数日前の俺の考えは、少し楽観的すぎたかもしれない。
 久藤に俺が《SuRuGa》だとバレてからというもの、俺は学校であいつにちょくちょく絡まれるようになったのだ。

「あ、いたいた。堀河くーん!」
「ぎゃっ、出た」

 教室で静かに大学受験の参考書を広げていたら、久藤がファッション雑誌を振り回しながら俺の席にやってきた。

「ひどい! 『出た』だなんて、人を妖怪みたいに! でね、ここのページのモデル見て。アイシャドウの色なんだけどさ?」

 俺は参考書を盾にして小さく縮こまり、久藤に小声で抗議するしかない。

「おい久藤、学校で俺を目立たせるような行動はしないでほしいって、何度も言ってるだろ」
「え……でも、学校でしか堀河くんと直接会えないし。DMするにしても──」
「わかった。それ以上言うな。放課後、教室(ここ)以外の場所で話を聞いてやるから」

 するとなぜか久藤は、目を潤ませながらファッション雑誌を両手でぎゅっと握りしめた。

「えっ、ちょっとそれは……」
「え、なんでそこで急に遠慮すんの?」
「尊敬するひとに時間割いてもらうなんて、ごめんなさいあたしにとって堀河くんって神様みたいなヒトだから……」
「学校で俺に構わずにいてくれるなら、マックでもサイゼでもどこでも行くから」
「ええっ! Su、じゃなくて、堀河くんの口から、マックとサイゼ……!? え、うそ……これ現実?」
「いやいや、俺をなんだと思ってんの」

 数日経ってわかったが、久藤はあくまで俺が《SuRuGa》だとバラしたいんじゃなくて、直接俺と女の子のファッションについて談義したいだけのようだ。だが、好きなものに対して猪突猛進な〝女の子研究家〟さまは、学校で地味に過ごしたい俺と違って、《SuRuGa》が同じ教室にいるのにうずうずして黙っていられない性分らしい。
 よく考えればインスタだってそうだったじゃないか。俺にストーカーだと間違えられるほどぐいぐいと迫ってくるやつだったんだから、リアルでもそうに決まってる。

 仕方がないので、久藤が相談をしたがる日は、放課後ファストフード店に行って話を聞いた。

「え、富澤をメイクの練習台にしてんの? だったらなおさら紫のアイシャドウとか、また急に難易度高い色を博打を打とうとするなよ」
「ううん、舞衣の顔だったら絶対、紫が似合うんだって。パープルメイクって今の流行りなんだから」
「だったらラメ入だけはやめとけ。こう……富澤の顔は大和撫子路線だろ。ラメを入れたら急にバブル時代に飛んじまう」

 ファッション雑誌やコスメ、コスプレの写真集、同人誌なんかを持ち寄って、学校の帰りに女の子のファッション談義をする日々。

「……っつうか、久藤は受験勉強、大丈夫なのか?」
「うん。あたし服飾の専門学校に行くから」
「ふうん」

 久藤の将来の夢は『どんな女の子にも似合うファッションやメイクを編み出すこと』らしい。それこそ『女子』と銘打っている人間に対して一人残らず、似合う服を作りたいのだそう。トランスジェンダー……男性の体をして女性の心を持った人間も、逆に、男性の心を持って女性の体をした人も、一人ひとりの個性にあった女の子らしさを引き立てるのが夢とのことだ。

 久藤がファッション雑誌から視線を上げて、俺を上目遣いに見る。

「堀河くんは? 進路どうするの?」
「俺は……決まってない。とりあえず大学は行こうかと。専門に行ったら、忙しすぎてバイトができなくなるって聞いてさ。これからもコスメと服はバイトして買いたいから」
「それって、《SuRuGa》としての活動は大学に行っても続けるってことだよね?」
「え? あー……」

 そんなこと、考えたこともなかった。
 俺にはこれから《SuRuGa》をどうしていきたいかなんて、わからない。いつも一人でいるのが当たり前で、夢を掴もうだとか、誰かに貢献しようだとか、そんなことを考える余裕がなかったのだ。
 いつも、誰かに本当の自分をさらけ出したら馬鹿にされるんじゃないかって──久藤と秘密を共有してからも、あいつがいつ学校で俺のインスタ垢をバラらすんじゃないかって──そればかり考えている自分が、情けなくなってきた。
 久藤は『夢』っていう、もっとずっと遠い場所を見据えているんだ。

「ああ……うん、まあ。《SuRuGa》の活動は続けると思うよ」
「そっか。うん。それがいいよ」

 久藤の笑顔が眩しくパッと花開く。

「あたしみたいに、《SuRuGa》のことめっちゃ尊敬してる人とか、楽しみにしてる人、たくさんいると思うんだよね」
「尊敬だなんて、大げさだな」
「そんなことないよ? 堀河くんのすごいところ、たくさんあるもん。女の子の服を着るのに理想的な体型でしょ? それを維持する努力でしょ? コスプレもファッションもメイクも全部良く知ってる知識量でしょ? 新しい流行をいち早く押さえるアンテナでしょ?」
「や、やめろよまじで」

 久藤は指を折り数えるのをやめると、親指と人差指を伸ばして顎に当てる例の仕草をした。

「ふふん、女の子研究家としては、《SuRuGa》氏の今後の飛躍に目が離せないのでありますよ」
「いや待て。俺は女の子研究家に研究されるほどたいそうなもんじゃないよ。あくまで女装をしている男だから。トランスジェンダーじゃないし、女になる気は今後もないし」

 すると久藤はきょとんとして顎から手を離した。

「え、女の子って、概念でしょ」
「概念……?」
「そう!」

 ばしん、と久藤が机を叩いて前のめりに顔を近づけたので、俺はつい仰け反った。

「女装を楽しむ男の子も、私にとっては女の子って概念だよ! 堀河くんは、ほんと綺麗だから。尊敬する。私の憧れだよ? だから自信持って!」
「あ……、はい……」

 これは……夢なのか?
 コソコソと女装をして、インスタに上げるだけで満足して。リアルの友達にはキモがられるのが怖くて、誰にも言い出せない本当の俺のことを、尊敬してくれる人がこの世に存在するなんて……?

「……やばい」

 目がじんわりと潤んで、俺は慌てて上を向いた。
 泣きそう。
 やばい。うれしい。
 俺のやってきたことを、初めて受け入れてくれる人がいた。
 俺は俺でいいんだって、背中を押してもらった気がした。
 久藤は、俺がたった一人でもいいからずっと欲しかった、理解者なんだ。

「ちょ、堀河くん、どうしたの?」
「いや、目にゴミが」
「えーっ! ちょっと待って、ほ、ほら紙あるよ、紙! アップルパイに付いてきたやつ!」
「わ、わりぃ」

 久藤がパスしてきた紙ナフキンを受け取って、零れ落ちそうな涙を内緒で拭き取った。

「あー、久藤マジでありがとう」
「ゴミ取れた?」
「取れた。でもそれだけじゃなくて、いろいろと」
「んー? よくわからないけど、どういたしまして!」

 ふんわりとウェーブした久藤のポニーテールが、声とともに揺れた。