絃音は目を覚ました。ここはどこだろう。見渡す限り何もない、真っ暗な空間だった。どうして自分がこの場所にいるのか思い出せない。
 とうとう死んでしまったのだろうか。実の父親に虐待され、独房のような部屋でひとりぼっちだろうか。
 視界が悪く手元しか見えない。ふと疑問に思った。自分はここまで腕がふっくらとしていただろうかと。もっと骨が浮き出ていて貧相なものだった気がする。
 着物もそうだ。ペラペラの布をかぶっていたような服が分厚く体を守るためのものに変わっている。
 今までと何かが違う。
 リイン、リインと鈴の音が聞こえた。耳を澄ます。足音が聞こえた。父親のものではない別の誰か。優しい音だ。

『絃音さん、今日から晴れの日には縁側で一緒お茶をしましょう』

『この景色を一緒に見たかったのです』

『どこにいても僕はあなたを想っています』

 声が星のように降ってくる。これはいつ、どこで、誰にもらった言葉だろう。思い出したいのに、かすみがかったように存在が曖昧なままだ。

「あなたは誰ですか!」

 ありったけの声を出して叫ぶ。けれど闇に吸い込まれるようにして消えてしまった。
 手首に妙な感覚を覚えた。見れば右手首に水色の腕輪が付けられている。形は歪だがしっかりと編まれていた。
 水色。引っ掛かりを覚えた。水色の瞳を持つ人。人生で初めて大切にしてくれた人。

「旦那さま」

 そうだ、思い出した。どうして忘れていたのだろう。絃音が京也に嫁いでから約一年半。彼や別邸で働く使用人たちと日々を過ごした。たくさんの気持ちを知ったのだ。
 誰かの言葉で心が温かくなることや軋んで痛むことを知った。大切にされた分だけ返したいと思った。
 絃音が記憶を無くしてからも、別邸の人たちの対応は変わらなかった。違和感を感じていたのもそのせいだろう。来た事があるのではない。一年も一緒にいたのだ。屋敷の場所や勉学の内容がわかって当然だ。

「戻らないと」

 真莉子と話していて視界が歪み気を失った。早く起きなければ。

「お姉さん、迷子なの?」

「え?」

 声をかけてきたのは京也と参加した豊穣祭で出会った小さな男の子だった。

「出口はこっちだよ」

 そう言って絃音の手を引いた。どうしてあなたがここにいるの。聞きたいことは山積みだが、大人しくついていく。次第に周りが明るくなってきた。光が差し込むように暗闇が消えていく。同時に鈴の音が大きくなった。
 一つの扉が見えてきた。男の子が立ち止まって指をさした。
 
「あの扉の向こうが出口なんですね」

 進もうとした。しかし一歩が踏み出せない。左足首を何かが掴んでいる。

「待ってくれ絃音。私を見捨てないでくれ」

「……当主さま?」

 絃音の父親で平川家当主だ。最後に会った時とは想像もできないほど痩せこけている。着物もみすぼらしい。唯一平川家当主の威厳を保たせていた外見さえなくなってしまっていた。地に這いつくばっている。

「やめてください。離して」

「そんなこと言うなよ、家族だろう?」

「あなたがそれを言うのですね」

 幼い頃から暴力を振るい食べ物を与えずに虐待してきたあなたが。

「なんだ怒っているのか。呪いをかけたことは謝る。金が足りなくなったんだ。仕方がないだろう?そうだお前の旦那に言って金をもらってきてくれよ」

 呪い。その言葉が答え合わせだ。絃音が京也との記憶を無くし、この暗闇の世界にいる元凶が目の前にいる。
 幼少の頃から受けた仕打ちがまざまざと蘇ってくる。それだけで全身が震えた。けれどそれではいけない。

「そんなことはしません」

「ひどいな、家族だろう?」

「私はあなたを家族だと思ったことは一度もありません。あなただってそうでしょう?」

 絃音にとって家族とは宇苑家別邸の人たちのことだ。こんなにみすぼらしい男ではない。この人にかまっている暇などないのだ。

「私はあなたなんかに惑わされない。さようなら、平川家当主さま」

 足を振り切り、手を離させる。平川家当主はそのまま闇に呑まれていった。
 振り返ることなく絃音は扉に手をかけた。開くと全身が光に包まれる。気が付けば隣から男の子はいなくなっていた。一歩踏みだす。扉をくぐるとそこには花畑が広がっていた。

 「天国?」

 思わず呟いてしまった。

「いいや、そうではない」

 低く落ち着いた声。花畑に立っていたのは水色の瞳を持つ金色の髪の男性だった。装飾品を身に纏っている、高貴なお方だろうか。視点を変えれば豊穣祭で出会い、絃音をこの場所まで導いてくれた男の子が男性の側に立っている事がわかった。

「ああ、こやつか。これは霊だ。お前を好いて連れてきたらしい。さすがは平川の娘だ」

「でも、私は霊が見えません。祓い屋としての能力もないのです」

 それを聞いた男性は笑った。

「ははは!面白いことを言う、平川の娘よ。私の名はウカノミタマ、宇苑を守る神である。私が君に危険を知らせ、ここへ来させたのだ」

 危険を知らせる、鈴の音だ。けれど何故だろう。絃音は宇苑へ嫁いできたとはいえ元は美蓮出身だ。宇苑を守る神が読んだ理由はなんだろう。

「まず一つ、お前は祓い屋としての能力がなく、霊も見えないと言っていたな。それは間違いだ。お前の力は強すぎる。故に幼い時には体が耐えられない。その場合は体が成熟するにつれて段々と能力が発現していくのだ。宇苑に嫁いできてからはその体にも肉がついた。だから霊が見えたのだ。京也が霊を見ることができたのもお前の力の影響だね」

 祓い屋としての能力が高すぎるが故に幼い頃はその兆候が現れなかった。そして絃音は当代一の能力をもっているという。
 そして二つ目とウカノミタマは続けた。

「これが君を呼んだ一番の目的だ。京也を……君の旦那を救ってほしい」

「旦那さまを?」

「京也は私と同じ水色の瞳を持っている。いわゆる神の愛子と言うわけだ。あの子は幼い頃から危険な目に遭ってきた。これからは君があの子をを危険から守ってほしい」

 それは難しいことだと思った。今まで京也に守られる側だった。加えて祓い屋としての能力があるとはいえ、実感はない。

「身勝手なお願いだと言うことはわかっている。だがどうしても必要なのだ。これから迫り来る危機に立ち向かうためには」

 絃音が黙った理由をウカノミタマは、京也を守ることに対して否定的に捉えていると解釈したようだ。

「旦那さまを守ることに異論はないのです。私はあの方からたくさんのものをいただきました。だから今度は旦那さまを支えられる存在になりたいのです」

 大切にされた分だけ、大切にしたい。それ以上のものを渡したかった。そして事実を隠されたまま守られるのではなく、対等な存在として支えたい。

「ですが……」

 ウカノミタマは絃音の悩みを見抜いたかのように口にする。

「であれば、私が君に加護を与えよう。元からある力だけで十分だとは思うが、保険だ。もしもの事があれば私が駆けつける」

 それはまだ遠い未来の話だとは思うけれど。

「ウカノミタマさまが?」

「ああ、何せ神の愛子の妻のためだからな」

「お心遣いに感謝します」

 絃音は頭を下げた。それを見たウカノミタマは満足そうに頷いた。

「それではもう戻れ。京也が君を心配している。もう半年は眠っていることになっているからな」

「えっそうなのですか」

 絃音の体感としては数時間しか経っていないのだが、この場所と現実とでは時間の流れが異なるらしい。

「君の心は成長してきた。記憶を失っても心は覚えているというのは本当だったな。でもあの子は違う。母親が死んだ時のまま、また失ってしまうと思っている。起きて安心させてやってくれ。……京也をよろしく頼むぞ」

 京也を支えてほしい。これは絃音が、ユリ、宇苑の人たち、そして宇苑の神に託された願いだ。それを強制だとは思っていない。むしろそうありたいと思っている。
 この言葉は戒めだ。これから忘れることがないように、誓おう。

「もちろんです」

 ウカノミタマが絃音の肩を叩いた。光に包まれる。次に目覚める時は宇苑家別邸にいるのだろう。