とうに薄れてしまった微かな記憶。
 その日はとても寒かったらしい。
 病室からか青空を眺めていると顔を赤らめた母親が飛び込んできた。
 心配したのもつかの間、母親は興奮ぎみに話しだす。
 主治医の話によると、このままの経過なら卒業式に出席してもいいと許可が出たという。一日退院という形で自宅にも戻れるらしい。
 驚きに目を見開いていると、母親が矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。食事のメニューや卒業式のあとの予定をあれこれ提案してきた。きっとその報告を早くしたくて病室に駆け込んだのだろう。
 まだ二週間も先のことだからゆっくり考えようと宥め、卒業式に出席できること自宅に戻れることの嬉しさを伝える。そして感謝も。
 ようやく母親が落ち着いた頃、眠気を覚えたので横になった。ゆるゆると近づく睡魔に抗いもせず、彼は目を閉じる。
友紀(ともき)?」
 母親が名前を呼んだ瞬間、一気に意識が遠のいた。
 近くにいるはずの彼女が叫んでいるはずなのに。
 とうとうその日が来たと思った。
 心は穏やかで痛みも苦しみもない。ただ深い眠りに落ちていくような感覚だった。
 悲しくないといえば嘘になる。自分の存在が消えてしまう怖さもあった。残された家族の寂しさも。思うだけで胸が苦しくなる。
 それでも風谷(かぜたに)友紀(ともき)として生きた時間はとても充実していて毎日が楽しかった。家族にも友人にも恵まれていた。つらいことも悲しいこともあったけれど、それよりもはるかに幸福だったと言いきることができる。
 だからどうか泣かないでほしい。悲しまないでほしい。
 いつも笑顔でいてくれた両親、足しげく病院に通ってくれた友人たち、温かく見守ってくれた病院のスタッフたち。自分を知る全ての人に伝えたい。
 自分の時間はここで終わってしまうけれど、何も失ってはいないから。
 これからも笑っていてほしい。