わたしは駅の前を通り過ぎて「めし屋」と大きく書かれた暖簾があるお店の前についた。


高校に入ってからは帰宅部として生活していたけれど、あまりにも退屈すぎたので、お小遣い稼ぎに始めた定食屋さんでのアルバイト。


昼時にはサラリーマンで賑わっていて、大衆食堂といった雰囲気のこのお店は、ほとんどのメニューが500円という手頃な価格で食べられるということもあり、地元の人から愛されていた。


入り口には食券の自動販売機が置いてあり、お客さんはそこで券を購入してから店内に入ってくる。


割り箸やお水といったものはセルフサービスになっているけれど、常連さんが多いこともあり、くる人はみな、当たり前のように自分で用意をしてから席に着く。


オーナーは70代くらいのご夫婦で、ご主人さんが定年退職されてから、第2の人生としてこのお店を開いたという話を以前聞いたことがある。


息子さんがふたりいるらしいが、どちらも今は家庭を持ち、お孫さんも4人いると言っていた。



そのためか、わたしのことも孫を見ているかのようにいつもお店で可愛がってくれるので、ここでの人間関係に悩む心配はなくて学校よりもずいぶんと居心地がいい。



「お疲れさまです」



わたしは暖簾をくぐり、ガタガタと音が鳴る引き戸をゆっくりと開けて、すでにお客さんで賑わいを見せている店内に入った。



「あら、ゆりなちゃん。今日もありがとうね。ゆうくんも、もう来てるわよ」



そう笑顔で声をかけてくれたのは、奥さんの方のさちえさん。


真っ白の割烹着をいつも着ているさちえさんは、いつもパタパタと動き回り、無駄な動きが一切ない。


手際よく料理を運び、料理を食べ終わった人がレジに向かう姿が見えると、自分も急いでレジへと向かって精算を済ませる。


こんなに動き回っているのに、お客さんとの談笑も楽しんでいるので、本当にこの店はさちえさんがいるからこそ成り立つのだと思う。


わたしは奥にある小さな部屋で身支度を済ませて、ご主人さんにも挨拶をすると流し場へと向かった。


主な仕事は食器洗いと片付けなので、仕事中はほとんどこの流し場で黙々とさちえさんの運んできた食器を洗っている。



「お疲れっす」



紺色のエプロンで手を拭きながら、ゆうくんも流し場に入ってきた。


ゆうくんは別の高校に通う男子校生で、学年的にはひとつ下の後輩に当たる。


だけど、わたしより先にアルバイトを始めていたので、仕事的にはゆうくんの方が先輩でその分手際がいい。


ゆうくんは中学生の頃からここでアルバイトをしているらしいのだが、学校には秘密にしていたらしくバレた時にかなり厳しく指導をされたんだとか。


大きな二重瞼が印象的で、まだまだあどけないような顔をしているし、そもそもなんで中学生で働いたりする必要があったんだろう、と疑問に思ったのがゆうくんと始めて会話をした時の第一印象。



「お疲れさま」


「ゆりなさん、今日も学校帰りですか?」


「そうだよ。ゆうくんはいつも私服だけど、わざわざ着替えてからここにくるの?」


「家が近いんでそうしてます。制服ってなんだか動きずらくて嫌いなんっすよね」



そう言いながらゆうくんは、綺麗に磨き上げられたグラスを食器棚の中にひとつずつ片付けていく。


年齢もあまり変わらないからタメ口でもよかったし、むしろ私の方がここでは後輩なんだから敬語を使わないといけないのかもしれなかったけれど、ゆうくんから「ゆりなさんは俺に敬語使わないでくださいね」って言われたから、わたしはタメ口で話している。


そう言うゆうくんは、いつまでも敬語のままだけど。



「ゆりなさんの髪型ってこけしみたいですよね」



突然手の動きを止めたゆうくんが、まじまじとこの前美容室に行ったわたしの髪型を見て話しかけてきた。



「こけし・・・・・・? そうかな?」


「真っ直ぐに整えられた髪型、こけしみたいです」



たまにゆうくんはこんな風に独特な比喩を使って会話をしてくる。


人が聞いたら不快に思いそうなことも、なんの躊躇いもなく、ただ真っ直ぐに正直な意見を述べるかのようにして。



「お土産品店に売ってある真っ黒なこけしみたいで可愛いです。似合ってますよ」


「そう・・・・・・。ありがとうね・・・・・・」



どうやら褒められているようなので、苦笑いを浮かべてお礼だけ小さく付け加えた。


ゆうくんみたいな子が学校にいたら、きっと風変わりな子っていう扱いを受けると思うし、人によっては嫌う人もいるかもしれない。


だから、ゆうくんの学校での生活がとても気になって、学校のことについて聞いてみたこともあったけれど、その時もいつの間にか話が脱線してうまく聞き出せなかった。


この子はわたしみたいに学校で嫌がらせを受けていないのだろうか。


そんな余計なお世話まで考えてしまう。


だけど、ゆうくんみたいに何も考えないで気さくに話しかけてくれる存在は、たしかにわたしにとってはありがたかったし、むしろその方がこちらも自然体でいることができた。


だから学校ではうまく話せなくても、このお店の中では普通に話すことができる。



「ゆりなちゃん、ゆうくん、このお皿もお願いね」



さちえさんは下げてきた食器を流し台に置くと、急いで店内へと戻っていった。


ゆうくんとたわいもない会話をしているうちに、夕食時になっていて、お店の中はサラリーマンや家族連れでいつの間にか満席になっていた。



「今日もまかないもらえれるといいっすね」



そんな素直な心の声まで実際に口にしてしまうゆうくんは、やっぱり変わっているけれど、憎めないし可愛らしいなって思う。




最後のお客さんが店を出て行く頃には9時を回っていた。




「今日もお疲れさま。ふたりともまかない食べていかない? 焼きそばならすぐに作れるから」



さちえさんが冷蔵庫の中を覗き込みながら、わたしとゆうくんに明るい口調で聞いてきた。



「いいんすか? 食べたいです。ね、ゆりなさんも食べますよね?」



ゆうくんは迷うそぶりもなく、遠慮なしに即答した。



「ありがとうございます。お気持ちだけで今日は大丈夫です。明日の宿題がたくさんあるから、早く帰らないといけなくて」



わたしは苦手な数学の宿題が出ていたので、お腹は空いていたけれどすぐに帰ることにした。


学校についてから宿題を見せてくれるような人もいないので、もちろん自分でやらなければいけなかったから。



「じゃ、俺ゆりなさんの分も食べときますね。お疲れさまでした」


「お疲れさま。また今度ね」



そう言ってわたしは暖簾の下をくぐって、外の空気を大きく吸った。


人通りはだいぶ少なくなっていたけれど、月明かりにぼんやりと明るく照らされた道の真ん中に立つと、気持ちがなんだか落ち着いてくる。


学校の廊下では人目につかないように端の方を歩くけれど、夜道だと道路の真ん中でも堂々と歩けてしまうから不思議だ。


わたしは名前も知らない星たちを見上げながら、ゆっくりと家へと向かった。




「ただいま」



玄関で靴を脱いでいると、お母さんがくまの絵がついたマグカップを手にしたまま、リビングから出てきてくれた。



「おかえり。疲れたでしょ? 夜ごはん準備できてるから温めるわね。手洗いもちゃんとしなさいよ」


部屋の中にはカレーの香りが充満していて、わたしがソファーに腰をおろすとお母さんが電子レンジで温め直している音が台所から聞こえてきた。


毎週日曜日は我が家ではカレーと昔から決まっているので、月曜日の今日はいつもそのカレーの残り物を食べるというのがお決まりのパターン。


わたしはジャージに着替え、コンタクトレンズからメガネに替えると、テレビの前に座って流れているドラマをぼんやりと眺めた。


今やっているドラマは崖っぷちの受験生が、家庭教師と二人三脚で勉強を頑張り有名な私立大学を目指すという、お母さんが今ハマっている番組。


個人的には家に帰ってきてからも、学校や勉強に関する話題に触れるのは避けたかったけれど、そんな身勝手な理由でお母さんの楽しみを奪うわけにもいかないので、仕方なく観ているといった感じ。


友だちと盛り上がるシーンなんかが出てきた時には、思わず俯いてしまうのはやめられないけれど、お母さんがそのことに気がついているのかはよくわからない。


「チン」という甲高い電子レンジの音が鳴ったので、カレーをのろのろと取りに行って、麦茶と一緒におぼんに乗せて元の場所に戻ってくる。


お母さんがその姿を横目に追っているのが、なんとなく気になったけれど、わたしからあえて口を開く必要はないので気が付かないふりをした。


テレビの音だけが静まり返ったリビングに響き渡り、お母さんとの間に流れる微妙な空気をあやむやなものにする。


しばらく沈黙が流れたのち、先に口を開いたのはお母さんだった。



「ゆりな、最近学校はどう? 大丈夫?」



どう、とか、大丈夫って聞いてくるって時点で、わたしが大丈夫ではないということを、すでに察しているということがひしひしと伝わってくる。



「うん、ぼちぼちしてる。大丈夫だよ」



わたしは曖昧な返事をしながら、カレーに視線を落とした。


ぼちぼちっていうのはわたしの中ではあまり良くない時に使う言葉だけど、なんとなく曖昧に誤魔化せてしまう気がするから、最近口癖のように頻繁に使ってしまう言葉。



「そう、あまりひとりでは溜め込まないようにね。何かあったらいつでも相談してちょうだいね」



お母さんはそれ以上わたしに深くは聞いてこなかったけれど、やっぱり今の学校生活のことをあまりいいものだとは思っていないような顔をしていた。


きっと、もっと詳しく学校のことを聞き出したいと心の中では思っているのかもしれない。


だけど、そこにはわたしに対してのお母さんなりの遠慮と配慮というものが存在していて、自ら聞き出そうとはしない。


少なくともわたしが話し出すまで待ち続ける、といったお母さんなりの決意というようなものが感じられた。



「ありがとう。楽しいから安心してね」



わたしの力のない言葉がどこまでお母さんに届いたかはわからないけれど、この言葉を聞いて少しだけお母さんの口元が笑ったように見えて、少しほっとした。



「カレー、いただきます」



わたしは熱々のカレーを口にそっと運び、テレビを観ているお母さんの方を一瞬チラリと見た。


無理やり嫌なことを聞き出そうとしない優しさが、学校を本当は楽しめていないというお母さんへの申し訳なさをさらに強くして、胸がきゅうっと締め付けられる。


テレビの中から聞こえてくる笑い声は、そんなわたしの心をさらに惨めにする一方で、張り詰めた空気を少しだけ和ませてくれているような気がした。