「実に嘆かわしい!」
 大聖堂中に響いていそうな怒声にエヴァはびくりと肩を震わせた。
 ヴェカデーレ宮殿にあるラスウェル大聖堂。神々しい祭壇の目の前に男性が立っている。真紅の司祭服に身を包み、厳格な雰囲気を醸し出している。エヴァは身を縮めるしかない。
「ヴィクター司教の不在、聖女の無断外出、あまつさえザラ・ウォール・ガードナーの潜伏拠点と思しき館に師弟揃って侵入、奇襲をかけるとは! それがソーフェン修道会に所属する者のすることか!」
「も、申し訳ございません。猊下(げいか)……」
 眉間に深い皺が刻まれていることを確認してからエヴァはおずおずと頭を下げる。
 宮殿の外はすでに暗くなっている。時間の経過を自覚すれば空腹が身に染みる。戻ってきた時点で全ては露見していた。謝る以外にエヴァができることは何もない。
「そなたたちがついていながら」
 司祭はちらりとエヴァの背後を見る。ウィルフレッドとアレクシスが控えている。
「聖騎士ウィルフレッドならびに聖騎士アレクシスよ。確かに、そなたたちは聖女の助けになるよう手を差し伸べるべき存在だ。だが、時にはエヴァンジェリンを諫める勇気を持たねば。此度の一件、その責任は重いぞ」
 申し訳ない気持ちで視線を伏せた。結局、ふたりには迷惑をかけただけだった。居たたまれない気持ちでスカートの裾を握る。しかし、そこでウィルフレッドが口を開いた。
「ルクレール枢機卿。恐れながら申し上げます。ザラ・ウォール・ガードナーは手配中の身。いずれは捕縛しなければならない対象です」
「そうですよ。ケネス様。そんなに興奮してはまた血圧があがりますって。もうお年なんですし」
 騎士ふたりが仲裁に入ってくれた。ありがたいが相手がまずい。目の前におわす人物は教皇の次位にもあたる枢機卿ケネス・ヘイデン・ネイト・ルクレールだ。修道会でも三本の指にはいる実力者に反論など言い訳でしかない。事実、枢機卿の表情が険しくなる。
「聖騎士ウィルフレッドよ、その言葉はザラを捕縛してから言ってもらおうか。肝心な彼女の行方はわからずじまいなのだろう?」
 怒気が膨れあがるのを感じる。噴火間近の火山のようだ。一瞥されたウィルフレッドは口を噤む。主張があっさりと翻されたからだ。特にアレクシスの発言はいただけない。明らかに火に油を注いている。案の定、枢機卿の顔が真っ赤になった。
「それに私はまだ五十八だ、ばかもの! 年寄り扱いするでないわ……いや、違う。聖騎士アレクシスよ。言葉を慎みなさい」
 そこは敬虔な聖職者。すぐに冷静さを取り戻した。一方のアレクシスは「はい」と返事して笑うだけ。ちっとも堪えていない。というか懲りていない。
「西の魔女のこととは別に、そなたたちの行動自体が問題なのだ。大陸が懸賞金をかける犯罪者とはいえ調査も確証も手続きもなしに最初から武力による侵入と鎮圧。それがソーフェン修道会ひいてはラスウェルのあるべき姿なのか? それを問うているのだ」
 それはごもっとも。
 調査も証拠もなしに唐突にザラの館へ殴り込みに行ったようなものだ。疑わしきは罰せずどころか、武力で鎮圧したといっても過言ではない。現代日本人の意識からしても横暴極まりない話だ。枢機卿が激怒するのも無理のない話だ。
「ましてや偶然元素石の取引現場に居合わせるとは。全員無傷で捕縛できたからよかったものの。慎重さ、確実性には欠ける行いばかりだぞ」
 もうひと欠片の反論すらできない。
 判断は行き当たりばったり。師匠の行方を追って魔女の館へ潜入してみれば、取引現場に居合わせたという結果にすぎない。盗賊たちの人数や腕によってはウィルフレッドたちの手に余ったかもしれない。結果的には最悪のケースは免れた。それは単に運がよかったに過ぎない。
 確かに軽率な行動ばかりだ。ぐっと奥歯を噛みしめる。
 神の教えを説くといっても人間のが集まりだ。人間の集団といえば組織。組織ともなれば意見の対立は避けられない。エヴァたちの行動は確実で慎重さを重んじる人種には信じがたい所業であろう。この騒ぎがこの程度ですむわけがない。まさに後悔さきに立たず。身から出た錆。
「第二聖女エヴァンジェリン・コールウェル・ロゼ・ソディフィールドよ」
「は、はい」
 名を呼ばれて返事をする。枢機卿の厳しい顔つきは変わらない。
「そなたは幼いものの在任期間は他の聖女の誰よりも長い。聖女とはいついかなる時も博愛と慈愛の精神を忘れず、庇護を求める者には救いと安らぎを与え、常に他の信徒たちの模範とならねばならぬ存在。その責務についた以上、幼さや年齢は理由にはならぬぞ」
「も、もちろんです……」
 いかなる言い訳も許さないという枢機卿の言葉に同意する。というかNOと言えない雰囲気。もとが空気を読む日本人の気質だからなのか。前世の記憶をもつ以上、この体質は抜けない気がする。
「このことはおそらく審問会に発展するだろう。三人ともそのつもりでいなさい」
 最後の駄目押しとばかりに無情の宣告が言い渡される。
 審問会とは修道会で起きた問題を審議し、解決する場だ。早い話が審問という名のお説教部屋である。ついでにエヴァはすでに数度は受けている身だ。修道会の上層部も顔と名前を知られている。そんな不名誉な自覚だけはある。
 仕方ないとエヴァが腹をくくった時だった。
 開け放たれた窓の外から一羽の鷹が飛来する。ぐるりと大聖堂の天井を一周して、枢機卿の腕に降り立つ。彼も不審に思った様子はなく、鷹の足に結ばれている文をほどいて背を向ける。おそらく内容を確認しているのだろう。
 沈黙が痛い。すでに決定事項の査問会に気が滅入る。師匠はどこで何をしているのやら。
 そんなとりとめのないことを考えていると枢機卿がくるりと振り返ったその表情はさらに険しくなっている。何かまた嫌なことが追加されるのかもしれない。エヴァが身構えてた時だった。
「……すまない。エヴァンジェリン。今までの発言を撤回しよう」
「猊下?」
 思わず目を見開いた。枢機卿の謝罪は予想していなかっただけに頭が真っ白になる。
「此度の件、グラディウス様より賛辞のお言葉を賜った。極秘捜査だったらしいな」
「えッ……」
 さらに耳を疑う。何を言われているのか意味すら理解できない。
 グラディウスとはソーフェン修道会の教皇そのひとだ。最高地位の人物が自分とどう関わっているのか、話の文脈が見えてこなかった。
「ヴィクター司教からも調査報告書が提出されている」
 なんと。師匠も絡んでいるらしい。極秘調査に報告書。一体、なんのこっちゃ。
「取引の中止を避けるために秘密裏に動いていた、とある。早合点をしたのは私の方だった。本当にすまない」
「い、いえ、わたしは何も……」
 頭をさげる枢機卿に対して本当のことを説明したいエヴァだった。
 自分は何もしていない。本当に彼の指摘するように行き当たりばったりに動いていただけだ。謝罪されるべきことなどあるはずがない。そう告げようとするものの枢機卿は有無を言わせなかった。
「疲れたであろう。今日はもう休みなさい」
 すっぱりとした言葉にエヴァは押し切られてしまう。おずおずとその場をあとにするより他ない。

 解放された三人は風見の塔へ向かう。
 きっと今頃ローレルはおかんむりだ。また一時間くらい説教されるかもしれない。そう思うと気が重くなった。足取りも重くなる。というか全身が重い。疲労だらけの身体を叱咤していると前方から明るい声がする。
「いやぁ、いつもながらケネス様のお説教は楽しいですね」
「……クラウザー」
 楽しげなアレクシスにウィルフレッドがやんわりとたしなめる。やっぱりちっとも懲りていない。そういえば彩人も成績がいいわりには、校内でマウンテンバイクを乗り回したり、屋上で花火をしたりして先生にしょっちゅう怒られていた。本人いわく、職員室でお説教を受けるのが楽しいのだそうだ。今になってはどうでもいいことだが。
 エヴァは落ち込む。結局、迷惑をかけてしまっただけだ。
「ふたりとも」
 あらためて騎士ふたりの向き直った。
「今日はありがとう。ふたりがいなかったらどうなってたか。本当に助かりました」
 口にして頭を下げる。
 付き合わせて騒動に巻き込んでしまった。そのことが申し訳なく居たたまれない。自分の軽率さを恥じるしかない。
 騎士ふたりは顔を見合わせてからエヴァへと視線を戻す。
「問題ない」
「なかなか興味深い体験でしたよ。エヴァ様」
 そっけないウィルフレッドの言葉とアレクシスの笑顔。たったそれだけのことが照れくさくて笑ってしまった。

 前世は過去とは呼べないかもしれない。
 生きる世界も生き方も変わってしまったのだから。きっと風谷(かぜたに)友紀(ともき)の人生は終わってしまったのだろう。確かめる術も、やり直す術もない。
 それでも何を憂う必要があるのだろう。
 立って歩ける。見て話せる。未来を選べる。できることもしたいこともたくさんある。足りないものなどない。恵まれすぎていると思うほど。
 そして、わずかに前世からの縁が残っている。
 もう戻れないからこそ、前へ進みたい。今あるものを大事にしたい。
 決して器用とは呼べない道かもしれない。それでも自分らしく、よりよい選択ができるように。今を精いっぱい生きていく。