しかし幸せな日々は長くは続かなかった。
不穏な話の流れに合わせるかのように強い風が吹き上がる。
突風は山桜の子どもたちを母から一気に奪い去り、方々に散らせていく。
「桜の花が緑の葉に姿を変え終わる頃、
私は父に病気なのだから外には出てはいけないと告げられ、近々療養のためにここを引きはらうと言われました」
父は娘が自分の目を盗んで、どこかに出かけていることに気づいていたのだ。
「それでも最後にどうしてもお別れを言いたくて、貴方様に会いに行きました。
貴女様はいつもと変わらず、瑞々しい桜の木を携え、優しい顔で私を迎えてくださった。
私はそんな貴女様にさよならを告げることがつらく、その言葉を使わず、ここには来られなくなるとお話しました。
貴女様はなぜだと理由を尋ねられた。
私が病気なのだと告げると、貴方様は自分が治すとおっしゃってくださった。
私にはそれが涙が出るほど嬉しかった」
――本当はずっと怖かった。母と同じ病だと、泣きながら自分の身の上を嘆く父を見て、いずれ自身も母のように死ぬのだと思っていた。
――自分の与えた血で父が段々とおかしくなってゆく様に、心がどんどん擦り切れていった。
――自身でも気づかぬうちに真っ黒な負の感情に飲み込まれそうになった時、桐秋と桜の木に出会った。
そして、心を救われたのだ。
――さらに別れ際にも生きる希望をくれた。
「大げさかも知れませんが、その約束だけで、これから先の人生を生きていけるような気がしたのです。
最後に指切りをして私たちは別れた。
大切な約束を誓う《《神聖な儀式》》‥」
強い春風に薄金の髪をなびかせたまま、女子はうつろな表情で桜を見つめている。
そこにいずれの感情も読み取ることは出来ない。
「父は、それまで住んでいた母方の祖父の家から、自身の実家へと引っ越しました。
そこでは血を採られることはなくなりましたが、父は研究室に籠もりきりになりました。
そしてまたしばらくすると、今度は頻繁に出かけるようになりました」
家にいるときは研究室に籠もり、それ以外は外出している。
「私はそれが寂しく、父の存在が感じられるようにと、いつも父の研究室の前で遊んでいました」
――父に対する恐怖は未だ己の中に存在していたが、やはり慕う気持ちも強かったのだ。
「けれど父の目に私は映りませんでした。
療養のためにと引っ越しましたが、父が私に治療のために何かをするということもありませんでした」
身の回りの世話などは通いの家政婦さんが行ってくれた。
しかし、その人も必要以上に自分に接することはなかった。
――いつも私は独り・・。
「でも一つ幸運だったのは、家から少しは離れたところにある通りの桜の木が拝めたことでしょうか。
小さな木で花も咲いていませんでしたが、その桜の木を眺めることで、貴方様と過ごした幸せだった日々を思い出し、隔離された孤独な日常を耐え忍ぶことができたのです」
そんな日々が一年近く続いた。
「年を越えて、その年の桜の蕾がほころびはじめたある日、私はいつものように父の研究室の前で独り、遊んでいました。
するといきなり研究室の扉が開き、父が出てきました」
思いもがけない出来事に動けず、座ったまま父の姿を見上げていた。
「父は私をその眼で捉えると、幼い私の視線の高さに屈み、目を合わせ、柔和な顔ですべて終わったのだと告げました。
私は何のことを言っているのかわかりませんでした」
それでも理由が何であれ、父の瞳に自分が映っていることが嬉しくて堪らなかった。
「父の瞳に映った私の姿はどんどんと歪んでいき、私は貯めに貯めた大粒の涙をあふれさせました。
そうしたら父も堪えるような顔をして、『寂しい想いをさせてすまなかった』といって、力一杯に私を抱きしめてくれました。
その時やっと、私は大好きな優しい父が帰ってきたのだと感じました」
瞼を閉じて、遙か昔の静穏な日々を懐古する。
「それからひと月、父は研究もなにもかも辞めて、すべての時間を私と過ごすことに費やしてくれました。
食事も、お風呂も、眠るのも、全部一緒でした。
その一年、耐え忍んできた日々を思うと、私にはそれが夢のようでした」
最初の頃、毎日頬をつねっては、それが現実なのだと確かめていた。
するといつも父は、引っ張った頬を優しくさすってくれた。
父の手は大きく、すっぽりと小さな頬を包みこむ。
それが堪らなく好きで、現実だと分かった後も、大きな手に撫でて欲しくてわざと頬をつねっていた。
「私は父に、眠る前に本を読むことをせがみました。
それは私が生前に母から譲り受けた本。美しい装丁の英国の詩集です。
父に見せると初めは驚いていましたが、恥ずかしくも嬉しそうに、父と母が結婚する前、日本語が話せなかった母とこの詩集を使って、やり取りをしていたのだと教えてくれました」
愛や季節を詠う詩が収められた詩集で、互いの気持ちを表現していたのだと。
そう言った父の顔はとても幸せそうだった。
――父は母を深く愛していたのだ。
「父はその本を必死になって読んでくれましたが、カナリヤのように美しい声で、感情豊かに読み聞かせをする母と違い、声が固く、本の朗読が下手でした。
けれど、低く穏やかな声は心地がよく、私はいつもいつのまにか父の温かな腕の中で眠っていました」
父の一切を独り占めする贅沢な時間。
「しかし、そんな日々も長くは続かないことは分かっていました。
その一年で父の肌は白くなり、体はどんどんと痩せ細っていたからです。
父は見せないようにしていましたが、私は、時折父が血を吐いていることも知っていました」
――だからこそ余計に、父にたくさんのわがままをいって、困らせた。
――別れることを嘆く代わりに、目一杯甘えることにしたのだ。
――そのほうが自分も父も幸せだと思ったから。
不穏な話の流れに合わせるかのように強い風が吹き上がる。
突風は山桜の子どもたちを母から一気に奪い去り、方々に散らせていく。
「桜の花が緑の葉に姿を変え終わる頃、
私は父に病気なのだから外には出てはいけないと告げられ、近々療養のためにここを引きはらうと言われました」
父は娘が自分の目を盗んで、どこかに出かけていることに気づいていたのだ。
「それでも最後にどうしてもお別れを言いたくて、貴方様に会いに行きました。
貴女様はいつもと変わらず、瑞々しい桜の木を携え、優しい顔で私を迎えてくださった。
私はそんな貴女様にさよならを告げることがつらく、その言葉を使わず、ここには来られなくなるとお話しました。
貴女様はなぜだと理由を尋ねられた。
私が病気なのだと告げると、貴方様は自分が治すとおっしゃってくださった。
私にはそれが涙が出るほど嬉しかった」
――本当はずっと怖かった。母と同じ病だと、泣きながら自分の身の上を嘆く父を見て、いずれ自身も母のように死ぬのだと思っていた。
――自分の与えた血で父が段々とおかしくなってゆく様に、心がどんどん擦り切れていった。
――自身でも気づかぬうちに真っ黒な負の感情に飲み込まれそうになった時、桐秋と桜の木に出会った。
そして、心を救われたのだ。
――さらに別れ際にも生きる希望をくれた。
「大げさかも知れませんが、その約束だけで、これから先の人生を生きていけるような気がしたのです。
最後に指切りをして私たちは別れた。
大切な約束を誓う《《神聖な儀式》》‥」
強い春風に薄金の髪をなびかせたまま、女子はうつろな表情で桜を見つめている。
そこにいずれの感情も読み取ることは出来ない。
「父は、それまで住んでいた母方の祖父の家から、自身の実家へと引っ越しました。
そこでは血を採られることはなくなりましたが、父は研究室に籠もりきりになりました。
そしてまたしばらくすると、今度は頻繁に出かけるようになりました」
家にいるときは研究室に籠もり、それ以外は外出している。
「私はそれが寂しく、父の存在が感じられるようにと、いつも父の研究室の前で遊んでいました」
――父に対する恐怖は未だ己の中に存在していたが、やはり慕う気持ちも強かったのだ。
「けれど父の目に私は映りませんでした。
療養のためにと引っ越しましたが、父が私に治療のために何かをするということもありませんでした」
身の回りの世話などは通いの家政婦さんが行ってくれた。
しかし、その人も必要以上に自分に接することはなかった。
――いつも私は独り・・。
「でも一つ幸運だったのは、家から少しは離れたところにある通りの桜の木が拝めたことでしょうか。
小さな木で花も咲いていませんでしたが、その桜の木を眺めることで、貴方様と過ごした幸せだった日々を思い出し、隔離された孤独な日常を耐え忍ぶことができたのです」
そんな日々が一年近く続いた。
「年を越えて、その年の桜の蕾がほころびはじめたある日、私はいつものように父の研究室の前で独り、遊んでいました。
するといきなり研究室の扉が開き、父が出てきました」
思いもがけない出来事に動けず、座ったまま父の姿を見上げていた。
「父は私をその眼で捉えると、幼い私の視線の高さに屈み、目を合わせ、柔和な顔ですべて終わったのだと告げました。
私は何のことを言っているのかわかりませんでした」
それでも理由が何であれ、父の瞳に自分が映っていることが嬉しくて堪らなかった。
「父の瞳に映った私の姿はどんどんと歪んでいき、私は貯めに貯めた大粒の涙をあふれさせました。
そうしたら父も堪えるような顔をして、『寂しい想いをさせてすまなかった』といって、力一杯に私を抱きしめてくれました。
その時やっと、私は大好きな優しい父が帰ってきたのだと感じました」
瞼を閉じて、遙か昔の静穏な日々を懐古する。
「それからひと月、父は研究もなにもかも辞めて、すべての時間を私と過ごすことに費やしてくれました。
食事も、お風呂も、眠るのも、全部一緒でした。
その一年、耐え忍んできた日々を思うと、私にはそれが夢のようでした」
最初の頃、毎日頬をつねっては、それが現実なのだと確かめていた。
するといつも父は、引っ張った頬を優しくさすってくれた。
父の手は大きく、すっぽりと小さな頬を包みこむ。
それが堪らなく好きで、現実だと分かった後も、大きな手に撫でて欲しくてわざと頬をつねっていた。
「私は父に、眠る前に本を読むことをせがみました。
それは私が生前に母から譲り受けた本。美しい装丁の英国の詩集です。
父に見せると初めは驚いていましたが、恥ずかしくも嬉しそうに、父と母が結婚する前、日本語が話せなかった母とこの詩集を使って、やり取りをしていたのだと教えてくれました」
愛や季節を詠う詩が収められた詩集で、互いの気持ちを表現していたのだと。
そう言った父の顔はとても幸せそうだった。
――父は母を深く愛していたのだ。
「父はその本を必死になって読んでくれましたが、カナリヤのように美しい声で、感情豊かに読み聞かせをする母と違い、声が固く、本の朗読が下手でした。
けれど、低く穏やかな声は心地がよく、私はいつもいつのまにか父の温かな腕の中で眠っていました」
父の一切を独り占めする贅沢な時間。
「しかし、そんな日々も長くは続かないことは分かっていました。
その一年で父の肌は白くなり、体はどんどんと痩せ細っていたからです。
父は見せないようにしていましたが、私は、時折父が血を吐いていることも知っていました」
――だからこそ余計に、父にたくさんのわがままをいって、困らせた。
――別れることを嘆く代わりに、目一杯甘えることにしたのだ。
――そのほうが自分も父も幸せだと思ったから。