天上の世界と見まごうほど、瑠璃帝の後宮は華やいでいた。
そこは黄金の調度に囲まれ、珍味が食卓に並び、もちろん類のないほど美しい妃たちが寵を競っていた。
けれど氷璃とあだなされるほど、瑠璃帝は誰にも関心を持たなかった。彼は後宮に立ち入ることすら少なく、家臣たちの憂いは日に日に増していた。
そんなある夜、家臣たちがどうにか瑠璃帝に妃を召させようと、後宮中の妃を集めて宴が開かれた。
「今夜瑠璃帝からお召しがあったら、宝珠宮にお部屋がいただけるそうよ」
「まあ! 彼の宮におわすなら正妃に等しいといわれるのでしょう?」
臣下は側妃たちに、ぞんぶんに対価をちらつかせていた。それに嬉々として乗る程度には、側妃たちには野心があった。
真昼のような明るさで誰も気づくことはなかったが、その日は新月だった。
百人の側妃たちを集め、それに続く侍女たちや数多くの舞姫が散りばめられた席に、瑠璃帝は姿を現した。
瑠璃帝は長身痩躯の青年で、二十七歳になろうという若き君主だった。黒髪を首の後ろで結って、翡翠の耳飾りをつけているだけで、はっと息を呑むような凛々しさをまとっていた。
「……始めてくれ」
けれども彼はそれが彼の常のとおり、今日も誰にも目を留めることなく、最小限の動きで皇帝の席に座しただけだった。
家臣たちは気まずそうに目を見合わせたものの、音楽を奏で、酒をふるまい始めた。
側妃たちが楽器を奏で、時に華奢な手足を見せつけて踊る中、瑠璃帝は小さく息をついたようだった。
「陛下?」
さすがに席を立つまではしなかったものの、瑠璃帝は明らかに退屈していた。子どもの頃から瑠璃帝に仕える臣下はそれに気づいて、お言葉がないか側に駆け寄る。
瑠璃帝は何も言わずに窓の外を仰ぎ見た。自らが治める地上の繁栄はこの程度かと、呆れたように目を逸らしたようだった。
そのとき、側妃たちの間に静けさが走った。風が舞い込んだように辺りの灯りが消え失せて、楽器の音色が止まる。
家臣たちは慌てて、従者たちに急ぎ命令を下す。
「灯りをつけよ。これ、なぜ音楽をやめる」
「舞を止めてはならん」
けれど灯りはなかなか灯らず、音楽と舞をやめた側妃たちを再び動かすことも難しかった。側妃たちはぼんやりと互いを見合い、時には眠っている側妃もいた。
あやかしが入り込んだのではと怯える家臣たちの中で、瑠璃帝は意識を張り巡らせてその異常の本質を探していた。
果たして瑠璃帝が目で捉えた怪異の中心に、その側妃はいた。酒席でありながら一人のんびりと茶をすすり、ひなたぼっこをしているように目を細めてくつろいでいるのが、かえって奇妙だった。
瑠璃帝は臣下を呼び寄せ、その側妃を見やりながら問いかけた。
「あの妃は何者か。あの……」
その妃は長くも短くもない黒髪を紺の紐で緩く結い、女官に混じりそうな小豆色の衣をまとっていた。
瑠璃帝はその側妃を名指しするため、臣下に特徴を伝えようとする。
「側妃の……」
しかし瑠璃帝が言葉に詰まってしまうのは、どうにもその側妃に特徴がないからだった。
着ている物も、その姿も、華美ではない代わりにみすぼらしくもない。確かに後宮という世界においては地味かもしれないが、非をとがめるほどでもない。
ただ臣下の中には勘のよい者もいて、言葉に迷う瑠璃帝の意を忠実にくみ取った。
「凡妃でございますか」
凡妃。それを聞いて、瑠璃帝は心を痛めたようだった。彼はすぐさま臣下をとがめて言う。
「凡妃とは女人に酷かろう。私は名をたずねている」
「いえ、それが」
瑠璃帝の手元には優秀な臣下があふれている。そのうちの一人が無駄なほど正確な知識を披露してみせた。
「本日、凡妃の名で後宮入りした妃です。身元はしっかりしています。平家の三番目のご息女です」
「平家の」
瑠璃帝は心の中で、平凡妃とつぶやいた。なぜ親御はそのような名を女児につけたのか、少し怒りたくなった。
普段めったなことで表情を変えない瑠璃帝が顔をしかめたことに臣下は気づいて、臣下は進言する。
「罰しますか?」
「何の罪で罰するというのだ」
瑠璃帝は彼にしては珍しく苛立たしげに言葉を放つ。
灯りが消えたから。側妃たちが踊らなくなったから。それを怪異と言うのかは別として、ふいに舞い込んだ風のように自分の心を乱しているのが瑠璃帝は信じられなかった。
家臣ははっと息を呑んで、そろりと進言する。
「では……お召しになりますか?」
瑠璃帝がちらとその側妃を見れば、彼女は今日後宮入りしたとは思えないほど悠々と茶をたしなんでいた。
目が合ったわけでも、言葉を交わしたわけでもない。けれど気づけばまじまじと彼女を見ている。少し毛先に癖のある髪、猫がほほえんだような口元、そういうものに可愛げさえ感じてしまう。
「いや……」
彼女を罰するのも、夜に召すのも、何か空恐ろしい。瑠璃帝はあやかしを見てしまった気分で、言葉を濁らせる。
瑠璃帝は考え込んでから、ぽつりと命令を下す。
「ひとまず宝珠宮に居を移らせよ。後日、今日のてん末を私から問いただす」
家臣は、瑠璃帝が彼女を気に入ったのか警戒しているのか判別がつかなかった。
「いいな。丁重に扱うように」
それもそのはずで、瑠璃帝自身、ちらちらと凡妃をうかがう自分の感情が後日どんな形になるのか、まだ想像することができないのだった。
瑠璃帝の後宮には、宝珠宮という特別な宮がある。
そこは瑠璃帝の亡くなった姉君、宝珠公主がおわしたところだった。公主は草花の模様が大理石に彫りこまれた天井の下、年の離れた瑠璃帝をいつも膝に乗せて遊ばせていたという。
その宝珠宮に朝から居を移した凡妃は、天井を見上げながら目を細めていた。
「失礼いたします、凡妃」
昨日から凡妃につけられた侍女が、側に駆け寄って凡妃を呼ぶ。
「瑠璃帝がお越しです。お支度を」
凡妃は眠たげにまばたきをして、立ったまま侍女に振り向いた。
「少し早いのよね。お茶を飲む頃がちょうどよかったのだけど」
「は……しかし、皇帝陛下のお越しでございますから」
凡妃と同い年ほどの侍女は、新しい自分の主人にかしこまりながら頭を下げた。
凡妃はそんな生真面目な侍女に淡く笑って、いたずらをするように侍女に声をかける。
「わかってるわ。でもね、ちょっと見てて。あの天井の草花はね……」
「シーファ! 何をぐずぐずしているの!」
壮年の侍女が慌ただしく入って来て、少女の侍女を𠮟りつける。
「お前は宮付きになっただけで、妃様とお話をする立場にはないの! 小娘は水仕事でも片付けてきなさい!」
「はい! 申し訳ありません」
シーファと呼ばれた少女は頭を下げて謝罪すると、慌てて退出していこうとする。
ふいに凡妃はゆったりと壮年の侍女を見てたしなめた。
「私も来たばかりの小娘。そうガミガミすると幸運が逃げていきますよ」
「戯れず早くお支度をなさいませ。……居を移させよと陛下が命じただけで、この宮の主でもない平凡妃様が」
口の端に笑みを浮かべて皮肉った侍女に、凡妃は少し考えたようだった。
凡妃は部屋の戸口まで行きかけたシーファに、振り向かずに声をかける。
「あなたが昨晩淹れてくれたお茶はおいしかった。今日の席でも淹れてほしいわ」
「陛下にお茶をお出しするのは、わたくしども陛下付きの侍女だけと決まっていますの」
壮年の侍女はあざけるように言ったが、凡妃はぼんやりした目でほほえんだ。
「うん、ひとまず決められたとおりにしますよ。決まり事はときどき変わりますが」
凡妃はシーファにこっそり目配せをしてから、裾を持ち上げて壮年の侍女に続いた。
朝陽がまだ残る頃、瑠璃帝は宝珠宮にやって来た。白い大理石が曲線を描きながら天井から壁まで降りてくる部屋で、瑠璃帝は卓を挟んで凡妃と向き合った。
瑠璃帝はここに来る前にいくつかの段階を踏んだ尋問を考えてはきたものの、いざ凡妃が口を開くとそれらすべてを忘れてしまった。
「皇帝陛下自らお越しいただくとは、緊張で震えてしまいそうです」
それを言った凡妃が、あまりに眠そうで緊張感がなかったからだった。
なんだかふてぶてしい妃だ。しかし罪を問うほど絶対的な非はない。瑠璃帝は多少いらっとして、早急に問題を切り出す。
「よい。……いや、それはそれとしてよくはないが、まず訊きたいことがある。そなたは妖術が使えるのか?」
凡妃は一度まばたきをして、おもむろに答える。
「眠気覚ましくらいの芸ならば、多少は」
「昨日の側妃たちは眠っていたぞ」
瑠璃帝が鋭く問いただすと、凡妃は言葉を続ける。
「真面目に話しますと、平凡な術しか使えません」
「術と言う時点で平凡か?」
瑠璃帝は一息分だけ考えて問いかける。
「わからぬ。どのような災厄が起きるのだ? あるいは、そなたが起こせるのだ?」
「私にもわかりません。ふいにいたずらのように思いついたことをしているだけですから」
「いたずらをするでない」
瑠璃帝は反射的に子どもを叱るように言ってしまって、平静であれという皇帝の自負を思い出す。
そもそも家臣に問いたださせるならともかく、皇帝自ら来訪して尋問をしてどうするのだ。そこから既に彼女の術にはまっているような気がして空恐ろしくなる。
牢獄に入れるのはさすがに哀れだが、後宮に置いておくにも危険だ。早く故郷に帰した方がいいのではと思って凡妃を見ると、凡妃はふいに天井を見た。
凡妃は感嘆のため息をついて言う。
「さすが、天人に愛された宝珠公主様の宮。今も草花が生きておられるのですね」
瑠璃帝がいぶかしんで彼女の視線の先を見ると、そこには草花が描かれた大理石の天井があった。
そのとき、瑠璃帝にはさやさやと風が草花を揺らす音が聞こえた気がした。
瑠璃帝は息を呑んで、その光景に見入る。
「な……」
瑠璃帝の目の前で、大理石の天井から草花が伸びていた。実をつけ、花を咲かせながら、光を浴びて生き生きと輝く。
給仕をしていた壮年の侍女が、茶をこぼして腰を抜かす。
「ひっ、化け物!」
茶が少し瑠璃帝にかかったが、彼はまるでそんなことを気に留めていなかった。大理石の天井に見惚れていて、ただその瞬間を目に焼き付けていた。
灰色に朽ちかけていた天井が、色とりどりに染まっていく。そのおかげで、灰色だった記憶も色鮮やかに蘇った。
「……思い出した。あの実は、苺だったのだ」
瑠璃帝は遠い日に姉君が教えてくれた話を口にする。
「小鳥たちがくちばしでつまんで楽しそうに遊んでいる絵なのだと、姉上は言っていた。ここに座ったのはずいぶん昔だから、忘れていたが」
瑠璃帝はぎこちなく微笑んで凡妃を見る。
「これもそなたの術か? ……案外、かわいいことをする」
凡妃は瑠璃帝と目が合うと、戸惑ったように早口に言った。
「か、かわいいとは。いたずらにございます。災厄でも害悪でもありません……あ」
凡妃は袖で頬をかくと、壮年の侍女の悲鳴を聞いて駆け付けたらしいシーファに気づいた。
うろたえているシーファに目配せをして、凡妃は言う。
「陛下。天井も目を覚ましたところで、朝のお茶をいただきましょう。私の茶はまずいことで有名ですが、そこの侍女はとても茶を淹れるのが上手なのですよ」
瑠璃帝は凡妃と天井を見比べて、空恐ろしさとは少し違う感情を抱いた。
思えば瑠璃帝も、子どもの頃はいたずらばかりしていた。姉が亡くなった頃から、いたずらをする心さえ忘れて勉学に打ち込んできた。今は政務を執ることに夢中で、後宮に足を向ける時間もないと思っていた。
けれど昨日から突如として現れた、平凡妃という名前の非日常。
わからぬことは山ほどあるが、わからぬからと遠ざけてよいのか。
「……よかろう。凡妃、共に茶を」
「では」
瑠璃帝はもう一度天井を見るふりをして、侍女に指示を出す凡妃の横顔を考え込みながらみつめていた。
瑠璃帝が宝珠宮を訪れたことは、臣下たちに論議を巻き起こした。
他に身分高く、見目麗しい妃が勢ぞろいする後宮、その中でなぜよりにもよって平凡妃に目を留められたのか。いや、平凡妃は身分が決して低いわけではなく、見目も平凡であるだけだが、平凡は平凡に他ならず、平凡以上の美点でない。
平凡という言葉が湯水のごとく飛び交う臣下たちの議論は、瑠璃帝が聞いたら心を痛めただろう。
「女人に平凡、平凡と繰り返すのは無礼と言うに」
そしてそのことはもちろん瑠璃帝の耳にも入っていた。のみならず、彼の君が一番しきりに平凡と繰り返していた。
しかし宝珠宮から戻った瑠璃帝は、少年のような快さをまとって臣下に話した。
「天井絵の妖術は悪くない心地がした。また立ち寄っても良い」
瑠璃帝は恋の熱病にかかった風ではなく、いたずら仲間をみつけたような表情をしていた。
そのことは瑠璃帝の心ではなく、臣下たちの心を揺らした。平凡だろうと、瑠璃帝が後宮に立ち寄るきっかけになればよい。次にお召しになる姫を選んでおいて、ここぞというときにお側に近づけるのだ……。
「……だから無礼だと言っているのだ。女人に対して」
ある日、瑠璃帝は臣下たちに控えめに悪態をついて、執務室を抜け出した。
とはいえ瑠璃帝は勤勉な君主で、半刻もしないうちに執務室に戻って来るのが常だった。だから臣下たちは遠巻きにお側に控えながらも、何も言わずにお戻りを待っていた。
ところが瑠璃帝を警護する臣下たちが、先ほどから道に迷っている。
「は?」
瑠璃帝がそれに気づいたとき、臣下たちはもう瑠璃帝を見ていなかった。蝶々でも追っているかのようにあっちへうろうろ、こっちへうろうろしていて、瑠璃帝はその光景に目を疑った。
瑠璃帝は心配になって、たまらず臣下に声をかけようかと思った。しかしはたと手を打って思う。
「……今なら好きな場所に行ける、のか?」
誰にも見とがめられずに一人歩きできるというのは、少し魅力だった。それにこういう怪異を起こす人物に、今なら一人心当たりがあった。
午後のひととき、瑠璃帝は猫が練り歩くような宮の間の裏道を散策し、厨房の湯気の匂いで夕餉の献立を予想した。
そういえば子どもの頃も同じことが楽しみだった。瑠璃帝は弾んだ気持ちで歩いていて、何気なく後宮に入り込んでいた。
ふと見やった東屋には、平凡妃が扇で紙の蝶々を飛ばして遊んでいた。瑠璃帝と目が合うと、ひらりと舞った紙の蝶々を手でつかまえて言う。
「先刻はお楽しみでしたね」
「誤解を招くようなことを言うでない」
瑠璃帝は憮然として思わず言い返してしまってから、ひとつ息をついた。
平凡妃の隣に歩み寄って、瑠璃帝は平凡妃に言葉を投げかける。
「そなたの妖術は、使いようによっては戦にでも役に立ちそうだが?」
「おや物騒な」
平凡妃はわざとらしく扇で口元を押さえて怖がってみせる。
彼女はほほえんで瑠璃帝に答えた。
「そうならないために、期限付きの妃なのですよ」
「期限付き?」
「しかも陛下には妖術を使わないというお約束なのです」
期限とはいつまでか、誰との約束なのかと、瑠璃帝はなお問いかけようとした。
「陛下! ここにおられましたか!」
しかしまもなく臣下たちが群れを成してやって来て、瑠璃帝を取り囲む。
平凡妃は今日も悠々と羽衣をたなびかせて、泉の向こうに歩き去って行った。
瑠璃帝の後宮では日々大勢の妃たちが寵を競っているが、未だ勝者が現れないのは理由がある。
今の事実上の後宮の主は、その名を寧々公主という。瑠璃帝の妹君で、御年十歳、やんちゃな盛りのお姫様だった。
寧々公主は本日も華奢な手足を投げ出して、侍女たちに憤慨する。
「つまんなーい!」
寧々公主は人形のように愛くるしい面立ちをしかめ面に変えて当たり散らす。
「あれもだめ、これもだめ! わたくしは公主のはずでしょう。一番はお兄様に譲るとしても、その次にこの世の遊興のすべてを楽しんでいいはずだわ」
寧々公主は皇帝陛下に絶対の重きを置き、幼いながら理論立てて話すために、侍女たちはうかつにいさめることもできないのだった。
「近頃の妃たちはわたくしを宴にも招かないし」
その結果、大いなるわがまま公主が後宮に君臨して、後宮の妃たちを委縮させている現状があった。
「どこかにわたくしをうならせる、骨のある妃はいないのかしら」
寧々公主は聡い公主だった。妃たちが自分を恐れているのを理解していながら、根性がないと苛立っていた。
困り果てた侍女たちの一人が、ふいに寧々公主に耳打ちする。
「公主様、近頃後宮入りした中に、少し変わった妃が……」
「ふうん?」
寧々公主はくるくると巻いた黒髪を手でもてあそびながら、侍女から聞いた名前を口にする。
「平凡妃? お兄様が宝珠宮に部屋を取らせたって? なに、どうしてあなたたちはそういう話をもっと早くわたくしに伝えないの」
「し、しかし。公主様」
侍女たちは互いに顔を見合わせながら言葉を濁す。
「公主様のお側に近づけるには、いささか不気味な妃でございまして……」
寧々公主は話のわからない公主ではなく、侍女たちから平凡妃の使う妖術に耳を傾けた。
なぜか宴の最中に妃たちが眠ってしまう、天井の絵を動かす、臣下たちを道に迷わす……それらを聞き終わった公主は、ふんと鼻で笑ってみせた。
「どんな怪異かと思えば、子どもだましのいたずらではないの。でもまあ、いいわ。あなたたちが怖がっているなら、わたくしが少し叱って来てあげる」
寧々公主は時々見せる面倒見の良さで、さっと椅子を立つと準備を整え始めた。
寧々公主の来訪はいつも突然である。平凡妃の元に公主の来訪の使いが来たのも、廊下を挟んだほんの向かいの部屋に寧々公主がやって来ているときだった。
侍女のシーファは寧々公主を畏れながら平凡妃にうかがいを立てる。
「唐突なご来訪でございますが……凡妃様、お支度をされないわけにも参りません」
平凡妃は眠たげにまばたきをすると、いたずらを思いついたようにほほえんだ。
「お庭でお待ちしますとお伝えして。今日は風が強いから、たぶんよく飛ぶわ……」
平凡妃が付け加えた言葉に、シーファはきょとんとしてうなずいた。
まもなく寧々公主は庭に出て、平凡妃の待つという東屋に向かった。確かにそこには女人と侍女が膝をついて控えていて、寧々公主は歩く姿も花のようにそちらに近づく。
東屋に寧々公主が着いたとき、東屋に控えていた平凡妃は口を開いた。
「寧々公主のご来訪、大変畏れ多く存じます。後宮の秩序たる公主様は、さぞ私の所業にお怒りでしょう」
平凡妃がシーファに言った通り、風の強い日だった。渦巻くような風が、平凡妃の衣の裾を揺らしていた。
平凡妃は身を屈めると、恐れ多いとばかりに顔を覆う。
「……しかしご容赦を。寧々公主様のご威光の前には、私は紙人形に過ぎません」
平凡妃はふいに紙人形のように薄くなって、ぴゅうっと風に吹き飛ばされた。
「え?」
寧々公主以下侍女たちは、息を呑んで唖然とそれを見上げる。
引き留めようにも平凡妃はもう屋根の彼方まで吹き飛んでいて、それが人なのかどうかもわからなくなっている。
すぐに後宮は大騒ぎになったが、平凡妃の行方は知れなかった。
「あら、おはよう」
ところが翌朝にシーファが宝珠宮の平凡妃の寝室に入ると、何事もなかったかのようにあいさつを返した平凡妃の姿があった。
どこへ行かれたのですか問いかけたシーファに、平凡妃はおっとりと答えた。
「まさか、人間が紙のように吹き飛ぶはずがないわ。ずっとここで午睡をしていたわよ」
「ですよね」
シーファは自分の見間違いだったのだとほっとした。そういうところが素直な女官だった。
後宮一同は紙人形の妖術を知りたがったが、結局誰も平凡妃から答えを引き出せなかった。
寧々公主すら、「確かに不気味ね」とうなってしまった、そんなある日の不可思議な出来事だった。
近頃、瑠璃帝の後宮の侍女たちを悩ませている怪異がある。
草木も静まる宵の刻、瑠璃帝をお招きして宴が開かれる最中、それは起こる。
「あっ……」
宴席で舞を披露する妃の衣が、ふいに解けるのだ。
はらりと垣間見える肌、さらされた手足がなまめかしい。ただ、いくら遊興の宴といってもそこは皇帝陛下のおわす席である。
臣下たちも侍女たちも慌てて駆け寄り、当の妃も顔を赤くして謝罪する。
「陛下の御前で……申し訳ございません!」
瑠璃帝は別段動揺する様子はなく、下がって衣を整えるようにとだけ命じる。
宴の最中の小さな事件とはいえ、こんなことが先月から三度続けざまに起こっている。
何者かが妃の衣装の糸を切っているのだろうが、それが誰かがわからない。衣装を扱う侍女たちは、今日こそ後宮を追い出されてしまうのだろうかと怯えていた。
さすがに三度となると、臣下たちも瑠璃帝の気分を害するのではと恐れた。ある日、優秀な瑠璃帝の臣下の一人が瑠璃帝に進言した。
「先般の糸切り事件ですが、疑わしきを中心に据えてはいかがでしょうか」
瑠璃帝は涼し気な目を細めてうなずく。
「考えがあるなら聞こう」
「次の宴で、平凡妃に舞を披露させるのです」
瑠璃帝はそれを聞いて少し遠い目をした。臣下の気持ちはわからなくもないが、大いに疑われている平凡妃がいささか哀れな心地がした。
「平凡妃の衣も解けたら、彼の女人が犯人ではないということか」
「は。もし解けぬときは罰しましょう」
果たして罰まで必要だろうかと瑠璃帝は思ったが、宴のたびに衣装が解けても困ったものだった。瑠璃帝は渋々、次の宴で平凡妃に舞を披露するようにと命を下した。
いつも通り職務熱心な臣下たちのはからいにより、三日の後には次の宴が開かれた。
月がほのかに輝き、草木が静かに鳴っているおだやかな夕べだった。
瑠璃帝が現れたときには、妃たちは既に宴席に集い、侍女たちが給仕に控えていた。
瑠璃帝が列席者を見やると、平凡妃は最前列で緊張感なく座っていた。今日もあまり特徴のない小豆色の衣で、髪は舞のために結ってはいるが、その変化にさしたる色気は感じられなかった。
臣下たちの中には衣が解けるという怪異を期待している者もいた。ところが今日は平凡妃が舞うと聞いて、なんだか気落ちした様子の者もいた。
自分はいつになく期待しているが。瑠璃帝はそう思った自分が破廉恥な気がして、小さくかぶりを振った。
「……始めてくれ」
なぜかばつが悪そうに宣言した瑠璃帝を、臣下がちらと見上げた。
合図を受けて、平凡妃はすすっと裾さばきも色気なく進み出ると、舞い始めた。
ひらりと袖が宙をかき、ふわりと裾はたなびき、意外にも平凡妃の舞はそこそこ上手だった。瑠璃帝はふむとその舞を見て、傍らの臣下に声をかける。
「清廉ではないか」
「色気はございませんが」
間髪入れずに臣下が答えたので、瑠璃帝は顔をしかめて言い返す。
「女人は色気だけが取り柄ではない。見よ、案外に……」
そのときだった。平凡妃の肩口の紐がはらりと解けた。
「衣が……!」
ある意味ここしばらく臣下たちの待望の瞬間だったが、次の瞬間には彼らは奇怪なものを目にする。
「……見え、ない?」
平凡妃の衣は確かに解けた。しかしその下にあるはずの下着も肌も見えず、まったく同じ小豆色の衣が現れただけだった。
袖はひらりはためき、裾はふわりと膨らむ。臣下たちの中から声が上がる。
「あ、また……!」
平凡妃の衣はつと解ける。ただしその下には変わらず小豆色の衣がある。
脱いでも脱いでも現れる衣。それが三度、四度と繰り返されるうち、瑠璃帝はこれも彼の女人の妖術なのだと気づいた。
舞は終わり、平凡妃はそつなく一礼する。そのとき、皇帝は何かお褒めの言葉を与える決まりになっていた。
実に清廉な舞であった、などと言えばよいところを、瑠璃帝は思わず違う言葉を告げていた。
「……平凡に終わってほっとしている」
瑠璃帝が心からの安堵とともに告げると、平凡妃はほっこりと微笑みかえした。
その日から、ぱたりと衣の糸切り事件は途切れた。
後日、妃たちが自らの衣を切って皇帝の目を引こうとしていたことがわかったが、その頃から皇帝は平凡妃に特別なお言葉を与えるようになったのだった。
衣切り事件の前からそうだったが、平凡妃は侍女シーファの人柄をとても気に入っている。
几帳面で、生真面目に受け答えし、まさかわざと衣を切ったりなどしないと信じていられる誠実さを持っているのが、シーファだった。
ある朝、いつものように正確な時間にお茶を淹れてくれたシーファに、平凡妃はその身の上をたずねた。
「シーファはどうして後宮に?」
「年頃だと両親に嫁がされそうになって、逃げてきたのです」
「あら」
シーファは行儀がよく、きちんとしつけられた子どもという印象だった。だから親から逃げてきたというのは、平凡妃には意外だった。
「相手の方のことが気に入らなかったの?」
「だって殿方って、私の胸ばかり見るでしょう?」
平凡妃はあえて口にはしなかったが、確かにシーファの胸はずいぶん大きい。地味でゆったりとした女官服を着ても目立つのだから、目を留める男性は多いことだろう。
シーファは満足そうにうなずいて言う。
「女性ばかりの後宮ならそういうことがなくて安心です。衣食住も保証されますし、今の生活が気に入っています」
平凡妃はその言葉を聞いて、そうねとつぶやいた。
「胸を気にしない殿方も、世の中にはいるのだけど……」
とはいえ本人が後宮を気に入っているなら、無理に外の世界を勧めるのもどうかしら。平凡妃はそう思って、そっとしておくことにしたのだった。
一方、衣切り事件の前から薄々気づいてはいたが、瑠璃帝は乳兄弟の挙動不審を見かねて、ついに言葉をかけることにした。
「柳心よ、何か気がかりがあるのではないか」
瑠璃帝は就寝前のひととき、茶を出してくれた柳心に思わずそう言ってしまった。
うっかり屋で、何かと抜けていて、側近としてはいささか頼りないが、誠実さだけは山より高い柳心のことを、瑠璃帝は一番信頼していた。
柳心はそのうかつさで、瑠璃帝の問いに大慌てで答えた。
「とんでもない! 気になる女官がいて夜も眠れぬだけです!」
「私はそなたが、皇宮という複雑な場所で生きていけるのか心配でならない」
瑠璃帝はため息をついて、ふと問いかける。
「どこの女官だ?」
女人にだまされそうではあったが、柳心はいい年して女人に一切興味を示さなかった。瑠璃帝はにわかに興味がわいて、柳心からその名を聞きだそうとする。
柳心は子犬が耳を垂れるようにしぼんだ声で言う。
「名前も、どなたに仕えているのかもわからぬのです……。すみれのように可憐で、小さく小さく、守ってさしあげたいような女官だったのですが」
瑠璃帝は柳心ののろけのような話を聞いているうち、平凡妃の顔がぽっと頭に浮かんだ。
「……いや待て」
平凡妃のどこが可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような女人だ? 確かに小柄だが、あのふてぶてしさに柳心の言う特徴はまったく重ならない。
ただ柳心の切れ切れの話をつなぎ合わせると、そこは宝珠宮であったり、瑠璃帝が平凡妃と遭遇した東屋であったり、平凡妃が吹き飛んだ屋根の真下であったりした。すぐ側で平凡妃がほくそ笑んでいる光景がありありと浮かんでくる。
瑠璃帝ははたと思い当たって声を上げる。
「ああ、そうか。あの女官だ」
「えっ! 陛下はご存じでいらっしゃるのですか!」
瑠璃帝はうなずいて、柳心にその女官を伝えようとした。
可憐で、小さく小さく、守ってやりたいような印象で、なおかつ状況証拠からいって間違いない。
「あの、胸の大きい……」
「胸?」
瑠璃帝は男性として一番大きい印象の部分から口にしたが、柳心はきょとんと目を丸くした。
柳心は不思議そうに瑠璃帝に問い返す。
「胸、大きかったですか?」
「うっ……」
そんな純真な目で自分を見ないでほしい。瑠璃帝は変な顔をして、自分の認識をひどく恥じた。
自分は当たり前のように胸の印象を記憶していたが、恋に落ちた男にはあの胸さえ見えていないのだ。恋は盲目とはこういうことか……。
悩みが一つ増えた瑠璃帝の夜だったが、その翌日が平凡妃の舞う日だった。
宴の始まる半刻ほど前、シーファは裏手の由緒ある神木の前で平凡妃の舞の無事を祈っていた。
そこに柳心が走って来て、シーファに気づかないまま目を閉じて祈りの言葉をつぶやく。
「は……ぁ、はぁ、どうか、陛下が心を注げる妃に出会えますように……!」
その言葉を聞いていたシーファは、彼女らしくもなく思わず振り返った。
シーファは少しの間まじまじと柳心をみつめて、あらぬ方を見ながら思う。
……このひと、なんだかかわいい。
その夜、二人は席もずいぶん離れていて、まだ会話もしなかったけれど。
二人がこっそり会うようになるのは、もう少し先の話。