―――コンコン。

「お兄ちゃん、大丈夫? もう動けそう?」

 ノックのあと、軽く部屋を覗き込んできた玲奈がベッドの上で横たわったままの俺に声を掛けた。
 あれから一週間ほど経ってしまった。
 全身の暴行を受けてしばらく意識すら失っていたが、あんなに殴られたのに、歯の数本が折れ、左腕の骨にヒビが入った程度で済んだのは、正直奇跡だと思う。
 わずかな入院を経て退院したあとは医者から安静するようにと言われ、ここ数日は家で殆ど寝て過ごしたままだった。
 校長との約束まで時間がなかったが、石川との件もあり、少しだけ猶予が先延ばしになりそうだった。

「玲奈……」
「よかった、目の痣は段々引いてるね」

 身体を起こした俺に、玲奈はほっとしたように息を吐いた。

「それにしても、本当に大変だったね。お兄ちゃんのSNSもずっとおかしなことになってるし……」

 俺のSNSの更新は未だ止まらず、乗っ取り犯が様々な投稿を続けていた。
 もはや俺は、自分のアカウントを覗くのが怖かった。
 代わりに俺のアカウントは玲奈が見ていてくれて、何かおかしな動きがあればすぐに伝えてもらっていた。

「お兄ちゃんのクラスの暴行事件、動画で出回ってて凄いことになってるよ」

 正直な話、動画の拡散は予想通りだった。
 だってあの時、みんなして俺たちにスマホを向けていたから。
 目の前で起きてる暴行事件を誰も止めず、ただ動画を撮ることに夢中になっていた。
 それもこれも、俺が有名人だから皆が話題として取り上げたくて仕方がないのだろう。

「それで……あの、お兄ちゃんが眠っている間に……」

 言い辛そうに、玲奈が言う。

「どうした?」
「アカウント、物凄い荒れてて……見せても大丈夫?」

 玲奈なりに俺を気遣っているのだろう。
 いつまでも弱弱しい姿は見せていられないな、と俺は「ああ」と頷いた。
 すると玲奈は「ほら」と俺のスマホの画面を見せた。

《サカキ、ボコられたって? まじざまあだなww》
《更新は続ける気力はあるんですね》
《SNS中毒だろここまできたら。病院いけ》
《乗っ取りといい暴行事件といいぜーんぶ自作自演。炎上商法》
《ほんとキモいな》
《シンプルにしね》
《てかこいつ無加工の顔まじブス笑 俺なら外歩けない》

 スマホの画面を辛うじて見ていたが、うっと胃の奥から異物がせり上がってくる。

「おえぇっ」
「だ、大丈夫、お兄ちゃん⁉」

 玲奈が急いでゴミ箱を掴んで、背中を擦ってくれる。
 クソ、ついさっき弱々しい姿を見せないって決めてばかりだったのに。

「お兄ちゃん、どうする?」
「っごほ、何が……」
「アカウントだけど、やっぱり通報して消すのは……どうかな? 取り返しにつかないことになる前に……」
「そんなことするわけないだろ!」

 怒鳴るように言えば、玲奈は細い肩をびくりと揺らして「そ、そうだよね」と気まずそうに頷いた。

「あんなに、頑張って更新してたもんね……それをすぐ消そうだなんて出来るわけないよね」
「当たり前だろ……玲奈にだって、いろいろ手伝わせたし……あれを維持することで、将来的にも役に立つはずだ」

 情報社会の世の中、このインターネットを上手く使った人間が勝ち組になれる。
 あのアカウントは、いつか絶対何かに使えるはずだ。

「あ、でもほら見てお兄ちゃん。炎上商法も悪くないかも。こんなにフォロワー増えてるよ」

 玲奈が話を切り替えるようにして、アカウントを見せてくる。
 たしかに最後に見た時よりも、一万人は増えていた。

「もうすぐ三十万人だね、すごいよ!」
「三十万……」
「でも、それだけの人たちに見られてるってことだと思うけど……」

 玲奈はそう言って、何気なく『#nswzk』というタグをクリックした。
『#nswzk』とは、西和崎高校の略称だ。
 その動作に気づいた俺は「タグ……」と呟いた。

「あ、間違えたっ」

 玲奈はハッとしたように戻るボタンを押す。

「見せろよ」
「で、でも……」
「いいから見せろ!」

 俺はスマホを奪い取って、今一度そのタグをクリックして画面をスクロールした。
 すると……。

《うちの二年、暴行事件で入院ってマ?》
《被害者、調子乗ってたから当然》
《skkでしょ? 顔だけって感じでずっと痛かったよね》
《調子乗る男子が無理。skkはまさに真骨頂って感じ》

「な、なんだこれ……」
 俺への悪口で溢れかえっている。『skk』とはサカキの略称だとすぐにわかる。

《iskwが仕留めてくれればよかったのに、あいつの顔二度と見たくねー》
《仕留めるww クマかよ》
《シンプルに登校してくるの楽しみ。ぼこぼこになったskkの顔が見たい。よくツラ自慢してたから》
《てかon学校辞めたんだって。sbymもこの前skk探してた》
《iskwも探してたね。krしてやるって》

 止まらない。俺への誹謗中傷。
 伏字だってろくに機能していないのに。
 匿名ならなんでも書き込んでいいと思っている奴ら。
 玲奈は心配するように「お、お兄ちゃん……」と俺の震える肩に手を置いた。

「私、思ったんだけど……」

 深刻な面持ちで、彼女は言う。ミディアムな長さの黒髪は、玲奈の白い肌をさらに引き立たせていた。
 俺とは全く似ていない黒目が、廊下から漏れ出る明かりで微かに輝いている。

「お兄ちゃんの乗っ取りって、殺人予告から始まったじゃない? あれさ……」

 耳を澄ませば、部屋に置いている時計の音がした。

「いたずらなんかじゃなく」

 ちく、たく。ちく、たく。

「本当、だったらどうする?」

 神妙な面持ちで玲奈が言うものだから、俺はかっとなって叫んだ。

「お前は! 俺が誰か殺すとでも思うのかよ⁉」
「ちっ、違うよっ! ただ学校やSNSも荒れてるからっ」
「荒れてるからなんだって言うんだよ!」

 何もかも、デタラメばかりなのに。
 この荒れている理由だって、全て乗っ取りのせいだっていうのに。
 どうして、俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。

「だからもしかしたら! 殺人予告されてるのって」

 こんな風に、苦しまなくちゃいけないんだ。

「お兄ちゃん、なんじゃないのかなって思ったの」

 現実世界とインターネットの世界なんて、本来イコールではなかったはずなのに。

「俺が……殺人予告を……」

 されてる側?

「う、うん。客観的にはしてる側だけど、あんな起きるようなわからないこと、乗っ取りの皮切りに更新すると思う? その後の投稿は、動画があったり確実な情報を拡散している感じがするのに……どうして、あれだけ予告だったんだろうって」

 言われてみればそうだ。
 確かに、犯人は証拠のある情報を拡散しているけど、あの予告だけは違う。
 乗っ取った犯人がノストラダムスでもなければ、あんな大胆な内容をデタラメに更新するとも思えない。
 これまでの投稿内容は悪ふざけの度が過ぎている。
 ともすれば、あの殺人予告は……。じゃなかったとしたら。

「じゃあ、あれは……俺に向けて、書いてたってこと?」
「じゃないかなって、私は思うけど……」
「…………」
「乗っ取り犯、わかりそう……?」

 わかるわけない。ネットがこんなにも大荒れで、犯人候補だって何人もいる。
 黙ったままの俺が何を言いたいのかわかったのか、玲奈ははぐらかすように「そっか」と呟いた。

「お兄ちゃんのことあんなに書きこむ人たちがいるんだもん……特定は難しいよね」
「……でも、早く見つけないと」

 停学や退学なんかになりたくない。こんなことで経歴に傷なんてつけたくない。

「俺は、こんなところで落ちぶれてる暇なんてないんだ……」

 頭を抱える俺に、玲奈は俺の肩を暫く擦りながら、真面目な口調で続けた。

「とにかく、明日は予告されてた、九月十三日でしょ? お兄ちゃん、気を付けてね」

 泣きそうな顔で玲奈を見れば、彼女は両手で拳を作りながらいつもの笑顔を見せた。

「変な乗っ取りなんかに負けるな!」
「玲奈……」
「喉乾かない? 何か持ってきてあげるよ」

 立ち上がった玲奈が薄っすらとひらっきぱなしのドアを開こうとすると、「海斗? いまいい?」と廊下から母の声が聞こえた。

「あ、洋子さん」
「あら、玲奈ちゃん。ごめんなさい、海斗くん、起きてる?」
「うん。さっき起きたよ」

 にっこり笑いながら、玲奈はドアを開いて、ベッドの上で身体を起こしていた俺を見遣った。

「ほんと、いま大丈夫?」
「たぶん……。平気だよね、お兄ちゃん?」
「……ああ」

 ぎこちなく呟いた俺に「よかった、それじゃあ……」と言いながら母は玲奈を横目に見た。

「私、飲み物とってくるから」

 玲奈は空気を読んだように、部屋から出て行った。