「お母さん行ってきます」
「巳美忘れ物、お弁当」
「あ、ごめん。ありがとうお母さん」
「気を付けてね」
「うん、それじゃ、改めて行ってきます」
 あれから月日は瞬く間に過ぎ、今、私は医学部の卒業をまじかに控えていた。
 医師国家試験。この医学部に入る最終の目的でもあるこの試験も終わった。
 私としてはこの6年間やれるだけの事はやって来たつもりだ。
 でもそれは私一人だけの力ではない
 私の傍にいつもいてくれていた将哉さん。そして私を陰ながら支えてくれた『お母さん』
 私は養子縁組をして蒔野から辻岡の名字となった。
 辻岡巳美
 今の私の名だ。
 お母さんは始めからそのつもりでいたらしいが、時間を掛け時を見てこの話を私にしようと決めていたらしい。
 大学受験を受けるまでのあの1年間。私は高卒認定試験を受けその認定を得る事が出来た。そして1年間医学部への受験へ向け必死に頑張った。
 その姿を二人はずっと見守ってくれていた。
 いいえ二人だけではなかった。もう一人、その姿に触れる事は出来ないけど、しっかりと私達の中に生きている。
 お姉さん。歩実香さん。
 今思えば、昔まだ将哉さんと付き合いだした頃、心に抱いていた嫉妬は私の嫉妬じゃなかったのかもしれない。あれは歩実香姉さんの想いだったのかもしれない。
「何戸惑っているの? 私に遠慮してるの?」ってね。
 歩実香姉さんは本当に将哉さんの事を愛していた。だから私に将哉さんを幸せにしてほしかったんだと思う。そして私自身も幸せになる事が姉さんの願いだったと自分勝手かもしれないけどそう思った。
 不思議だけど信じてもらわなくてもいいんだけど、歩実香姉さんはいつも私に声をかけてくれていたから……

 あれからもう一度あの宮城のあの海に行った。
 海は穏やかに私たちを迎えてくれた。

 あの海が私に与えたもの
 それはあの投げ捨てた自分だった。ずっとあの海に投げ捨てていた私の心。
 その心を海はそっくりそのまま返して来た。

 そして、和也との想いも……そのまま
 私はその全てを受け止める。
 もうその想いに負けたくはなかった。強いんじゃない、弱いんじゃない。
 その想いに向かう事が、その願いに向かい一歩を歩むことが大切なんだと。その時海は教えてくれた。
 すべてを奪った海が私に返した物
 それは私の心だったんだと思う。
 ようやく私は自分を取り戻したんだ。
 そしてようやく出会えることが出来た。和ちゃんに……
 私の親友、冨塚 和美《とみずか かずみ》に
 震災からずっと音信不通だった和ちゃん。生きているのかどうかさえも分からなかった。
 でも彼女は生きていたしっかりと。
 和ちゃんは看護師になっていた。震災の後自分に出来る事は人を救う事じゃないかって……和也が亡くなった事を知り、私の事を必死に探した。でも私の行方は分からないままだった。和ちゃんは私も和也と一緒にもうこの世にはいないものだと思っていたらしい。
 和ちゃんも絶望の淵にいてその有様をその目で見たからこそ、この道を選んだと言う。
 私が今、医学部にいて医者を目指している事を言うと
「え、あの巳美が……うそ。信じられない」と目を丸くして驚いていた。
 そして将哉さんを見ながら
「もしかして、巳美の彼氏?」
「う、うん」ちょっと恥ずかしそうに返した。
「そっかぁ、巳美も今幸せに頑張っているんだ。良かったよ」
 そんな和ちゃんも昨年の夏に最愛の人と結婚した。
「今度は巳美の番だからね。早く医者になって彼氏と幸せになってね」
「うん」もう涙で言葉にならなかった。
 いろんな想いが一気に溢れて来て……和ちゃん、和ちゃんとは離れていてもずっと親友だよ。
 心の中で叫んでいた。

 秋田の春はゆっくりと静かに訪れる。
 3月の下旬。大学の卒業式も終わり、あとは医師国家試験の結果を待つだけだった。
 桜のつぼみは赤みを帯び始めもうじきその可憐な花を咲かせようとしている。
「ねぇ巳美、最近思うんだけど、あなたほんと歩実香に似て来たわね」
 お母さんがぼっそりと裏庭にある小さな畑で一緒に種をまいている時に言った。
「そうぉ」
「本当に頑固で、意気地なしで我慢強くて自分の事しか考えていない」
「あ、ひどーーい。それって物凄くわがままだって言う事でしょ」
「そうよ。歩実香と一緒」
「だってお母さん仕方ないでしょ。私、歩実香姉さんの妹なんだから……」
 お母さんは私を強く抱きしめた。
 泣きながら
「ありがとう」
 母親の想いが私の中に沁み込んで行く。
 その時知る母親の想いを……そして私の産みの親の想いを。
「試験合格しているといいね」二人で青い空をゆっくりと流れる白い雲を見ながら願った。

 そう、将哉さんも見ているかもしれない、どこまでも続くその空に

 合格発表の速報サイトで自分の番号をドキドキしながら探し出す。
「あった」
 見つけた時嬉しさよりも何よりも先にSNSで将哉さんに「医師国家試験、合格したよ」って送っていた。

「おめでとう。巳美が頑張った成果だよ。一緒に祝福してあげたいけど傍にいられなくてごめん」
 多分あっちは真夜中だろう。でもすぐに返信が来た。もしかしてずっと待っていたのかもしれない。
 今将哉さんはアメリカにいる。向こうの大学で3年間の研修を受けている。
 今年の夏に帰国予定。
 始め3年間と訊いた時、目の前が揺らいだ。
 一番傍にいてほしい人が遠い地へと行ってしまう。その寂しさだけが私を襲った。
「一次帰国も出来るからずっと逢えない訳じゃない。でも僕も離れるのは本当に苦しんだ」
 将哉さんは私に話してくれた。
 歩実香さんと離れ、この秋田と東京の距離だけでも、おなじ日本にいるのに離れている事の辛さを。そして歩実香さんの苦しみを。
 そして一通の手紙を私に見せてくれた。
 歩実香さんが書いた手紙

 最後に彼女が将哉さんに書いた手紙

「僕は……巳美が歩実香の様になってしまううのが怖いんだ。僕は同じ過ちを犯したくはない。もう愛する人を失いたくないんだ。今ならまだ辞退は出来る。巳美がもし不安なら僕はアメリカに行く事を辞める」

 僕はアメリカに行く事を辞める
 将哉さんはそう言った。でもそれは彼の希望を閉ざす事になる。
 私のために自分の進むべく夢を諦める。
 私達は誓ったはずだ

 共にお互いの夢をかなえようと

 将哉さんが歩んだ道を私が閉ざす事は出来ない。
「不安じゃないって言ったらそれは……違う。物凄く不安だし、歩実香さんと私も同じになるかもしれない。我慢できる保証なんてどこにもない。でも……私のせいで将哉さんの夢を閉ざす事は出来ない。私達誓ったでしょ『共にお互いの夢をかなえようと』だから行かないでとは言えない。でも行ってほしくない」
 泣きながら将哉さんにしがみついて訴えた。
 矛盾している事を言っているのは分かる。でもそれがあの時の私の本心だった。
 泣きじゃくる私に将哉さんは
「やっぱり辞退するよ。巳美を一人にしておけない」
 その言葉を訊いた時ホッとする自分がいた、そしてその自分に怒りがこみあがる。
 自分の意志とは違う言葉が口から出た
「行って……アメリカに。そして自分の夢にまた一歩近づけて」
 あの時そう言って後悔はしていない。

 机の引出しから小さな個箱を取り出し左の薬指にその中のリングをはめる。
 その手を窓の外に広がる空に向けた。
 陽の光に光輝くリング。

 始めこの指輪の話を訊いた時違和感を感じなかったと言えば嘘になるだろう。
 でもこのリングには歩実香姉さんの想いが込められている。そう将哉さんに対する想い。苦しみながら将哉さんを想うその気持ちが込められている。歩実香姉さんにプロポーズした人にはちょっと悪いけど、それもその人の願いでもあるのだから。
 将哉さんが渡してくれたこの曰く付きの指輪。
 他の指輪だったら私は今まで耐えられなかったかもしれない。
 姉さんが将哉さんに想う気持ちと私が将哉さんに想う気持ちは一緒だから。
 だから私は二人で最愛の人を待っている。

 私達のもとにまた戻ってくる日を……