「なんでもいいんだよ、私が死にたい理由なんて」

彼女がカプチーノをグルグルに混ぜて綺麗なハートのラテアートを崩す。自分でわざわざオーダーしていたくせにあっさりと崩してしまうんだな、なんて僕はそれを見てぼんやり考えた。写真の一枚でも取ればいいのに。

「じゃあ君が生きたい理由は無いの?」

 僕がそう問いかけると彼女はキョトンとしてカプチーノの混ぜる手を止めた。原型のとどめていない綺麗なラテアートはもうグルグルに混ざって泡も無くなってきている。

「……なんとなく、死ねないから生きてる、かな」

 ぼんやりとした答えに、そっか、と返して僕はコーヒーを一口飲んだ。彼女と話していたからかコーヒーは冷めてしまっていた。

   *

 六月、春も終わり天候が不安定になるこの季節は、僕にとってはなんでもない月だった。
梅雨に入った最近は、折り畳み傘を持ち歩いていないと突然の雨で家に帰れなくなってしまう。電車の中でぼんやりと窓の外を眺めると、雨が降っているのがわかった。
駅から出れば折り畳み傘をカバンから出して帰路を歩く。駅から家まで遠いし、雨のピークはあと一時間くらいだったから近くのカフェに入った。いつも通るが入ったことの無いカフェだったが、思ったより人が多く、一人で座る席は空いていなかった。

「君、私一人だからここ座っていいよ」

 向かいあわせの二人用の席に座った女の子が僕に話しかけてくる。僕と同じように制服だったから、きっとどこかの高校の生徒なんだろう。この辺では見かけない制服だった。僕は軽く会釈をして彼女の前に座る。彼女は何も頼んでいなかったらしく、僕の方にメニュー表を見せながら自分も見ていた。

「私はカプチーノにしようかなぁ」

 僕に言ったのか、彼女はぼんやりと呟くように言った。僕はそんな彼女の呟きに反応することもなくコーヒーを頼むことにする。店員さんを呼んでそれぞれの注文を済ませた。

「君はここによく来るの?」

 彼女がセミロングの髪を耳にかきあげてそう問いかける。なんでもない仕草に見惚れるような整った顔立ちだった。

「いえ、初めてです」

 制服というだけで歳はわからないから一応敬語で答えた。すると彼女は敬語じゃなくていいよ、と笑う。笑顔は幼いんだ、なんて一瞬思ってから僕は僕が彼女に興味を持っていることに気づいた。

「そうなんだ、私も初めてなんだよ。ちょっと遠くから来たからさ」
「だからこの辺りであんまり見かけない制服なんだ」
「そうそう。いろんなところに行くんだよね。死ぬ前に色々見たいし、食べたいじゃん?」

 彼女の当たり前に言った言葉に僕は戸惑った。普段友人と会話をするときにはそんな話題は出ない。もっと他愛のない、くだらない、そんなものだから。

「君は、余命宣告でもされてるの?」

 驚きながらもそう聞いた。すると彼女はキョトンとしてから少し楽しそうに笑う。

「そんなんじゃないって。人間いつか死ぬでしょ? 私は常になんとなく死にたいから、いつ死んでもいいようにしてるだけ」

 店員さんがカプチーノとコーヒーを持ってきた。僕はコーヒーに手をつける気にもなれず彼女の方を見る。死にたいと言う割には明るく社交的な印象だ。

「なんとなくって、どういうこと?」

 僕がそう問いかけると彼女は少し考える。彼女は置いてあったスプーンを持ったと思えば、綺麗なラテアートの中に躊躇いもなく入れた。

「なんでもいいんだよ、私が死にたい理由なんて」

 崩れていくラテアートを見ながら僕はその言葉が少し投げやりだと思っていた。どうして彼女は死にたい理由はなんでもいいなんて言うのだろう。グルグルに混ぜたラテアートはミルクの白さはなく、もうカプチーノの泡は減っていた。

 そのあとの会話はほとんど流されるように返されてしまった。窓の外の雨が小雨になった頃にはコーヒーも飲み終えて、店内も人が減っていた。僕は帰る準備をして、席を立つ。

「ねぇ、またここで話さない? 君が私と話したい時でいいからさ」

 僕はその言葉に、「まぁ、いいけど」と曖昧に答えた。それでも彼女は満足げに笑った。可愛らしいのに死にたいだなんていうから、途端に儚げに見えて、僕は彼女を放っておけないと思った。

   *

 僕らは、いつものカフェでいつもの席で他愛のない話をする仲になった。でも彼女は日に日に儚さが増していって、どこか遠くを見つめるような、そんなことが増えた。

「君の制服は相変わらず見かけないけど、どこから来てるの?」
「んー、それは秘密かな」

 彼女は秘密が多かった。でも僕はそれでもよかった。カプチーノが好き、笑うと幼い顔になる、晴れているより雨が好きだから梅雨が明けるのがちょっと嫌、死にたがり、そんな断片的なことしか知らない彼女でよかった。

 梅雨が明ける少し前から、彼女があまりカフェに来なくなった。僕は彼女の連絡先なんか知らない。だからただカフェで待つことしかできない。本を読むことが多くなった。カフェの閉店まで彼女を待つことが多くなったからだ。

「最近来なくなったね、忙しいの?」
「まぁ、ちょっとね」

 閉店時間が近い時間に彼女が来たとき、そんなふうに聞いてみた。彼女はまた、曖昧に返した。僕は初めて、彼女の隠し事の多さに嫌な感情を覚えた。確かに、僕らはお互い名前すら知らないけれど、待ち続けたからだろうか、それなのに、なんて思ってしまった。


 こんな感情を彼女にぶつけたくなくて、その日は彼女をカフェに残して帰った。帰ろうとしたとき、彼女に、「明日も来てくれる?」と問いかけられたが僕は何も答えなかった。彼女の儚さはなんとなく薄くなっていて、何かいいことがあったみたいな顔をしていた。きっと明日その話をしたいのだろう。でも僕は次の日、あのカフェに行かなかった。その次の日も。ちょっとした仕返しのつもりだった。


 そして、梅雨が明けた六月の終わり、彼女は死んだ。


 僕はニュースで女子高校生が死んだというのをみて、察した。自殺した少女の友人、という女子高生がコメントのために首から下を映すと、彼女と同じ制服を着ていたのだ。彼女はカフェに来なくなったあの日々で、死にたい理由を見つけたんだろう。だから僕にそれを伝えるつもりだったんだ。

 彼女がまだいる気がして、いて欲しくて、僕はあのカフェに行った。当然彼女はいなかった。わざと彼女がいつも座っていた方の席に座り、コーヒーではなくカプチーノを頼む。ハートのラテアートを見て、崩してしまうなんてもったいない、といつも思っていたことを思い出した。

「なんで混ぜてるのかくらい、聞いとけばよかった」

 スプーンで彼女みたいにグルグルにかき混ぜる。僕の彼女に対する色々な感情みたいにハートは歪んで、その形は消える。カプチーノに滴が落ちた。僕は彼女が死にたいというのを止めなかったことを後悔した。もっと彼女を知っておけばよかったと。そしてあの日、カフェに行っていれば。そんな感情が溢れて涙が止まらなかった。

   *

 僕は来るはずのない彼女を今日も待っていた。カプチーノを頼んで、かき混ぜて、ラテアートを無駄にする。彼女との数日間の思い出が溢れないように砂糖も入れずに飲み干した。……苦い。


 彼女は今日も来なかった。

 僕と彼女が出逢った六月が終わった。