「置いてある誕生日ケーキは夜にでも食べましょうか。お父さん、今日は少し早めに帰って来られる?」
「ああ、なるべくそうできるようにする」
「お願いね」
母が父と話しながら、冷蔵庫からケーキの箱を取り出す。
「瑠奈ちゃん、見て。今年のケーキはフルーツタルトにしてみたのよ。毎年イチゴのショートケーキだから、たまには趣向を変えてみるのもいいかと思って」
母が箱から出して見せてくれたケーキには、イチゴ以外にもマスカットやブルーベリーなど、色とりどりのフルーツが散りばめられていた。瑠奈が何度も予知夢で見てきた十六歳の誕生日ケーキとはまるで違う。
胸がドキドキした。やはり、瑠奈の予知夢は現実にはならないのだ。
「瑠奈、お誕生日おめでとう」
隣でコーヒーを飲んでいた父が、瑠奈を見て目を細める。
「ありがとう」
今年の父からのお祝いの言葉は、格別に嬉しく感じた。
朝食を食べて部屋に戻ると、瑠奈は窓を開けて外の空気を思いきり胸に吸い込んだ。視界に映るのは見慣れた近所の街並みなのに、今朝は全ての色がこれまでよりも鮮やかに見える。十年以上も瑠奈を縛り付けていた錘が外れて、まるで生まれ変わったような気分だった。
瑠奈はスマホを手にとると、爽やかな朝の空を撮影した。SNSを開いて、撮ったばかりの写真とともにツキヒトにDMを送る。
『おはようございます。無事に十六歳の誕生日を越えることができました。ツキヒトさんのおかげです』
実際に、不安な瑠奈の心を支えてくれたのは、ツキヒトが送ってくれたグリーンフラッシュの動画がだった。もしかしたら、緑色の太陽の光への祈りが、瑠奈の運命を救ってくれたのかもしれない。
『おはよう。連絡待ってたよ。ルナちゃんが無事に十六歳を迎えられて本当によかった。お誕生日おめでとう』
ツキヒトからは、すぐに返信が来た。
『約束どおり、直接会って話さない? 誕生日のお祝いをしよう。十六歳になったルナちゃんに、君の知らない世界を見せたい』
何度かのやりとりのあと、ツキヒトからそんな誘いがあった。
ツキヒトの手元には、SNSに投稿しきれていない写真がまだたくさんあるという。
瑠奈は少し迷ったが、ツキヒトと会うことに対して、一度目に誘われたときのような動揺や拒絶感はなかった。
瑠奈がずっと見続けていた予知夢にどういう意味があったのか、確実に訪れると思っていた死をなぜ回避できたのか。その理由は、わからない。
けれど、瑠奈が十六年もの間囚われ続けていた予知夢から解放されたのは、ツキヒトの存在があったからだ。
直接会って、お礼を言いたい。そう思った瑠奈は、ツキヒトと会ってみることに決めた。
誰かと会う約束をするのは、瑠奈にとって人生で初めての経験だった。
ツキヒトが瑠奈と会うのに指定してきたのは、瑠奈の誕生日から二週間後の八月の平日だった。瑠奈の学校は夏休み中だったが、その日はツキヒトも会社から休みをもらっているらしい。
約束の日。空は朝からよく晴れていた。待ち合わせ場所を決めるために、ツキヒトと初めてお互いの住んでいる場所を教え合った瑠奈は驚いた。ツキヒトの住んでいるのは、瑠奈が通っている学校の近くだったのだ。
瑠奈が通学で利用している鉄道の駅を、ツキヒトも毎日通勤で利用しているらしい。もしかしたらこれまでに、気付かずすれ違っていたこともあったのかもしれない。
待ち合わせは、午後二時。複数の路線が通る中枢駅の改札を出たところにある、コーヒーショップの前だった。
誰かとの待ち合わせが初めての瑠奈は、約束の日の朝から少し緊張していた。
日頃からひとりで出かけることすらなかった瑠奈には、持ち合わせの私服が少ない。Tシャツと黒のスキニーを着て、ツキヒトとの待ち合わせのときの目印となるようにキャップを被って家を出ようとしたら、母が珍しがって声をかけてきた。
「人と待ち合わせをしている」と言うと、母は「楽しんできてね」と笑っていた。その声が少し嬉しそうだったのは、瑠奈の気のせいではないと思う。
待ち合わせ場所に着いた瑠奈がSNSのDMを送ると、ツキヒトからも同時に「着いた」というメッセージが届いた。
ツキヒトは白のTシャツに黒のパンツを履いていて、目印に黒のキャップを被って首には一眼レフのカメラをかけているという。ツキヒトの服装を聞いた瑠奈は、自分が彼と似たような格好をしてきていることに気付いておかしくなった。
今日はきっと、楽しい一日になる。
そんな期待を胸に抱きながら、キャップのツバに手をかける。
「ルナちゃん、かな……?」
そのとき、背の高い細身の男性が近付いてきて瑠奈に声をかけた。キャップのツバをあげて上を向くと、前に立った男性もかぶっていた黒のキャップのツバを指で持ち上げて瑠奈に顔を見せてきた。彼の首には黒の一眼レフカメラがぶらさがっている。
「こんにちは。ツキヒトです」
「こ、こんにちは。ルナです」
「こうして会うのは初めてだけど、なんか、はじめましてって感じではないね」
話しかけてくるツキヒトの声は、優しくて穏やかだった。
「そ、そうですね……」
少し緊張して言葉を詰まらせた瑠奈に、ツキヒトがにこっと笑いかけてくる。鼻筋が通っていて、涼しげな切れ長の目をしたツキヒトは、瑠奈の想像よりもずっとかっこいい人だった。モノトーンのシンプルな服装が似合っていて、大人っぽい。
カメラや自然現象についての詳しさから、眼鏡の生真面目そうな人を勝手に思い描いていた瑠奈は、目の前にいる大人の男性の姿にドキリとした。
「俺も一応ケーキを食べられそうなカフェを調べてきてるけど、ルナちゃんは行きたいところある?」
「いえ、特には……」
これまで、ろくな人付き合いをしてこなかった瑠奈は何も知らない。人気の店も、流行も。そういうものに対して興味はなかったし、無知なことを気にも留めてこなかったが、目の前のかっこいい男性にそれがバレるのは少し恥ずかしいような気がした。
「ツキヒトさんに任せます」
「じゃあ、そうさせてもらおうかな」
ツキヒトが瑠奈の顔を覗き見るようにして、にこっと笑う。キャップのツバを下げて顔を隠して頷きながら、瑠奈はそわそわと少し落ち着かない気持ちになった。
ツキヒトが連れて行ってくれたのは、待ち合わせた駅から徒歩五分の場所にあるカフェだった。
瑠奈も、一年に数回は両親に連れられて外食をすることがある。それはだいたいが父好みの高級レストランで、ステーキやら和食懐石やらを、瑠奈たち家族のために予約された個室で静かに黙々と食べるのだ。
だが、ツキヒトに連れてこられたテラス付きのカフェは、今まで瑠奈が両親に連れて行かれていたレストランとは違って明るくオープンな雰囲気だった。
白い壁に飾られているよくわからないポップな雰囲気の絵や見た目の可愛い照明。木目調のテーブルと椅子。若い女性受けしそうな小物が全体的にちりばめられているみたいな店だった。瑠奈のクラスメートのカナミや瑠奈がSNSに投稿した空の写真に通りすがりに「いいね!」と反応してくれたリア充っぽい人が訪れそうな、そういう雰囲気だ。
生涯訪れることなどないと思っていたような場所に足を踏み入れた瑠奈は、ツキヒトと一緒にテラス席に案内されたあとも、店のなかを呆気にとられたように見渡していた。
「何食べる? 口コミではスフレのパンケーキが人気らしいんだけど、ケーキもおいしいよ」
瑠奈の正面に座ったツキヒトが、笑顔でメニューを差し出してくる。ツキヒトは、まるで店のメニューについてよく知っているような口ぶりだ。きっと、これまでにこういうオシャレなカフェに誰かを連れて来たことがあるのだろう。
瑠奈とのDMのやりとりでは写真のことしか話してこなかったけれど、現実でのツキヒトは、瑠奈とは違ってリア充側の人種のはずだ。そう思いながら、瑠奈はメニューに視線を落としているツキヒトの整った顔をじっと見つめた。
迷った結果、瑠奈は口コミで人気だというパンケーキとカフェラテを注文し、ツキヒトはチーズケーキとコーヒーを頼んだ。
「ツキヒトさんは、よくこういうカフェに来るんですか?」
「たまにね。といっても、誰かに付き合わされてってことがほとんどだけど」
「そうですか……」
誰かというのは、親しい女性や恋人だろうか。なぜか、ツキヒトがクラスメートのカナミのように明るく社交的な女性とカフェの席で向かい合って座る姿が思い浮かんで、瑠奈の胸がチクリと痛む。
瑠奈が膝の上に置いた手を見つめてうつむいていると、ツキヒトがふっと笑った。
「でも、こんなふうに女の子とケーキを食べにくるのはかなりひさしぶりかも」
「え?」
顔をあげると、テーブルに肘を付いたツキヒトが首を傾げながらにこっと笑いかけてくる。ツキヒトの優しい笑顔に、瑠奈の胸の痛みは消えて、今度はそわそわと落ち着かない気持ちになる。
しばらく待っていると、瑠奈の前にイチゴや生クリームやソースがかかった見た目からして間違いなく美味しそうなパンケーキが運ばれてきた。初めて実物を見た瑠奈は、ついスマホカメラのシャッターを切る。
「美味しそうだね。映えそうだし、つい撮りたくなっちゃう気持ちわかるよ」
ツキヒトが、運ばれてきたコーヒーのカップに手を伸ばしながら笑う。ツキヒトに言われて、瑠奈は自分が無意識にパンケーキの写真を撮っていたことに気が付いた。
「わたし、空以外のものにカメラを向けたの初めてです」
瑠奈は、十六歳を越えた自分の変化に戸惑いつつも驚いていた。でも、その変化は決して嫌なものではない。
「これから、もっといろいろなものにカメラを向けられるといいね」
ツキヒトがそう言って、目を細める。
「そう思います……」
ツキヒトの言葉に頷きながら、瑠奈は自分の心に明るい光が差し込んでくるような気持ちになっていた。
生まれて初めて食べるボリュームたっぷりのパンケーキは、口の中で蕩けそうなほど生地がふわふわで、生クリームが濃厚で、想像以上に甘かった。
パンケーキを食べながら、ツキヒトはこれまで撮ったという写真を見せてくれた。
プリントアウトされた写真は、撮った場所ごとに薄いアルバムに纏められていた。ほとんどのアルバムの表紙の裏側に「To. R」と小さく書かれていて、アルバムの表紙を捲るたびに不思議な記号だなと思う瑠奈だったが、すぐにその隣ページに貼られている写真に目を奪われてしまう。
たまに瑠奈がじっと食い入るように見つめる写真があると、ツキヒトはそれを撮った場所のことを詳しく話してくれた。写真のことを熱心に話すツキヒトは、DMでやりとりをしていたときの彼の印象そのものだった。
ツキヒトとたくさんの話をしながら、瑠奈は予知夢が外れてほんとうによかったと思っていた。同時に、予知夢に囚われていたからこそツキヒトと知り合えたのかもしれないという思いもあった。
十六年間、人との付き合いを避けて、死に向かう自分の人生に絶望してきたからこそ、こうして普通の十六歳の女の子としてツキヒトと向き合える時間が幸せで楽しい。
「ルナちゃんが気に入ってくれた写真を撮った海岸に、夕日を見に行かない? ここから一時間くらいで行けるから、日が沈んだあとすぐに引き返してくれば、それほど遅くならずに戻ってこられるよ」
駅前に車を停めてあるというツキヒトに誘われて、瑠奈は迷わず頷いた。