バイクは誰も走っていない真夜中の国道を走っている。
 両腕で感じる伊織(いおり)くんの体温は新鮮で、ずっとこうやってくっついていたいなって思ったけど、まだ関係が友達以上恋人未満のままじゃ、これ以上は近づけないなってふと思った。

 白色の街灯が等間隔に並んでいて、白い点は線になっている。国道の両端は木々が生い茂っていて、時折、風で木々の影が風で揺れているのが見えた。
 片側二車線の道路は私と伊織くんだけの世界で、時折、対向車でトラックとすれ違うくらいだった。

 少し先の信号が黄色になり、そして赤になった。伊織くんのバイクはゆっくりと減速していき、停止線で止まった。T字路の交差点で、街へつながる方の道路もからっぽで、右左折する車は存在しなかった。

「なあ、希歩(きほ)。気持ちいいでしょ」と、少し大きな声で伊織くんに言われたから、私もバイクのエンジンの音に負けないように、うんと大きな声で、返事をした。

「信号無視しないの?」
「バカだろ。そんなことするやつ」
「若気の至りとか、よくバイクが原因じゃん」
「暴走族じゃないんだから、そんなことしないよ」
「へえ、そうなんだ」
「返しが淡白だな」
「違うよ。安心しただけだよ」
 私がそう言うと、なんだよそれ、と伊織くんはそう言いながら、笑った。
 こんな夜更けなのに、気温は全然下がっていなかった。5丈の白いTシャツから出ている両腕はしっかりと湿度を感じていた。息を吸うたびに空気が重く感じたけど、時折、海の方から吹く風に乗って、かすかに感じる潮の香りが少しだけ爽やかに感じた。

「バイク乗る人って、そうかと思ってた」
「どんな世界の話だよ、それ」と伊織くんが言い終わると、ちょうど信号が青になった。行くよと、声をかけてくれたあと、ゆっくりとバイクはまた走り始めた。

 伊織くんのそんな何気ないその優しさが好きだ。

 もうそろそろ、その思いを私から伝えてもいいような気がした。だけど、こうして伊織くんと二人きりになるのは、まだ2回目だから、ちょっと早いような気がした。
 大学に入って最初の夏だから、もしかすると、今日のこの一瞬は、私が30歳になって忙しい日々を送っているときに、ふと思い出すのかもしれないって思った。

 漠然とした思いを感じながら、そのときも伊織くんは私の隣にいるのかな、なんて、考えてみようとしたけど、はるか未来のことすぎて、全然イメージが湧かなかった。

 ただ、今、言えることは、伊織くんと同じ大学に入ってよかったと思った。
 伊織くんに知り合えたことで、現在進行系で私の世界が開かれていくような気がしている。

 そんなことを考えていたら、大きな橋の手前にある交差点でまた赤信号に捕まり、バイクはゆっくりと減速し、そして、あまり衝撃を感じないくらい柔らかく止まった。左側を見ると林はいつの間にか途切れていて、海の闇が空っぽみたいに黒かった。
 
「ブレーキ、上手だね」
「人乗せてるからね。普段は荒いよ」
「そんな感じに見えないよ」
「バイク乗り始めてもう、2年半くらいなるから、ちょっとは上手くなってないと、楽しくないよ」
「それって、16歳で取ったの? 免許」
「あぁ。うちのオヤジもバイク好きでさ、取らせてくれたんだよ」
「へぇ。すごいね」
「その所為で、車の免許は持ってないけどね」
「すごいね」
「でしょ。俺、普通じゃないんだ」と得意げにさらりと言ってしまう伊織くんのことが単純にかっこよく感じた。

 『普通じゃない』という伊織くんの言葉がきっかけで、頭の中で『普通じゃないよ』と高校生だったとき、冷たく友達に言われたのを思い出し、嫌になって小刻みに頭を振って、私はそれを忘れる努力をした。

「なあ、希歩(きほ)」
「――なに?」
「再来週は、花火見に行こう。いい場所知ってるんだ」
「いいよ。浴衣着ないとね」
「巻き込まれるからダメだよ。その姿は見てみたいけど」そして、信号が青になり、バイクは闇にむかって走り始め、つかの間の会話はまた途切れた。
 

 

 海岸公園に着くと、海の先は暗闇ではなく、薄っすらと明るい青が混ざり始めていた。
 バイクを駐車場に停めて、自販機でコーラを2つ買って、砂浜まで続く階段に座った。まだ、誰も起きていない世界は微温いままで、夢の中の世界がそのまま続いているような、感覚がした。

「コーラ」と言われるのと合わせて、左頬に冷たさを感じ、鳥肌が立ってしまった。
「冷たいよ」
 私はそう返して、頬につけられた缶を右手で受け取った。

 プルリングを引くと、冷たい音がした。そのあとすぐに、伊織くんは私の缶に缶を軽く当ててくれた。コーラを一口飲むと、甘くて、爽やかなフレーバーが一気に広がった。
 その間にも空はだんだんと濃いオレンジが青と黒に混ざり始めていた。左側に見える海岸線の先には小さな山が見えていて、その麓は緑がかった白い光が点々としていた。

「逃避行の始まりみたいだったね」
「真夜中にバイクで駆け抜けたから?」と私のくだらない一言に、伊織くんはしっかり返してくれた。

 だから、右側を向き、伊織くんを見つめると、伊織くんは目を細めて、にっこりとした表情を浮かべた。
 ヘルメットを被っていたから、茶髪でロングのパーマがかかった髪はしっかりと、潰れていて、耳元や襟足の毛先が風で揺れていた。
 
 バイクに乗っている間は伊織くんのくっきり二重で、すっとした鼻、そして、うすい唇で色白な、優しい印象の顔が見れなかったから、こうやって間近でじっくり見ると、なんだか、照れくさくなってきた。
 本当に伊織くんと二人きりで過ごしているんだと思うと、急に緊張してきた。
 
 だから、私は慌てて、もう一度コーラを一口飲んだ。
 そして、弱い風が吹き抜け、前髪が口元に当たったから、それを左手でそっと直した。

「なあ」
「なに?」
「夜中のファミレスで意気投合しちゃうって、あまりないことだと思うんだ。そう思ってるの俺だけだったかな」
「――違うよ。私だって、思ってたよ。むしろ、私のほうが喋りすぎちゃったんじゃないかって、心配になってた。だけど――」
「だけど?」
「バイクで連れ出してくれたじゃん」
「女の子、乗せたくなったんだよ」
「えっ、そしたら、女だったら、誰でもよかったの?」と眉間にしわを寄せて、伊織くんをまた見つめると、伊織くんは大きな声で笑い始めた。

「違うよ。希歩を乗せたかったんだ。タンデムで」
「タンデム?」
「ニケツって意味だよ」と言われて、二人乗りのことをそう言うんだってことを理解した。
 それだけ、私にとって、バイクの世界とは縁がなかったし、まさか、自分の人生の中で、男の子の背中に寄りかかりながら、真夜中の街の空気を切り裂くなんて、思ってもみなかった。辛かった16歳のときの私に、こんな未来が待ってるよって、言ってあげたいなって、思った。

「――高校生のときにこうやって連れ出してほしかったな」
「どうして?」と伊織くんは、少し心配そうな声色で聞いてきたから、私のこと、本当に知ろうとしてくれているんだって思ったから、打ち明けてしまうことにした。

「高校、中退したんだ」
「へぇ。そんな感じに見えないよね」とあまり驚きもせず、さっきまでと同じトーンのまま、伊織くんはそう言った。
 そして、伊織くんは、左手に持っているコーラを口元に持っていき、それを一口飲んだ。
 
 ――やっぱり、重すぎること言っちゃったかな。
 私はそんなリアクションの薄い伊織くんの様子で、急に不安になってきた。
 
「嫌なヤツでもいたの?」
「うん。すごい意地悪なヤツに目つけられちゃったんだ」
「へぇ、希歩がそんなことになってたの知ってたら、希歩の高校にバイクで乗り込んで、暴れ回ってたわ」
「ただの暴走族じゃん」と私はふふっと声を出して、笑うと、だよな、と言って、伊織くんも弱く笑った。お互いに笑い終わると、伊織くんは短く息を吐き、大変だったな。とぼそっと呟いたから、私はその所為で心拍数が急に上がった。

「だから、キラキラした高校生活はなかったんだよね。高卒認定試験取って、受験勉強して――」
「今に至ると」と私の方を見ながら、ニヤニヤして伊織くんはそう言ってきた。
「ちょっと、締めの言葉、取らないでよ」
 私は少しだけ、不貞腐れた素振りを見せると、伊織くんはまたひとしきり笑った。伊織くんが笑っている間にも確実に空は明るくなり、波で揺れる海の全景が見えるようになっていた。海は夜明け前の藍色をしっかりと吸い取ったみたいに穏やかな色をしていた。

「ここまでよく頑張ったね」
「――そんなに頑張ってないよ。ようやっと普通に戻れたと思って、ほっとしてるの。今は」
「普通なんてないよ」
 その言葉で今までいろんな人に責められたことを思い出してしまった。

 高校を中退することにしたとき、親から『そんなのダメだ』と言われたことや、友達だと思っていたヤツらから『普通じゃない』と言われた、心ない言葉が、また頭の中で再生された。
 それにこの3年近く、ずっと悩まされ続けている。泣きたくても、泣かないで、普通に戻るために私は一人で、勉強し続けた。
 
「希歩は自分らしく生きればいいんだよ」
「――じゃあ、伊織くんはどうなの?」
「俺だってそうだよ。自分らしく生きようと努力してる」
 伊織くんは、そう言ったあと、缶を唇に当て、首を上に傾けて、コーラを飲んだ。そして、左手に持ったままの缶を潰して、それを一段下の階段に置いた。缶は軽い音を立てて、一段下のコンクリートに寝そべっていた。
 だから、私もコーラを飲み切って、空き缶を一段下の階段にそっと置いた。

「なあ、希歩」
「――なに」
「もうすぐ夜明けだね」と言って、伊織くんは左手で海の方を指したから、その指したほうを見ると、小さな丸いオレンジが徐々に海から上がってきていた。
 すでに空はオレンジと藍色が混じり、ライムをほんのり垂らしたような薄い青色が広がっていた。低いところにある雲が、それに照らされて、輪郭をあらわにしていた。また、昨日と同じような暑い夏が始まろうとしていた。

 膝に置いていた左手の甲に熱を感じ、そっと視線を膝に落とすと、伊織くんの右手が私の手を包んでいた。
 だから、私はもう一度、視線を上げて、左にいる伊織くんを見た。

 すると、伊織くんはそっと、微笑んだあと、なにか言いたげな表情をしたけど、それを口に出す前に、私の唇を塞いだ。