平川家当主である父親から結婚の話をされてから、五ヶ月が経った。体感としては一瞬だったと絃音(いと)は思う。結婚が決まって初めに、生活環境の改善が行われた。このままでは娘を外には出すことができないと考えたらしい。
 よくて一日一回だった食事が、三回に変わった。体に脂肪をつけるために栄養満点の食事が提供されたのだ。そして最低限の教養を身につけることになった。使用人のメモなどを盗み見て知っている文字はあったもののほとんどわからなかった。礼儀作法はもっての他だった。やって来た家庭教師は嫌みたらしく、宇苑家は、呪われた花嫁をもらうらしい、と皆が噂していると伝えてきた。
 呪われた花嫁。平川家当主が絃音は呪われた子どもであると周囲に長年言いふらし、それに尾びれがついたのだ。
 絃音自身は覚えが悪く苦しいと感じることもあったが、今までの虐待を受け続ける日々に戻るよりはマシだと思えた。生きる希望なんてないくせに、おかしいと思った。
 絃音に結婚を申し込んできたのは宇苑家の長男である宇苑京也(うえんきょうや)だ。しかし宇苑家の継承権がないため、本家ではなく別邸で暮らしている。
 馬車に揺られ宇苑家別邸を目指す。慣れない移動で何度も酔ってしまいそうになった。
 宇苑京也はどんな人だろう。呪われた花嫁と言われているなら、いい待遇は受けられないだろう。せめて、自分に手をあげない人がいいなと絃音は願った。

 絃音が宇苑家別邸に到着したのは、麗らかな春の日だった。
 この屋敷の使用人であるユリに連れられて、五日後の婚儀で正式に夫となる宇苑京也の執務室へ向かった。

「お、お初にお目にかかります。平川絃音と申します。本日からどうぞよろしくお願いいたします」

 緊張で声が震えた。

「遠いところからご苦労様です。出迎えをしなかったご無礼をお許しください。今日はお疲れでしょう。このまま部屋へ行きゆっくりと休んでください」

 京也が座る机の上には書類が高く積み上がっていた。仕事に追われているのだろう。そんな中で体調を案じてくれた。家族から冷遇されてきた絃音にとっては思っても見ないことだった。しかしその声に暖かさは感じられない。

「お気遣いありがとうございます」

「礼は入りません。僕たちは家族になるのですから」

 家族。絃音にとってこれほど居心地の悪い言葉はなかった。そのまま返答できずにいた。
 京也はその様子を見て緊張しているのだと考えたらしく、机から離れて絃音のすぐそばに来た。

「ここでは肩の力を抜いてください。絃音さんのそばにはユリをつけます。彼女と私は乳兄妹なのです。しっかり者で仕事ができる人です。きっと絃音さんの力になってくれるでしょう」

 どうしてここまで自分のことを案じてくれるのかわからなかった。

「お心遣いに感謝いたします」

 絃音はそれだけしか言えなかった。

***

「不躾な質問をお許しください。絃音さまは旦那さまとお会いになられてどう思われましたか?」

 絃音の部屋となる南向きの部屋へと案内され、身支度を整えている時にユリが問うた。
 どう思ったのか。対面した時間は限られていたため京也と少し言葉を交わした時の印象を口にだす。

「……お優しい方だと思いました」

 声色は冷ややかなものだったが、絃音に対してあれほど心を配った対応をしてくれたのは京也が初めてだった。

「絃音さまは旦那さまの内面を見ておられたのですね」

「そう言うものではないのですか」

「……本来ならそうあるべきなのです。ですが、旦那さまは身内贔屓にはなってしまいますが、体つきがたくましく見目麗しい方です。どの家のお嬢様方もまずは旦那さまの容姿に引かれる方が多いのですよ」

 特に澄んだ空色の瞳が女性たちを虜にしているのだと言う。

「空色の瞳……」

「ええ。ですが私たち使用人としては旦那さまの内面を見つめ、支えてくださる方が嫁いでくださることを切に願っておりました。分不相応なお願いだとは承知しております。どうぞこれから旦那さまをお支えいただきますようお願い申し上げます」

 そう言ってユリは頭を下げた。それだけで先ほどの京也が親切な態度をとった理由がわかった気がした。
 彼は幼少の頃からずっと大切にされてきたのだ。当主の才に恵まれなくとも、人徳が優れ、慕われてきた。だからわざわざ使用人がこうして絃音に首を垂れている。
 絃音は今まで誰かに頼られるといった経験をしたことがない。よってユリたちの希望を叶えることができるかは定かではなかった。けれどこうして頼んでくることに対して、応えたいという気持ちがあった。
 今まで平川家では冷遇されて生きてきた。しかし嫁ぎ先である宇苑家では必要としてくれる人たちがいる。その期待を裏切りたくなかった。

「わかりました。善処します」

「絃音さまの懐の深さに感服いたしました。このユリ、誠心誠意お仕えすることをお誓い申し上げる所存でございます」

 そう言ってユリは再び頭を下げた。

「それで、あの、一つ質問してもいいでしょうか」

「私にお答えできることならば何なりと」

「旦那さまの瞳が空色だとおっしゃっていましたよね」

「はい」

「私にはよくわからなかったのですか。何かの見間違いでしょうか」

 絃音の身支度を整えていたユリの手がぴたりと止まった。何かおかしなことを言ってしまったのだろうかと不安になる。

「あの……ユリさん?」

「あ、ああ失礼しました。そうですね、窓から差し込む陽の光などでわからなくなることもあるかもしれません」

「そうなんですね」

 ユリの返答を聞いて胸を撫で下ろす。もしかしたら自分が何かおかしいのではないこと思ってしまった。目の錯覚だったのか。
 そういえば、近くで身支度を手伝ってくれているユリの顔がなんとなくぼやけているような気がする。これも光の加減だろうか。
 少し首を傾げるも気のせいだと絃音は思い直した。ユリの表情が曇っていることに気がつかぬまま。