鳥の囀りが聞こえた。絃音は縁側に座りながら空を眺めていた。風にさらされて雲が形を変えていく。夏の空は澄んでいてどこまでも広がっているような気がした。

「まるで、旦那さまみたい」

「僕がどうかしましたか?」

 独り言として呟いた言葉にまさか反応されるとは思っていなかった。今までは向かってくる足音に気づいていたので相当気を抜いていたのだろう。

「すみません独り言です。忘れてください……」

「忘れません。絃音さんのことならなんでも知りたいですから」

「へっ?」

縁側にやってきた京也は絃音の隣に腰掛けた。

「僕がどうしたのか教えてくれませんか?」

 真っ直ぐに目を見ながら問いかけられる。心臓が早く動いて落ち着かない。

「今日は空が晴れているので眺めていたのです。それで澄んでいる様子が旦那さまの瞳のようだと思い口に出してしまいました」

「そうですか……。僕はこの目があまり好きではないのですが、絃音さんに言われると嬉しいですね」

 京也の言葉は真っ直ぐだ。それはおそらく彼の性格に影響しているのだろう。宇苑家別邸にやってきて婚儀を行った春から数ヶ月が経った。変化していく日々。一方でなぜか懐かしさも感じていた。初めて訪れた場所のはずなのに、なんとなくどこに何があるのかすぐに把握できた。勉学もほとんどやってきたことがなく、嫁ぐための付け焼き刃のような知識しかなかったはずだ。だが初めて見ると驚くほど頭に入った。平川家で家庭教師に教わっていた時からは想像もつかない。

「ところで絃音さんは宇苑の生活にはなれてきましたか」

「はい。屋敷のみなさんがよくしてくださっているおかげです」

「その返事を聞けて安心しました。ところで明日この近くで祭りが開かれるんです。絃音さんもご一緒にどうですか」

「良いのですか?」

「もちろん。明日は仕事ではありませんし、僕が一緒に行きたいのです」

「……それでは私もご一緒させてください」

  了承を得ると京也は執務室に戻ってしまった。急遽決まったが明日は京也と初めての外出になる。そもそも幼少の頃から外出した経験はないに等しい。絃音の胸は明日の祭りのことでいっぱいになっていた。

***
 「それでは行きましょうか絃音さん」

「はい」

 京也から差し出された左手に絃音は手をのせた。二人が手を繋いでいるのは、京也がはぐれないようにするために提案したためである。
本日は年に一度開催される宇苑の実りを願う豊穣祭が行われる。赤色の提灯が吊るされ、多くの屋台が並んだ。神輿を担ぎ練り歩く人々の様子も見られた。
 絃音はいつも着ている着物ではなく、浅葱色の浴衣を身に纏い、髪も三つ編みにしていた。明日、京也と祭りに行くと伝えたところ張り切って準備してくれたのである。

「何か気になるものはありますか」

「ええと」

 祭りそのものが初めてのため何を見るべきかわからない。戸惑っていると京也が足を止めた。

「それでは綿飴を買いに行きましょう。白くてふわふわで女性に人気なんです」

「ふわふわ」

「はい。きっと絃音さんも好きになると思いますよ」

 屋台に着くと京也は店主に声をかけた。知り合いなのか京也を見た途端親しげに話し出す。

「京也さま、祭りに顔を出すなんて久しぶりだな。そこの女の子はもしかして妹さんか?」

「違いますよ、僕のお嫁さんです」

 そう言って絃音を抱き寄せた。腕と体が密着する。

「こりゃ失礼した、奥様だったか。初めまして、これからもこの人を支えてやってくれよ。働きすぎで俺たちも心配しているんだ」

「はい、私にできることであれば……」

「変なことを絃音さんに言わないでください」

「いいじゃねえか、ちょっとくらい」

「駄目です」

「旦那さま、私は大丈夫ですよ」

「絃音さん……」

「はっはは!やり手の京也さまも奥さんには骨抜きというわけか!」

その後店主に別れを告げ、綿飴を食べた。京也の言った通りにふわふわで甘かった。舌の上に乗せればすっと消えていってしまう。

「ありがとうございます、旦那さま。とても美味しかったです」

 食べ終えると祭りの様子を二人で見てまわった。豊穣祭は宇苑家別邸があるこの土地以外でも行われている。実り豊かな宇苑では大事な伝統だ。秋は収穫の時期である。人々は忙しく働かなければならないので、その前の夏に息抜きをして備えるのだ。そのため今日ばかりは大人も子どもも関係なくハメを外している。

「これは、迷ってしまったのでしょうか……」

 絃音はポツリとつぶやいた。先ほどまで一緒にいた京也がいなくなっている。手を繋いでいたはずだが人混みの中で離してしまったようだ。
 人の往来は続いている。立ち止まっているわけには行かないと考え、道端にそれた。
 絃音は硬い石畳の上に腰を下ろす。人々の声が少し遠くから聞こえる。多くの音を聞きすぎて少し疲れてしまった。
 この祭りに参加をして京也を慕う大勢の人を見た。道を歩けば京也に挨拶をし、屋台によれば声をかけられた。この土地のために尽力した軌跡が見えるようだった。
 絃音は自分の両手を見つめた。京也の元に嫁いできて数ヶ月。何か彼のために役立ったことはあるだろうか。着るもの食事、部屋。たくさんのものを与えてもらった。では自分自身は?
 そうしていると足元に小さな衝撃がきた。見れば小さな男の子が絃音の足にしがみついている。すると男の子が顔を上げ、視線が交わった。

「あれ、お母さんじゃない」

「違います、ごめんなさい」

「大丈夫。お姉さんは迷子?」

「はい、恥ずかしながらそのような状態です」

「じゃあ、僕が一緒にいてあげる!」

 そう言って絃音の隣に腰掛けた。

「お姉さんは何か悲しいことでもあったの?さっき悲しそうな顔をしてたから」

「そう、かもしれません」

 京也の役に立てていない。自身の無力さを痛感する日々。ユリも平吉も側近として仕事を任されているのだ。比べられることではない、それはわかっている。

「旦那さまは何かを私に隠しています」

 笑顔に少し影が落ちることがある。何か言いたげな表情なのだ。けれどそれを口に出すことはない。

「理由を旦那さんには聞かないの?」

「私から聞くなんてとても……」

「奥さんなのに?」

「え?」

「うちのお母さんとお父さんはいつも自分の気持ちを聞いたり、伝えたりしてる。それで喧嘩になる時もあるけど、気持ちを知らないよりはマシなんだって」

「気持ちを、伝える」

「そう!お姉さんの旦那さんにまずはお姉さんの気持ちを伝えてみたら?そしたら何か話してくれるかもしれないよ」

「そうでしょうか……?」

「何にもせずに悩むよりやった方がいいよ。僕はそれで時々怒られちゃうけどいいんだ。家族だから」

「家族だったら怒らせてもいいのですか」

「うーん、違うと思う。でもきっと許してくれるって思っちゃうんだ。悲しませたならちゃんと謝るしね。それくらい信頼してるってこと!」

  思い返してみれば京也に絃音から思いを伝えることは今までなかった。いつでも京也に寄り添ってもらってばかりだった。
 それが京也が何か隠している原因だとしたら、絃音は変わらなければいけない。知りたいのなら、なおさら。

「旦那さまに思いを伝えてみようと思います」

「うん、頑張ってね!」

 それじゃあ僕は行くねと言って、腰を上げた。

「お母さんとはぐれたのではないのですか」

「ううん。お姉さんが心配だったから来ただけ。あれは口実。ちゃんとお母さんにもいいよって言ってもらったから大丈夫」

 言い残してあっという間に絃音の前いなくなってしまった。見た目年齢以上にしっかりとした子だったと絃音は思う。
 ここでずっと座っているわけにはいかない。京也と合流しなければ。そう思って立ち上がる。

「絃音さん!」

 名前を呼ばれた。声がした方向を見ると、息を切らして呼吸が荒くなっている京也がいた。

「手を離してしまってすみません」

「私こそはぐれてしまってすみませんでした」

「絃音さんが無事でよかったです」

 そう言って京也は絃音の両手を握った。少し手が震えているのがわかった。必死に探してくれていたことを示している。
 ごめんなさい、という言葉が喉から出かけた。そこで先ほどの男の子との会話を思い出した。本当に京也に伝えたいことは、はぐれてしまったことへの謝罪だろうか。少し違うような気がした。

「探してくださりありがとうございます」

「こちらこそ、何事もなくてよかったです」

  少し屈んで絃音と視線を合わせてくれる。安心させるように微笑んだ。
 胸が少し跳ねた。締め付けられるような苦しいものではない。心の温かい部分をそっと触られたような甘さがあった。

 「小さな男の子が絃音さんの居場所を教えてくれたのです。僕がお礼をしようと思ったら、すでにいなくなってしまっていたのですが」

「私も会いました。お母さんと一緒に来ていたようです」

「それでは帰りを心配する必要はありませんね。また会えたらお礼をしないといけないな」

「その時は私もご一緒させてください」

「もちろん。最後に寄りたい場所があるのでもう少し僕に付き合ってください」

 そう言われて絃音が連れて行かれた場所は高台だった。少し下を見れば祭りで賑わっている人々を見て、宇苑の土地を一望できた。

「この景色を絃音さんと一緒に見たかったんです」

 京也が手をかざすと風が吹いた。そして畑で成長した麦が黄金色に輝いている。夜空に浮かぶ星々と共鳴しているようで幻想的だ。祭り会場でも歓声が上がっている。
 これは京也が持つ神力を行使してできるのだと教わった。力を制御するために幼少の頃から訓練してきたらしい。

「とても綺麗です。ありがとうございます、旦那さま」

「僕も一緒に見ることができて嬉しいです。......一つだけ覚えていてほしいことがあります。僕は何があってもどこにいても絃音さんのことを想っています」

京也は不思議な雰囲気をまとっていた。何だか消えてしまいそうな雰囲気だ。
この場所でなら聞くことができる気がした。絃音がずっと疑問に思っていたことだ。宇苑家別邸にやってきてから感じる違和感、感じる懐かしさ。京也の何かを隠すような表情。
「旦那さま、一つお聞きしたいことがあります。私に関することなのですが、結婚する以前私は宇苑家別邸に来たことがあるのでしょうか」

 すると言葉を遮るようにして、京也は絃音の前髪をかきあげた。まるでその言葉を拒むかのように。そして額に口付けをする。絃音は驚くと同時に、体の先から熱をもっていくのがわかった。頭では何も考えられなくなった。
どちらともなく手を繋いだ。宇苑家別邸に到着するまで離すことはなかった。