体が暖かかった。いつもは床の上に薄い毛布をかぶって寝ている。暖かさを感じたのはいつぶりだろうか。絃音は思い出せなかった。
 目を覚ますと見慣れない天井が広がっていた。

「絃音さま、おはようございます」

 扉を開けて部屋に入ってきたのはユリだった。

「雨戸をお開けしましょう。最近は暖かくなってまいりましたから。季節はもう春になります。自然が芽吹きだす素敵な風景が見られますよ」

 ユリは絃音が起きていることに気がついていないようだ。絃音が寝ている布団には近づくことなく部屋を綺麗にしていく。

「あ、あのユリさん?」

 声がまるで久しぶりに声帯を使ったかのように枯れている。ユリが早足で絃音の方へ近づいてきた。

「絃音さま……?」

 ユリは目を見開いて信じられないといったような表情を見せた。

「すみません、私寝過ぎてしまったのでしょうか」

「そんなことはございません。ですが……」

 そのまま言葉が紡がれることはなかった。絃音は不思議に思った。ユリはしっかり者だという印象を受けていたから。

「一つ質問をしてもよろしいですか?」

「もちろんでございます」

「旦那さまとの結婚の儀は四日後に行われるのですよね」

「え……?」

 もう一度ユリが目を見開いた。

「何かおかしなことを言ってしまったでしょうか」

「いえ、問題はございません。無礼な態度をとってしまい失礼いたしました」

「それは大丈夫です。昨日まで飾られていたお着物がなくなっていたものですから、気になってしまって」

「今は諸事情によりここにはございませんが、儀式は予定通り行われる手はずになっております」

 落ち着いた態度を取り戻したユリは恭しげな姿勢になった。

「失礼ですが一つ質問させていただいてもよろしいでしょうか?」

「はい」

「絃音さまは、いつ宇苑家別邸にいらっしゃった(・・・・・・・・・・・・・・・)のでしょうか」

 不思議な質問だった。絃音は少し首をかしげる。

「それは昨日のことだと思います」

 ユリは心の中で息を呑んだ。だがそれを態度に表すことはしなかった。

「失礼いたしました。お疲れでございましょう。もうしばらくこのお部屋でお休みください」

 失礼いたします。頭を下げてユリは行ってしまった。


***

 絃音が目を覚ましたと京也が報告を受けた時全身から力がぬけた。真莉子が宇苑家別邸にやってきたあの雨の日に彼女は京也を庇って倒れたのだ。
 何が起こったのかすぐに判断できず、高笑いしている真莉子の声だけが聞こえていた。何もわからなかった。真莉子は興奮状態にあったが何か危害を加えそうな様子には見えなかった。突然後ろにいたはずの絃音が庇うようにしてたちはだかり、次の瞬間にはドンと鈍い音がして倒れていた。床にぶつかることを回避はした。しかし何度名前を呼んでも目を開けて応えてくれることはなかった。
 過去の出来事が思い起こされる。流れていく鮮血、力無く垂れ下がった腕、恐怖に染まり硬直した体。つい先ほどまで母親だったもの。
 あの日から京也の人生が一変した。次期宇苑家の当主の座を追われ、後ろ盾も無くなった。支えとなってくれたのは乳母とその娘であるユリだけだった。
 京也の持つ空色の瞳は代々宇苑家に受け継がれてきた特別なものだ。宇苑宮の守神であるウカノミタマから与えられたと伝承されている。実り豊かな大地を守る蒼穹のように、人々を見守り未来を見通せるようにと。
 そして特別な瞳を持った人は必ず宇苑家当主になっていた。京也も当然そうなるだろうと周囲の大人たちは期待していた。
 しかしその事態をよく思っていない人間たちによってあっさりと事態が覆されたのだった。何も信用できなかった。
 母親が刺客に殺された直後は乳母やユリに対してもぞんざいな態度をとっていたように思う。その時のことを思うと京也は二人に対して頭が上がらない。現在宇苑家別邸で暮らしている使用人たちはすべて京也とユリが身分関係なく信頼できると判断し雇った者たちだ。
 その後現当主である京也の父親は京也が当主継承権を失ったにも関わらず、宇苑家に引き留めた。おそらく宇苑家に伝わる伝承のためだろう。神から賜った瞳を持つ者を外に出すわけにはいかない。母が無くなった時は何も行動せず傍観していたというのに。保身に走る現当主を憎らしく思った。
 絃音が京也に嫁ぐことになったのも現当主の差し金だ。
 呪われた子どもの噂は京也も知っていた。由緒正しい祓い屋の家系に生まれながらも力を持たない少女。後ろ盾を失い地位を追われた京也。境遇を鑑みて他人事とは思えなかった。
 光を宿していない瞳がかつての自分の姿と重なったのだ。この人を幸せにしたい。そうすれば過去の自分まで救えるような気分になれた。
 宇苑家別邸に来た当初、絃音何に対しても無関心だった。すべてがただそこにあるものに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。
 夏、少し物事に関心が出てきたのか絃音は目で何かを追っていることが増えた。特に興味を示していたのは縁側に面した庭を見ている時だった。それを京也は見かけてお茶に誘った時から晴れた日にはお茶会をすることが二人の了解になった。
 そして秋、京也が一番好きな季節だ。木々が色づいていく様子も、風も、宇苑に住む人たちが活気づく様子も、その全てが好きだった。そのことを絃音に話すと興奮しいている京也に対してふんわりと微笑んだのだ。
 京也はその時初めて表情は動くものの変化は乏しかった絃音の笑った顔を見た。
 胸が高鳴っていくのを感じる。守りたいと思っていた。でもそれはユリたちに感じているもと同じで家族への愛情だったはずだ。けれどそれは間違いだったと確信する。
 その目は京也だけを見つめていてほしい。この手でずっと守ってあげたい。想いが込み上げてきた。気づけば彼女に恋していた。
絃音が倒れ医者に見せている時に真莉子を問い詰めた。彼女は驚くほどあっさりと理由を答えたが、内容に関しては口を全く割らなかった。倒れた原因は呪術をかけたことにあるという。宇苑家直属の祓い屋の紹介で術師とつながったそうだ。術師は神社に属するものの定住はしておらず旅をしながら依頼を受けている。術を解くためにはそいつを見つけ出すしかない。
『あなたにこの呪いが解けるかしら?』
 目を覚ました今、絃音は心細く思っているはずだ。ユリの話では記憶が一年前宇苑家別邸にやってきたところまで戻っている可能性があるという。守りたいと思っていはずが、逆に守られてしまった。
 今度こそ失敗を犯したりしない。京也の中にもう迷いはなかった。