涙は人の心からあふれ出す想い。
 解き放たれた涙を……心を、その気持ちに向き合う勇気を、少しづつでいい取り戻していきたい。
「巳美ちゃん、泣きなさい。溜めていた涙流してしまいなさい」
「おばさん……私、私…………」
 私は泣いた。おばさんの胸の中で
 おばさんは力強く私を包み込んでくれた。
 暖かい胸の中で、想いを全て涙に変えた。

「落ち着いた?」
 ゆっくりと私は頷く。
 おばさんはハンカチを出して私の頬を拭いてくれた
 ゆっくりと優しく
「すっきりしたでしょ。人はね泣かないといけないのよ。そして、涙の分だけ強くなれる」
 そんなおばさんの目からも涙が溢れていた。
 時はゆっくりと流れている。
 3月のやわらかな日差しが窓から(つぶや)く様に私たち二人にまとう。
 私は気づく
 どうしてこの女性(ひと)が私の所にいるのかに
「おばさんどうして、私の所に……」
 おばさんはちょっと微笑んで
「さぁ、どうしてでしょうかね」

「僕が呼んだんだよ」
 杉村先生が病室の入り口の所から小さな声で言った。
「先生が……」
「ああ、そうだ。もう僕の力ではどうしようもの出来なくなった。僕は蒔野さんに何もしてあげられない。君はもう……自分の進むべく先を歩まなければならないから……」
 自分の進むべく道
 彼はそう言った。それは、私は私が昇るべく梯子を目の前にしているような気がした。
 杉村先生はおばさんの横に来て
「前に蒔野さんに話した僕の知り合いの人なんだ」
「もしかして私の身元の……」
「ああ、でも正直この前断られたんだ。それは蒔野さんの事ではなくて僕自身の事でこの話しは断られた。でも、君があの雨の中病院から抜け出して街をさまよった時、僕は知ったんだ。僕は君にもう何もしてあげることが出来ない事を。そして蒔野さんが熱にうなされながら言ったある人の名前、君はもうじきすべての心を解き放つ時が来る事を。その時傍にいてもらえるのは、この人しかいないと僕はそう思った。だからもう一度お願いした。とにかく今、君の傍にいてもらえるだけでいいからと」
「先生……」
 まだ私は夢と現実の間を行き来している。
 和也の声がまだ私の中に残っている。
 杉村先生の声が現実にこの耳から聞えている。
 どちらの声を……どちらの世界を私は受け入れるべきなのだろうか。

 ううん、 どちらの世界も私は受け入れないといけないんだ。

 めくりあがった毛布を見つめ
 まだ両方の世界の中にいる。

「巳美ちゃん、今、急にこんな話をされてもどうしたらいいのか分からないわよね。いいのよ、ゆっくりで」
「おばさんは……、おばさんはいいの?こんな私の事を……」
「いいも何も、本当はね……ごめんね初めて巳美ちゃんと逢った時、あの時実はあなたを見に来たのよ。どんな子なのかしらって、この人からあなたの事を聞いてただちょっと見に行くつもりだった。もちろん遠い所から、あなたに話しかけようなんて思いもしなかった。でも運命ってあるのかしらねぇ。一目あなたを見た時、私はどうしてもあなたの傍に行って話しをしたくなったの。話さないといけないと思った。私の娘によく似たあなたに……」
 そっと私の髪をおばさんは撫でてくれた。
「でも一度断ったって……」
「ええ、断ったわ。でもね、それはこの人からの依頼を断ったの」
「杉村先生からの依頼を断った?」
「そうよ。この話をお断りした訳じゃないの。この人の……将哉さんの気持ちが揺らいでいたから、将哉さんからの申し出はお断りしたの。でも私はあなた、巳美さんと一緒に暮らしてみたいと思っていた。

 これは本当よ。

 最初に将哉さんが巳美さんの事で私に頼ってきたとき本当は嬉しかった。
 それに私は将哉さんが苦しむ姿を見るのが一番つらかった。
 私は……、私は、将哉さんは家族の一人だといつも思っていた」

 おばさんはそっと、杉村先生と私の手を繋ぎ合わせた。
 暖かい彼の手のぬくもりが私の手から伝わってくる
「将哉さんはね。巳美さんの事が好きなのよ」
「えっ」
 思わず声を出してしまった。
「この人はまだ、私の娘……歩実香の事を背負い続けている。もう、いいのに……」
「お母さん……」
 杉村先生はおばさんの肩に手をやり、軽く顔を横に振った。
「蒔野さん……巳美ちゃん。この話受けてもらえるかな。君はもうじき18歳になる。そうなればもう一人で生きて行かなければいけない。でも、僕は君を一人で手放したくはない」
「将哉さん約束よ、ちゃんと彼女の前で素直な気持ちを言いなさい。あなたもこれから自分の昇るべく梯子に向けて前に進むために」
 僕の顔を見上げ彼女はいう。

「蒔野さん僕はあなたを僕の一番信頼できる人の傍にいてほしい。そして……僕との繋がりをこれからも保っていたい。それがどんなかたちであっても僕は蒔野さんと繋がっていたい」

 これが……僕の本当の気持ち……

 あれ、変だな……さっきあれだけ泣いたのに
 また涙が溢れている。
 止める事の出来ない涙が溢れている。でもさっきとは違う暖かい涙だ。
 悲しみの涙なんかじゃない。
 ようやく私は光の向かう梯子に昇る事が出来たような気がした。

 夢、いいえ、私の想いのなかにいた和也はもうこの世にはいない。
 和也は言った「生きろ」と。
 そして「幸せになれ」と。
 あのぶっきらぼうな言葉で……そして暖かくて優しい想いで……
 私は生きなければいけない。
 私は……幸せにならなければいけない。
 それが和也の願いならば……
 いいえ、それは違う。私は生きなければいけない、そして私は幸せにならなければいけない。
 それは私自身の願いだから。

「杉村先生、こんな私だけど本当にいいの?」
 この期に及んで私は何を聞いているんだ……
「ああ、それを言うなら君から見ればこんなおじさんだけどいいのかな?」
「馬鹿……」
 毛布を頭からすっぽりとかぶった。
 見る見るうちに顔が熱くなっていた。
 私はその毛布を取る勇気はなかった。だから毛布をかぶったままで

「杉村先生、おばさん……ありがとう」

 多分二人には聞こえたと思う。
 ちゃんと聞こえていた
「巳美ちゃん何時(いつ)まで毛布かぶってるのお顔を見せて。ちゃんと明るい日の光を浴びなさい」
 ゆっくりと毛布を取ると窓から差し込む春の光が私を包み込んだ。
 その暖かい光の中、私はようやく生きている事の幸せを感じる事が出来た気がした。

 3月の終わり、私はこの病院を退院した。

 長かった病院生活。
 長かった暗いトンネルの出口を見つけたような気がした。
 まだ病院の桜の蕾は固く閉ざされていた。
 でもしっかりと桜の花びらを咲かせる準備をしている様に見えた。
 私も今はまだ桜のつぼみの様に固い殻をかぶったままかもしれない。でも、必ず綺麗な花を咲かせることが出来るようになると今の私は信じている。

 震災で苦しんだのは私一人だけじゃない。本当に大勢の人が苦しみ悲しみを乗り越えて生きている。
 私は、私ひとりきりじゃないんだ。
 だから私はここまで立ち直ることが出来たんだと思う。

 そして……
 あの時、あの場所で偶然に出会えた。一緒にあの花火を見る事が出来た人。
 彼もまた私以上に心に傷を背負っている事を私はこの後知る事になる。
 杉村将哉(すぎむらまさや)彼の傍にはいつも

 歩実香さんがいる。

 私が和也の想いを背負う様に、将哉さんは辻岡歩実香(つじおかふみか)と言う彼にとってかけがえのない女性(ひと)の想いを背負っていた。

 二つの傷ついた心は、これから寄り添うことが出来るんだろうか?
 私達はこの深い心の傷を埋める事が出来る存在にお互いなれるんだろうか……

 私の身請け先の家。そこはこじんまりとした家だった。
 初めてこの家の敷居をまたぐとき出た言葉
「お邪魔します」
 おばさんがそんな私に
「お邪魔します。じゃないでしょ。ここはあなたが住む家なのよ「ただいま」それが巳美ちゃんが言う言葉よ」
 初めて入る家、初めて感じるこの家の空気。それでも私はおばさんが言ったように、前をちゃんと向いて、おばさんに向けて言った。

「ただいま」と

 おばさんはそんな私をしっかりと抱きしめて

「お帰り」と……言ってくれた。おばさんの涙が私の頬を濡らすのを感じながら、私は心の中の暖かさと、おばさんの持つ心の苦しみを感じていた。

 それは将哉さんと同じ悲しみの色をした想いだった。
 小さな仏壇に飾られている遺影
 その一つに……私によく似た女性(ひと)が映っていた。

 辻岡歩実香

 私が愛した人 大島和也(おおしまかずや)。彼はもうこの世にはいない。
 そして……
 将哉さんが愛した人 辻岡歩実香(つじおかふみか)
 彼女もまた、もうこの世にはいない人だった。



「将哉、研修頑張ってる?こっち?……私は、私は今、………」

 愛してる将哉。だから私は………私は………