「籠の中の鳥って……」
彼女はポケットから煙草を取り出し火を点け軽い白い煙を吐きだした。
「昔、付き合っていた彼がいてな、そいつがよく言うんだ
普通に施設の中にいれば普通に過ごせる。そして普通にオペをしていれば普通に助かる患者は助かる
だが、それは全て籠の中で起きている事。
すべてが守られ、全てが決められている。
そいつも外科医でな、私の同期だった。付き合いも長くて、お前達みたいにお互いを信じそして希望をもって歩んでいた。
でも彼奴はそんな普通の中にいるのが苦痛だったみたいでな。ある日籠の中から空に飛んで行ってしまったんだ」
「……空に飛んだ」
「ああ、外科医としての自分の限界に追い詰められ、籠に餌も与えられなくなって……自殺した。屋上からその身を空に投げ出したんだ」
「似てんだよ……杉村、お前に」
「だから言うんじゃない。お前は外科医には向いていない。このまま漠然とした思いでその世界に身を投じれば……お前もあいつと同じように行き詰まるだろう。
災害地へ一緒にお前と向かった時のお前は、処置も、対応も、判断もすべてが的確だった。研修医とは思えんほどな。
もう立派な医者として見えたよ。でもそのお前を見るたびにお前の本当の姿も見え始めた。
歩実香君が言っていたよ。
杉村は、人の心の痛みや苦しみが解る人だってな。だから自分を隠してしまう。自分では逃げているなんて言っているけど、本当はその人の苦しみが解るから、でも自分は何も出来ないと思い込んでいるから、何もしなくなるんだってな」
自分の技量の限界を知ってるんだよ……お前は
「それでも僕は……そう、かもしれません。僕はそんな自分が今は本当に嫌いです。歩実香を苦しめ、その気持ちを解ろう、いや逃げていた自分に」
彼女は吸っていた煙草をもみ消し
「杉村、災害地派遣のレポート読ませてもらった。病院長もえらく感心していたよ。何より内科、最も精神科部の先生がえらくお前に興味を持っていたよ。『災害地における患者の心理状態の変化について』まったく外科よりもこれじゃ本当に精神科医のレポートだよ」
それは、僕が本当に感じた事をまとめたレポートだった。
「あと残っているのは精神科だけなんだろ」
「ええ、内科の方も今合わせて精神科の研修をしています」
「なぁ、杉村。お前はこの初期研修が終わった後どうするのか先の事は考えているのか? 私は外科に戻って来いとは言ったが、お前の本当の気持ちは今どこにあるんだ」
僕の本当の気持ち
僕の本当の居場所は……僕は歩実香の傍にいたい。
「解りきったことを聞いてしまったようだな。今ならお前が本当に進むべく道に向かえることが出来る。手続きはちょっとめんどいが、今の時期ならこれからお前が望む場所で、そして進べく道を掴むことが出来る。これ以上の事は私の口からは言えない。後は……杉村、お前次第だ」
「僕次第ですか。それで笹山先生はこの後どうされるんですか」
「私か? 実は北部医科大の高度救命センターから誘いがあってな、もう一度救命と言う場所で自分を鍛えなおそうと思っている」
「高度救命センターですか。僕には務まりそうにもありませんね」
「だろうな」
笹山先生は微笑み僕の方に手を添え
「頑張れ杉村、歩実香君のためにも」
その1週間後、笹山医師はこの病院からその姿を消した。
僕が今、そしてこれからの僕の居場所として望んだのは……秋田
僕の中に宿う歩実香がいる地へ
手続きは確かに大変だった。在籍していた病院からの推薦状も特例ではあるが、僕の意をくみだしてくれた。
そのおかげもあり、本当に異例ではあるが、僕は大学医学部の精神科へと移籍した。残りの初期研修と共に後期研修を精神科で行う事を条件に採用された。
そう、僕は精神科への道を選んだのだ。
大学付属病院精神科では、初期臨床研修2年の終了見込み及び終了後、3年間の精神科医としての研修がある。
実際は3年間では収まる事は無いだろう。だが、僕の進むべく道は決まった。そして僕自身が望み、僕がいるべき場所、それが秋田、また歩実香と共に暮らせる日々がやって来たんだ。
初夏を迎えた秋田の気候はさわやかだった。
大曲の花火を見に来た時、あの時はもう秋田の夏も終わりを迎える寸前の頃だったんだろう。
新しい環境になじむことが出来るか不安はあったが思いのほかすんなりと僕はとけ込んでいたように思える。自分の時間も以前よりもかなり取れ、車の免許を取る事も出来た。やはりここで暮らすには車は必需品だ。若葉マークを付けながらも僕は購入した車で職場へ通いそしてこの秋田での生活を営んでいる。
震災の被害はこの秋田ではさほど大きな被害はなかったようだ。だが災害時は流通形態の乱れからガソリンや生活物資が不足していたらしい。
今はいつもの平常な生活が営まれている。
毎日の様に報道される災害現地の情景。確かにここ秋田のこの病院にも災害地からの転院されてきた患者は何名かいる。そして、秋田に避難して来た人たちの中にも心身を冒され、この精神科を受診し治療を受ける患者も増えつつあった。
指導医の元、外来の診察に入院患者の管理や状態管理など、今まで行ってきた業務とさほど変わらない業務をそつなくこなしている。
休日は歩実香のところに行って話をした。
返ってくることのない声に僕は話しかけている。
いつも、僕の中にいる歩実香に僕は話しかけている。
秋田市は海辺にある市だ。初めて日本海側の海を僕は見る事が出来た。
太平洋側の海とは違う。この季節のこの海は穏やかだ。
潮風が僕の体をさするようにする抜ける。
歩実香、一緒に来たかったな。
日本海側の海も広いな。
もう歩実香とは来ることは出来ない、いや、一度も来た事のない日本海側の海を眺め、沈む夕日を目にし、溢れる涙を抑えながら僕の心をゆっくりと沈みゆく太陽の様にその海に沈ませていく。
逢いたい。出来る事ならその姿をもう一度……
願う事のない想いを抱いた時、彼女は応えてくれた。
「また……逢えるよ将哉」
その歩実香の声に僕の涙は流れた。また本当に歩実香と逢える日が来るのなら、そんな日が来るのなら。
だが、まだその時の僕には運命と言う言葉は、その姿を明かしてはくれていない。
そう、その年の大曲の花火に行くまでは
8月の第4土曜日に毎年行われる《《大曲の花火》》に行くまでは……
あの花火の日、出会った少女は僕の心に新たな光を差し伸べてくれた。
あの時ここで歩実香と一緒に観た花火。
今僕の座る隣には彼女はいない。
いるはずのないその姿を僕は感じながら、夜空に打ちあがる花火をこの目に焼き付ける。
夜空に広がる大きな花火、そしてその後に伝わり響き渡る音。
「ようやく見る事が出来たよ」
「そうだね。ようやくだよ将哉。また見る事が出来て嬉しい」
すうと心が和やかになる。まるで歩実香が隣にいるかのように……
一つの花火が打ちあがりそして消えゆく。静寂な夜の世界が僕を包み込む。
その暗闇の中には歩実香は現れてくれない
誰もいない僕らの秘密のこの場所。ただ偶然にこの場所で花火を見ただけだった。
暗がりの土手の道を歩く音が近づく。
誰も来るはずはないと思っていた。でも確かに近づく足音、弱くそして疲れ切ったような足音が僕の後ろで止まった。
打ちあがる花火の光に照らされた後ろに立つその少女の姿を見た時
僕の心臓の鼓動は高鳴った。
「歩実香……」
「きっとまた逢えるよ」
歩実香が僕に囁いた。
また出逢う事が出来た。
そう、僕と蒔野巳美との出会いはこの大曲の花火があったから出逢えた。
歩実香によく似た少女
だが、彼女の心はすでに崩壊していた。
「ねぇ、君。そこに突っ立てないで、ここあいているから座りなよ」
彼女はポケットから煙草を取り出し火を点け軽い白い煙を吐きだした。
「昔、付き合っていた彼がいてな、そいつがよく言うんだ
普通に施設の中にいれば普通に過ごせる。そして普通にオペをしていれば普通に助かる患者は助かる
だが、それは全て籠の中で起きている事。
すべてが守られ、全てが決められている。
そいつも外科医でな、私の同期だった。付き合いも長くて、お前達みたいにお互いを信じそして希望をもって歩んでいた。
でも彼奴はそんな普通の中にいるのが苦痛だったみたいでな。ある日籠の中から空に飛んで行ってしまったんだ」
「……空に飛んだ」
「ああ、外科医としての自分の限界に追い詰められ、籠に餌も与えられなくなって……自殺した。屋上からその身を空に投げ出したんだ」
「似てんだよ……杉村、お前に」
「だから言うんじゃない。お前は外科医には向いていない。このまま漠然とした思いでその世界に身を投じれば……お前もあいつと同じように行き詰まるだろう。
災害地へ一緒にお前と向かった時のお前は、処置も、対応も、判断もすべてが的確だった。研修医とは思えんほどな。
もう立派な医者として見えたよ。でもそのお前を見るたびにお前の本当の姿も見え始めた。
歩実香君が言っていたよ。
杉村は、人の心の痛みや苦しみが解る人だってな。だから自分を隠してしまう。自分では逃げているなんて言っているけど、本当はその人の苦しみが解るから、でも自分は何も出来ないと思い込んでいるから、何もしなくなるんだってな」
自分の技量の限界を知ってるんだよ……お前は
「それでも僕は……そう、かもしれません。僕はそんな自分が今は本当に嫌いです。歩実香を苦しめ、その気持ちを解ろう、いや逃げていた自分に」
彼女は吸っていた煙草をもみ消し
「杉村、災害地派遣のレポート読ませてもらった。病院長もえらく感心していたよ。何より内科、最も精神科部の先生がえらくお前に興味を持っていたよ。『災害地における患者の心理状態の変化について』まったく外科よりもこれじゃ本当に精神科医のレポートだよ」
それは、僕が本当に感じた事をまとめたレポートだった。
「あと残っているのは精神科だけなんだろ」
「ええ、内科の方も今合わせて精神科の研修をしています」
「なぁ、杉村。お前はこの初期研修が終わった後どうするのか先の事は考えているのか? 私は外科に戻って来いとは言ったが、お前の本当の気持ちは今どこにあるんだ」
僕の本当の気持ち
僕の本当の居場所は……僕は歩実香の傍にいたい。
「解りきったことを聞いてしまったようだな。今ならお前が本当に進むべく道に向かえることが出来る。手続きはちょっとめんどいが、今の時期ならこれからお前が望む場所で、そして進べく道を掴むことが出来る。これ以上の事は私の口からは言えない。後は……杉村、お前次第だ」
「僕次第ですか。それで笹山先生はこの後どうされるんですか」
「私か? 実は北部医科大の高度救命センターから誘いがあってな、もう一度救命と言う場所で自分を鍛えなおそうと思っている」
「高度救命センターですか。僕には務まりそうにもありませんね」
「だろうな」
笹山先生は微笑み僕の方に手を添え
「頑張れ杉村、歩実香君のためにも」
その1週間後、笹山医師はこの病院からその姿を消した。
僕が今、そしてこれからの僕の居場所として望んだのは……秋田
僕の中に宿う歩実香がいる地へ
手続きは確かに大変だった。在籍していた病院からの推薦状も特例ではあるが、僕の意をくみだしてくれた。
そのおかげもあり、本当に異例ではあるが、僕は大学医学部の精神科へと移籍した。残りの初期研修と共に後期研修を精神科で行う事を条件に採用された。
そう、僕は精神科への道を選んだのだ。
大学付属病院精神科では、初期臨床研修2年の終了見込み及び終了後、3年間の精神科医としての研修がある。
実際は3年間では収まる事は無いだろう。だが、僕の進むべく道は決まった。そして僕自身が望み、僕がいるべき場所、それが秋田、また歩実香と共に暮らせる日々がやって来たんだ。
初夏を迎えた秋田の気候はさわやかだった。
大曲の花火を見に来た時、あの時はもう秋田の夏も終わりを迎える寸前の頃だったんだろう。
新しい環境になじむことが出来るか不安はあったが思いのほかすんなりと僕はとけ込んでいたように思える。自分の時間も以前よりもかなり取れ、車の免許を取る事も出来た。やはりここで暮らすには車は必需品だ。若葉マークを付けながらも僕は購入した車で職場へ通いそしてこの秋田での生活を営んでいる。
震災の被害はこの秋田ではさほど大きな被害はなかったようだ。だが災害時は流通形態の乱れからガソリンや生活物資が不足していたらしい。
今はいつもの平常な生活が営まれている。
毎日の様に報道される災害現地の情景。確かにここ秋田のこの病院にも災害地からの転院されてきた患者は何名かいる。そして、秋田に避難して来た人たちの中にも心身を冒され、この精神科を受診し治療を受ける患者も増えつつあった。
指導医の元、外来の診察に入院患者の管理や状態管理など、今まで行ってきた業務とさほど変わらない業務をそつなくこなしている。
休日は歩実香のところに行って話をした。
返ってくることのない声に僕は話しかけている。
いつも、僕の中にいる歩実香に僕は話しかけている。
秋田市は海辺にある市だ。初めて日本海側の海を僕は見る事が出来た。
太平洋側の海とは違う。この季節のこの海は穏やかだ。
潮風が僕の体をさするようにする抜ける。
歩実香、一緒に来たかったな。
日本海側の海も広いな。
もう歩実香とは来ることは出来ない、いや、一度も来た事のない日本海側の海を眺め、沈む夕日を目にし、溢れる涙を抑えながら僕の心をゆっくりと沈みゆく太陽の様にその海に沈ませていく。
逢いたい。出来る事ならその姿をもう一度……
願う事のない想いを抱いた時、彼女は応えてくれた。
「また……逢えるよ将哉」
その歩実香の声に僕の涙は流れた。また本当に歩実香と逢える日が来るのなら、そんな日が来るのなら。
だが、まだその時の僕には運命と言う言葉は、その姿を明かしてはくれていない。
そう、その年の大曲の花火に行くまでは
8月の第4土曜日に毎年行われる《《大曲の花火》》に行くまでは……
あの花火の日、出会った少女は僕の心に新たな光を差し伸べてくれた。
あの時ここで歩実香と一緒に観た花火。
今僕の座る隣には彼女はいない。
いるはずのないその姿を僕は感じながら、夜空に打ちあがる花火をこの目に焼き付ける。
夜空に広がる大きな花火、そしてその後に伝わり響き渡る音。
「ようやく見る事が出来たよ」
「そうだね。ようやくだよ将哉。また見る事が出来て嬉しい」
すうと心が和やかになる。まるで歩実香が隣にいるかのように……
一つの花火が打ちあがりそして消えゆく。静寂な夜の世界が僕を包み込む。
その暗闇の中には歩実香は現れてくれない
誰もいない僕らの秘密のこの場所。ただ偶然にこの場所で花火を見ただけだった。
暗がりの土手の道を歩く音が近づく。
誰も来るはずはないと思っていた。でも確かに近づく足音、弱くそして疲れ切ったような足音が僕の後ろで止まった。
打ちあがる花火の光に照らされた後ろに立つその少女の姿を見た時
僕の心臓の鼓動は高鳴った。
「歩実香……」
「きっとまた逢えるよ」
歩実香が僕に囁いた。
また出逢う事が出来た。
そう、僕と蒔野巳美との出会いはこの大曲の花火があったから出逢えた。
歩実香によく似た少女
だが、彼女の心はすでに崩壊していた。
「ねぇ、君。そこに突っ立てないで、ここあいているから座りなよ」