向島の花街に店を構える、老舗料亭『蝶乃屋』。
夜になれば、灯りと客の騒ぎ声が絶えない店だが、今宵は太客による貸切状態で、常に比べると落ち着いたものだ。
しかし、それはあくまでお客側のこと。働く者たちの間にはひりつくような緊張感が漂い、一寸も気が抜けない状況だった。
(今日は特に、失敗しちゃいけない……!)
下働きである吉野小春も、料理を載せた膳を運びながら背筋を伸ばす。
頭の中では、大女将の厳しい念押しが何度も繰り返されている。
「いいかい? なにがあっても、粗相なんかするんじゃないよ。客の大事な日を台無しにして、不興でも買って御覧。折檻どころじゃ済まさないからね!」
大女将はここ最近、同業のライバル店にお客を取られ、常に怒鳴り散らしている荒れようだ。
こちらの方がまだ僅かに業績が上とはいえ、逆転するのも時間の問題だろう。そのような経営状態で太客を失えば、店の存亡にも影響する。
(ここがなくなったら、私は野垂れ死にしちゃう)
お世辞にも良いとは言えない労働環境とはいえ、天涯孤独の小春が生きて行ける場所は、この料亭しか無い。癇癪持ちの大女将は恐ろしいが、小春には居場所を失うことの方がより恐ろしかった。
細心の注意を払って、板張りの廊下を進む。
やがて、店で一等立派な座敷に辿り着いた。
「失礼致します、お料理をお持ちしました」
襖を開けて、静々と入室する。
二十畳はある広い座敷にいるのは、二組の家族だった。
店を貸し切った太客である、大柄な実業家の男。豪快で金払いが良い彼は、大戦景気のうちに事業を軌道に乗せて、上手く成り上がったやり手だ。傍らには妻と、二十歳ほどの息子も連れている。
その親子に長机を挟んで相対するのは、妙齢のご令嬢とその両親。こちらも名の知れた紡績会社を営む一家だったか。つまりこの場は、結婚を控えた男女が、互いの家族を交えて挨拶をする御両家の顔合わせであった。
「いやぁ、此度の縁談が成立すれば我々は安泰ですな。こんな別嬪さんもお嫁に貰えて、願ったり叶ったりです」
「本当に、うちの息子には勿体ないくらいですわ」
「ははは……なにをおっしゃいますやら。息子さんこそ引く手数多でしょう」
「うちの娘も、早く祝言を挙げたいと心待ちにしておりますの」
両家の親たちがわいわいと交わす会話は、慎重に配膳する小春の耳にも自然と流れ込む。
「僕の両親が……なんだかすまないね」
「いえ……」
政略結婚ではあるようだが、息子と娘はちゃんと惹かれ合ってもいるようで、面映ゆそうに視線を絡めている。
(……いいな。ちょっと羨ましい、なんて)
チラッと、小春は娘の様子を窺う。
水仕事で手が荒れている小春とは違い、白くたおやかな指先。着物も当然ながら、小春が纏う粗末な木綿などではなく、総絞りの華やかなものだ。きっと良いところの娘として、しっかりとした教育も受けていることだろう。
(おはじきさんもいつか、こういう方と伴侶になれるのかな)
小春の頭に、ひとりの少年の姿が浮かぶ。
絹のような黒髪に、眼鏡越しでもわかる端正な顔立ち。歳は十三になる小春より三つか四つ上で、社長子息なだけあり、ここにいる者たちと遜色ない上質な身形をいつもしている。
その美貌は一見すると少女とも見紛うが、喉仏や手の厚みを見ればしっかりと男の子だ。
そんな彼は父親とよく店に来ていて、体調不良なところを小春が助けたことがきっかけで、ふたりは交流を持った。それ以来、彼はなにかと小春を気に掛けてくれていた。
ことあるごとに彼がくれるキャラメルは、高価なものだというのにすっかり小春の好物だ。
優しい彼のことが、小春は大好きだった。
けれども……。
(……おはじきさんが来なくなってから、もうふた月は経った)
料亭でしか会えない関係だからこそ、別れとは呆気ないものだ。
彼は「必ず小春を迎えに行く、今の場所から俺が連れ出す」と、何度も繰り返し誓ってくれていたが、やはり本気に捉えてはいけなかったのだ。
(私と彼では、そもそも身分が違うもの)
今頃、由緒正しき家柄のお嬢さんと、縁談を進めている最中かもしれない。ちょうど、この二組の家族たちのように。
「それでは、どうぞごゆっくりとお寛ぎください」
配膳をつつがなく終えて、小春は座敷から退出した。
障子を閉めてからも、中の楽しげな笑い声が外へと漏れて来る。
縁側を歩いて厨房に戻る途中、ふと足を止めて視線を上げた。
いつもと変わらぬ帝都の夜空。冬を控えた澄んだ空気の中で、満月が煌々と輝いている。
「綺麗……」
その輝きに、小春はおはじきさんの瞳を重ねた。
眼鏡を取れば露になる彼の切れ長の瞳は、濁りの無い美しい金色をしている。それはそれこそ月のようにも、おはじきのようにも見え、小春が今の呼び名をつけた所以だ。
「おはじきさん……お元気、かな」
口にすれば、会いたい気持ちばかりが募る。
これから夫婦になる先ほどの彼等のように、いつかおはじきさんと結ばれて、たくさんの祝福の中で結婚して、生涯を共にする……などとは、今の小春には過ぎた願望だった。
贅沢は言わない。
ただ彼に会いたい。それだけだ。
「……お仕事、早く戻ろう」
小春は感傷を振り払って、止めていた足を動かした。月だけがそんな彼女の背中を見送る。
小春が料亭を追い出される前の、寂しい夜のことだった。
夜になれば、灯りと客の騒ぎ声が絶えない店だが、今宵は太客による貸切状態で、常に比べると落ち着いたものだ。
しかし、それはあくまでお客側のこと。働く者たちの間にはひりつくような緊張感が漂い、一寸も気が抜けない状況だった。
(今日は特に、失敗しちゃいけない……!)
下働きである吉野小春も、料理を載せた膳を運びながら背筋を伸ばす。
頭の中では、大女将の厳しい念押しが何度も繰り返されている。
「いいかい? なにがあっても、粗相なんかするんじゃないよ。客の大事な日を台無しにして、不興でも買って御覧。折檻どころじゃ済まさないからね!」
大女将はここ最近、同業のライバル店にお客を取られ、常に怒鳴り散らしている荒れようだ。
こちらの方がまだ僅かに業績が上とはいえ、逆転するのも時間の問題だろう。そのような経営状態で太客を失えば、店の存亡にも影響する。
(ここがなくなったら、私は野垂れ死にしちゃう)
お世辞にも良いとは言えない労働環境とはいえ、天涯孤独の小春が生きて行ける場所は、この料亭しか無い。癇癪持ちの大女将は恐ろしいが、小春には居場所を失うことの方がより恐ろしかった。
細心の注意を払って、板張りの廊下を進む。
やがて、店で一等立派な座敷に辿り着いた。
「失礼致します、お料理をお持ちしました」
襖を開けて、静々と入室する。
二十畳はある広い座敷にいるのは、二組の家族だった。
店を貸し切った太客である、大柄な実業家の男。豪快で金払いが良い彼は、大戦景気のうちに事業を軌道に乗せて、上手く成り上がったやり手だ。傍らには妻と、二十歳ほどの息子も連れている。
その親子に長机を挟んで相対するのは、妙齢のご令嬢とその両親。こちらも名の知れた紡績会社を営む一家だったか。つまりこの場は、結婚を控えた男女が、互いの家族を交えて挨拶をする御両家の顔合わせであった。
「いやぁ、此度の縁談が成立すれば我々は安泰ですな。こんな別嬪さんもお嫁に貰えて、願ったり叶ったりです」
「本当に、うちの息子には勿体ないくらいですわ」
「ははは……なにをおっしゃいますやら。息子さんこそ引く手数多でしょう」
「うちの娘も、早く祝言を挙げたいと心待ちにしておりますの」
両家の親たちがわいわいと交わす会話は、慎重に配膳する小春の耳にも自然と流れ込む。
「僕の両親が……なんだかすまないね」
「いえ……」
政略結婚ではあるようだが、息子と娘はちゃんと惹かれ合ってもいるようで、面映ゆそうに視線を絡めている。
(……いいな。ちょっと羨ましい、なんて)
チラッと、小春は娘の様子を窺う。
水仕事で手が荒れている小春とは違い、白くたおやかな指先。着物も当然ながら、小春が纏う粗末な木綿などではなく、総絞りの華やかなものだ。きっと良いところの娘として、しっかりとした教育も受けていることだろう。
(おはじきさんもいつか、こういう方と伴侶になれるのかな)
小春の頭に、ひとりの少年の姿が浮かぶ。
絹のような黒髪に、眼鏡越しでもわかる端正な顔立ち。歳は十三になる小春より三つか四つ上で、社長子息なだけあり、ここにいる者たちと遜色ない上質な身形をいつもしている。
その美貌は一見すると少女とも見紛うが、喉仏や手の厚みを見ればしっかりと男の子だ。
そんな彼は父親とよく店に来ていて、体調不良なところを小春が助けたことがきっかけで、ふたりは交流を持った。それ以来、彼はなにかと小春を気に掛けてくれていた。
ことあるごとに彼がくれるキャラメルは、高価なものだというのにすっかり小春の好物だ。
優しい彼のことが、小春は大好きだった。
けれども……。
(……おはじきさんが来なくなってから、もうふた月は経った)
料亭でしか会えない関係だからこそ、別れとは呆気ないものだ。
彼は「必ず小春を迎えに行く、今の場所から俺が連れ出す」と、何度も繰り返し誓ってくれていたが、やはり本気に捉えてはいけなかったのだ。
(私と彼では、そもそも身分が違うもの)
今頃、由緒正しき家柄のお嬢さんと、縁談を進めている最中かもしれない。ちょうど、この二組の家族たちのように。
「それでは、どうぞごゆっくりとお寛ぎください」
配膳をつつがなく終えて、小春は座敷から退出した。
障子を閉めてからも、中の楽しげな笑い声が外へと漏れて来る。
縁側を歩いて厨房に戻る途中、ふと足を止めて視線を上げた。
いつもと変わらぬ帝都の夜空。冬を控えた澄んだ空気の中で、満月が煌々と輝いている。
「綺麗……」
その輝きに、小春はおはじきさんの瞳を重ねた。
眼鏡を取れば露になる彼の切れ長の瞳は、濁りの無い美しい金色をしている。それはそれこそ月のようにも、おはじきのようにも見え、小春が今の呼び名をつけた所以だ。
「おはじきさん……お元気、かな」
口にすれば、会いたい気持ちばかりが募る。
これから夫婦になる先ほどの彼等のように、いつかおはじきさんと結ばれて、たくさんの祝福の中で結婚して、生涯を共にする……などとは、今の小春には過ぎた願望だった。
贅沢は言わない。
ただ彼に会いたい。それだけだ。
「……お仕事、早く戻ろう」
小春は感傷を振り払って、止めていた足を動かした。月だけがそんな彼女の背中を見送る。
小春が料亭を追い出される前の、寂しい夜のことだった。