『私の可愛いレイン。私のアガパンサス。誰よりも幸せになってね。神様から授かった贈り物はきっと貴方を導いてくれるからね。愛しているわ。私の愛しい可愛い子』
レインはまた母親の夢を見る。優しい声でいつものおまじないを話す母親にレインは今の自分を状況を話そうとする。
だが、口は動くが肝心の声が出ない。ようやく幸せになれそうなのにレインはその事を愛する母親に伝えられずもがく。
すると、次の瞬間、場面は暗転し頰に激しい痛みが走る。優しい夢はぶつりと途切れると同時にレインは現実に引き戻される。
「っ…」
「やっと起きたかレイン・バスラ」
(……?)
目の前の天井の明かりが眩しく思うように目が開けられない。
さっき、レインの頬を殴ったであろう男の声は再度レインに近付き彼が着ていた白いワイシャツの胸ぐらを掴み揺さぶる。
「早く起きろ!奴隷の血を引いてるくせに逆らうな!!」
まだ意識がはっきりしていないレインを男は容赦なく揺さぶり続ける。
レインはぼーっとする頭のままローブのような白装束を着た男の顔を見る。とても見慣れた顔だった。
(ターン令息…?なんで…?)
「貴様、カイリお嬢様から貰ったブローチはどうした?アレは僕のなんだぞ!!」
(え?ブローチ?無いって…)
ブーツとスラックスとワイシャツという薄着にされていたことからブローチが付いていた筈のジャケットが奪われていると悟るが、ターンが求めているブローチは襲撃に遭う直前に外していたのを思い出し安堵する。
きっと、殴られた弾みで手から離れてしまった。きっとあの庭園のどこかにあるとは推測したがターンにそれを伝えるはずがない。
何も答えないレインに痺れを切らし、ターンはもう一度彼を殴りかかろうとした時だった。
「いい加減にせんか!!そんなのでも神への捧げ物なのだぞ!!」
「そうよ。ターン様。この儀式が終わったら全て取り戻せますわ。今は儀式に集中しましょ?」
「マージル様、ミネア様…!!ですが…!!」
納得できないターンにミネアは近づき耳元でそっと囁く。
「カイリお嬢様はね、落ち着いた人が好きらしいの。いつも冷静で落ち着いた人がね。今の貴方みたいに怒りに任せるような男は彼女は嫌うわよ?」
ターンはビクッと肩を少し上下させ、マージル達に諭されながらレインを魔法陣が描かれた床の上に再度仰向けに寝かせる。
「偉いわターン様。私、聞き分けのいい人は好きよ。もちろんカイリお嬢様も同じよ」
まるで子供を手懐けているようなミネアの振る舞いにレインは気持ち悪さを感じていた。全く心にも思っていない言葉ばかりで道具としか見ていない。
何か歪な感情。殺意から来るその感情はレインにも当然向けられた。
少しずつ意識が覚醒してきたレインは身構える。
「ごめんなさいね。レイン・バスラ。突然貴方を襲うような真似をして本当に申し訳なかったわ。どうしても貴方とカイリお嬢様を結婚させるわけにはいかないの」
「アンタ一体なんなんだよ…!!俺とケヴィンにあんなことして…!!!」
「あの従者はおまけで殴っただけ。目的は貴方が持つギフトを神に返す為に襲ってここまで連れてきたの。まさか一日も眠ってた時は流石にやり過ぎたとは思ったけど」
(ギフトを神に返す?まさかコイツら、カイリお嬢様が言ってた異端者?!!)
焦るレインにミネアはどかっと跨る。女1人分の重さが彼の腹部を圧迫し、短く低い声で唸り声を上げる。ミネアはそれに構うことなく、両手に持っていた物をレインに見せつけた。
ミネアが持っていた物。それは木製の杭とハンマー。
その二つを一目見ただけでレインは彼女が何をしようとしているのかすぐに分かり焦りが込み上げてくる。
「お、おい!!どけ!!!」
「ダメよ?貴方の中にあるギフトを神に返さなきゃいけないのだから。始祖である使者の末裔でもなければ、貴族でもなんでもない、奴隷の地で生まれた卑しい血を引く貴方が持つべき物ではないわ」
「っ…」
「カイリお嬢様はマリアネルの血にそんな血を混じらせるわけにもいきません。由緒正しいマリアネルの血に混じっていいのは同じ高貴な貴族の血のみ」
「…そんなのカイリは望まない。あの人ならきっと全力で否定するに決まってる」
カイリを羨望と嫉妬の目で見ていたミネアにはレインのその言葉の意味を痛い程分かっていた。
自分が欲しかったモノを全て手に入れ、貴族や平民に愛されて大切にされている彼女が羨ましくて仕方がなかった。
それに対して、ミネアはアンダース侯爵の長女として生まれるも、先に生まれた兄のことしか愛さない両親は彼女には全く関心がなく、ただの繁栄のためのドールとしか見ていなかった。
アンダースの元で働く使用人達からも冷たくあしらわれ、友人や愛し合っていた筈の人間には裏切られ続けた彼女に手を差し伸べたのがオルロフだった。
心が荒んだミネアの心にはオルロフから与えられた優しさと愛情は、彼女を入信させるのにはあまりにも効果が覿面だった。
オルロフに信仰し、アンダース花よ莫大な金を教団に貢ぎ続け、信者を増やし勢力を強めた。
幾ら侯爵家でも金は無限ではない。初めは怒りをぶつけていた両親と兄とその嫁だが、邸宅や実権をミネアや信者に取られてゆくとみるみるうちに弱り命乞いを始める。
「ミネア!!!今までのことは許してくれ!!嫁のお腹には子供が…!!!」
必死に命乞いをする兄にミネアは冷徹な笑みを浮かべながら指を刺し信者達に命じる。
「あの中にギフトを持った子供がいる。この嫁は元は平民。卑しい血は途絶えさせなきゃ。殺しなさい。ギフトを神に返すのです」
悲鳴を上げる元家族達にミネアは笑い続けた。血と信仰で生きてきた彼女はオルロフには欠かせない存在となっていたのだ。
ミネアは明るい道を歩み続けるカイリの大切な人がギフトを待った者だと知った時は、ようやく自分の番が回ってきたのだと喜んでいた。
もう少しでミネアが望んだカイリの堕落が始まると思うと笑いが止まらなかった。
ミネアは控えていた信者にレインの腕を頭の上に上げ、そのまま固定させろと命令した。
「マージル様。焼印の準備を」
「分かった」
「おい!!離せ!!!」
「この痛みもすぐに忘れられるわ。今だけよ」
ミネアは持っていた木の杭を合わせられたレインの両手の平にそっと鋭く尖った部分を当てられる。
「逃げられないように…っね!!!!」
ハンマーが力強く杭に振り下ろされる。杭は難なくレインの手の平に鮮血を流しながら風穴を開けてゆく。あまりにも激しく耐え難い痛みにレインは叫び声上げる。
ミネアは返り血を浴びても構うことなく、ハンマーを振り下ろし続ける。レインの両手から夥しい量の血が床を赤く染め上げる。
何度か杭を打ちつけてゆくと、ようやく杭が床に到達する。レインの両手の平が床に固定されたのを確認したのち、ミネアは立ち上がりレインから離れる。
レインはなんとか意識を保っていたがいつまた手放してしまってもおかしくなかった。
「私達オルロフが神にギフトを返す儀式には必要な紋章。ギフトを持つ証としてこれを胸に焼き付けるの。そして…」
ミネアは剣を信者から受け取る。美しく研がれたその剣は鏡のように見えた。その刃にどれだけの無実の人間が殺されたのかわからない。
ミネアとマージルの手の甲に彫られた紋章の焼印に向かってその剣は突き刺される。死によってギフトが神に返されるとオルロフでは信じられているのだ。
レインもその犠牲の一人になろうとしている。だが、逃げたくても杭が打たれていて逃げられない。
仮に逃げたとしても大勢の信者から逃げ切る気がしなかった。
「安心してその身を神に捧げろ。姪は必ずターン殿が幸せにしてくれる」
「カイリお嬢様も本当はそれを望んでいる」
「大丈夫よ。貴方の死は無駄にしない。新たに生まれる高貴な血を継ぐ者に与えられるのだから」
周りにある大勢の信者達は期待の目で儀式の様子を見守る。
マージルは信者から紋章が彫られている先端が真っ赤に熱せられた金具をわたされる。
ゆっくりとレインに近づき金具を彼の胸元に狙いを定める。
ターンは早く焼印を押して欲しいとニヤつきながら囃し立てる。ミネアもその瞬間を今か今かと待ち望んでいた。
レインは自分の死がもう目前にあるのだと受け入れるしかなかった。やり残したことはたくさんある。
けれど、せめてこれだけは成し遂げておけばよかった悔やんだ。
(ちゃんと名前で呼んであげればよかった。お嬢様じゃなくて…)
レインは目を瞑りさを受け入れようとした。
「さよなら、カイリ」
熱せられた金具がレインの胸部に落とされようとした時だった。ゴトンと重い金具が鈍い音を立てながら床に落ちた。
マージルの胸部から細い刃が背中から貫通し、白いローブに赤いシミを作らせていった。
「え?…かい…リ…?!」
「さようなら。叔父様。いえ、穀潰しの宗教野郎が」
「え…?!」
レインはそっと目を開けて、絶命したマージルが床に倒れてゆくのを目撃する。背後にいたのは、いつものドレスではなく黒色のズボンと茶色いブーツ、そして白シャツと灰色のジャケットを着たカイリがそこにいた。
髪は一つにまとめられ、手にはマージルの血に染まったレイピアを持っている。
「カイリお嬢様!!!」
ターンの恐怖と歓喜の混ざった声がカイリを呼ぶ。だが、カイリは落ちていた金具を持ち上げ、熱せられた先端をターンの顔に押し当てる。
ギャーっと煙を上げながら悲鳴を上げその場に倒れこむ。それを見ていた信者達も悲鳴を上げながら逃げ惑い始めた。辺りは騒然としている。
「カイリ…!!!カイリ・マリアネル…!!!アナタ…!!!!」
「私は愛する者の為ならどんな罪も背負ってやるわ。貴女には無理でしょうけどっ!!!」
カイリはレイピアをミネアに振り下ろす。ミネアの腕に鮮血が溢れ出る。
痛がり動けなくなったミネアの隙をつき、カイリはレインの元は駆け寄る。
ようやく愛する人と再会できた喜びにカイリは目に涙を浮かべていた。
「あのぅ…本当にカイリ…だよな…?」
「レイン!!あぁ…良かった…!!間に合って良かった!!ごめんなさい、私貴方を守れなかった…!!約束したのに…!!」
「えっと…助けに来てくれただけで十分っす。それより腕のこれ抜いてくれない?これじゃ動けない」
杭が打たれたレインの両手を見てカイリは憤怒した。あの3人には死だけでは許されない。もっと苦しんでもらわなければと。
怒りに燃えるカイリをレインは必死に宥めるがその優しさが更に怒りを増幅させた。
「と、とりあえず、一旦俺の手の杭抜いて?お願い」
「そうよね。それからいろいろ暴れてやりましょう?もう少ししたら整備隊の方々も来るからすぐに収まるわ。痛いけど我慢してね。後で治してあげるから」
「あ、はい(ぜってーこの人を怒らせてはダメだ…気をつけよう…)」
カイリは祭壇近くに置いてあった工具で杭を抜いてゆく。再び激しい痛みが全身に走るがレインは必死に耐えた。
そんな二人の背後を顔を焼かれた男が許すはずがなかった。
「どうしてそいつなんだ!!!!僕の方が貴女のことを愛しているのにぃぃーー!!!!」
発狂したターンがカイリに近付き、彼女の髪を乱暴に掴み引っ張り上げる。短い悲鳴を上げたカイリは無理矢理立ち上がらされターンの方に引き寄せられた。
「カイリ!!!」
「やめて!!離しなさい!!」
「ずっと僕は貴女を見てきた!!ずっと貴女と夫婦になるのを夢見てたのに…いい加減素直になって僕を夫にするって言ってください!!!こんな奴隷ではなく僕を…」
喚き散らすターンをカイリは蔑むまで見る。ターンが一番望まない目だった。
ターンは、レインに向けられていた愛でる目で自分を見て欲しかった。だが、その願いはもう叶うことはない。
そんな目で見るなと叫び、ターンはカイリの頬を思いっきり叩いた。バランスを崩したカイリはその場に倒れ込み赤くなった頰を抑える。
「てめ…っ!!」
レインは咄嗟に起き上がり、鮮血に染まり風穴が開いたその手でターンを殴りつけた。その一発はあまりにも強烈だったのだろう。一回殴られただけだのびてしまった。
のびきったターンの髪を鷲掴みレインは彼の耳元で警告する。
「これ以上、俺の女房に付きまとうようなら貴様を殺す。俺の事は何言っても構わない。だが、カイリ・マリアネルを陥れる様ならこっちも容赦しねーからな」
「ひぃ…!!!」
もうそこには迷いに染まっていたレイン・バスラはいなかった。そこに居たのは、女公爵の夫に相応しい強くも凛々しい青年が両手を鮮血に染めながら立っていたのだった。
レインはまた母親の夢を見る。優しい声でいつものおまじないを話す母親にレインは今の自分を状況を話そうとする。
だが、口は動くが肝心の声が出ない。ようやく幸せになれそうなのにレインはその事を愛する母親に伝えられずもがく。
すると、次の瞬間、場面は暗転し頰に激しい痛みが走る。優しい夢はぶつりと途切れると同時にレインは現実に引き戻される。
「っ…」
「やっと起きたかレイン・バスラ」
(……?)
目の前の天井の明かりが眩しく思うように目が開けられない。
さっき、レインの頬を殴ったであろう男の声は再度レインに近付き彼が着ていた白いワイシャツの胸ぐらを掴み揺さぶる。
「早く起きろ!奴隷の血を引いてるくせに逆らうな!!」
まだ意識がはっきりしていないレインを男は容赦なく揺さぶり続ける。
レインはぼーっとする頭のままローブのような白装束を着た男の顔を見る。とても見慣れた顔だった。
(ターン令息…?なんで…?)
「貴様、カイリお嬢様から貰ったブローチはどうした?アレは僕のなんだぞ!!」
(え?ブローチ?無いって…)
ブーツとスラックスとワイシャツという薄着にされていたことからブローチが付いていた筈のジャケットが奪われていると悟るが、ターンが求めているブローチは襲撃に遭う直前に外していたのを思い出し安堵する。
きっと、殴られた弾みで手から離れてしまった。きっとあの庭園のどこかにあるとは推測したがターンにそれを伝えるはずがない。
何も答えないレインに痺れを切らし、ターンはもう一度彼を殴りかかろうとした時だった。
「いい加減にせんか!!そんなのでも神への捧げ物なのだぞ!!」
「そうよ。ターン様。この儀式が終わったら全て取り戻せますわ。今は儀式に集中しましょ?」
「マージル様、ミネア様…!!ですが…!!」
納得できないターンにミネアは近づき耳元でそっと囁く。
「カイリお嬢様はね、落ち着いた人が好きらしいの。いつも冷静で落ち着いた人がね。今の貴方みたいに怒りに任せるような男は彼女は嫌うわよ?」
ターンはビクッと肩を少し上下させ、マージル達に諭されながらレインを魔法陣が描かれた床の上に再度仰向けに寝かせる。
「偉いわターン様。私、聞き分けのいい人は好きよ。もちろんカイリお嬢様も同じよ」
まるで子供を手懐けているようなミネアの振る舞いにレインは気持ち悪さを感じていた。全く心にも思っていない言葉ばかりで道具としか見ていない。
何か歪な感情。殺意から来るその感情はレインにも当然向けられた。
少しずつ意識が覚醒してきたレインは身構える。
「ごめんなさいね。レイン・バスラ。突然貴方を襲うような真似をして本当に申し訳なかったわ。どうしても貴方とカイリお嬢様を結婚させるわけにはいかないの」
「アンタ一体なんなんだよ…!!俺とケヴィンにあんなことして…!!!」
「あの従者はおまけで殴っただけ。目的は貴方が持つギフトを神に返す為に襲ってここまで連れてきたの。まさか一日も眠ってた時は流石にやり過ぎたとは思ったけど」
(ギフトを神に返す?まさかコイツら、カイリお嬢様が言ってた異端者?!!)
焦るレインにミネアはどかっと跨る。女1人分の重さが彼の腹部を圧迫し、短く低い声で唸り声を上げる。ミネアはそれに構うことなく、両手に持っていた物をレインに見せつけた。
ミネアが持っていた物。それは木製の杭とハンマー。
その二つを一目見ただけでレインは彼女が何をしようとしているのかすぐに分かり焦りが込み上げてくる。
「お、おい!!どけ!!!」
「ダメよ?貴方の中にあるギフトを神に返さなきゃいけないのだから。始祖である使者の末裔でもなければ、貴族でもなんでもない、奴隷の地で生まれた卑しい血を引く貴方が持つべき物ではないわ」
「っ…」
「カイリお嬢様はマリアネルの血にそんな血を混じらせるわけにもいきません。由緒正しいマリアネルの血に混じっていいのは同じ高貴な貴族の血のみ」
「…そんなのカイリは望まない。あの人ならきっと全力で否定するに決まってる」
カイリを羨望と嫉妬の目で見ていたミネアにはレインのその言葉の意味を痛い程分かっていた。
自分が欲しかったモノを全て手に入れ、貴族や平民に愛されて大切にされている彼女が羨ましくて仕方がなかった。
それに対して、ミネアはアンダース侯爵の長女として生まれるも、先に生まれた兄のことしか愛さない両親は彼女には全く関心がなく、ただの繁栄のためのドールとしか見ていなかった。
アンダースの元で働く使用人達からも冷たくあしらわれ、友人や愛し合っていた筈の人間には裏切られ続けた彼女に手を差し伸べたのがオルロフだった。
心が荒んだミネアの心にはオルロフから与えられた優しさと愛情は、彼女を入信させるのにはあまりにも効果が覿面だった。
オルロフに信仰し、アンダース花よ莫大な金を教団に貢ぎ続け、信者を増やし勢力を強めた。
幾ら侯爵家でも金は無限ではない。初めは怒りをぶつけていた両親と兄とその嫁だが、邸宅や実権をミネアや信者に取られてゆくとみるみるうちに弱り命乞いを始める。
「ミネア!!!今までのことは許してくれ!!嫁のお腹には子供が…!!!」
必死に命乞いをする兄にミネアは冷徹な笑みを浮かべながら指を刺し信者達に命じる。
「あの中にギフトを持った子供がいる。この嫁は元は平民。卑しい血は途絶えさせなきゃ。殺しなさい。ギフトを神に返すのです」
悲鳴を上げる元家族達にミネアは笑い続けた。血と信仰で生きてきた彼女はオルロフには欠かせない存在となっていたのだ。
ミネアは明るい道を歩み続けるカイリの大切な人がギフトを待った者だと知った時は、ようやく自分の番が回ってきたのだと喜んでいた。
もう少しでミネアが望んだカイリの堕落が始まると思うと笑いが止まらなかった。
ミネアは控えていた信者にレインの腕を頭の上に上げ、そのまま固定させろと命令した。
「マージル様。焼印の準備を」
「分かった」
「おい!!離せ!!!」
「この痛みもすぐに忘れられるわ。今だけよ」
ミネアは持っていた木の杭を合わせられたレインの両手の平にそっと鋭く尖った部分を当てられる。
「逃げられないように…っね!!!!」
ハンマーが力強く杭に振り下ろされる。杭は難なくレインの手の平に鮮血を流しながら風穴を開けてゆく。あまりにも激しく耐え難い痛みにレインは叫び声上げる。
ミネアは返り血を浴びても構うことなく、ハンマーを振り下ろし続ける。レインの両手から夥しい量の血が床を赤く染め上げる。
何度か杭を打ちつけてゆくと、ようやく杭が床に到達する。レインの両手の平が床に固定されたのを確認したのち、ミネアは立ち上がりレインから離れる。
レインはなんとか意識を保っていたがいつまた手放してしまってもおかしくなかった。
「私達オルロフが神にギフトを返す儀式には必要な紋章。ギフトを持つ証としてこれを胸に焼き付けるの。そして…」
ミネアは剣を信者から受け取る。美しく研がれたその剣は鏡のように見えた。その刃にどれだけの無実の人間が殺されたのかわからない。
ミネアとマージルの手の甲に彫られた紋章の焼印に向かってその剣は突き刺される。死によってギフトが神に返されるとオルロフでは信じられているのだ。
レインもその犠牲の一人になろうとしている。だが、逃げたくても杭が打たれていて逃げられない。
仮に逃げたとしても大勢の信者から逃げ切る気がしなかった。
「安心してその身を神に捧げろ。姪は必ずターン殿が幸せにしてくれる」
「カイリお嬢様も本当はそれを望んでいる」
「大丈夫よ。貴方の死は無駄にしない。新たに生まれる高貴な血を継ぐ者に与えられるのだから」
周りにある大勢の信者達は期待の目で儀式の様子を見守る。
マージルは信者から紋章が彫られている先端が真っ赤に熱せられた金具をわたされる。
ゆっくりとレインに近づき金具を彼の胸元に狙いを定める。
ターンは早く焼印を押して欲しいとニヤつきながら囃し立てる。ミネアもその瞬間を今か今かと待ち望んでいた。
レインは自分の死がもう目前にあるのだと受け入れるしかなかった。やり残したことはたくさんある。
けれど、せめてこれだけは成し遂げておけばよかった悔やんだ。
(ちゃんと名前で呼んであげればよかった。お嬢様じゃなくて…)
レインは目を瞑りさを受け入れようとした。
「さよなら、カイリ」
熱せられた金具がレインの胸部に落とされようとした時だった。ゴトンと重い金具が鈍い音を立てながら床に落ちた。
マージルの胸部から細い刃が背中から貫通し、白いローブに赤いシミを作らせていった。
「え?…かい…リ…?!」
「さようなら。叔父様。いえ、穀潰しの宗教野郎が」
「え…?!」
レインはそっと目を開けて、絶命したマージルが床に倒れてゆくのを目撃する。背後にいたのは、いつものドレスではなく黒色のズボンと茶色いブーツ、そして白シャツと灰色のジャケットを着たカイリがそこにいた。
髪は一つにまとめられ、手にはマージルの血に染まったレイピアを持っている。
「カイリお嬢様!!!」
ターンの恐怖と歓喜の混ざった声がカイリを呼ぶ。だが、カイリは落ちていた金具を持ち上げ、熱せられた先端をターンの顔に押し当てる。
ギャーっと煙を上げながら悲鳴を上げその場に倒れこむ。それを見ていた信者達も悲鳴を上げながら逃げ惑い始めた。辺りは騒然としている。
「カイリ…!!!カイリ・マリアネル…!!!アナタ…!!!!」
「私は愛する者の為ならどんな罪も背負ってやるわ。貴女には無理でしょうけどっ!!!」
カイリはレイピアをミネアに振り下ろす。ミネアの腕に鮮血が溢れ出る。
痛がり動けなくなったミネアの隙をつき、カイリはレインの元は駆け寄る。
ようやく愛する人と再会できた喜びにカイリは目に涙を浮かべていた。
「あのぅ…本当にカイリ…だよな…?」
「レイン!!あぁ…良かった…!!間に合って良かった!!ごめんなさい、私貴方を守れなかった…!!約束したのに…!!」
「えっと…助けに来てくれただけで十分っす。それより腕のこれ抜いてくれない?これじゃ動けない」
杭が打たれたレインの両手を見てカイリは憤怒した。あの3人には死だけでは許されない。もっと苦しんでもらわなければと。
怒りに燃えるカイリをレインは必死に宥めるがその優しさが更に怒りを増幅させた。
「と、とりあえず、一旦俺の手の杭抜いて?お願い」
「そうよね。それからいろいろ暴れてやりましょう?もう少ししたら整備隊の方々も来るからすぐに収まるわ。痛いけど我慢してね。後で治してあげるから」
「あ、はい(ぜってーこの人を怒らせてはダメだ…気をつけよう…)」
カイリは祭壇近くに置いてあった工具で杭を抜いてゆく。再び激しい痛みが全身に走るがレインは必死に耐えた。
そんな二人の背後を顔を焼かれた男が許すはずがなかった。
「どうしてそいつなんだ!!!!僕の方が貴女のことを愛しているのにぃぃーー!!!!」
発狂したターンがカイリに近付き、彼女の髪を乱暴に掴み引っ張り上げる。短い悲鳴を上げたカイリは無理矢理立ち上がらされターンの方に引き寄せられた。
「カイリ!!!」
「やめて!!離しなさい!!」
「ずっと僕は貴女を見てきた!!ずっと貴女と夫婦になるのを夢見てたのに…いい加減素直になって僕を夫にするって言ってください!!!こんな奴隷ではなく僕を…」
喚き散らすターンをカイリは蔑むまで見る。ターンが一番望まない目だった。
ターンは、レインに向けられていた愛でる目で自分を見て欲しかった。だが、その願いはもう叶うことはない。
そんな目で見るなと叫び、ターンはカイリの頬を思いっきり叩いた。バランスを崩したカイリはその場に倒れ込み赤くなった頰を抑える。
「てめ…っ!!」
レインは咄嗟に起き上がり、鮮血に染まり風穴が開いたその手でターンを殴りつけた。その一発はあまりにも強烈だったのだろう。一回殴られただけだのびてしまった。
のびきったターンの髪を鷲掴みレインは彼の耳元で警告する。
「これ以上、俺の女房に付きまとうようなら貴様を殺す。俺の事は何言っても構わない。だが、カイリ・マリアネルを陥れる様ならこっちも容赦しねーからな」
「ひぃ…!!!」
もうそこには迷いに染まっていたレイン・バスラはいなかった。そこに居たのは、女公爵の夫に相応しい強くも凛々しい青年が両手を鮮血に染めながら立っていたのだった。