桐秋が喀血してから千鶴は夜、桐秋の部屋で休むようになっていた。
いつ容体が急変するか分からないからだ。
桐秋はベッドで、千鶴はその下に布団を敷いて横になる。
桐秋の体を考えれば、早めに寝なくてはと思いながらも、桐秋と千鶴は静かな夜の中、毎夜とりとめもない話をする。
残された刻を惜しむように紡がれる言葉は、何気なく発される言葉であっても一音、一音が、千鶴の耳に残る。
桐秋は夜中に喀血することもある。
そうなると千鶴は桐秋が血を吐き切り、気息が落ち着くまで背中を擦り、寄り添う。
容態が落ち着き、桐秋が再び横になると、千鶴はそっと布団をかけて、月明かりに浮かび上がる愛しい人の青白い顔をじっと見つめる。
しばらく呼吸が続いていることを確認するまでは眠らない、いや眠れないのだ。
——そんな千鶴が憂慮する毎日を過ごしていたある日のこと。
母屋に出向いていた千鶴が、桐秋の部屋に戻ると、部屋の中央に鎮座していたベッドがなくなっていた。
当の本人は畳の上に直に布団を敷いて寝ている。
千鶴がベッドはどうしたのかと尋ねると、桐秋は母屋に運んでもらったという。
ベッドの方が通気性など治療の面からしてもよい。
何か特別な理由があるのかと千鶴は重ねて問うが、桐秋は答えない。
理由は夜になって判明した。
——
就寝時間になり、いつものように千鶴は自身の布団を敷く。
そうすると、部屋の広さと構造上、桐秋の布団の横に千鶴の布団が並ぶようになる。
千鶴はそのことに少し前、新妻といわれた時と同じ気恥ずかしさを覚えながら布団に入る。
すると先に布団の中にいた桐秋が、就寝用の絹の手袋をした手を千鶴の方に差し出した。
手と一緒に向けられた桐秋の目線は、千鶴と同じ高さにある。
「こうして手を繋ぎ、君の顔を見て眠りたかったんだ」
そう言って桐秋は少年のような無垢な笑みを浮かべた。
千鶴はその笑みの眩さに焦がれるよう、手を布団の外に伸ばす。
出した瞬間、桐秋に強く握られる手。
それは病魔に侵されているとは思えないくらい、ちから強い握力。
少年とはかけ離れた大人の男の力。
千鶴はその手の強さと、布越しでも伝わる熱いほどの体温に、この人はまだ生きているのだと感じる。
それでもすぐに、いつまでこんな幸せな日々が続くのだという拭いきれない不安が千鶴を襲う。
それは桐秋が体調を崩して、血を吐いてからは著しく、千鶴にはりついて消えてくれない黒い影。
そうなれば独り布団に隠れて、声を殺して泣くしかない。
けれど、今日の千鶴は桐秋と繋がっている。
手の震えから異変を感じとったのか、桐秋が
「どうした」
とことさらやさしい声で千鶴に問いかける。
千鶴は涙声を抑えて、
「なんでもありません」
と答える。
しかしそれは桐秋には通用せず、たちどころに千鶴の布団がめくられた。
そこに隠れていたのは、桐秋が血を吐いてからも、気丈にふるまっていた看護婦の姿ではない。
肉食獣に今にも食べられんとする小動物もかくやという、恐怖に身を震わせ、涙の粒を目尻いっぱいに貯めた愛おしい女の弱り切った姿。
その様に桐秋は狂おしいほどに胸を締め付けられる。
そして、想いのままに女を懐に引き寄せ、強く強く抱きしめた。
すると、桐秋の自身を抱く手に、決壊寸前でせき止められていた堤防が崩れたのか、千鶴は桐秋の胸元を掴み、幼児のように声を上げて泣き始める。
千鶴がずっと不安を押し隠していたことを桐秋は知っていた。
夜半、桐秋が血を吐いて横になった後、泣きそうな顔をして己を見つめていたことも。
だが千鶴は桐秋の前でそれらを一切見せず、笑顔でいた。
正の感情を表す時は人前でも目一杯に泣くのに、負の感情、特に自身に辛い想いがあるときは独りで隠そうとする。
だから、千鶴が独りで泣かないようにと布団を並べた。
残り少ない桐秋ができることは限られている。
それでも、最後まで己のすべてを千鶴に捧げようと決めたのだ。
千鶴が少しずつ漏らす嗚咽の数を減らして来た頃、桐秋はそっと千鶴の頭を自身の腕に移した。
反対の正絹の手はあやすように千鶴の柔らかな髪を優しくすいている。
千鶴は顔を見られないようにと丸まっていて、桐秋もそれを見ないよう、ガラス越しに月の光に浮かびあがる桜の木を見つめていた。
あの花が咲く頃、自分はどんな状態だろう。
その時千鶴はどんな顔をしているだろう。
遠くない未来に確実に訪れる“ ”を考えてしまう。
桐秋がぼんやりと切ない想いを巡らせているうちに、千鶴の泣き声は止んでいた。
桐秋は自分の懐にいる千鶴に目を向ける。
そこにはまっすぐにこちらを見つめる強い双眸があった。
腕の中の最愛の生き物は桐秋に告げる。
「もし、桐秋様が私を置いていかれるのであれば、貴方様がいた証を私に刻みつけてくださいませ」
千鶴の淀みのない眼から放たれた、覚悟が滲む言葉の意味を桐秋はすぐには理解できない。
その意を正しく汲み取ろうと、桐秋は瞬きして、千鶴の目をしかと見据える。
宝石のような美しい瞳に滲むのは、一心に男に愛を乞う女の想い。
桐秋は千鶴の意図することを悟り、驚きの表情で腕の中の恋人を見つめる。
千鶴が刻みつけて欲しいという証。
それは・・・・・。
「それだけはできない」
断腸の思いで桐秋は告げる。
千鶴は桐秋が何を考えているのか理解し、言い募る。
「お父上様からお聞きになられたかと思いますが、私はまだ十九。
今年の四月で二十です。
桜病は成人以上にしか確認されていない病気。
今の私が桜病になる可能性はありません」
そんな千鶴の訴えにも桐秋の意思は揺るがない。
「分かっている。
それでもだ。病に罹らなかったとして、万が一子どもができたらどうする。
父がいない子をどうやって育てる。
先のない私が君の将来に傷が残るような真似はしたくない」
桐秋は自分がいない未来をすっかりと考えてしまっている。
千鶴はそのことに深い悲しみをおぼえながらも、諦めない。
ビードロの今にもとろけそうな瞳で桐秋に切に、切に願う。
「お願いします」
桐秋はその目をもう直視できない。
顔を逸らし、体を離し、低い声で千鶴に絶望的な言葉を告げる。
「私が死んだあとは、誰か別のいい人間と結婚して、普通の幸せを得てほしい。
私のことなど忘れてしまえ」
あまりに吐くことが辛い言葉に、桐秋は胃から苦いものがせり上がってくるのを感じた。
桐秋の言葉に、千鶴は今度こそ何も言えなくなり、表情がぽとんと音を立てたかのように、一瞬にして抜け落ちる。
いつのまにかあふれていた涙もぴたりと止まる。
それでもしばらくして、千鶴はひときわ大きな感情の雫を一粒だけ垂らすと、幽鬼のような足取で立ち上がり、部屋を出た。
*
どこにいこうと思ったのではない。ただ、この部屋から離れなくてはと千鶴は思ったのだ。
進むうち、気づけば庭に出ていた。
外は雪が降っていた。
少し歩いて立ちどまり、千鶴はその場に座りこむ。
視界に入る雪が先に落ちた雪に飲み込まれる様を何の感情もない虚ろな瞳で見つめる。
雪の降り積もる様は、千鶴と桐秋の恋心のようだと思っていた。
桐秋に愛を囁かれるたび、ふれあうたびに、無限に降り注ぎ、空気を含んで柔らかに積み上がってゆく。
冷たいのに温かささえ感じるそれは、天井など知らず、どこまでもどこまでも大きくなっていくものだと千鶴は思っていた。
しかし、今日、あっけなく崩れ去った。
大きく見えても、一つ一つは小さな氷のかけら。
ふんわりとした質量のそれは、熱さを感じれば、たちどころにただの水へと戻ってしまう。
千鶴の焦がれるほどの重い熱情が、今まで優しく降り積もっていた雪の丘をあっけなく消し去ってしまったのだ。
千鶴はそぞろに後ろを振り返る。
自分が歩いてきた道は、いつの間にか新しい雪にのまれなくなっていた。
溶けて消えても新たな雪は降る。
時を経るうち、新しく積み重なっていく雪に過去をかき消され、人は人を想っていた気持ちを忘れていくのだろうか。
そう思うと千鶴の枯れていたと思っていた涙も自然とせりあがってくる。
肩に、頭に、雪が重なっていく。
寒さなどもはや感じない。それほどまでに千鶴の心は冷めていた。
千鶴は寝転がり、雪に身を埋める。
自分もいっそ恋心と共に溶け、新たな雪に埋もれてしまいたい。
そう思い目を閉じる。
しかし、千鶴の思いも虚しく、あんなにも降っていた雪は段々と止み、千鶴の身体だけを残して消えていく。
数刻後、冬の澄んだ空気の中、目を覚ました千鶴は、未だこの世にあることの絶望を、冬の鈍い朝日の中で感じるのだった。
いつ容体が急変するか分からないからだ。
桐秋はベッドで、千鶴はその下に布団を敷いて横になる。
桐秋の体を考えれば、早めに寝なくてはと思いながらも、桐秋と千鶴は静かな夜の中、毎夜とりとめもない話をする。
残された刻を惜しむように紡がれる言葉は、何気なく発される言葉であっても一音、一音が、千鶴の耳に残る。
桐秋は夜中に喀血することもある。
そうなると千鶴は桐秋が血を吐き切り、気息が落ち着くまで背中を擦り、寄り添う。
容態が落ち着き、桐秋が再び横になると、千鶴はそっと布団をかけて、月明かりに浮かび上がる愛しい人の青白い顔をじっと見つめる。
しばらく呼吸が続いていることを確認するまでは眠らない、いや眠れないのだ。
——そんな千鶴が憂慮する毎日を過ごしていたある日のこと。
母屋に出向いていた千鶴が、桐秋の部屋に戻ると、部屋の中央に鎮座していたベッドがなくなっていた。
当の本人は畳の上に直に布団を敷いて寝ている。
千鶴がベッドはどうしたのかと尋ねると、桐秋は母屋に運んでもらったという。
ベッドの方が通気性など治療の面からしてもよい。
何か特別な理由があるのかと千鶴は重ねて問うが、桐秋は答えない。
理由は夜になって判明した。
——
就寝時間になり、いつものように千鶴は自身の布団を敷く。
そうすると、部屋の広さと構造上、桐秋の布団の横に千鶴の布団が並ぶようになる。
千鶴はそのことに少し前、新妻といわれた時と同じ気恥ずかしさを覚えながら布団に入る。
すると先に布団の中にいた桐秋が、就寝用の絹の手袋をした手を千鶴の方に差し出した。
手と一緒に向けられた桐秋の目線は、千鶴と同じ高さにある。
「こうして手を繋ぎ、君の顔を見て眠りたかったんだ」
そう言って桐秋は少年のような無垢な笑みを浮かべた。
千鶴はその笑みの眩さに焦がれるよう、手を布団の外に伸ばす。
出した瞬間、桐秋に強く握られる手。
それは病魔に侵されているとは思えないくらい、ちから強い握力。
少年とはかけ離れた大人の男の力。
千鶴はその手の強さと、布越しでも伝わる熱いほどの体温に、この人はまだ生きているのだと感じる。
それでもすぐに、いつまでこんな幸せな日々が続くのだという拭いきれない不安が千鶴を襲う。
それは桐秋が体調を崩して、血を吐いてからは著しく、千鶴にはりついて消えてくれない黒い影。
そうなれば独り布団に隠れて、声を殺して泣くしかない。
けれど、今日の千鶴は桐秋と繋がっている。
手の震えから異変を感じとったのか、桐秋が
「どうした」
とことさらやさしい声で千鶴に問いかける。
千鶴は涙声を抑えて、
「なんでもありません」
と答える。
しかしそれは桐秋には通用せず、たちどころに千鶴の布団がめくられた。
そこに隠れていたのは、桐秋が血を吐いてからも、気丈にふるまっていた看護婦の姿ではない。
肉食獣に今にも食べられんとする小動物もかくやという、恐怖に身を震わせ、涙の粒を目尻いっぱいに貯めた愛おしい女の弱り切った姿。
その様に桐秋は狂おしいほどに胸を締め付けられる。
そして、想いのままに女を懐に引き寄せ、強く強く抱きしめた。
すると、桐秋の自身を抱く手に、決壊寸前でせき止められていた堤防が崩れたのか、千鶴は桐秋の胸元を掴み、幼児のように声を上げて泣き始める。
千鶴がずっと不安を押し隠していたことを桐秋は知っていた。
夜半、桐秋が血を吐いて横になった後、泣きそうな顔をして己を見つめていたことも。
だが千鶴は桐秋の前でそれらを一切見せず、笑顔でいた。
正の感情を表す時は人前でも目一杯に泣くのに、負の感情、特に自身に辛い想いがあるときは独りで隠そうとする。
だから、千鶴が独りで泣かないようにと布団を並べた。
残り少ない桐秋ができることは限られている。
それでも、最後まで己のすべてを千鶴に捧げようと決めたのだ。
千鶴が少しずつ漏らす嗚咽の数を減らして来た頃、桐秋はそっと千鶴の頭を自身の腕に移した。
反対の正絹の手はあやすように千鶴の柔らかな髪を優しくすいている。
千鶴は顔を見られないようにと丸まっていて、桐秋もそれを見ないよう、ガラス越しに月の光に浮かびあがる桜の木を見つめていた。
あの花が咲く頃、自分はどんな状態だろう。
その時千鶴はどんな顔をしているだろう。
遠くない未来に確実に訪れる“ ”を考えてしまう。
桐秋がぼんやりと切ない想いを巡らせているうちに、千鶴の泣き声は止んでいた。
桐秋は自分の懐にいる千鶴に目を向ける。
そこにはまっすぐにこちらを見つめる強い双眸があった。
腕の中の最愛の生き物は桐秋に告げる。
「もし、桐秋様が私を置いていかれるのであれば、貴方様がいた証を私に刻みつけてくださいませ」
千鶴の淀みのない眼から放たれた、覚悟が滲む言葉の意味を桐秋はすぐには理解できない。
その意を正しく汲み取ろうと、桐秋は瞬きして、千鶴の目をしかと見据える。
宝石のような美しい瞳に滲むのは、一心に男に愛を乞う女の想い。
桐秋は千鶴の意図することを悟り、驚きの表情で腕の中の恋人を見つめる。
千鶴が刻みつけて欲しいという証。
それは・・・・・。
「それだけはできない」
断腸の思いで桐秋は告げる。
千鶴は桐秋が何を考えているのか理解し、言い募る。
「お父上様からお聞きになられたかと思いますが、私はまだ十九。
今年の四月で二十です。
桜病は成人以上にしか確認されていない病気。
今の私が桜病になる可能性はありません」
そんな千鶴の訴えにも桐秋の意思は揺るがない。
「分かっている。
それでもだ。病に罹らなかったとして、万が一子どもができたらどうする。
父がいない子をどうやって育てる。
先のない私が君の将来に傷が残るような真似はしたくない」
桐秋は自分がいない未来をすっかりと考えてしまっている。
千鶴はそのことに深い悲しみをおぼえながらも、諦めない。
ビードロの今にもとろけそうな瞳で桐秋に切に、切に願う。
「お願いします」
桐秋はその目をもう直視できない。
顔を逸らし、体を離し、低い声で千鶴に絶望的な言葉を告げる。
「私が死んだあとは、誰か別のいい人間と結婚して、普通の幸せを得てほしい。
私のことなど忘れてしまえ」
あまりに吐くことが辛い言葉に、桐秋は胃から苦いものがせり上がってくるのを感じた。
桐秋の言葉に、千鶴は今度こそ何も言えなくなり、表情がぽとんと音を立てたかのように、一瞬にして抜け落ちる。
いつのまにかあふれていた涙もぴたりと止まる。
それでもしばらくして、千鶴はひときわ大きな感情の雫を一粒だけ垂らすと、幽鬼のような足取で立ち上がり、部屋を出た。
*
どこにいこうと思ったのではない。ただ、この部屋から離れなくてはと千鶴は思ったのだ。
進むうち、気づけば庭に出ていた。
外は雪が降っていた。
少し歩いて立ちどまり、千鶴はその場に座りこむ。
視界に入る雪が先に落ちた雪に飲み込まれる様を何の感情もない虚ろな瞳で見つめる。
雪の降り積もる様は、千鶴と桐秋の恋心のようだと思っていた。
桐秋に愛を囁かれるたび、ふれあうたびに、無限に降り注ぎ、空気を含んで柔らかに積み上がってゆく。
冷たいのに温かささえ感じるそれは、天井など知らず、どこまでもどこまでも大きくなっていくものだと千鶴は思っていた。
しかし、今日、あっけなく崩れ去った。
大きく見えても、一つ一つは小さな氷のかけら。
ふんわりとした質量のそれは、熱さを感じれば、たちどころにただの水へと戻ってしまう。
千鶴の焦がれるほどの重い熱情が、今まで優しく降り積もっていた雪の丘をあっけなく消し去ってしまったのだ。
千鶴はそぞろに後ろを振り返る。
自分が歩いてきた道は、いつの間にか新しい雪にのまれなくなっていた。
溶けて消えても新たな雪は降る。
時を経るうち、新しく積み重なっていく雪に過去をかき消され、人は人を想っていた気持ちを忘れていくのだろうか。
そう思うと千鶴の枯れていたと思っていた涙も自然とせりあがってくる。
肩に、頭に、雪が重なっていく。
寒さなどもはや感じない。それほどまでに千鶴の心は冷めていた。
千鶴は寝転がり、雪に身を埋める。
自分もいっそ恋心と共に溶け、新たな雪に埋もれてしまいたい。
そう思い目を閉じる。
しかし、千鶴の思いも虚しく、あんなにも降っていた雪は段々と止み、千鶴の身体だけを残して消えていく。
数刻後、冬の澄んだ空気の中、目を覚ました千鶴は、未だこの世にあることの絶望を、冬の鈍い朝日の中で感じるのだった。