ぼちぼちですよ。海妃(かいひ)は珍しいですね。いつもお茶を飲んでから散策に来るというのに」
「茶を飲みたいのは山々なのだが」
 海妃はうなりながら向かいの席について、一息分だけ沈黙した。
 海妃はふいに口を開くと、悩ましげなまなざしで平凡妃を見て言う。
「実は、近頃私の宮に……出るのだよ」
「ほう?」
 平凡妃は何もかも不十分なその言葉を、しかと聞き取ってみせた。
 平凡妃は猫のようにほほえむと、弾んだ声で問い返す。
「それは興味深いですね。私、そういう話は大好きです。聞かせてください」
「わかった。事は三日前にさかのぼる」
 午後の眠たげなひととき、海妃はここ三日間のとある怪異を語った。
 海妃はその端正な面差しと女性に丁重な人柄で、後宮の妃たちの間に後援隊《ふぁんくらぶ》ができている。その後援隊から毎日おやつに差し入れをもらうのだが、どうしてか海妃がお茶を飲むときには消えて無くなっているのだという。
「白昼堂々、私の侍女たちも出入りする中でおやつだけが消えているのだ。まあ、古い時代には側妃の意地悪で衣すべてが盗まれた例も聞く。今日のおやつが消えたくらい何だと思うかもしれないが」
「ふむふむ?」
「……だが」
 平凡妃がうなずくと、海妃はふいに押し殺した声でつぶやく。
「私は……おやつだけは、がまんできないんだ……!」
 ほとんど泣きそうな声で言った海妃に、平凡妃は彼女の嘆きの重さを知った。
「おやつが食べたくて後宮入りしたようなあなたですからね」
「ああ、そうだ。おやつが無くてどうやって生きていけばいいんだ……!?」
 海妃の実家は男ばかりで、おやつの良さをちっとも理解してくれないらしい。父親も世間も惜しむほど文武両道に育った彼女にとって、おやつは心の聖域だった。
 海妃は真剣なまなざしで平凡妃を見やって言う。
「凡妃、頼む。君の妖術でこの怪異を暴いてくれ」
「妖術で怪異を暴くとは、自己矛盾しているように思えますが」
 平凡妃が至極もっともなことを言うと、海妃はぽつりと続けた。
「暴いてくれたら、今日のおやつは君にやろう」
「引き受けましょう」
 こうしておやつに釣られて、平凡妃は海妃の宮に向かうことになった。
 海妃の宮はほとんど装飾の無い調度とぎっしりと棚に詰め込まれた書物に囲まれた、文官の執務室のような一室だった。
「これが問題の、おやつ箱だ」
 しかし机の隣の小棚の中、ヒスイが散りばめられた銀縁の箱だけは異彩を放っていた。そのきらきら輝く箱をみつめる海妃の目もきらきらしていた。
「今日のおやつは桃饅だ。確かに見たな、凡妃?」
 まだぬくもりの残る桃饅が箱に収まっているのを見て、平凡妃もこくりとうなずく。
 海妃は宝石箱のようなおやつ箱を閉じて、平凡妃と目配せした。
「ここで席を立ってお茶の時間に戻って来ると、おやつが消えていたのだが……」
 平凡妃は辺りを見回して思案する。窓は閉じられていて、動物が入って来るような隙間はない。壁際に侍女が控えて見張っているのだから、外部の者が入り込むとも考えられない。
 平凡妃はひとつうなずいて言う。
「大体見当はつきましたが、ひとつ試してみましょう」
 平凡妃はおやつ箱に何か細工をすると、海妃と共に部屋を後にした。
 二人が隣室に移って、ほんの一呼吸の後のことだった。
 先ほどの部屋で悲鳴が上がって、二人は顔を見合わせる。
 慌てて部屋に戻る海妃の後を、ゆったりと平凡妃が続く。
「君は……!」
 部屋の中でおやつ箱を開いている人物を見て、海妃が息を呑む。それは先ほど壁際に控えていた侍女だった。
「リンリー! 私に忠実な君がどうして?」
 リンリーと呼ばれた侍女の目の先にあったのは、桃饅……に似ているが、それには羽が生えていた。
 宙をぱたぱたと飛ぶ桃饅は、平凡妃が口笛を吹くと彼女の方に寄って来る。
 平凡妃は空飛ぶ桃饅をこちょこちょとくすぐってあやすと、侍女に問いかけた。
「さて、侍女さん。どうして主人のおやつを盗るようなことをされたのですか?」
 桃饅を回収した平凡妃を見て、侍女はじりじりと壁際に後退した。
 けれどどこか不気味な平凡妃のほほえみと、主人の哀しげな顔に耐えかねたように、彼女は口を開く。
「だって……! 海妃様は、まるでおやつを恋人のように見るんですもの」
 リンリーという侍女は目に涙を浮かべて訴える。
「誰にだって優しくて素敵な海妃様。おやつはただの砂糖のかたまりです! わたくしどもの方がずっとずっと、海妃様を心からお慕いしているのに!」
「リンリー……」
 海妃はその悲痛な声で、侍女がどうしてそんなことをしたのか理解したようだった。
「そうだったのか。君は私を心配してくれたのだな」
 海妃は女人に優しいその気質でもって、そっとリンリーに話しかける。
「わかっている。砂糖に恋をしても無意味だということ。そうしないために、一日に一度だけと決めているのだ」
 リンリーは主人の袖をはっしと掴んで問いかける。
「ほんとうに一度だけですね? 朝餉の後、夕餉の後と広がっていきませんね?」
 海妃はリンリーの肩に手を置いて、甘くささやく。
「ああ、約束するよ。君の一途な思いは確かに受け止めた……」
 平凡妃はその美しい主従愛の一幕からそろそろと退場して、庭でひとり息をついた。
 まったく平凡妃が出る幕のない怪異というのも、この後宮には存在する。
 うららかな日差しが庭いっぱいに差し込んでいて、平凡妃は多少馬鹿馬鹿しくなった。
 羽が生えた桃饅を手に、平凡妃はつぶやく。
「……まあいいです。私はおやつを食べに後宮に来たわけではありませんし」
 すねたような口調で言ってから、平凡妃はぱっと桃饅を空に放した。
 豊穣の神を祀る廟の前で一礼したとき、瑠璃帝はふと今年の実りの豊かさを思った。
 今季の秋は、大きな災害もなく穏やかな日が続いた。災いは君主の力でも止められないが、何事もないのに越したことはない。
 臣下たちはここぞとばかりに瑠璃帝に進言する。
「陛下、これは豊穣の神のお示しです。この機に妃をお召しになり、世継ぎをもうけよという天命です」
「そなたたち、逆でも同じことを申したであろう」
 瑠璃帝は調子のいい臣下たちに呆れたものの、心がふいに和らいだのは事実だった。
 思えば職務を真剣にこなそうとするあまり、自分は後宮をおざなりにしてきた。世継ぎをもうけるのは義務の一つとしていつかは成すが、共に人生を歩む友として妃を娶っても良いのではないか……。
 瑠璃帝がいつものようにしかめ面で臣下に言い返さなかったために、臣下たちはこれは色良しと考えた。
 臣下たちは儀式が終わるなり瑠璃帝に耳打ちする。
「早速選りすぐりの姫を御前に……」
「平凡妃を召しだすよう」
「……は」
 臣下たちは瑠璃帝の唐突な命令に耳を疑った。
 瑠璃帝は反論を許さない調子でもう一度告げる。
「二人きりで話がしたい。今宵、平凡妃を召す」
 聞き間違いとはとても取れない名指しのお召しに、臣下たちは顔を見合わせた。
 瑠璃帝は言葉を覆すことなく、上機嫌で宮の方に足を向けた。臣下たちはこれが瑠璃帝の真意なのだと思い知らされたのだった。
 優秀な臣下たちは短い時間だろうと大いに舞台を整えてしまう。瑠璃帝が宮に辿り着くときにはもう、後宮の一同にこの報を知らしめていた。
 料理人は今晩の特別な夕餉のために材料を吟味し、侍女たちは急ぎ皇帝を楽しませるような衣装を整える。
 瑠璃帝が妃を名指ししたのは初めてだった。だから妃たちの間には雷のように嫉妬が迸ったが、とりあえず瑠璃帝に後宮で夜を過ごしてもらうために、一同は今夜だけ協力し合うことに決めたのだった。
 そんな嵐のような後宮で、ひとりぼんやりしている妃がいた。シーファはお側に仕える者として、当然それに気づいた。
「凡妃様?」
 にわかに慌ただしくなった後宮であったが、当の平凡妃はなぜか椅子に座って考え事をしていた。
 大体の昼下がりにおいても平凡妃はぼんやりしている。しかし一月を共に過ごした侍女のシーファには、平凡妃がいつもと違うように感じた。
 シーファは心配そうに平凡妃にたずねる。
「何か気がかりがおありですか?」
 平凡妃ははっと顔を上げて、シーファに笑ってみせる。
「陛下に妖術は使えないから、どうやって抜け穴を作ろうと思っていたのよ」
「あら、陛下をたばかってはいけませんわ」
 シーファは冗談と取ってくすっと笑う。平凡妃は目を逸らしてつぶやいた。
「そうなのよ。困ったわ……」
 シーファがそれを平凡妃の本音だったと知るには、まだ時が足らなかった。
 平凡妃はいつも通りに猫じみた表情を浮かべて、シーファが支度を整えてくれるのに任せた。
 衣装は整ったのか、香は選んだか……。臣下たちの熱のこもった舞台設定で、午後の後宮は大変な騒ぎだった。
 ただ誰がどう騒ごうと夜は必ずやって来て、平凡妃が瑠璃帝の元に召される時間になった。
 窓を開けるには少し冷える刻だった。部屋には香が焚かれて少し青白く、瑠璃帝には時間が雲のようにゆらゆらと流れているように感じられた。
 どこか憂い顔で平凡妃がやって来たのは、そんな頃だった。
 長椅子にかけた瑠璃帝の前で平凡妃が膝をついて頭を垂れる。瑠璃帝はそんな彼女に声をかけた。
「ご苦労。顔を上げてそこに座るがいい」
 瑠璃帝は席を勧めたが、そこはおせっかいな臣下たちのはからいで、平凡妃には瑠璃帝が掛ける長椅子の隣しか用意されていなかった。
 茶を飲むのとは違い抜群に近いところ、瑠璃帝が手を伸ばせば腕の中に収まるような距離に、平凡妃はそろそろと腰を下ろす。
 瑠璃帝は白い夜着姿、平凡妃も薄い絹に包まれただけの姿で、部屋には他に誰もいなかった。
「臣下たちも侍女たちも下がらせた。二人だけで話すのは初めてだな」
 瑠璃帝から口を開いたが、平凡妃はうなずいただけで言葉は返さなかった。
 瑠璃帝は淡々と言葉を続ける。
「茶は何度か飲んだが、そなたと夜に会うというのは新鮮なものだな。まるで初対面のような気さえしてくる」
 平凡妃は誰かに聞きとがめられないかを恐れるように、相変わらず黙っている。
 瑠璃帝はそんな平凡妃の様子に目を留めながら言う。
「平凡妃」
 瑠璃帝は一息分沈黙して、おもむろにその事実を口にした。
「……そなた、初めてだろう」
 カタカタと小刻みに震えながら、平凡妃は瑠璃帝をちらと見上げた。
「心の準備が……できていません」
 下から恐々と見上げるさまが、いつもの悠々とした彼女とはまるで別人のようだった。
 それはそれで瑠璃帝の庇護心を刺激して、瑠璃帝の心にぐっとくるものがあった。彼は声を和らげて言った。
「怖がるようなことではない。手順を踏めば誰でもできるようになる。そなたの妖術に比べれば易しい行いだろう?」
「怪異にございます」
 平凡妃はまるで頑なな少女のように早口に答えた。
 瑠璃帝は少し心配になって平凡妃をみつめる。けれど平凡妃は強張った表情のまま、恐れるようにうつむいた。
 未だそのすべを知らない少女は、ふいに警戒を露わにして声を上げる。
「人が奈落に消えるように夢中になる、男女の仲……怪異に違いありません!」
 瞬間、突如として部屋には嵐が吹き荒れた。
 風がうなりを上げて渦巻き、柱は曲がり、寝台は吹き飛ぶ。奇跡的に瑠璃帝に風は当たらなかったが、部屋はまるで紙飾りのようにひしゃげた。
 あっという間に部屋は暗黒の天の下になった。その中で、平凡妃は悲鳴のような祈りの言葉を叫ぶ。
「天人よ、私は陛下に妖術を使いました……! 罰を受けます!」
 それが望みのように、平凡妃は天を仰いで声を上げる。
「待て、凡……妃っ!」
 瑠璃帝が伸ばした手の先で、平凡妃が渦巻く天に吸い込まれていった。
 朝、絶望の淵を引き連れるような気持ちで目覚めて、瑠璃帝は寝台から跳ね起きた。
「は……ぁ、は……っ。夢、か」
 たった今まで嵐にさらされていたように、心臓が大きく音を立てていた。瑠璃帝はしばらく胸を押さえながら上がった息を整える。
 瑠璃帝はこめかみから流れた冷たい汗を拭って、ふと傍らを見やる。
 傍らでは平凡妃が眠っていて、瑠璃帝はほっと息をつく。
「夢の中でもそなたは人騒がせだな」
 起きたらすぐにその話をしよう。そう思いながら彼女の頬に触れようとして、瑠璃帝は異変に気付いた。
「……平凡妃?」
 平凡妃はまるで人形のように、呼吸が止まっていたのだった。
 平凡妃の意識が戻らないまま、五日のときが過ぎようとしていた。
 瑠璃帝はすぐに平凡妃を医師に見せたが、彼女の呼吸も心音も止まっていた。だが体温は失われておらず、いつ目覚めてもおかしくないという不可思議な状態だった。
 瑠璃帝は遠方からも医師を呼び寄せ、儀式の類も手を尽くして施したが、平凡妃は目覚めなかった。
 臣下たちも驚くほどやつれていく瑠璃帝に、臣下たちは恐々と告げる。
「怪異に手を染めるあまり、怪異に連れていかれたのでは」
「……怪異ではない」
 日頃は頼りにする優秀な臣下たちの言葉も、今は何一つ聞きたくなかった。
 苦しげに臣下の言葉を否定した瑠璃帝に、臣下たちは問い返した。
「陛下?」
「私は誤解していたのかもしれぬ。私は彼の女人を、不可思議な存在のように考えていたが……」
 瑠璃帝は唇を噛んでうめくようにつぶやく。
「……本当はわかりやすく繊細で、感性豊かな女人なのだろう」
 男女の仲を怪異だと悲鳴のように叫んだ平凡妃の声が、今も瑠璃帝の耳に残っている。
 荒れ狂う嵐の中に平凡妃が消えた光景、そのすべてが夢だとは思えなかった。
 瑠璃帝は寝台に座り、そっと労わるように平凡妃の頬に触れる。
 彼女が眠りについてから毎日、こうして側で話しかけたが答えはない。
「どうか起きて、またとぼけた悪戯を仕掛けてくれぬか?」
 瑠璃帝は苦い表情で言葉を続ける。
「今度は急がず、時期が来るまで待とう。そなたのくれた、可笑しな日常が恋しくてならんのだ……」
 瑠璃帝の声が震えたが、今日も平凡妃は沈黙したままだった。
 平凡妃が眠りについて五日が経ったとき、彼女の実家から母親がやって来た。
 瑠璃帝は時間を作って平凡妃の母を迎えると、彼女は深く息をついてしばらく黙っていた。
 やがて平凡妃の母は意を決するように顔を上げると、一つの秘密を打ち明けた。
「信じていただけるかはわかりませんが……娘は、自分の余命は残り一月だと言って後宮に入ったのです」
「なんだと?」
 平凡妃が後宮入りしたのは前の新月の夜だった。瑠璃帝は息を呑んで、慌てて日を数える。
 瑠璃帝は青ざめて信じがたい事実を告げる。
「……今日でちょうど一月だ」
 平凡妃の母は力なくうなずくと、思い出すように言葉を口にする。
「あの子は昔から、冗談なのか本気なのかよくわからないことを言いました。後宮入りも、大いに家名を上げてから最期を迎えるのだと笑っていて」
 平凡妃の母は袖で目頭を押さえて言う。
「そんなの、悪い冗談ですよ……! 母が信じるわけがありません」
 平凡妃の母は気丈にも顔を上げると、瑠璃帝の前でひざまずいて何かを差し出した。
「持って参ったものがあります。あの子が形見だと言って私に残したものです。呪術にでも何でもお使いになって、あの子を呼び戻してください!」
 ふんと鼻息荒く言い切った彼女の手には、瑠璃帝の手のひらに収まるような木彫りの人形細工があった。
 滞在していくよう引き留める瑠璃帝に無理に笑って、平凡妃の母は帰っていった。娘の死など信じないというその態度に、瑠璃帝は少し力を分け与えられた気がした。
 瑠璃帝は臣下たちに命じて、平凡妃が母に残した人形細工を調べさせた。
 それはほのかに笑っている女人の人形で、天人が着るような羽衣を身にまとっていた。中に何か詰まっている様子もなく、お守りの域を出ない代物だった。
 それ以上の手がかりはつかめないまま、夜がやって来た。
 瑠璃帝は、否応なしに一月前の新月のときを目の前に描いていた。
「何か……手はないのか」
 特徴がないのが特徴的だの、不気味だの、散々に彼女を言っていたのが惜しまれた。瑠璃帝は庭に出て暗黒の空を仰ぎ、考えに沈んだ。
 叶うなら出会った頃に時を戻し、彼女の繊細な感性を理解してやりたかった。それができなくとも、せめて初夜の夜に、彼女をできうる限り優しく包めばよかったのだ。
 後悔に打ちひしがれながら体が冷えるまで暗闇に立ちすくんで、ふと瑠璃帝は思い出す。
「……そういえば」
 腕に抱いた木彫りの人形をみつめて、どこかでこの顔を見たなと思う。それはつい最近の出来事のはずで、帰ったら平凡妃に話してやろうと思っていた。
 帰ったら……そう、後宮から少しばかり離れたところにある、豊穣の女神の廟に行ったときのことだ。
 瑠璃帝は夜着姿のまま、宮の階段を上り始めた。途中からは走っていて、臣下たちが見たら目をむいたに違いない勢いだった。
 石段を上り詰めた高台に建つ豊穣の女神の廟で、瑠璃帝は息を切らしながら立ち止まる。
「似ている……」
 豊穣の女神の石像も、木彫りの人形も、そして平凡妃も。三者共に、ほのかに笑う顔がそっくりだった。
 廟の扉を押すと、それはひとりでに内側に開いた。その向こうに、天上に続くような階段が現れる。
 瑠璃帝はごくりと息を呑んで、祈りの言葉を口にする。
「女神に告げる。……会わせてくれ、彼女に」
 真昼のように明るいその最中に、瑠璃帝はゆっくりと足を踏み出したのだった。
 瑠璃帝が階段を上った先には、桃の花咲く里が広がっていた。
 青い水の流れる川面で小鳥が遊び、木漏れ日のこぼれる森で小鹿が跳ねる。気候は暑くも寒くもなく、薫る風がそよいでいた。
「ここは……天人の里か?」
 普段めったなことで表情を変えない瑠璃帝でも、思わず頬をほころばせた。そこはおとぎ話の世界のようにのどかな時間が流れていた。
 瑠璃帝にはゆっくりと散策したい気持ちもあったが、ここには平凡妃を探しにやって来た。瑠璃帝は気を引き締めて歩みを再開する。
 先ほどまで夜だったはずだが、そこは真昼のようにうららかな日差しで満ちていた。
 ふいに川で歌いながら果物を洗っている童女をみつけて、瑠璃帝は声をかける。
「そなた、訊きたいことがあるのだが」
「うん?」
 きょとんとして顔を上げた童女の顔を見て、瑠璃帝は少し変な顔をした。
 童女は平凡妃に似ていた。いや、と瑠璃帝は自分に言い聞かせるつもりで言葉を続ける。
「何でもない。その、私は人を探しに来た。最近この里に来た女人はいないか?」
 童女は果物をしゃくしゃくと食べながら首を傾げる。
「どんな人?」
「そうだな、小柄で、猫のような笑い方をする……」
 そなたに似ている女人だ。もう少しでそう言いそうになったが、果たしてそれは特徴と言えるのか微妙だった。
「お兄さん、下界から来た人?」
 ふいにそう問われて顔を上げると、森の方から薪木を背負った男がやって来た。
 男の顔を見て、瑠璃帝はまたもや少し変な顔をする。
「珍しい顔だね」
 瑠璃帝のことをそう言った男は、やっぱり平凡妃に似ていた。
 自分はここのところ朝も夜も平凡妃のことを考えていた。だから目に映るものすべてが平凡妃の顔になっているのかもしれぬと、瑠璃帝は自分がわからなくなる。
「……いや、そなたたちが似ているだけで、人にはいろんな顔があるのだ」
 ただ一応自己主張はしておくことにして、瑠璃帝はそう男に答えた。
 男はふむふむと、やはり平凡妃に似た笑い方をして言う。
「そうかもしれんなぁ。俺たちは似ていると安心するんで、似た顔をしているだけなんだ」
 瑠璃帝が驚いて息を呑むと、男は安心させるように言葉を続ける。
「おっと、変なことは何もない。俺たちはただの平凡な天人だよ」
「……ただの平凡な天人」
 瑠璃帝はその言葉を復唱して、果たしてそれは平凡だろうかと首をひねった。
 面白そうに二人の会話を聞いていた童女は、果物をごくんと飲みこんで立ち上がる。
「ゆっくりしていってね!」
 彼女はそう告げて、風のように森の方に消えていった。
 男は薪木を背負い直すと、瑠璃帝にひらりと手を振る。
「では、ごゆっくり」
 男もまた瑠璃帝にそう言うと、川下の方へとのんびりと歩いて行った。
 天人の存在を信じるも信じないも、そこは見るからに人間ではない者たちが行き交っていた。
 まず彼らはだいたい空を飛んでいて、浮きながら果物を食べていたり、一跳びで木に上ったりしていて、しかもあんまり働いていなかった。
「お兄さん、桃饅食べる?」
「感謝する。気持ちだけいただこう」
 下界からやって来た瑠璃帝に、敵対的どころかとても親切だった。やれ桃饅だ干菓子だとふるまってくれたが、果たしてここの食べ物を口にして人間のままでいられる自信がなかったので、ありがたくお断りした。
「最近下界から来た女人?」
「最近って? 百年くらい?」
 ただ瑠璃帝が平凡妃を探すのは難航を極めた。天人たちは時間感覚が鈍く、男女の別もそれほどこだわっていないので、ただでさえ特徴の薄い平凡妃は埋もれてしまっていた。
「豊穣の女神様に訊いてみたら? 丘の上にお住まいだよ」
 幸いだったのは、天人の里はそれほど広くないことだった。まもなく瑠璃帝は、里一体を見渡せる小高い丘にやって来た。
 そこには花鳥風月の細工が鮮やかな、見覚えのある門が瑠璃帝を見下ろしていた。
「宝珠宮によく似ている」
 瑠璃帝はぽつりとつぶやいたが、門はひとりでに開いて彼を招き入れた。
 中に入ってみると、ハスの花が点々と水に浮かんでいた。十人ほどの天女たちが、ハスの上をひょいひょい渡り歩いて遊んでいる。
「……ん?」
 そこで、瑠璃帝は少女の一人に目を留めて声を上げる。
「平凡妃!」
 天人たちはみな似た顔をしているが、だからといって昼も夜も考え続けた瑠璃帝の執念は伊達ではなかった。
 瑠璃帝が鋭く呼ぶと、その少女はわかりやすく驚いて、ハスから足を踏み外した。
「危ないよぉ」
 だが天女たちはくすくすと笑ってその少女の袖をつまむと、ハスの上に戻してくれる。
 天女たちは少女に首を傾げて問いかける。
「友だち?」
「……違うよ」
 少女はそう答えて、ふいに恐れるような目で瑠璃帝を見た。
 その目は嵐の中に消えた、あの日の平凡妃の目だった。
 天女たちはもう一つ少女に問いかける。
「恋人?」
「ちが……」
 それにも違うと言いかけた少女に、瑠璃帝は声を上げた。
「夫になるはずだった者だ」
 瑠璃帝がそう言うと、少女はごくんと息を呑んだ。
 瑠璃帝はハスの上を渡って少女の前まで来ると、確信を持って問いかける。
「平凡妃だな?」
 沈黙は一瞬で、彼女は目を逸らしながらぼそりと言う。
「……ばれてしまっては仕方がない」
 平凡妃は不敵に笑ったが、それは苦々しい笑みだった。
「やーいやーい」
 周りの天女たちは冷やかすように平凡妃に笑ってから、点々とハスの上を渡って去っていく。
 二人きりになってからも、しばらくお互い無言だった。平凡妃はあの夜のことを思いだしているのか、なんだか気恥ずかしそうだった。
 瑠璃帝は心を落ち着けて平凡妃に問いかける。
「この里の天人たちは、そなたによく似ているな」
 平凡妃はうなずいて、ええまあ、と続ける。
「見たままです。ある日、女神様から仲間にならないかとお誘いがありまして」
 平凡妃は思い出すように言葉を続ける。
「一月でこの里に来ることを条件に、いたずらじみた妖術を授かりました」
「そなたと過ごした一月は、実に楽しかった」
 瑠璃帝が本音のままに言うと、平凡妃はほほえむ。
「それは幸いです。最後に一旗上げようと、私も大いに遊ばせてもらいましたのでね」
 平凡妃はふいにうつむいて、ぽつりと言う。
「まあばれてしまったとおり、私は単なる未通娘ですが……えっ!」
 平凡妃の言葉が終わる前に、瑠璃帝はいきなり彼女を横抱きにした。
「な、何をなさるのですか!」
「わかっていよう。ここへはそなたを連れて帰りに来たのだ」
「いや、ですから! 帰っても私は、もう妖術が使えず……!」
「それでよい」
 瑠璃帝は平凡妃と額が触れる距離に顔を寄せて言った。
「私はそなたが欲しいのだ。……妖術は無くていい」
 瑠璃帝はじっと平凡妃をみつめて笑う。
「馬鹿馬鹿しいくらいに本気だ。どうやら私は、そなたを愛してしまったらしい」
「……愛、ですと?」
 平凡妃はそんな瑠璃帝を見て、ぽかんと呆れ顔になった。
 瑠璃帝はうなずいて平凡妃の頬に触れる。
「そうとも。私は皇帝なのでな。私が望んだら拒否権はないのだ」
 瑠璃帝は平凡妃を抱いたまま踵を返すと、そのままつかつかと歩き出す。
 平凡妃はうろたえて、言葉を探してうんうん言っていたが、やがて観念したようにため息をつく。
「……奇特な御方だこと」
「そなたに言われたくないぞ」
 平凡妃は嫌味ではなく本心からそうつぶやいたが、やがて小さく笑った。
「さて、この怪異をどう渡っていきましょうか……」
 そのとき、二人の渡っていたハスがたわんで揺らぐ。
 あ、と二人が声を上げたときは遅かった。
 ハスは一瞬で溶けて、二人は湖に放り出されていた。
 湖は温かく母の腹の中のように静かで、その中で瑠璃帝は声を聞いた。
「平凡妃には、あなたに妖術を使わないと約束してもらったけれど」
 それは遠い日に聞いた、姉の宝珠公主の声に似ていた。
 彼女はふふっと笑って言葉を続ける。
「……面白いくらいに大いに心を乱してくれたようだから、よいことよ」
 瑠璃帝の意識と共に声は遠のいていって、霧の中を飛んだような心地だった。
 瑠璃帝は手を伸ばして平凡妃の背中をつかまえると、はぐれないようにとぎゅっと彼女を抱き寄せた。
 時は流れ、瑠璃帝の後宮でも桃の花が咲く頃になった。
 朝から宝珠宮には数々の祝いの品が届いていた。それというのも、今日は平凡妃が正妃として瑠璃帝に娶られる日なのだった。
 平凡妃は宮をうろうろとしながらぼやく。
「私が一番驚いています。ええ、たぶん夢ですよ。明日になったら消えています」
「凡妃様、しっかりなさってください。恋は時に一瞬で距離を詰めてくるものです」
 平凡妃はいつもとは逆でシーファになだめられていた。
「陛下から愛のお言葉があったのでしょう?」
 シーファにそう言われると、平凡妃はかぁっと赤くなった。シーファは心の中で、純真な方だとほっこりする。
 シーファはしっかり者らしく、主人に対しても言うべきことはきちんと言う。
「陛下は後宮の姫君方を順次ご実家に帰し始めていらっしゃいますし、心を決めて後宮の主になられませ」
 前の婚儀の日と違って、今日の平凡妃はわかりやすくそわそわしていた。シーファはそんな平凡妃に笑って、贈り物を片付けたり人の手配をしたり、忙しく働く。
 風の中に花が香る夜、瑠璃帝は平凡妃の元に渡ってきた。
 平凡妃は瑠璃帝の前で膝をついて頭を垂れる。
「……えっ」
 そんな平凡妃をひょいと抱き上げると、瑠璃帝は彼女を横抱きにして椅子に掛けた。
 瑠璃帝はしっかりと平凡妃を腕の中に収めて言った。
「私は結構我慢強い方だと思っているが。それでもこの半年は長かったぞ」
 瑠璃帝は息をついて愚痴らしいことを口にする。
「そなたを正妃に迎えるために、臣下たちへの根回しやら、公主のご機嫌取りやら、何よりそなたがはいと言ってくれそうな贈り物を、一から考え直したのだからな」
「面目ない」
 平凡妃は遠い目をしながら詫びる。
「根が庶民的な小娘でございます。宝石だの衣装だのは、正直いただいても身に着けるのが気恥ずかしくて」
「後宮を乗っ取ったそなたが何を言う」
 瑠璃帝はじろりと彼女をにらんで言う。
「天人の里まで行って取り返してきた妃だ。今更どこへもやらぬぞ」
「近い近い」
 まだうろたえている平凡妃に息が触れるような距離でみつめて、瑠璃帝はささやく。
「……そろそろ目を閉じよ。言葉では伝えきれぬことを、伝える時間だ」
 平凡妃はごくんと息を呑んで、そろそろと目を閉じた。
 瑠璃帝は平凡妃と唇を合わせようとして、彼はぽつりと名前を呼ぶ。
「平凡妃」
 瑠璃帝は一度黙って、もう一度彼女を呼ぶ。
「平凡妃。……浮いておるぞ」
 平凡妃は顔を真っ赤にしながら目を開く。
「あれ?」
 彼女はぷかぷかと浮遊している自分を見て首を傾げる。
「妖術は使えなくなったのでは……」
「使っておるではないか」
 瑠璃帝は平凡妃の手をつかんで引き戻しながら言う。
「姉上か豊穣の女神かはわからぬが、そなたの妖術が大いに私の心を乱して喜んでおられた。たぶんしばらくそなたに力を与えたままなのだろう」
 平凡妃は一瞬黙って、おもむろにつぶやく。
「未通娘の間だけかも……」
「試してみるか?」
「えっ……わぁ!」
 平凡妃は仰向けに倒されて悲鳴を上げる。
 瑠璃帝は少し意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「そなたが浮く力も失せるくらいに励んでみせるか。覚悟せよ」
 その夜、瑠璃帝と平凡妃の距離がどれほど近くなったかは、天人も知らないところだった。
 ただその一月後も、一年後も、十年後も、二人はとぼけた妖術でわいのわいのと仲睦まじく過ごしていく。
 天上のように華やいだ後宮はまもなく消えるが、天人に似た子どもたちが笑い遊ぶ後宮ができあがるのは、もう少し先の話。

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