「そうすれば、煒(い)王家の方が天子になることはないし。それに、あなただって煌(こう)王家に連なる方なのでしょう?」
 にこりと芝嫣(しえん)姉さまが微笑んだ気配。

 さっき激高した赬耿(ていこう)は「俺たち」と口走っていた。自分にも権利のあるものを自分より劣るものが占有しているのが気に食わない、と自分も当事者であるかのような鬱憤の溜まり具合だった。
 赬氏も、棕(そう)氏と同じく、煒(い)王家と煌(こう)王家と同じ姓から生じた氏族なのだ。

 母系の姓と父系の氏。出自がものをいうこの世界では、このふたつは絶対だ。生まれながらに歩む道は限られてしまう。
 南斗星君の〈さだめ〉から信憑性のない〈予言〉まで。用意された道筋を安易に呑み込もうとする習性みたいなものも、だから仕方ないのかもしれない。

「確かに、末端ではあるが、いちおう」
 指摘されたことに驚いた顔のまま赬耿が肯定した。
 そもそも最初に偽名を名乗ったのは、この情報を隠したかったからではないのか? 本名をあっさり明かした時点で察しているべきことなのに何を驚いているのか。私たち姉妹に知識がないと思っていたのか、本人がマヌケなのか。
 どうもこの男は頭は良さそうなのに、感情的になるとスコンと抜けてしまうタイプみたいだ。

「ならばあなたが天子になればいいわ。わたしたちを娶って」
 ゾッとするほど無邪気な口ぶりで芝嫣姉さまは続けた。なんて恐ろしい。
 今は乱世。運と実力とがほんの少し噛み合えば、誰でも諸侯に成り上がれる。が、その先となればそうはいかない。でも赬耿には血筋が伴っている。野心もあるようだ。
 こういう男を唆すのは簡単。姉さまはそう思っているだろう。事実、荒々しい気配が消えて、赬耿は笑っているようだった。

「お嬢様はわくしめの妻になってくださると?」
「ええ、いいわ。あなたはおじいさんではないし、顔もいいもの」
「ハハッ。あなたはそうおっしゃってくれてますが、妹御はそうではないようです」
「あら、そんなことないわ。ねえ、子豫(しよ)? あなたも赬耿さまに嫁ぎたいわよね?」
 なんで願望になってるんですか、希望した覚えはありません。

 憮然と無反応でいる私の耳に、馬蹄の響きと人声のざわめきが届いた。はっとして目をあげれば、まだ遠い岩場の陰から松明の火らしい光が出てきたところだった。
「父上だわ!」
 脱兎のごとく芝嫣姉さまが光の方へと走り出す。さっきと比べて逃げ足が速すぎる。

 赬耿とその他の行動も早かった。
「引き上げるぞ」
 手振りを加えて赬耿が指示すると遊牧民の男たちは焚き火を踏みつけて明かりを消し、あっという間に馬上の人となって暗がりの中へと消えた。

「何か言いたそうだな」
 取り残されてふたりだけになったところで、赬耿は私を振り返った。
「私たちを人質にして父上と交渉するのじゃなかったの?」
「そんな気力はもうないさ。どうでもよくなった」
「どうでもって」
「いやはや。子どもと女性とはまともに話し合うべきではないということを学んだよ」
 言葉尻に笑い声をにじませて赬耿は続けた。

「棕家の姉妹に関する世間の評価は当てはまっているな。いちばん上の娘は聡明で大人顔負けの見識の持ち主で辺境育ちとは思えない気品がある。まんなかの娘は可憐で話術が巧みで人から好かれやすい。末の娘は、将軍の秘蔵っ子だが言動が読めず何を考えているのか得体が知れない、と」
 得体の知れない男に得体が知れないと言われた。そっちの方こそ、不気味な雰囲気だったり物腰が柔らかかったり、いきなり闊達な調子になったりとわけがわからないのに。

 やけに楽し気な笑い声を残し、赬耿は自分の馬へと駆け寄った。
「ここで話したことをありのままに父上に報告しますよ!」
 怒鳴ってやると、暗がりから返事があった。
「そうしてくれ! 煌(こう)はいつでも棕一族を迎え入れることができるとな!」

 続けて軽い蹄の音が遠のき。後ろからは松明をかがげた兵馬の一団が駆けつけてきて。
「無事か? 子豫!」
 今朝ぶりに聞いた父上の頼もしい声に、さすがの私もほっと息をついた。