今夜宿泊する予定の邑(ゆう)に辿り着く頃には、まだ満ち足りていない月が藍色の夜空に冴え冴えと輝いていた。
 周囲にものものしく篝火(かがりび)が並んだ宿の前で淑華(しゅくか)姉上が心配そうな面持ちで私たちを待っていた。

 姉上は着の身着のまま逃げる途中で商人の荷馬車に出会い、助けを求めることができたそうだ。さすがの強運だ。
 こういうところがあるから、実は淑華(しゅくか)姉上がこの物語のヒロインなのでは、と考えもするのだが……。

 散り散りに逃げてきた使用人たちの中に、私の侍女の子宇(しう)と芝嫣(しえん)姉さまの侍女の桂芝(けいし)もいてとりあえず安心した。
 逗留を一日延ばして出発は明後日の明け方になることを父上から聞かされ、今夜はとにかく早く休むよう言われた。
 が、芝嫣姉さまが頭が砂だらけでこのままでは眠れない、とわめいたので、私も一緒に髪を洗ってもらった。

「こんなに肝を冷やしたことは後にも先にもないわ」
 淑華姉上の声音には珍しく実感がこもっていた。
 中庭から差し込む月明かりの中で姉上は私の髪を櫛で梳いてくれている。隣では順番待ちしている芝嫣姉さまが肩から前に垂らした毛先を自分で梳いていた。

「なによ、さっさと逃げちゃったクセに」
 大して怒ってはなさそうな口ぶりで芝嫣姉さまがつぶやくと、淑華姉上は「ごめんなさい」と小さな声で言った。
「姉上の判断は正しいです」
 私が取りなすと、姉上が微笑んだ気配を背中に感じた。

 実際、淑華姉上も一緒に赬耿(ていこう)と対峙していたら、ああも簡単に彼をいなせたかどうかはわからない。それはそれで、どう話が転がっただろうかと興味深くはあるけど。

「煌(こう)王がここまでするなんて。本気で天子の位を狙ってるのね」
「それよりも、予言の中身がおかしなことになって広まっていることの方が私たちには問題です。どうしてなのか」
 私が発した疑問には淑華姉上は反応しなかった。別のことを考えているようすで黙って櫛を動かしている。やっぱり、と私は疑いを深めないわけにはいかなかった。

 ――棕(そう)家の娘を娶る者が天子となる。
 父上が得た予言の解釈を、そんなふうによじって拡散した犯人は、淑華姉上ではないかと。
 根拠は簡単。こういうことをやりそうなのが淑華姉上だからだ。目的は明白。棕家の姉妹に箔をつけるためだ。

「どうしてもなにも、もう他国にまで広がっちゃってるんだから、考えてもしょうがないじゃない。相手を選ばせてくれるっていうならそっちのほうがわたしは嬉しいし」
 めんどくさそうに芝嫣姉さまが口を開き、だから、と私たちの方を見ずにはっきり言った。
「ここで決めておきましょうよ。わたしたち三人のうち誰が王后(おうごう)になるのか」