一人町の中を歩きさまよい、大きく膨れ上がった人の波をあらがうかの様にただひたすら歩き回った。

 「疲れた。なんだろう、本当に疲れた。これからの私には何があるんだろう」

 そんな思いが、夜空に開いては儚く消えいく大輪の花の様に何度も私の心を襲っていた。

 泣きたいでも、泣けない。

 胸が張り裂けそうなくらい辛いのに……どうしても泣けない。

 町のざわめき人々の声、何故か聞こえない。されど花火の音だけはしっかりと私の耳に入ってくる。 

 うごめく人の波にぶつかりながら私はたださまよっていた。

 気が付くと、ちょっとした小高い川の土手を歩いていた。

 ここからは家や木々が邪魔になってあまり花火は見えないんだろう。あれだけいた人影はない。

 ただ「ドドーン」という轟音だけが響き渡っていた。

 しばらく歩いていくと、その土手のまたちょっと小高くなってい所に一人の人影を見る事が出来た。

 そのままその人の近くにまで行くと

 目の前に大きく花開く夜空の大輪の花を本当にまじかに観ることが出来た。
 思わず足を止め、その夜空に開く大輪を見つめていた。

 大きく夜空に花開く大輪華

 大きくてそして華やかに目に焼き付く花火の姿

 そして消えゆく金色(こんじき)の火花……。薄っすらと見る目に残像を残しながらドドーンと音が響き渡る。
 

 「ねぇ、君。そこに突っ立てないで、ここあいているから座りなよ」


 ふと私の下の方から若い男性の声が聴こえて来た。

 少し広めのビニールのシートに座り、私の方を向いて語りかけていた。


 何もためらう事もなく私はその男性の横に座った。


 「ここ、花火見えるんだよ。でも近くの木がじゃまで大きい打ち上げしか見れないんだけど……でも誰も知らない穴場なんだ」


 腰かけると同時に彼は私に話しかけて来た。

 でも、私は黙って花火を見ていた。

 花火は花開いた後に音が振動となって私の体に響いてくる。
 
 目にした光景が後から体に伝わる感じ……

 まるで今の私を見ている様だった。


 あの時見た悲惨な光景。そして最後に交わしたお母さんとのあの朝の喧嘩……

 その光景はじわじわと時間が経つにつれて私の心を蝕(むしば)んでいた。

 時間が過ぎて行けばいくほどあの、言葉にならない人が飲み込まれる光景や叫び声が、頭の奥底からあふれ出してくる。


 その声に私の頭はいっぱいになる。
 思わず私は彼の横で頭を抱えて泣きじゃくった。


 「どうしたの?」


 そんな私を彼は柔らかい物腰の声で語り掛ける。

 それに応えるだけのことは出来ない。いいえ、応える余裕さえない状態。

 発狂して気を失わない様にするのが精いっぱい。


 それでも間をおいて花火は打ちあがる。


 辺りが一瞬明るくなる。そして後から体に伝わる音の振動。

 その薄明るさの陰に彼の優しそうな面影を感じる。


 ふと彼の手が私の手に触れる。


 いやらしさとか、強引さとか。そんなことは一つも感じなかった。

 むしろその手の暖かさが、いっぱいになった私の心を和らげる。

 黙って彼は私の手を優しく握ってくれた。

 花火が終わるまで…………


 「花火終わったね」


 辺りは静けさと共に虫の声が響き渡るのが聴こえるようになった。夜露に濡れた草の陰からひっそりと……


 その静寂(せいじゃく)の闇が私を包み込む。


 さっきまで輝き鳴り響いていた花火はもう夜空に舞い上がらない。
 闇は私を恐怖へと誘(いざな)う。


 彼が私の手を離した瞬間、私の体はガタガタと震えだした。

 震えだした私の姿を見て彼は慌てることなく、またそっと私の手を握ってくれた。


 彼のその暖かい温もりが、次第に私の冷え切った手に伝わってくる。暖かさが伝わってくるのと同時に次第にからだの震えは落ち着いてきた。


 それからどれだけの時間が流れたんだろう……


 ずっと彼は私の手を優しく握ってくれていた。


 なぜだろう……彼の手から伝わる手の暖かさがとても懐かしく感じるのは……

 彼とは今夜この場所で初めて出会ったばかりなのに、その私を握る手の温もりは……暖かさはずっと前から知っているかのように感じる。

 それは彼がそうさせているのかもしれない……


 「落ち着いた?」


 ゆっくりと優しい口調で彼は問う。

 それを私は小さく頷いて応えた。

 「それじゃ、送っていくよ。家はこの近く?」
 私はその言葉に小さく首を振った。

 辺りは暗くて分かりずらいはずなのに彼は、それをはっきりと見ていたかのように

 「こんな時間にしかもそんな状態じゃ心配だよ」

 その言葉には何も卑(いや)しさを感じなかったが、私は断った。

 そして彼を振り切るように走りながらその場を立ち去った。

 それ以来私はその彼に出会う事は無かった。



 私が入院するまでは……
 


 そして、秋田県大仙市地方の夏はこの花火の日を境にゆっくりと秋の色を次第に濃くしていく。



 秋が深まるにつれ、同じように私の心も次第に崩れゆく。



 9月に入り私は学校に行かなくなった。

 自分の部屋の片隅で膝を立てただ床のある一点だけを見つめ続けている。

 火が陰り夜になっても明かりをともす事もなくずっと……

 そして食事もほとんど、いや、食べることを拒絶しだした。

 無理やり口にしてもそれをすぐに吐き出してしまう。もう水さえも受け付けることが出来ない状態だった。

 体はやせ細り、目はくぼみはじめ、その姿は生きる骸骨の様。このまま私は死んでも良かった。

 実際はもうそんなことを考える事さえも出来ない状態だったらしい。

 ちかくの病院から秋田市の大学病院の精神科へ行くように叔父と叔母は紹介状を手渡された。

 稲刈りも終わり、あれだけあった稲穂が全て刈り取られたころから、秋田大学病院精神科の病棟で私は時を過ごすことになった。


 私は「PTSD 」 心的外傷後ストレス障害(しんてきがいしょうごストレスしょうがい )と診断された。



 病院に来た時は、もう自分が自分である事も解らない状態だった。私は自分で自分の心を閉ざしてしまった。



 それはあの震災の光景を思い起こさないくても済むように、最後にお母さんと喧嘩してしまったことを悔やまなくても済むように。


 私がここに入院してどれくらいの月日がたったのだろうか。気が付けば、窓辺に映る外の景色には雪が降り積もっていた。その日は冬の秋田市では珍しいほど天気が良くぽかぽかとした陽気の日だった。



 大きな窓ガラスを通して、その陽の光は椅子に座り込む私を優しく包み込んでくれた。

 「暖かい……」ふと口ずさむ言葉にあの時の彼のあの暖かい手の温もりがよみがえる。


 あの花火の日に出会った彼の手の温もりを……


 「蒔野 巳美(まきの ともみ)さん。今日はとても暖かいですね」


 そう言って通りかかった私の主治医の助手先生が、隣の席に座りそっと私の手を握ってくれた。


 その時感じた彼の手の温もり。

 それは、あの時の。

 花火の時の彼の手の暖かさと同じだった。

 横にいる彼の顔を眺めるように見つめる。


 「先生。もしかして……あの時の……」


 「ようやく思い出してくれましたか。そうですよ、花火一緒に観ましたね」


 彼の名は「杉村 将哉(すぎむら まさや)」ここ秋田大学医学部精神学科の医員。まだまだ駆け出しの彼は教授からの指導の下私の担当もしている。

 何故かわからないが彼の声を訊いていると何かが和らぐ。

 「少しづつですけど蒔野さん落ち着いてきましたね。良かったですね」

 少し子供っぽいあどけなさを感じる彼の顔は、白衣を着ているから医者の様に見えるけど、白衣を脱いだら………


 思わず想像したら少し笑えた。

 「どうしました?私の顔に何かありますか?」

 不思議そうに彼は私の顔を覗き込む。


 それからだったんだろう。


 私の心は次第に変わってきた。