その日は土砂降りの日だった。秋から冬への移り変わりの時期で気候が安定していない。外へ出かけることも難しいため、絃音は自室でユリと共に勉学に励んでいた。

「絃音さま、絃音さま!」

 廊下から小走りでやってきたのは京也の側近である平吉だった。大柄で背も高く素朴な顔立ちの青年だ。絃音が初めて会った時は京也よりも背の高い平吉に怯えていたが、飾らない彼の性格のおかげでだんだんとなくなっていた。
 いつもは穏やかな顔をしてるが、今は焦りが表情に滲み出ていた。

「平吉どうしたのです。こんなに慌てて、絃音さまに失礼ですよ」

「すみません絃音さま、ユリさん。旦那さまより絃音さまへ急ぎの連絡があり、まいりました」

「旦那さまから?」

「はい。本日宇苑の本家よりお客様がいらっしゃることになりました。それでくれぐれも絃音さまは部屋からでないようにと仰せつかっております」

「……それはなぜでしょうか」

「申し訳ございません。俺の方からはなんとも答えることができません」

「そうですか」

申し訳ございません」

 絃音は少し眉を寄せた。胸が少し締め付けられるような感覚がする。今までも京也への客がやってくると報告を受けることがあった。しかし、今回のように詳細を尋ねて誤魔化されるようなことはなかった。
 その様子を見ていたユリは平吉に耳打ちをした。絃音はそのことに気がついていない。ユリの言葉を聞いた平吉はわかったというように頷いた。

「それでは俺はこの辺で。勉学の最中失礼いたしました。それと来訪者が帰ったら一緒にお茶をしましょうと旦那さまがおっしゃっていましたよ」

「本当ですか」

「はい。そのように仰せつかっております」

「わかりました。お待ちしておりますと旦那さまにお伝えください」

「かしこまりました」

一例をして平吉は部屋から去っていった。

「心配になることはございませんよ。旦那さまがいらっしゃるまで今日の範囲を終わらせてしまいましょう」

「そうですね」

 ユリの言葉に絃音は少し引っ掛かりを覚えた。心配、心配?この胸が少し波打って落ち着かなくなるのは、心配をしているということなのだろうか。今までこんなことはなかった。
 いつだって心臓は一定間隔で音を刻む。痛みを覚えることなんてない。父親に殴られた時も一人部屋で寒さに凍える日でも音が不規則になることはなかった。
 宇苑家別邸にやってきてからは誰かに乱暴に扱われることなく、温かい服を着てお腹がいっぱいになるまで食事をすることができた。周りには支えてくれる人がいる温かい場所だ。
 平川家にいた時と比べ物にならないほど豊か生活を送っている。それなのにどうして、胸が痛むのだろう。
 絃音にはその理由がわからなかった。
 それからさらに時間が経過した。平吉が報告に来てからすでに三時間は経過している。勉強の時間も終わってしまいユリは様子を確認してくると少し前に部屋から出ていってしまった。
 絃音は一人部屋で今日習った範囲の復習をしていた。内容は宇苑での歴史についてである。本当は宇苑家別邸にやってきてすぐに学ぶ予定だった内容だった。しかし和国建国の歴史をそもそも知らなかったため、歴史を一から学ぶことになったのだ。長い建国までの歴史を学び終え、最近ようやく宇苑の歴史に入り始めた。
 復習もそこそこにして絃音はペンを机に置いた。長い時間持っていたので腕が疲れてしまった。手首を軽く動かしつつ、耳を澄ました。外は雨が降り続いていて止む気配は感じられない。
 それにしても誰もやって来ないなと思った。ユリが現状確認のため部屋を出て行ったが、すぐに戻ると言っていた。
 何か厄介なことが起こっているのだろうか。足がむずむずして落ち着かない。筆記用具を手先で遊んでしまう。居ても立ってもいられなくなった。
 少しだけ部屋の外に出たい。今の様子を確認しにいくだけ。何時間も部屋の外に出ていなかったため息苦しく感じていた。平川家にいた時でさえこんなことは、今まではこんなことはなかったのに。
 椅子から立ち上がり扉へ向かう。ドアノブに手をかけ少しだけ引いた。できた隙間から廊下の様子をうかがう。左右を見ても誰一人として通っていなかった。
 部屋から一歩足を踏み出す。一層雨の音を強く感じた。廊下を一人で歩いていく。京也がいる場所はおそらく南棟にある客間だ。西棟にある絃音の部屋はそう遠くない。
 部屋にいて欲しいという京也からの言伝を破ってしまった。少しだけ様子を確認したらすぐに戻る。絃音は自分自身にそう言い聞かせた。
 客間に近づくと人の話し声が聞こえた。内容まではわからなかったが話しているうちの一人が京也であることはわかった。

「……と何度も言っているだろう」

「そんなの納得しないわ!だいたいね……」

 もう一つ聞こえてきたのは若い女性の声だった。おそらく絃音と同じくらいの年齢だろう。高い声を張り上げて興奮していることが扉ごしでもわかった。

「真莉子、これ以上いれば雨が強くなって本邸に帰れなくなるぞ」

「構わないわ。そうすれば一晩京也と一緒にいられるもの」

「……わがままを言わないでくれ」

 京也が話している相手は真莉子という女性らしい。本邸と言っていたことから宇苑家の人間であると推測する。
 いつも丁寧な姿勢を崩さない京也が投げやりな返答を返した。

「そんなにあの女が大事なの!?祓い屋に生まれながら、神の寵愛を受けられなかったのよ。呪われているってみんなが言ってるわ。あなただって好きで結婚したわけじゃないでしょう?」

「馬鹿げたことを言うな。これ以上は問答無用で本邸に追い返す」

「できるものならやってみなさい!私はあなたの元婚約者なの。こんな土砂降りの中無理矢理帰したと噂が流れたらどうなるかしらね?……ああ、あの呪われた女に嫉妬で追い出されたとお父様に泣きつけばいいかしら?」

 呪われた女とは絃音のことだ。それくらいはわかった。まさか自分の話をしているとは思っていなかったため、体が硬直する。

「かわいそうな京也。嫌になるわよね。宇苑家の長子でありながら継承権がなく、美蓮の呪われた花嫁まで押し付けられて」

 かわいそう。旦那さまはずっと嫌だったのだろうか。向けてくれたあの微笑みは紛い物だったのか。
 客間の様子を確認することは済んだはずだ。絃音がここで話を盗み聞く理由はもうない。早く戻らなければ部屋から出たことがバレてしまう。
 この場から立ち去らなければ。そう思うのに足が固まってしまった。
 呪われた子ども、役立たず、生まれてこなければよかったんだ。父にどんな言葉を向けられても何も感じなかった。それが当たり前だったから。それは誰にどんな噂をされようと平気だったことも同じだ。
 でも今はたった一人の人からの拒絶に足がすくんでいた。

 「絃音さま!」

 大きな声を出して廊下の先からやってきたのは平吉だった。突然のことで絃音は動揺する。平吉の声が客間にまで聞こえたのか、中にいる二人の様子が変化したことがわかった。
 部屋の中にいる人物が扉に向かってきている。早くここから立ち去らなければ。

「……京也と結婚した呪われた花嫁っていうのはあなた?」

 一足遅かった。扉が開いて出てきたのは、甘栗色の髪を持った可愛らしい女性だった。先ほど客間から聞こえてきた金切り声を出していたとは思えないほどに。

「盗み聞きなんていい趣味してるわね」

「あの……」

「何か言ったらどう?」

「よせ、絃音さんを怖がらせるな」

 京也は動揺している絃音を守るようにして立ちはだかった。嗅ぎ慣れた香が鼻腔をくすぐり絃音を落ちつかせてくれる。

「何よ、京也。その女を庇うの!?」

「今はそんな話をしている場合じゃない。別邸への用事は済んだはずだ。もう帰ってくれ」

「何よそれ、私よりその女が大切だって言いたいのね」

 京也と真莉子は言い争いを続けていた。その声を聞きつけた使用人たちが詰まり始めていた。そこにユリが到着する。

「旦那さま、真莉子さまを本邸にお送りする準備が整いました」

「ご苦労だった、ユリ。真莉子、支度が整った。帰りの時間だ」

「ひどい!そうやって私を除け者にして!」

 真莉子が叫んだ。ズンと空気が澱む感覚がする。
 その時リインと鈴の鳴る音が絃音には聞こえた。周囲を確認してみるが鈴を持っている人は誰もいない。しかしリイン、リインと鳴り続けている。
 絃音は少しだけ京也の後ろから顔をだし、真莉子の様子を伺った。そして目を見開いた。
 真莉子の周囲を黒い霧のようなものが渦巻いていた。どんどん黒い霧が増え包み込んでいく。一瞬の出来事だった。
 一歩、自然と体が前に出ていた。

『どうぞこれから旦那さまをお支えいただきますようお願い申し上げます』

 宇苑家別邸にやってきた時ユリにかけられた言葉を絃音は思い出していた。その言葉に対して了承したにも関わらず、いまだに果たせていない。ずっと京也には支えてもらってばかりだ。
 京也だけではない。この屋敷で働く人たちに支えられた。平川家では考えもしなかった満たされた生活だったと思う。京也はこの屋敷の人たちを大切に想い、想われている。それを実感する日々だった。
 ここで京也が傷つけばたくさんの人が悲しむ。絃音にはその感情がまだよくわかっていない。けれどそれを見るのは嫌だと思った。
 今が京也を助けて、彼を支えられる時だ。役立つ時は今しかない。
 ドンと鈍いものが体の中に入り込んでくる。腹の中をうごめいていて息の仕方がわからなくなった。
 制御が効かなくなった体がそのまま床に向かっていく。しかし衝撃はなく、京也が抱き止めてくれたのだとわかった。
 薄れていく意識の中絃音の瞳には茫然自失とした京也が映り込んでいた。
 そんな顔をさせたいわけではなかったのに。
 弁明する時間もなく絃音はそのまま意識を手放した。