都内のオフィスで働く二十代の男性。TsukihitoというSNSのアカウント名は、特に何の捻りもなく、本名の月人を英字にしたもの。
プロではないが、旅行と写真は学生時代からの趣味で、撮るものは主に風景。旅行先の街並みや自然を撮るのが好きだが、実は空で起こる珍しい自然現象にも興味がある。そういうものをカメラに納めるために、条件の整った場所へ出向いてみることもある。
何度か繰り返されたツキヒトとのDMのやりとりのなかで、瑠奈が得た彼の情報は、そんなものだった。
瑠奈が初めてDMを送って以降、始まったツキヒトとのやり取りは、週に何度か。不思議と途絶えることなく続いている。
ツキヒトとの交流は、他人と深く関わらないようにしてきたこれまでの瑠奈の生き方に反している。そんなふうに感じる瞬間もあったが、SNS上の交流なんて人付き合いのうちに入らないと、瑠奈は心に浮かんだ矛盾を何度も都合よく打ち消した。そうしたくなるくらい、ツキヒトとのDMでのやりとりは楽しかったのだ。
瑠奈とツキヒトがDMで話す内容は、主に写真のことだった。
ツキヒトがSNSに投稿している写真はほとんど一眼レフで撮られたものだ。けれどツキヒトは、スマホカメラの扱いについても熟知していて、魅せる写真を撮るための細かな設定方法や、写真の色合いが鮮やかになる加工の方法など、瑠奈に役立つ知識をいろいろと教えてくれた。その知識を使っていろいろと試し撮りしてみるうちに、瑠奈も以前より情緒的な写真が撮れるようになった。
写真撮影の技術以外にも、ツキヒトは空で起こる自然現象のこともいろいろ教えてくれた。
虹色に光る雲のことや、四角い太陽が見られる場所があることなど。ツキヒトが教えてくれる話は面白く、ついつい夜遅くまでDMのやり取りを続けてしまうこともあった。
これまでの瑠奈は、勉強したり新しい知識を得ることにあまり興味がなかった。
どうせ十六歳になれば死んでしまうのだから、新しい知識を得ることは無意味だと思っていた。
だが、ツキヒトと交流を持つようになってから、瑠奈はたとえ無意味なことでも知りたい。知らないことを知るのは楽しい。そう思うようになった。
十六歳で命を落とす予知夢は定期的に見続けているが、ツキヒトとやりとりをするようになってから、自分の運命を憂いて暗い気持ちになることが少なくなった。
母親にまで「最近、機嫌が良さそうね」と声をかけられるほど、ツキヒトとの知り合ってからの瑠奈は何かが確実に変化していた。
ツキヒトとやりとりを初めて一ヶ月が過ぎた頃、彼が数年前のオーストラリア旅行で撮ったという写真をSNSに投稿した。それはエアーズロックの写真で、海外の有名な観光地ついてほとんど無知な瑠奈でも知っている場所だった。
その夜のDMのやりとりでは、ツキヒトが行ったことのある外国について話が盛り上がった。
社会人になってからはまとまった休みが減ってあまり海外に行けなくなったそうだが、大学時代のツキヒトは春や夏の長期休暇に必ず海外へと飛び出していたらしい。そのために、普段はアルバイトに勤しんで旅行資金を稼いでいたのだそうだ。
ツキヒトの話は、瑠奈にはまるで想像のできないことばかりだった。もし十六歳を過ぎても生きられたなら、自分もツキヒトのようにアルバイトをしたり、一人旅をしたいと思ったりするのだろうか。
ツキヒトの話を聞いた瑠奈の胸に、生まれて初めて未来への願望のようなものがひとつ思い浮かんだ。
『いつかわたしも、ツキヒトさんが行ったことのある場所に行って自分の写真を撮ってみたいです』
ツキヒトに向かってそれを発信したその一瞬。瑠奈は普通の十五歳の女の子になっていた。
あたりまえに明日が来て、その先もずっと変わらない未来が続くことを疑いもなく信じている、ごく普通の。
生まれて初めて抱いた未来への願望は、瑠奈の小さな胸をわくわくさせていた。
『ルナちゃんはまだ十五歳だよね。若くてこれからの人生も長いんだから、海外に行くチャンスもたくさんあるよ。大学生になったら今以上に自由な時間もいっぱいできると思う』
これからの人生も長いんだから……、うらやましい──?
何げなく発信したであろうツキヒトの言葉が、瑠奈の胸にグサリと突き刺さった。これまで人生に絶望していた自分が、一瞬でも、未来の想像をしてしまったことにゾッとした。
ふと学習机のカレンダーに視線を向けると、今はもう七月も終わり。気付けば、瑠奈の誕生日が二週間後に迫っている。
瑠奈の人生は長くなんかない。あと二週間で終わるかもしれないのだ。
『今日はもう寝るかな? おやすみ』
瑠奈が十五分以上も返信せずにいると、ツキヒトからDMがきた。瑠奈の返信が遅いだけでも、さりげない気遣いの言葉をくれるツキヒト。
二週間後に瑠奈が死んで、SNSの投稿やツキヒトへの返信が途絶えたら、彼はどう思うだろうか。
しばらく迷ったのちに、瑠奈はツキヒトにメッセージを打った。
『ツキヒトさんは、わたしの人生はまだ長いと言ってくれたけど、それは違います。わたしは、二週間後の十六歳の誕生日に死にます。ずっと前から、そう決まっているんです』
瑠奈が他人に予知夢のことを打ち明けるのは初めてだった。仮に話したところで、到底信じてもらえるとは思わなかったし、自分は誰にも知られないままに十六歳でこの世から消えるのだと思っていた。
それなのに、ツキヒトに秘密を共有しようと思ったのはなぜだろう。
ツキヒトが顔の見えない相手だからということや、一ヶ月間の彼との交流が瑠奈の脳に誤作動を起こさせたのかもしれない。瑠奈は、ツキヒトにだけは、死ぬ前に別れの言葉を告げておきたいと思った。
『死ぬって、瑠奈ちゃん、病気なの?』
ツキヒトからのメッセージが返ってきたのは、瑠奈がメッセージを送った二十分もあとだった。
突然の瑠奈からの告白に戸惑ったのだろう。随分と時間をあけてから返ってきたメッセージは、短くてシンプルだった。
瑠奈は、信じてもらえないことも覚悟の上で、ツキヒトに予知夢のことを伝えた。
物心ついた頃から、定期的に同じ類の夢を見ること。それは十六歳の誕生日を迎えた自分が死ぬ夢で、自殺ではなく何者かの手によって命を奪われること。そして、運命の十六歳の誕生日が二週間後に迫っていること。
瑠奈の説明にわからない部分があると、ツキヒトはいちいち細かく質問をしてきた。ツキヒトから返ってくる反応を見て、瑠奈は彼が自分の話を信じようとしてくれていることがわかった。
『今まで誰にも言えなかった秘密を打ち明けてくれてありがとう。ルナちゃんは、ずっとひとりで悲しい思いをしてきたんだね』
抱えていた秘密を全て打ち明け終えたあと、ツキヒトは瑠奈にそんな言葉を返してくれた。
『ルナちゃんがずっと信じて悩んできたことを否定するのは気がひけるけど、俺はやっぱり、予知夢なんてあまり現実的ではないと思う。よくある予知夢の話だって、それに似たような事象が起きたあとに誰かがこじつけしてるだけで、昔の予言者が予知したって言われてることもはずれてることはたくさんある。ルナちゃんは、十六歳で死んだりしないよ。もしかしたら、小さな頃に見た怖い夢の記憶が間違って脳に刷り込まれているのかもしれない』
続けて、ツキヒトが予知夢の存在をやんわりと否定してくる。
だが、実際に夢の中で何度も命を落としてきた瑠奈には、それが非現実だとも刷り込みだとも思えなかった。
改めて言語化して説明してみると、自分の運命があまりに理不尽なものに思えてきて、瑠奈の目に涙が浮かぶ。
小さな頃から、瑠奈は自分の運命を悟って人生を諦めていた。けれどそれは、十六歳で死んでしまうことの恐怖や悲しみから目を逸らすため防衛本能でもあったのかもしれない。
『ツキヒトさんに聞いてもらえてよかったです。ツキヒトさんには死ぬ前にお別れを言っておきたかったから』
『そんなこと言わないで。ルナちゃんは死んだりなんかしない』
悲観的なことばかり言う瑠奈に、ツキヒトが繰り返し励ましの言葉を送ってくれる。メッセージの文面からは、彼の優しい気持ちが伝わってくる。
瑠奈は初めて、自分の存在が丸ごと全て受け入れられたような、温かで不思議な気持ちになっていた。
『ありがとうございます。ツキヒトさんにそう言ってもらえるだけで充分です。遅いので、今日はもう寝ましょう』
ツキヒトと秘密を共有したせいか、瑠奈の心はとても落ち着いていて。今夜は予知夢で目覚めることなくぐっすり眠れそうな気がした。
そろそろほんとうに眠りにつこうとベッドに横になると、ツキヒトからの返信が届く。仰向けに寝転がりながらメッセージを確認した瑠奈は、驚いて手からスマホを取り落としてしまった。
『ルナちゃん。十六歳の誕生日に、俺と直接会ってみない?』
ツキヒトが突然、瑠奈が考えてもみなかったことを言ってきたからだ。
これまでのやりとりの中で、ツキヒトからリアルで会おうと誘われたことは一度もなかったし、そういう雰囲気を匂わされたこともない。
顔の見えないリアルとはかけ離れた存在であったからこそ、瑠奈はツキヒトと交流を持つことができた。ツキヒトだって、瑠奈に対してリアルな交流は求めていないと思っていた。だから、戸惑った。
ツキヒトと一ヶ月以上も交流を続けてきたが、もしかしたら瑠奈は心のどこかで、彼のことをどこにも存在しない透明人間のように感じていたのかもしれない。直接会ってみないかと言われた瞬間に、ツキヒトのイメージが急にリアルな大人の男性として頭の中に浮かんできて、瑠奈の心臓をバクバクと焦らせた。
『ツキヒトさんに直接会うことはできません』
ツキヒトとの関係は、リアルじゃないから成り立っているのだ。彼が、顔も想像できないような非リアルの存在だからこそなんでも話せる。だから、予知夢の秘密だって打ち明けることができた。
瑠奈が誘いを断ると、ツキヒトはしつこく食い下がってきた。
『どこかのカフェで誕生日のお祝いにケーキでも食べて、ルナちゃんが気に入ったって言ってた岩礁のある海岸に夕暮れの写真を撮りに行くのはどうかな? 楽しい予定をたてて、怖い予知夢のことなんて忘れてしまえばいいよ。ルナちゃんが死ぬことなんてないんだから』
ツキヒトのしつこさは、まだ瑠奈が彼との交流を始める前、SNSの投稿写真に毎日コメントを寄せてきたときのしつこさと似ていた。あのときは無視しても毎日コメントを送ってくるツキヒトのことを不審に思っていたけれど、今は彼に対する不信感や恐怖はない。
だが、ツキヒトがどれほど優しい言葉で励ましてくれても、幼いころからずっと抱え続けてきた瑠奈の恐怖や絶望感が消えることはなかった。
心配してくれるツキヒトの言葉はありがたいが、瑠奈はこれまで、何度も夢の中で鬼気迫るような痛みや恐怖を味わってきたのだ。
あれは、近い将来瑠奈の身に襲いかかってくる現実だ。絶対に、非現実でも刷り込みでも、勘違いでもない。
『ツキヒトさんの気遣いは嬉しいけど、やっぱり会えません』
心配してくれるツキヒトに対して少し申し訳ないと思ったが、彼には会えない。未来のない瑠奈と会うことは、瑠奈にとってもツキヒトにとっても無意味なことだ。
何度目かになる断りのメッセージを送ると、しばらくしてツキヒトから返信が来た。
『ルナちゃんの未来の幸せを願って』
送られてきたメッセージには、一本の動画が添付されている。
開いてみると、それは海の沖合でゆっくりと沈んでいく夕日を撮影したものだった。太陽が少しずつ落ちて行くのに合わせて、空全体がオレンジ色に染まっていく。やがて太陽の下半分が水平線に沈み、上側に弧を描いた半円が徐々に小さくなっていく。太陽が小さな細い線のようになって、水平線に沈みきってしまいそうになる刹那、オレンジ色だった光が緑色に変化して輝いた。眩しいほどに、綺麗な光だった。