この日も何事もなく診察が終わり、診療所を閉めようと千鶴は表の掃き掃除をしていた。

 すると目の前に、この辺りではあまり見かけない自動車が止まる。

 診療所の周辺は下町の庶民が集まる地域で、自動車を持っている者自体少ない。

 急患の患者であれば、少し離れた大きな病院に行くだろう。

 不思議に思いながら、千鶴が車を見つめていると、運転席からスーツを着た男性が降りてきて、後部座席のドアを開けた。

 出てきたのは、体格のしっかりとした壮年の男性。

 見上げるような背丈に、仕立てのよいスーツをまとい、口ひげを(たくわ)えた顔は(いか)めしい。

 男性の威圧感に、千鶴はこころともなく(ほうき)の柄を握る手に力を込める。

 それでも勇気を出して、男性に声をかけようとした。

 が、男性は千鶴が声を出す前に、千鶴の目線に合わせていきなり腰を折る。

 眼前に険しい顔が来て動けなくなった千鶴に、男性は厳しい顔から一転、くしゃくしゃなしわができるほどの笑みを浮かべる。

 予想外の笑顔を向けられた千鶴は、あっけにとられ、先ほどとはまた別の意味で動きを止める。

 そんな千鶴の様子を察してか、男性は

「すまない。自動車で来てしまい、少し驚かせてしまったかな」

 と少し的はずれではあるが、低く優しい声をかけてくれる。

 その声に千鶴は、はっとし、いえと言葉を返す。

 男性はそれにほっとしたような顔になると、

西野(にしの)先生はいらっしゃるかな」

 と千鶴に尋ねた。

 西野先生とは千鶴の父のことだ。

「父はおりますが・・・。失礼ですが、父とはどういったご関係でございましょうか」

 千鶴が恐る恐る尋ねると、

「これは名乗らずに失礼。私は、南山(みなみやま)という者だ。帝国大学(ていこくだいがく)で医学の教鞭(きょうべん)をとっている。

 西野先生は昔、大学で私の助手をしてくれていたんだ。

 その関わりで少し頼みたいことがあり、急で申し訳ないが尋ねさせてもらった」

 南山は穏やかな表情のまま、丁寧に説明してくれる。

 千鶴はそれに納得すると、

「そうだったのですね。大変失礼いたしました。父は奥におりますので、ご案内いたします」

 そう言って南山を家の中に迎え入れた。

 千鶴は応接間に南山を通すと、診察室にいた父に声をかける。

「お父さん。南山様という方がいらっしゃいました」

 診察具の消毒をしていた千鶴の父は、娘が告げた言葉に動きを止める。

「南山・・・」

 そして確認するように千鶴が告げた名前を繰り返すと、持っていたハサミを机に置き、しばし(うつむ)いた。

 唇を少し内側に巻き込むような表情で考え込む父を千鶴は(いぶか)しみ、再び声をかける。

「お父さん、どうされました」

 その声にはっとした様子で父は、

「なんでもないよ。久しぶりにお会いするから、少し懐かしい気持ちになってね。

応接間にいらっしゃるのだね。すぐに行くよ。

千鶴、すまないがお茶を頼めるかな」

 そう早口で言うと、急ぎ足で部屋を出た。

 千鶴は台所に入ると、ねずみいらずの上の扉を開け、近所の骨董(こっとう)好きの老人から貰ったティーカップを二客(にきゃく)、奥から引き出す。

 そして、そのさらに奥から、こちらもいただきものの舶来品(はくらいひん)の紅茶缶を取り出した。

 竹の茶匙(ちゃさじ)でカップ分の茶葉を急須(きゅうす)に入れ、熱いお湯を注ぐと同時に、用意していた砂時計を逆さまにする。

 砂が落ちきるのを見計らい、お湯で温めておいたティーカップに紅茶を注ぐ。

 いただきもののよい茶葉だけあり、注いだそばから、(かぐわ)しい匂いが部屋いっぱいに拡がる。

 どこか果実のような爽やかさも混じる甘い香り。

 千鶴は紅茶のティーカップを中心に、小壺に入れた砂糖と醤油さしに入れた牛乳を盆に置くと、用意したそれを持ち、応接間へと向かった。

 扉を三回指で叩き、入室の許可を得て、洋室の応接間に入る。

 父と南山は向かい合って座っていた。

 千鶴は上座に座る南山の方から紅茶をそっとテーブルに置く。

 南山はそれににこりと微笑みながら礼を言う。

 父の方にも紅茶を置くが、こちらは表情も顔色もあまりよくない。

 それに千鶴は違和感を覚え、声をかけようとするが、南山から先に尋ねられた。

「君は、西野先生のお嬢さんでよかったかな」

「はい。千鶴と申します」

 千鶴が頭を下げると、南山はそうか、と頷きながら、

「利発そうなお嬢さんでうらやましいな。私には息子しかいないから」

 とまたしても千鶴に向かってにこやかに笑った。

 どこか人を安心させるような笑み。外見は怖いが、内面はとても穏和な人であるようだ。

 そんな少し失礼なことを考えながら、千鶴も笑顔を返していると、父が(さえぎ)るように告げた。

「千鶴。お茶をありがとう。少し下がっていてくれるかい」

 いつもの穏やかな声音とは違う、硬質な有無を言わせない声に、千鶴が父の方を見ると、父は両手を膝の上で組み、考え込むような苦しい顔をしていた。

「はい」

 千鶴は父の様子が気になりながらも、その声に反論できず、言われるままに部屋を出た。

 千鶴は自室に戻らず、診察室で父が行っていた診察具の消毒の続きを行う。

 急ぎの仕事ではないが、今は何か手を動かしておきたかった。

 作業に没頭しながらも頭をよぎるのは、先ほど父が見せた顔。

 いつも優しく、笑顔を絶やさない父のつらそうな表情。

 その顔の意味を考えながら、千鶴が作業を続けていると、玄関先で音がした。

 土を強く踏みしめたような音。

 窓から玄関の方を見ると、南山の車が表につけられたところだった。

 今しがたの音は車の停止音だろう。

――そういえば・・・

 父の様子があからさまに変わったのは、南山の名前を聞いてから。

 千鶴は診察室を飛び出し、玄関へと向かった。

 運転手が開けたドアから、今にも車に乗り込もうとする南山を、千鶴は遠くから声を張り上げ、呼び止める。

「南山様」

 南山はその声に振り返る。

 千鶴の姿を見とがめると、車に乗り込むのをやめ、駆けてくる千鶴を待っていてくれた。

 千鶴が南山の元につくと、南山は千鶴の息が整うのを待って、どうしたのか、と尋ねる。

「お忙しいところをお止めして申し訳ございません。

いきなりで大変恐れ入りますが、父と何の話をなさったのでしょうか」
 
 予想だにしなかった千鶴の言葉に、南山は驚いた表情を浮かべる。

 それにもかまわず、千鶴は矢継ぎ早に告げる。

「失礼を承知で申し上げます。

いつも柔和(にゅうわ)な表情を浮かべております父が、南山様がこちらにいらしたときから、とても苦しそうな顔をしております。

一体、南山様はどういったご用件で、本日こちらをお尋ねになられたのでしょうか」

 南山は千鶴の言葉に少し眉間にしわを寄せながら、難しい顔をする。

 怒っているのではない、何かを考えているような表情だ。

 そのまま下を向き、黙る南山に千鶴はなおも続ける。

「父と南山様の個人的な事情で、娘の私には関係のない話かもしれません。

それでも私は、父があのような表情を浮かべていることが心配なのです」

 父を想う娘のまっすぐな言葉。

 南山も思わず声を漏らす。

「いや、君に関係ないことではないが」

「では、なおのこと教えていただけませんか」

 迫る千鶴に、南山が顔を上げると、千鶴の真剣なまなざしと交わる。

 一切(にご)りのない透明な(ひとみ)は、口を(つぐ)むことを許さないとばかりに訴えかけていた。

 大の大人である南山もたじろぎそうなほど強い目だ。

 それに元来の目的で言えば、南山は千鶴に関わる話で西野にお願いに来た。

 本人に話さない理由はない。

 ただ、父親である西野に断られたので、持ち帰ろうと思っていたところだった。

 南山は西野に対する後ろめたい気持ちを抱えながらも、千鶴の(ちょく)と己を見つめる(まなこ)には逆らえず、ここを訪れた用向きを語り始めた。