「巳美、帰るか。いつまでもここにいたらほんとに風邪引いてしまうぞ」
 少し躰は火照っていて寒さは感じなかったけど……頷いた。

 防波堤から降りて家に向かおうとした。


 2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒

 一瞬空の色が変わったような気がした瞬間

 大地は……海は……



 地の(いかづち)は鈍い高鳴りを感じさせた瞬間、奥底からうごめくような声を発して大地は激しく揺れだした。
 脚の底奥深くから突き上げられるような衝撃。
 立っていられない。
 その場にぺたんと腰が抜けた様に座り込んだ。
「巳美」
 和也が私の名を叫んだ
 ほんの数分間の事だったと思う。でもとても長い時間に感じた。
 そして和也が海を見つめ
「……退いた。海が……」
 私の手を強く握りしめ「走るぞ」私たちは海から離れようと懸命に走った。
「振り向くな、前だけを見て走れ」
 息が上がる。風が冷たい、空が黒い……
 次第に耳に入る異様な音
 高台のある場所までは……まだ遠い
「和也、和也、私もうダメ、走れない」
「あきらめるな、まだ先だ……走れ、巳美」
 私達は逃げていた。あのいつも私達を静かに見つめそして私がいつも見つめている海から
 海から襲い掛かる大きな波から……
 そっと海の方をに目をやる
 黒い空に海に大きな……盛り上がる山が見える。
 津波は波じゃない
 海の山がそのままなだれ込むように陸地に向かう。見た事の無い異様な景色を目にして、私はまた走った。
 走らずにはいられなかった。
 今すぐそこに襲い掛かる恐怖から逃げなければ……逃げなければ

 ……死ぬ

 その恐怖から逃れようとひたすら私たちは走った。
 強引に和也が引っ張る私の腕の向きが変わった
「間に合わねぇ。このままじゃ高台まで間に合わねぇ」
 向かったのは
 あの時、お祭りの花火を3人で見たあの小さな社のある高台だった。
 急な勾配の細い道を駆け上がり高台の社の入り口にある鉄の柵の前にようやくたどり着いた。
 でも、柵は固く閉ざされていた。
「ちきしょう……」和也が柵を掴み叫ぶ
 鉄の柵は固くそして高くその行く道を閉ざしている。

 ドスン……と鈍い異様な音が鳴り響いた。サイレンの音がけたたましく鳴り響いている。
 海の山が、海の山が崩れだし始めたのだ

「巳美、こっちから行くぞ」和也が指差したところ。それは
 硬い鉄の柵の横に広がる断崖絶壁の様な斜面
「無理だよ、そんなの……私には無理だよ」
 泣き叫ぶように和也に訴えた。
「無理でも行くんだ」和也が木に手をかけ、足をかけ私に手を差し伸べる。
「早く来い巳美」
 恐る恐る伸ばす私の腕を和也は力強くしっかりと掴んで引き上げた。
「巳美あの木を掴め」言われるままにその木を掴み、和也が私の躰を押し上げた。
 もう、海はこの高台の所まで到達していた。
 急激に増える瓦礫と海の水……水ではなかったどす黒い色の海がすでに私たちの足元にまで押し寄せていた。
「巳美、そこから歩道までジャンプしろ、お前なら出来る。早く、その後俺が行くから……」
 その木から柵の内側に歩道までおよそ1メートルの距離がある。立つ木の足元は不安定、それも意を決して私は飛び込んだ。
 急な斜面の歩道に躰が叩き付けられ、柵の所まで転がり落ちた。すでに柵の所までどす黒い水は押し寄せている。
「行ったか……巳美」
 その和也の声に私は起き上がり和也の方に手を差し伸べた。
 もうその時、和也の躰は半分くらいが水に浸かっていた。
 押し寄せる流れに必死に逆らいながら……
 ようやく和也の手が次の木を掴もうとしたその時
 大きな波のうねりが押し寄せた。
 後少し、あと少しでつかめた和也の手……必死に近くの木にしがみつき
 和也は言った……
 和也は叫んだ……力いっぱい本当に力いっぱい叫んだ

「巳美、 巳美……生きろ」

 生きろ……巳美ぃ…………

 その声を耳にした瞬間、バキバキと言う音と共に和也の姿はそこから消え去ってしまった。

 うそ……そ、そんな
 今さっきまでいた和也の姿が、声が一瞬にして消え去ってしまった

 和也――、和也ぁ……
 必死に和也の名を叫んだ……でも、もうその声も、その姿も戻ることはなかった。
 すでに私の胸のあたりまで水は押し寄せている。濡れた急斜面の歩道を無我夢中で駆け上がった。
 小さな社が目に入り、あの時花火を見た場所で……私はしんじられない光景を目にしてしまった。

 黒い空に伸びるように盛り上がる大きな海の山が陸にあたり崩れその波は大きく広がっていく。
 近くで叫ぶ人の声、その声も次第に聞こえなくなっていく。
 崩壊する建物に流れ出す多くの車に押し出され流れてくる漁船
 足元まで水が押し寄せてくる。

 怖い、見てはいけなかったんだ……
 少しずつ水かさは増してくる。
 耐えがたい恐怖が私を包み込んだ
 そして私は人、一人がようやく入り込める社の中にこの身を潜めた。
 観音の扉を固く締め外の現実から逃避すかのように
 その後の事はあまり記憶にはない。
 ただ恐怖と寒さに耐える事で精一杯だった。
 およそ三日後、私は発見され救助された。
 私が生き延びたのは奇跡的だったらしい。この時期の夜の気温はマイナスにまで下がる。普通だったら低体温症で命を落としていた。
 私が助かったのはあの社の中にいたからだと言われた。
 あの小さな社が寒さから私を守ってくれたんだと言う。
 担架に乗せられ何重にも毛布を巻きつかれ、救護場所に運ばれた時私は震えだした。寒さと思い出すあの光景、そして目の前で消え去った和也のあの姿
 そっと差し出された湯飲みに入った白湯《しらゆ》を受け取り
 ゆっくりと少しづつ口に含んだ
 温かい……
 口に含み静かに飲み込むとその暖かさがお腹の中に伝わってくる。
 そして静かに目を閉じ私は知らぬ間に眠りに入った様だ。
 それから二日後、目を覚ました私は……この地の現実の姿を見る事になった。


 思い出してしまったんだ……
 何もかも、自分の中に仕舞い込んでいたものを全てを……

 和也は私を助けるために……その彼の命を犠牲にした。
 また蘇る和也の最後の声

「生きろ……巳美」
 和也が言い残した最後の言葉。

 どうしてこんな私なんかのために……
 むしろ、私なんか助からなければよかったのかもしれない。
 愛する人をこの世界から消し去った私。
 だから私は……私は生きながら自分を死なせてしまったんだ。
 和也の言い残した願いに背き、私は……自分を殺した。
 それでも和也は必死に私の事を助けようと、心を殺してしまった私ににまた生きる道をつくれと励ましてくれていたんだ。

「幸せになれよ……巳美」

 白い霧の中、和也はそう言って去っていった。
 次第に消えゆく和也の姿

 和也、和也……愛してます。
 あなたの事を一番愛しています。
 だから……
 泣き叫ぶように消えゆく和也に向かい私は叫んだ。腹の底から、自分の心が張り裂けんでもいいくらい……
 でも、和也は振り向かない。あのぶっきらぼうな……ううん、照れ屋で、とても優しい和也は片手を上げ

 静かに……白い霧の中に消えて行ってしまった。

 ゆっくりと重い瞼が光を感じ始める。
 私の目に映るのは、病室のいつもの白い天井とベッドを囲むカーテンだった。
 いつもの、毎日見慣れている部屋
 私はまた戻って来たんだ……今を生きる私の世界に。

 手に感じる暖かさ。とても暖かくて、とても……
 そこにはあの女性《ひと》が私の手をしっかりと握ってくれていた。
 掴みとれないでいた想いが湧き上がる。

「おばさん、私、私……」
 涙が溢れだす。止めることが出来ない涙が。
 泣くことさえ出来なかった。いいえ、泣くことを拒絶していた私の涙は今、あふれ出す。
「おばさん……」
「いいのよ、ようやく泣けたね。思いっきり泣きなさい……巳美ちゃん」
 止める事も止める気さえなかった。
 泣きたかったんだ。
 思いっきりこの悲しみを受け入れるために、私は泣きたかったんだ。

 今、ようやく私は

 泣くことが出来たんだ……