――人に頼られる男になりなさい。
 それが良き人間であった母の最後だった。
 その言葉は『笹瀬川ユウ』の人生の指標となった。そしてそれは言葉以上に難しい事でもある。

 人に頼られる、というのは一言で言って信頼されているという事だ。

 信頼とは単純な文武の向上、一人よがりの自己研磨では得られないものであり、無愛想で口数の少ない自分は酷く苦戦した。

 ――一番親しい友に打ち明けた事がある。

 人に頼られるには、信頼されるには何が必要なのかと。

 友は答えた。まずは相手を信頼してみる事から始めると良いと。

 ただこれは盲目的に信仰するのではない。欠点があれば指摘し、間違いがあれば正す覚悟が必要だ。

 共に認め、共に高め合うのが理想的な信頼関係だと友は語った。

 ――最後に友となった人物は今までにない人間だった。その行いから誰にも理解されず、誰からも忌み嫌われる。

 ソイツは当然のように受け入れ、己の望むままに我が道を行く。

 他人の理解など最初から必要とせず、誰よりも傲慢に不遜を貫く――正義とは遠く掛け離れた男と信義を結んだのは偶然と言う他無い。
 ――気づけば、ソイツは街にとって必要不可欠の存在になっていた。

 悪行という悪行を重ね、誰からも隙あれば殺される立場にいて、均衡を担う支柱――性質の悪い冗談だった。

 この世界は数多の勢力が蠢いているように見えて、最重要部分は全て彼が担っている。

 貧乏籤を進んで引き続ける狂人の思考など、誰が想像しようか。未だに誰もその事に気づかず、いつの間にかオレは彼の手助けをする有り様である。

 片棒を担がざるを得なくなったのは奴の策謀か。疑っても疑い切れないが、それも良いかと思う。

 誰一人信頼しない孤高を極めた男から頼られる、これ以上の遣り甲斐は他に見出せないだろう。

 それに触発されたのか、誰かを救うことに意味を見出した。損な生き方なのは先刻承知、でも自分は理不尽や不条理を我慢出来ない人間になった。

 一つの不条理があった。
 一つの理不尽があった。

 それを見過ごせば今まで通りの日常を過ごせた。そこそこ充実した毎日を享受出来た。人並みの幸せを胸に抱いて、人並みに生きる事が出来ただろう。

 それでも、我慢出来なかったのだ。

 手を伸ばせばすぐ届く場所に救いを求める手がある。ならば、引っ張り上げてあげるのが人の情、そのままにしておくのは気が済まなかったのだ。

 例えそれで自分が代わりに地獄の底に落ちて、最悪の貧乏籤を引く事になったとしても構わない。何故なら自分は最強無敵完全無欠な存在なのだから、いくら損をしても取り戻せると信じている。

 何もしなくて後悔するより、やって後悔した方が良い。それが正しき道であり、正しき一番になる存在になる選択である事を信じている。だから理不尽に潰される人間を見捨てない。

 ――そして運命の選択の時が来た。

 誰かの手を取って、救いを求めて積み重ねた負債の総決算だった。

 その男は吐き気を催すような邪悪の化身だった。
 空気を吸うように他人を犠牲にし、自らの幸福を謳歌する、まさに歩く災厄だった。

 理不尽な目にあっている誰かに手を差し伸べ続け、いつしか宿敵となったのがこの男だった。

 沢山の仲間が出来た。戦い続け、数多の犠牲が出た。その果てにこの男を追い詰めた。そして同時に追い詰められた。

 与えられた選択肢は二つ、この男と共に絶対の窮地を乗り切るか、この男と共に運命を共にするかである。

 ――男は堂々と命乞いをする。もうお前達に手を出さないと約束する。降伏するから一緒にこの窮地を乗り切ろう。

 この絶対の窮地を乗り越えるには互いの力を合わせる必要がある。此処で互いが死ぬのは不本意だろう?

 その手を振り払えば、自分もこの男も呆気無く死ぬ。けれども、この男を生かしておけば、この男一人の幸福の為に犠牲者が増え続けるだろう。

 理不尽と不条理によって踏み躙られる者が後を絶たないだろう。

 ――その手を振り払う。こんな男と一緒に心中するなんて最悪だが、その手は絶対に握れない。

 他者の幸福を犠牲にする事で存在する『悪』など許せない。自分は最期まで我慢出来ない人間だったのだ。 

 男は怒り狂い、自らの死を決定付ける一撃を振るい――自分は勝ちを確信して黒く意識は塗り潰された。

 悔いは無い。自分が正しい一番と思う道を貫徹したのだ。その『プライド』を打ち砕く事は誰にも出来ない。

「ぐっ」

 ズキンッ、と頭が痛む。
 ゆっくりと立ち上がる。すると風穴が空いた腹から内蔵がボタボタと落ちていく。
 堪らず倒れる。
 ゴミ捨て場だった。

「ゴミ捨て場で死ぬのか……まぁ、お似合いかな」

 ゴミ捨て場には先客がいた。
 黒い毛の狐だ。血を流している。

「お前も、ここで死ぬのか。お互い、酷い死に様だな……ってお前、魔物か。だが『悪』の雰囲気がない。なにかの争いに巻き込まれたか。不運だな。なぁ、オイ。黒狐。契約しないか? 俺を喰らえ。代わりにお前は幸せに生きろ」
『……』
「喋る元気もないか。そうか、なら俺は普通に死ぬとするよ。気が変わったら俺を喰え。お前は生きて良い。なんせ、餌が目の前にあるんだ。我慢するな。やりたいことをやれ、結果に納得できるように」

 そして目を閉じた。
 漆黒の中で声がする。

【契約を結ぼう。汝の魂を半分喰らう。代わりに汝に私の魂を半分与える。眷属として生きよ、我が従僕】



「ウィリー! 見舞いに来たっすよー!」
「騒がしいな、マリィ。病室では静かにしろといつも言っているだろう」
「へぇーいっす」

 とある病院の個室にて、『彼』は部下の見舞いを受け入れる。
 経過は極めて順調であり、もう二週間もあれば完全な状態で退院出来る見込みだった。
 甲斐甲斐しく足を運ぶマリィはじゃじゃーんとお見舞い品を渡す。

「はいこれ、旦那の好物の小粒葡萄、デラウェアだっけ?」
「ああ、いつもすまないな」
「で、後は報告書っす。それじゃ自分、他に仕事あるんでー」

 そう言って、慌ただしくマリィは出ていき――組織が行なっている数多の事業の報告書を興味深く眺めながら、『彼』は感嘆の息を吐いた。

「――実に素晴らしいな。此処までの組織力は生前でも手に入らなかった」

 ――この身体の本来の持ち主はとうの昔に死亡している。
 『彼』は抜け殻となった身体を拝借し、本体代わりとしている『別の何か』だった。

「どうやら本当にツイているようだ。一時期は悲観し、絶望さえしたが――絶体絶命の窮地の後にこそ、千載一遇の好機は訪れる。前世でもそうだった」

 生前の『彼』も組織を形成したが、これほどまでの粒は揃わなかった。
 所属している者達はいずれも歴戦の勇士、喉から手が出るほどの精鋭揃いであり――これを義理人情で統率して纏めていた元の人間は大した人物だと感心するばかりである。

「頂点に立つべき王者は、その機を余さず有効活用し、自身を更なる領域へと高める。オレは失敗し、我が頂点の能力は地に貶められてしまった」

 嘗ての生涯で最も屈辱的な瞬間を思い描き、『彼』は憎悪と怒りを滾らせる。
 本来なら一顧だにしたくないが、度し難い慢心が『彼』を殺した。王者の座から『彼』を引き摺り下ろした。
 戦国の武将、徳川家康は自らが大敗した戦を絵にし、生涯の戦訓としたという。苦々しい記憶が、『彼』により正しい決断力を与える。『彼』はそう信じた。

 資料を捲る手が早くなり――新入りの情報欄に入る。自然と資料を見る手に力が入る。『彼』は底知れぬ憎悪を滾らせながら、その怨敵の名前を呟いた。

「そう、貴様の手によってだ。――笹瀬川ユウ」

 本当に奇妙な運命だと『彼』自身も思えてならない。
 笹瀬川勇さえ居なければ、絶頂期の『彼』は永遠の栄華をその手に出来た。そして笹瀬川ユウ』。が居たからこそ、今の『彼』が此処にある。

 表裏一体、宿命、言葉に出せば何とも陳腐になるが、それが自身に与えられた試練であり、逃れられぬ運命であると『彼』は己の邪悪を信仰する。

「前世からの因縁に決着を着けようではないか。貴様との聖戦に終止符を打とう」

 笹瀬川ユウとの宿命の対決を清算し、監視対象の黒狐も一緒に仲良く葬ってやり――最終的にはこのファンタジーな異世界で人を脅かす『魔王』に下克上を果たし、世界に君臨する。
 ――『彼』は静かに邪悪に宣言する。頂点に立つ者は唯一人、そしてそれは自分自身に他ならないと。

「まずは小手調べだ。この程度で敗れてくれるなよ――笹瀬川ユウ」